学位論文要旨



No 119750
著者(漢字) 渡部,森哉
著者(英字)
著者(カナ) ワタナベ,シンヤ
標題(和) 先スペイン期アンデスにおける社会動態と構造
標題(洋)
報告番号 119750
報告番号 甲19750
学位授与日 2004.10.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第525号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 木村,秀雄
 東京大学 教授 伊藤,亜人
 東京大学 教授 並木,頼寿
 東京大学 助教授 網野,徹哉
 野外博物館リトルワールド 館長 大貫,良夫
内容要旨 要旨を表示する

 本論文の目的は、スペイン人到来前のアンデス地帯において興亡を繰り返した諸社会を事例として、社会動態と構造の相互関係について文化人類学的観点から考察することにある。

 社会動態を扱う第1部では、ある社会に変化が生じ異なったタイプの社会に移り変わる具体的様相を、インカ期を具体例として論じた。

 従来インカ期、及びその直前の時代の状況については、史料の記述に基づき再構成されてきた。インカ期にはルパカ社会、チンチャ社会といった大規模な地方政体(行政単位)が各地にあったが、インカは各地方政体を征服し、既存の政治組織を温存したまま支配下に組み込み、間接統治を行ったと解釈されてきた。本論文ではこの解釈の妥当性を、ペルー北高地カハマルカ地方を事例として検討した。

 カハマルカ地方に関する植民地期に残された史料を検討した結果、史料に記された情報が、しばしばインフォーマントの思惑によって歪められていることが明らかとなった。また当然、史料に残された情報は、それを書き記すスペイン人側の先入観や、翻訳プロセスによっても歪曲されている。

 巡察記録によれば、カハマルカ地方には7つのワランガ(成人男性納税人口千人の単位)によって構成される地方政体(行政単位)があった。その起源と変容過程を、サンタ・デリア遺跡とタンタリカ遺跡の発掘データに基づき検討した。その結果、7つのワランガの範囲内に、同じ土器、建築、埋葬形態の特徴が等質に広まっているという状況は認められず、少なくとも大きく2つのグループに分かれることが明らかになった。そのため7つのワランガというまとまりはインカ帝国の支配下に組み込まれることによって形成されたと考えられる。

 カハマルカ地方の事例を他地域の事例と比較検討すると、ルパカ社会やチンチャ社会などインカ期の大規模社会の多くはインカの支配下で形成された、あるいは大規模化したと解釈できる。つまり、インカは征服した地方を独自の原理に従って再編成し1つの政治組織の下にまとめ上げたのであり、各地に存在する地方社会の姿はインカ期に大きな変革を受け形成された結果である。そのため先インカ期とインカ期との間には、連続性よりも断絶が目立つ。

 地方社会の変化の実態を捉えた一方で、肝心のインカ帝国の成立過程そのものが不明瞭であった。つまりインカ社会そのものがそれより大きい政体の下で形成されたわけではないため、その始まりを解明する必要があった。さらになぜインカが拡大したのか、また、どのようにして短期間に各地を征服し1つの政治組織の下にまとめ上げたのかを説明する必要があった。本論文ではこうした問題の解決の手がかりを得るため、インカ王権の構造を分析した。

 構造を扱う第2部では、インカ王権の構造を解明するため、先インカ期の構造を比較対象として設定した。形成期後期の祭祀センター、クントゥル・ワシの構造分析では、石彫と黄金製品に施された図像、墓の配置、建物の配置から、それらを貫く1つの構造、すなわち2つの二項対立(双分制)の組み合わせによって成立する三分制という構造を抽出した。支持するデータは少ないながら、形成期後期の大祭祀センター、チャビン・デ・ワンタル、後の時代のティワナクにおいても同じ構造が存在することが示唆される。そしてインカ王権の構造、インカ帝国の首都クスコの空間構造にも三分制が認められた。三分制は1対2に分かれ、1に対応する範疇がチュリャと呼ばれる。しかしこの構造は正確には三分制ではなく、2つの二項対立の組み合わせによって成立しているため、三者間の関係を示すために枠は常に4つ必要になる。この構造を説明するため、正四面体モデルを提唱した。

 まず4つの頂点を有する透明な正四面体を想定し、隣り合わない2つの辺をそれぞれ赤と白で塗る。赤辺は例えば「男」対「女」と表されるシンボリックな二項対立(同質的双分制)、白辺は「現在」対「過去」と示される時間上の二項対立に対応すると考える。さらに白辺と赤辺の組み合わせは、「通事」対「共時」という第3の二項対立(異質的双分制)を示す。

