学位論文要旨



No 119749
著者(漢字) 陳,順益
著者(英字)
著者(カナ) チン,ジュンエキ
標題(和) 台湾語と普通話の方向表現に関する対照研究 : "來""去"を中心に、日本語との対照も兼ねて
標題(洋)
報告番号 119749
報告番号 甲19749
学位授与日 2004.10.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第524号
研究科 総合文化研究科
専攻 言語情報科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 楊,凱栄
  教授 木村,英樹
  教授 クリスティーン,ラマール
  助教授 大堀,壽夫
  助教授 吉川,雅之
内容要旨 要旨を表示する

 本研究は台湾語と普通話における方向表現、特に方向補語と呼ばれるカテゴリーについて、両言語における統語上及び意味上の差異を指摘し、解明を試みたものである。

 本研究は七つの章に分かれ、本論は第2章から第5章までである。

 序章では、普通話、台湾語、台湾華語などの用語について定義をし、台湾語を〓南語の下位範疇に分類した。第1章は研究の動機、目的、アプローチについて紹介した。

 本論の第2章では、方向補語VD構造全体について、普通話と台湾語における構造上の差異を指摘し、その原因を究明し、それぞれのVD構造のメカニズムを明らかにした。そして従来殆ど言及されることのなかった台湾語VD構造の特殊音韻現象(2.4)を指摘し、独自の解釈を試みた。さらにx(詳細は後述)となる要素を決め、要素の性質をイメージスキーマで分析した。

 第3章、第4章では、それぞれy(詳細は後述)となる要素"去"、"來"について、台湾語と普通話における統語上、意味上の差異を指摘し、差異の原因を明らかにした。そして従来あまり研究されることのなかった台湾語の"去ho"(3.4)と"來去laikhi"(4.4)について、先行研究の問題点を指摘し、そのメカニズムを明らかにした。

 第5章ではさらにダイクシス及び結果性の視点から台湾語と普通話の"來""去"における根本的な差異を指摘し、その原因を明らかにした。

 本研究でいう方向補語(D)とはTalmyの術語で言えば衛星(satellite)に当たるものである。普通話や台湾語の場合ではさらに経路を表すDp(path directionals、本研究ではxと略す)と直示移動(deictic motion)を表すDd (deictic directionals、本研究ではyと略す)に分けることができる。本研究ではyつまりDdである"來""去"を中心に議論を展開した。何故かというと、台湾語の[動詞+方向補語]構造(本研究ではVD構造と呼ぶ)においてyが欠かせない要素であるからである。

 本研究では以下のことがらが明らかになった。

(1)本研究では、まず普通話や台湾語の言語事実に基づいてVD構造の定義をし、この定義に基づいて方向補語となるxの六つの条件を決め、xとなる要素を決めた(表2.1.2-2,2.1.2-3)。この六つの条件にもとづき、本研究では"到dao(遘kau)"と"幵kai(開khui)"をxから外し、普通話のxの集合を{上,下,〓,出,回,〓,起}、台湾語のxの集合を{起,落,入,出,轉,過}と規定した。さらに、yになる要素"來""去"の他に台湾語の特別用法"來去laikhi"を台湾語の第三のyとして加えた。このような分類を試みたのは、台湾語の"來去laikhi"は一人称しか主語に使わないという制限があるものの、意味上も、統語上も方向補語として相応しいためである。本研究で取りあげた普通話と台湾語の方向補語は次の通りである。

(2)次に普通話と台湾語のVD構造における統語上の差異を指摘し、そのメカニズムを明らかにした。本研究の調査によれば、普通話と台湾語VD構造が"〓語"を取る場合(動詞の後ろに場所名詞や動作の受け手を表す名詞句が置かれる場合)、統語上大きな差異が存在している。このような差異が生じた最大の原因は普通話と台湾語のVD構造が"〓語"(例:場所詞)と接続する時の基本語順によるものであることが分かった。

