学位論文要旨



No 119744
著者(漢字) 張,文良
著者(英字)
著者(カナ) チョウ,ブンリョウ
標題(和) 澄観における「心」の思想の研究 : 心・如来蔵・仏性を中心として
標題(洋)
報告番号 119744
報告番号 甲19744
学位授与日 2004.10.20
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第460号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 末木,文美士
 東京大学 教授 斉藤,明
 東京大学 助教授 横手,裕
 国際仏教学大学 教授 木村,清孝
 東洋文化研究所 教授 丘山,新
内容要旨 要旨を表示する

 華厳宗の第四祖と仰がれ、中唐の社会的・思想的変革の時代を生きた澄観は、中国華厳思想史、さらには中国仏教思想史の全体の中に重要な位置を占めている。かれは智儼や法蔵の華厳思想を継承しながら、当時行われていた法相宗、禅宗、天台宗などの思想を吸収し、華厳教学の法界観・唯心観・如来蔵観・仏性観・実践論などについて濃密な思索を展開し、華厳教学の新しい展望を開いたのである。かれの思想は、宗密をはじめとする以後の中国思想界に莫大な影響を与えている。

 澄観については、すでにすぐれた研究の蓄積があり、その人間像と思想の全貌が次第に明らかにされつつある。しかしながら、澄観の「心」の思想については、それがかれの思想の全体において中心的な位置を占めるにもかかわらず、いくつかの先行研究を除けば、本格的な研究は決して十分なものとはいえない。

本論文では、澄観の「心」の思想を解明するため、『華厳経疏』をはじめとする澄観の『華厳経』諸注釈書を基本テキストとし、澄観の一心観・如来蔵観・仏性観などを分析し、それによって彼の「心」理解の方法論と性格およびその根底に流れるかれの根本的立場を明らかにしたい。その成果をもとに、澄観教学の内部構造の一断面に迫ってみたいと考える。

 本論文は七章からなっている。

 第一章「予備的考察」においては、澄観教学理解のための基礎作業として近代における澄観およびかれの「心」思想に関する研究史を概観し、澄観の伝記・著作(特に『四十華厳』の注釈書である『行願品疏』)を検証する。最終に、澄観の教判説を、法相宗と法性宗という視角から検討し、澄観の仏教思想の根底にある価値意識・基本的立場を考察する。

 第二章「唯心と一心」においては、『八十華厳』「夜摩宮中偈賛品」の「覚林菩薩偈」、「十地品」の「三界唯心偈」、及び「問明品」の「覚首菩薩偈」に対する澄観の解釈の考察を通じて、澄観の「心」「心性」理解と、智儼・法蔵の理解との異同を検証する。

 第三章「心性としての如来蔵」においては、二種如来蔵の概念と、如来蔵と阿頼耶識との関係性を中心として、澄観の如来蔵観を検討する。

 第四章「転換の論理―心と心性の通路」においては、澄観における転依説・四智説及び阿摩羅識説を考察し、澄観が心と心性とを如何に結び付けているのかを検討する。

 第五章「心性・法性・仏性」においては、澄観の仏性論に焦点を絞り、心性・法性・仏性という三つの概念の異同に関する澄観の理解を考察し、成仏のための実践論における「心性」概念の特徴、及びその思想史的位置づけを明らかにする。

 第六章「澄観の禅思想・念仏観における心の思想」においては、澄観の禅思想、及び唯心念仏思想の考察を通じて、かれの禅宗思想・念仏観に現われている「心」の思想の特質を検討する。

 第七章「宗密に及ぼした澄観の「心」思想の影響」においては、宗密の唯心観・禅宗観・如来蔵思想・人性論などを考察し、宗密の「心」の思想に現われている澄観の「心」の思想の影響と変容を検討する。

 以上の考察を通じて明らかになった点を要約すれば、次の七点となろう。

 第一に、澄観は法相宗と法性宗とを判別した上に、法性宗の立場を実教、最高の教えと位置づけている。と同時に、かれは、中観派の空性説を法性宗に取り込み、法性宗の一義とすることによって、如来蔵の空性を再解釈し、空如来蔵の根源性・普遍性・随縁性によって一切法の存在根拠を明らかにする。また、法性宗と法相宗との融会を通じて、唯識思想を組織的に華厳教学に導入し、染法縁起、とくに染から浄への転依のプロセスをより緻密に解明するに至った。