 そしてこの正四面体モデルで示される構造を平面で図式化する場合、正四面体をどの角度で写影するかによって見える形は異なる。白辺が1点で重なる角度から見ると、3つの頂点からなる三角形が写るし、写影する面に対し赤辺、白辺をそれぞれ平行に配置すれば、赤辺と白辺は直交し、4頂点が示された正方形が写る。このモデルに従うと、双分制、三分制、四分制は、正四面体の一部分を見るか、全体を見るか、そしてどの角度から見るか、によって決定される相対的な関係、即ち、同一構造の異なった表象と説明できる。正四面体モデルを用いて先スペイン期アンデスにおける構造の事例を説明すれば次のようになる。

 形成期後期のクントゥル・ワシとチャビン・デ・ワンタルでは、白辺と赤辺の対立は祭司集団/非祭司集団の区分に対応する。非祭司集団は2つの半族組織に分かれ、赤辺上の2つの頂点に対応する。白辺に対応するのは過去の祭司集団と現在の祭司集団であり、両者は時間上の二項対立を示し、両者の間には連続性が存在する。

 同じ構造は後のティワナクにも継承されたが、そこではピューマ、コンドル、魚の3種類の動物を用いて三分制として示す方法が主流であった。それは正四面体を三角形として写していると説明できる。3種類の動物が1対2に分かれるとすれば、1に対応するのはピューマか魚である。

 インカ帝国全体および首都クスコは、それぞれ4つのスーユ(部分)に分割され、四分制が機能していた。また同時にコリャナ、パヤン、カヤウの3つの範疇によって示される三分制も存在した。この三分制は1対2に分かれるが、1に対応するのはチュリャと呼ばれ、コリャナ、もしくはカヤウがチュリャとなる。しかしインカにおける四分制と三分制も同一構造の異なった表象である。

 インカ王権の構造に関していえば、インカ王は同時期に3人存在し、それぞれコリャナ、パヤン、カヤウに対応した。そしてそれは1対2に分かれるが、1に対応する王がサパ・インカと呼ばれた。ビラコチャ王以前はカヤウの王が、パチャクティ王以降はコリャナの王がサパ・インカとなった。そしてビラコチャ以前は、聖俗の権力構造が一致しており、政治指導者、儀礼指導者はともにカヤウから輩出されたが、パチャクティ以降、俗(政治)の権力はコリャナが、聖(儀礼)の権力はカヤウが握り、聖俗の権力構造が分離した。

 4つのスーユと3つの範疇との対応関係は、チンチャイスーユ=コリャナ、コリャスーユ=パヤン、アンティスーユ=カヤウ(現在)、クンティスーユ=カヤウ(過去)であった。アンティスーユ(カヤウ)がチュリャとなる場合、アンティスーユのサパ・インカはクンティスーユ(カヤウ)に対応するインカ帝国の初代王マンコ・カパックと時間上の二項対立、連続性を示す。しかしパチャクティ以降、コリャナのインカ王がサパ・インカとなった場合、政治構造はスーユから独立して決定され、マンコ・カパックは政治構造から除かれ、儀礼構造においてのみ存在した。

 インカ帝国の首都クスコにはハナン/ウリンで示される双分制も存在した。しかし、正四面体構造を成立させるためには少なくとも2種類の双分制が存在するはずである。ハナン/ウリンが、もともとあった異質的双分制、同質的双分制の2つの双分制が混同されることによって成立した可能性がある。

 第3部では構造に注目し、次のような中央アンデス南部における社会動態モデルを実験的に構築した。

 形成期社会とは祭祀センターを中心に統合された、祭祀共同体であった。祭祀を中心とした社会統合のあり方は疲弊し、形成期末期(上層)以降、俗の権力が確立し、聖俗の分離が生じた。

 南部における諸社会の通時的変化は、次のように捉えることができる。形成期上層の半ば(200 B.C.-A.D. 200)にはプカラを中心としたまとまりがティティカ湖北岸地域に形成され、その後の時期(A.D. 200-600)には中央集権の度合いが低い社会が複数認められ、その後のティワナク期(A.D. 600-1100)には中央集権的社会が興り、アルティプラノ期(A.D. 1100-1450)には小規模社会が分散しており、インカ期(A.D. 1450-1532)には中央集権的社会が台頭した。つまり時間軸に沿って振り子のように中央集権の極に近づいたり遠ざかったりしており、次第に中央集権度は高まっていったと捉えることができる。そして中央集権の極に近づいた時には同一構造が顕在化した。