基本語順

普通話:VxG(=場所詞)y

台湾語:Vxy G(=場所詞)

 普通話においてxは必須要素であり、Vとyはxの追加情報となる。これに対し台湾語ではyが必須要素であり、Vとxはyの追加情報となる(詳細は2.1.3を参照)。

 上の分析をさらにTalmyの理論に当てはめた結果、普通話と台湾語における方向補語VD構造の構造上の差異は複合衛星x,yの主従関係にあることが明らかになった。

普通話:xは主であり、yは従である。(主=必須要素、従=追加情報)

台湾語:xは従であり、yは主である。

"〓語"と接続する場合には、基本的に主要要素の後ろに来る。従属要素は追加情報であるため、場合によっては省略しても良い。但し、xが省略される場合、衛星として移動を表す機能は基本的にyによって表される。x,yは主従関係にあるが、ともに複合衛星の一員として方向補語構文の移動を表している。このような分析には先行研究においてきれいに整理されていないVD構造のy(="来、去")に適切な定義を行うことが可能になるという利点がある(詳細は2.1.4を参照)。

 なお、方向補語Dの後ろに来る場所詞Gについて、普通話はxの後ろに来るため、xの性質によって場所詞が起点(source,例:"出")を表したり、着点(goal,例:"上,〓")を表したり、中間経路(route,例:"〓")を表したりしている。一方、台湾語の場所詞はyの後ろに来るため、場所詞Gは常に着点(goal)に限られる(2.2.1-2.2.3)。

(3)本研究の調査により、台湾語の"來lai""去khi"を伴う方向表現(e.g.動詞"去khi"の用法や方向補語"〜來/去"の用法など)では、後ろに他の要素が来る場合、動詞またはVD構造の部分の声調が従来の声調交替規則から逸脱し、調値が全体に高くなる傾向にあることが明らかになった。"來lai""去khi"の後ろの要素の基本調が(陰)上声"起khi、轉tng"及び陰去"過koe"、陰入"出chhut"の陰調の場合、全体の声調が明らかに高くなり、第一声の陰平(高平調、調値[55])と同程度の高さに変化する。一方、基本調が陽平"來lai"及び陽入"入jip、落loh"などの陽調の場合、明らかな変化は見られないが、変調後の調値より若干高くなることが認められる(p.73を参照)。動詞"去khi"が高くなる現象については従来の指摘のような「再変調」にとどまらず、"去"のみではなく、"來/去"を伴う方向表現という範疇全体にこの現象が見られると指摘したのは本研究が初めてである。また、"去khi"が高くなる現象について、先行研究では「再変調」と説明されることが多いが、再変調では説明できない現象も数多くあるため、本研究では再変調説を認めず、独自の解釈を試みた。これによって、従来台湾語の学習者や教師にとって難題であった所謂「a前の特殊変調」現象についても同じ解釈でもうまく説明できるようになった(詳細は2.4を参照)。

(4)台湾語には"khi ho."という特別な用法がある。"khi"の語源について大陸の文献では"乞khit"と分析しているが、台湾や日本の文献では"去khi"と分析している点で異なる。本研究では音韻、統語、意味各方面から"khi ho."を分析し、"khi"の語源は"乞khit"であることを認めながら、"去ho."の用法は既に台湾において定着しているため、"去ho."の用法を台湾語特有の表現として認めるべきだと主張した。最後には何故台湾人や日本の研究者が"去"を用いるかその動機付けを推測した。"去ho."の用法は単なる誤用とは説明できず、それが台湾語において定着しているのは台湾人がそれを認知する動機付けが十分にあるためと考えられる。