 第二に、『華厳経』の唯心思想に対する澄観の理解は、智儼・法蔵の説を受け継いだ点が多いが、澄観の独自性としては、以下の諸点を指摘できる。(1)心・仏・衆生の三無差別を華厳別教の事事無礙を明かす説とし、これと『起信論』の始本同一説との相違を明らかにする。(2)唯心は唯心識観と真如実観を通じて実現すべき実践目標とする。(3)法蔵が理・理性に基づいて華厳の円融無礙を説明するのに対して、澄観は、心・心性を軸にして円教の教理を展開する。(4)三世の一切法が真心によって存在することを明確にしながら、現象心としての「一念心」にもただちに十二有支が具わっているとする。(5)「心」(阿頼耶識と意識)と「心性」(如来蔵・自性清浄心)を区別し、存在根拠としての如来蔵から識の要素を排除し、如来蔵の一元性を強調する。澄観の唯心解釈では、観法を重視する実践性と、存在根拠としての真心を重視する主体的姿勢とが浮き彫りになる。

 第三に、『勝鬘経』における空如来蔵の「空」は、本来、煩悩の欠如・虚無を意味するものであるが、澄観は第一義空・畢竟空の意味で解釈している。そして、如来蔵の空そのものは不空であり、不空そのものは空であるという。澄観の如来蔵理解には、涅槃宗、とくに法宝の影響が見られる。澄観と法宝との間に見られる空如来蔵・不空如来蔵に対する解釈の相違は、『涅槃経』の第一義空をめぐる解釈の相違によるのである。法宝は空如来蔵の「空」を煩悩の相空とするに対して、澄観はそれを煩悩の性空、すなわち第一義空とするのである。澄観の如来蔵の解釈は、直接には『起信論』の影響を受けたものであるが、地論宗の慧遠、涅槃宗の法宝の説との関連も注目に値する。澄観は、阿頼耶識と如来蔵との関係を実教の立場から捉え、『楞伽経』などの思想を汲み取って、如来蔵識という概念で二者の和合を主張しながら、如来蔵識の空性の性格を強調する。

 第四に、澄観は転依を法相宗の転依と法性宗の転依に分けて説明する。法相宗の転依説は本識を軸とする識から智への転換であるのに対して、法性宗の転依は真如の顕現であるとする。しかし、法性宗においては、識の性と識の相とは一体化しているので、結局のところ、不生不滅の真如法身の転依は生滅法の識の転依とは不一不異であるとされる。さらに、澄観は『華厳経』に説かれる仏智を、唯識教学の四智をもって解釈することを通じて、唯識教学の四智を華厳教学の中に組み込もうとする。また、中国の唯識教学で否定される阿摩羅識について、澄観は『決定蔵論』・『大乗荘厳経論』を援用して、阿摩羅識を如来蔵・自性清浄心と同一視している。さらに、阿摩羅識の真如・真如智を『起信論』の本覚・始覚に配当し、阿摩羅識を如来蔵の立場から再解釈している。すなわち、阿摩羅識は自性清浄心でありながら、仏の四智三身でもあるとされる。阿摩羅識という概念を通じて、澄観は如来蔵思想と唯識思想との融会を試みていると思われる。

 第五に、澄観は、中道の理・第一義空を正因仏性とし、本具の智慧性を了因、外の補助的な因を縁因とする。これは、湛然が正因仏性の無為法としての特徴を強調し、正因仏性から智慧など有為法の要素を一切排除しようとしているのとは異なる。また、性としての同一性に基づいて非情有仏性を認める一方、相としての相違性から、非情仏性・非情成仏を否定している。さらに、澄観は、仏性を理仏性と行仏性に分け、闡提には理仏性があるが、かならずしも行仏性があるわけではないから、闡提有仏性と言っても、直ちに闡提成仏を意味するのではない、と主張する。澄観の仏性説は、『涅槃経』の仏性説と関連しており、法宝など涅槃宗の説の影響が大きい。