 さらに4.3.2で述べたように、台湾語には"去ho."の反対用法として"來ho."という用法があり、そして"去""來"の後ろに場所詞を付けて[去+場所詞+ho.] [來+場所詞+ho.]とする用法も可能であるため、"khi"の語源は"去khi"である可能性も全くないわけではないと推測した。つまり、本研究では、現代台湾語における"khi ho."の"khi"の語源は二つのルーツがあると推測したのである。一つは"乞khit"である。通時的視点そして音韻、統語、意味各方面から立証できる。現在福州語など他の〓語にもまだ"乞khit"の用法が残されていることからも証明される。もう一つは"去khi"である。"去ho."の反対用法"來ho."があり、そして"去""來"の後ろに場所詞を付けることが可能であることから推測できる(詳細は3.4、4.3.2を参照)。

(5)従来あまり研究されてこなかった"來去laikhi"について、本研究は先行研究の問題点を指摘しながら音韻、統語、意味の各方面から分析し、そのメカニズムを明らかにした。"來去laikhi"は口語では"去khi"の子音の部分がよく脱落し、"來-i lai-i"に聞こえるため、"來lai"とよく間違われる。しかし、"來去laikhi"が表している移動は"來lai"「来る」ではなく、"去khi"「行く」であるため、"來lai"や"去khi"と区別しなければならない。"來去laikhi"には(i)基本的に主語は第一人称の単数もしくは複数に限る。(ii)未来のことのみ表し、過去のことを表すことができない。(iii)具体的な空間移動しか表さず、抽象的な意味を表すことができないという制限はあるが、"來lai"や"去khi"と同様に全てのxとなる要素と接続し、移動を表すことが可能であり、VD構造になることも可能であるため、本研究は"來去laikhi"を台湾語VD構造の第三のyとして位置づけた(詳細は4.4を参照)。

普通話の方向補語(=表2.1.2-5)

台湾語の方向補語(=表2.1.2-6)

普通語VD構造のメカニズム(→は追加情報を表す)

台湾語VD構造のメカニズム

D

様態を表す←V+複合衛星xy→移動を表す

普主従

台従主

審査要旨 要旨を表示する

 陳順益氏の博士論文『台湾語と普通話の方向表現に関する対照研究-"来""去"を中心に、日本語との対照も兼ねて-』は中国語の方向補語といわれるカテゴリーにおける台湾語と普通話(標準語)の統語上及び意味上の差異を主として認知言語学の立場から考察し、明らかにしようとするものである。論文は序章と本論の6章から構成されている。

 序章では台湾語、普通話、台湾華語の用語について定義を行い、台湾語を〓南語の下位範疇として扱った。第1章では本論文の研究動機、目的及びアプローチを述べ、事例研究として、ほぼ同じ意味を表すとされる普通話の方位詞"上" と台湾語の方位詞"頂teng"の違いを分析し、説明した。第2章では方向補語の普通話と台湾語における構造上の差異を指摘したうえで、その差異の生じる原因を解明した。そして従来ほとんど言及されなかった台湾語の方向補語における特殊な音韻現象についても言及し、そのメカニズムを明らかにした。続く第3章と第4章ではそれぞれ台湾語と普通話の"去"と"来"の意味拡張における相違を明らかにすると同時に、台湾語の"去ho"と"来去laikhi"を統語的特徴のみならず、音韻、意味さらに通時的視点も加えて、再検討し、独自の分析を試みた。第5章では台湾語と普通話の"来"、"去"のダイクシス及び結果性における相異を分析し、先行研究の不備を修正し、その使用条件を究明した。第6章では本論文の結論を述べるとともに、本研究によって得られた新たな成果と知見を提示した。

 本論文は、主として以下の事実を明らかにしたことによって、普通話および台湾語の文法研究ならびに関連分野の研究におおきく貢献している。

(1)普通話と台湾語の方向補語から成る複合動詞は統語上、様態を表す主要動詞(V)と移動の経路を表す動詞(x)及び移動の視点を表す動詞(y)に分けることができ、さらにそれぞれの複合動詞は場所目的語(G)を取ることができる。しかし、両者が場所目的語を取る場合に語順に違いが生じ、普通話ではVxGy(様態+移動経路+場所+視点)となり、台湾語ではVxyG(様態+経路移動+視点+場所)となる。このことから、普通話ではXは必須要素、Yは追加情報であるのに対し、台湾語ではYは必須要素であり、Xは追加情報であると分析することが可能である。そして言語類型論の視点から移動イベントのタイプを「動詞枠付け言語」と「衛星枠付け言語」に分類したTalmyの言語理論に基づけば、中国語が「動詞枠付け言語」と「衛星枠付け言語」の混合型であるとする従来の説は妥当であり、台湾語にも同様の特徴づけが可能である。

(2)普通話と台湾語の"出"が場所詞をとる場合、普通話では起点と着点の両方を表せるのに対し、台湾語では着点に限られる。この、従来指摘されることのなかった両言語間の差異は、普通話では場所詞の後に"来、去"が現れ、台湾語では場所詞の前に"来、去"を義務的に伴うという統語上の違いに起因すると考えることによって、妥当な説明が得られる。

(3)台湾語の"来"、"去"を伴う方向表現において、後ろに他の成分が続く場合、"来"、"去"を含む方向補語の部分の声調が声調交替規則から逸脱して調値が全体に高くなるという現象が今回新たに観察された。従来"去"だけについて指摘されてきたこの種の変調現象は、実は、"来、去"を伴う方向表現全体の変調現象として捉えなおすべきものであり、従来の「再変調」説は再検討を要する。

(4)台湾語の受身を表す形式 "去ho"に関して、従来は、khi-hoのkhiが"乞"から変化したものであるとする説と、もともと"去"であるという説とがあるが、通時的な視点をも加えた上で、その音韻、統語、意味上の特徴を検証すれば、"乞"説に一定の妥当性が認められはするものの、"去"説にも認知的視点による動機付けが十分に見出せる。

(5)台湾語においては、従来、方向補語のyとしては、"去"、"来"のみに関心が寄せられ、"来去"という形式に関してはほとんど議論されなかった。本論文では"来去"をyの範疇に取り込み、その用法を観察することによって、次のような特徴があることが明らかになった。(1)基本的に主語は第一人称の単数もしくは複数に限られる、(2)未来の出来事のみを表し、過去の出来事を表すことができない。(3)具体的な空間移動しか表さず、抽象的な意味を表すことができない。このような特徴を持った"来去"は"来"、"去"のいずれとも異なる機能を持つものであり、台湾語の方向補語における第三のyとして位置づけることができる。

(6)"来"、"去"のダイクシスについては、普通話の "来"、"去"に関する従来の研究により、「普通話の"来"の到達地は発話時または指示時に、話し手または聞き手がいる場所を表すことができる」ということがすでに明らかにされているが、それに加えて、「ただし、"来"は、 物理的・心理的距離の遠い指示詞"那児"とは共起しない」という点を認識すべきである。また"来"、"去"の結果性の含意については、普通話、台湾語のいずれも、話者の視点や領域との関わりによって、"来"の方が"去"よりも結果性を含意しやすい傾向にあるという両言語の共通点と、台湾語の"来"の方が、普通話のそれに比べて、結果性の含意の度合いが相対的に弱いという両言語間の差異が認められる。

 一方、本論文の問題点として次の諸点が指摘された。部分的ではあるが、異なる言語のデータの扱いにやや公平さを欠くところがあり、より慎重な言語観察と言語記述の姿勢が求められる。また現象や事実の指摘にとどまり、原因の分析が不十分な部分も若干見られた。図式に関していま少し周到かつ明快な説明が期待される。

このように、本論文は以上のような若干の不備を残しつつも、近年の言語理論の成果を踏まえて、言語事実に則した詳細な分析と新たな解釈が示されており、また、台湾語に関する新しい指摘や知見も数多く含まれおり、全体として学術的な価値が高く、この分野における優れた研究成果として十分に評価に値するものである。

 したがって本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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