 第六に、澄観は大乗経論に説かれる無念と離念という概念を、華厳円教の立場から再解釈し、「心体離念」と「契理無念」という二義に分けて捉えている。『華厳経』の非念と離念は、北宗禅の修得非念、南宗禅の心体離念に相当するが、北宗の非念も南宗の離念も、無念と離念の一面しか理解していないと澄観は考え、その二宗の立場を融会してはじめて、真の無念と離念があるとする。さらに、『華厳経』に基づいて、「即心即仏」を心の根源性を説くものとし、「非心非仏」を心・仏への執着を排除するものと解釈している。この解釈は馬祖の有名な公案の趣旨と通じる面がある。澄観がいう唯心念仏には、従来の唯心義に基づく摂境唯心念仏義と、華厳の唯心義に基づく重々無尽念仏義とがある。究竟の唯心念仏においては、能念の心も所念の諸仏も、いずれも真心ないし自性清浄心であるとする。

 第七に、宗密が唯心を如来蔵一心とすること、如来蔵の空を真実法の空と捉えること、心の体用を「寂」と「知」で捉えることは、澄観の理解と一致する。一方、宗密の所説のうち、性相融会の立場から、肉団心・縁慮心・集起心・堅実心という四種心の不即不離の関係を明らかにすること、「触事皆心」を説いて、唯心の実践的な性格を強調すること、天台の観心説を取り入れ、それを『円覚経』の説と合わせて独自の禅観説を展開すること、心性に基づいて人間形成のメカニズムならびに衆生の罪福業報の真義を解明することなどは、宗密が新しく開拓したものである。

 以上述べた澄観の「心」の思想の特質をまとめれば、次のように特徴づけられるだろう。(1)、「心」を「心」と「心性」、妄心と真心とに分けて、一切の存在の根拠を心性・真心に帰着させながら、心と心性との一体性をも力説する。(2)、心性としての如来蔵・自性清浄心は、第一義空を本質とすると解し、如来蔵縁起と空思想との融会を図ろうとする。(3)、心性・法性・仏性の非一非異の関係によって、心が空性と智慧性を併せ持つことを示し、「心」の主体性・実践性を重視する。このような立場は、以後の中国思想界に受容され長く影響を与えた。

審査要旨 要旨を表示する

 中国の華厳教学は法蔵(643-712)によって大成されたが、その後、澄観(738-839)によって新たな展開がなされたとされる。澄観はこのように重要な思想家であり、これまでも故鎌田茂雄博士らによる研究があるものの、その思想の核心を捉えた研究は必ずしも十分でない。それは、澄観がきわめて多数の経典注釈書を著しているにもかかわらず、その思想を体系的にまとめた著作がなく、多岐にわたる思想を的確に整理して理解することが困難だからである。そのような状況の中で、本論文は澄観の多数の著作を精読し、その核心を「心」の思想と捉え、法蔵との比較など、思想史的な面も配慮しながら、その思想の特徴を解明したものである。本論文は全7章からなり、第1章で伝記や研究史など前提となる問題を論じた後、第2-6章でさまざまな観点から澄観における「心」の問題を検討し、最後に第7章で、澄観を受け継ぐとされる宗密(780-841)への影響に説き及んでいる。

 本論文では、とりわけ澄観が「法相宗」と「法性宗」を分けていることを、その思想の全体に関わるものとして注目する。法相宗は中国に伝えられた唯識系の思想であり、現象としての「識」を分析するが、それに対して澄観は根源的な「心」を立て、それを法性宗として対照させた。しかし、単純に後者によって前者を否定するのではなく、後者を基盤に前者を統合する総合的な体系を築いた。また、別の面から言えば、如来蔵・仏性説の発展でありながら、同時に空の思想をも統合している。「心」はこのように根源的な原理であるが、同時に実践主体としての性質をも有し、単なる理論に終らない実践性をもった思想の展開となっている。

 本論文において、澄観の思想は、以上のように「心」の思想としてきわめて明快に捉えられている。法蔵が「理」の立場から華厳思想を大成したのと比較して、澄観が「心」によってより実践的な体系を築いたと見ているところも適切である。また、澄観の「心」の思想は、宗密などを経て、儒学など、中国の他の思想動向にも大きな影響を与えたが、本論文は最終章で宗密との関係を論じ、澄観の思想の大きな射程をうかがわせている。

 このように、本研究は澄観の「心」の思想を的確に解明したものとして、澄観研究を大きく前進させるものということができる。日本語も分かりやすく、特殊な術語の多い難解な文献を扱いながら、論述は比較的明快で、読みやすい。「心」と「心性」の区別など、まだ曖昧で説明不足のところもあり、原典の引用や訳にも検討すべきところがあるものの、その成果に鑑み、博士(文学)の学位を与えるのにふさわしいものと判断する。

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