 インカは突如拡大を開始し、各地を征服し大規模な政治組織を作り上げた。征服を行ったのはパチャクティによるクーデター以降の、コリャナのサパ・インカである。コリャナのサパ・インカは古くからの構造に従って選出されたのではなく、構造上の範疇の配置を組み換えることによって王位を奪取した。王位の正統性を過去に求めることはできないため、彼らは戦士として先頭に立って各地の征服を行い、世俗面での優位を確保する必要があった。そしてインカは、征服後、各地の民族集団を分断、統合して同規模の行政単位を創出し、短期間に整然とした統治体制を築いた。

 一方、形成期末期以降の中央アンデス北部では、同一構造が継承され保持されたという証拠は確認できず、大規模な分裂、統合の動きも生じなかった。

 そして南部と北部を攪拌する動きは、常に南部の社会から起こった。そしてインカ社会は、同一構造が重層的に重なった、高度に構造化された社会であるといえる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、先スペイン期アンデス文明を構成するさまざまな社会の社会動態と構造を、総体的に理解する枠組みを提供せん、とするきわめて野心的な論文である。

 本論文は序論と3部に分かれている。

 まず、序論においては、本論文の目的、本論文が重要な関係をもつインカ研究のこれまでの経緯とその問題点について簡潔に述べられている。この序論において、これまでのアンデス文明研究のゆがみが指摘され、それを修正せんとする渡部氏の分析の焦点が明らかにされている。

 第1部「社会動態」は、先スペイン期の地方政体とインカ国家の関係について、具体的史料に基づいて実証的に論ずるものであり、4つの章に分けられている。

 第1章「7つのワランガ〜歴史史料から再構成されるカハマルカ地方」においては、ペルー北部高地カハマルカ地方の地方政体の実態を、征服直後にスペイン人によって書かれたクロニカと呼ばれる歴史史料、植民地期の巡察記録、訴訟記録を用いて明らかにしている。この分析を通して、これまでインカ以前に成立していたと想定されたカハマルカの地方政体が、クロニカなどにおける記述者の先入観によってゆがめられたものであり、これらはインカ期の統治体制との関係で初めて成立したものであるとの予想が示される。

 そして、第2章「サンタ・デリア遺跡の発掘〜考古学データからみるカハマルカ地方」と第3章「タンタリカ遺跡の発掘〜インカの到来」では、上記のゆがみを考古学発掘のデータをもってただし、より実態に近い地方政体の姿を明らかにしようとしている。ここで上記の予想が確かめられ、インカ政体と地方政体の関係に対して新たな視点が提出される。

 第4章「インカ期の社会動態」では、分析の範囲をペルー北部高地から拡大し、南部高地のチチカカ湖沿岸に成立したルパカやコリャといった首長制社会や南海岸のチンチャ王国を対象に、征服した地方をインカ独自の原理によって再編成していく過程を明らかにしている。

 第1部が考古学的・歴史学的な実証的な動態分析であったのに対し、第2部は抽象モデルの適用による構造分析をその特徴としている。まず、第5章「クントゥル・ワシ〜構造の生成」において、古く形成期に成立したクントゥル・ワシ遺跡の石彫および黄金製品の図像分析、墓や建造物の空間配置の分析をとおして、分析モデルとしての二項対立およびそれが組み合わされたものとしての三分制モデルが提唱される。

 このモデルは後の時代の史料と照合される。すなわち、第6章「ティワナク〜変換」および第7章「インカ王権の構造」において、細部の変更はあるものの、ティワナク期およびインカ期においてもクントゥル・ワシにおいて見出された基本構造は踏襲されたことが示される。

 そして、第8章「三分制再考」においてはモデルの精緻化がめざされている。すなわち、三分制は単純な平面構造ではなく、二項対立の空間的な組み合わせによって作られた構造であり、3次元構造を持ったものであることが示される。そして渡部氏はこれを正四面体構造として、独自のモデルを提示する。

 第3部「社会動態と構造」は全体の結論に当たる部分であり、第1部と第2部の議論を平行させて組み合わせ、第9章「先スペイン期アンデスにおける社会動態と構造」としてまとめあげ、全体の結論としている。すなわち、インカ期の国家社会はアンデス文明の根本モデルを基礎としながらも、その構造が細部にわたって変換され、その変換モデルが複雑。高度に構造化されたものであることを明らかにしたのである。

 渡部氏の論文は、アンデス文明全体を視野に入れた壮大なものであるだけに、歴史学や文化人類学の分野からは、分析の細部やモデル構成に対して、審査員から若干の疑義が出された。渡部氏の説明によっても、この疑問点が完全に解消としたとは言えない。この点については、さらなる文献資料の探索や考古学発掘によるデータの追加・検証が必要である。しかし、これは大きな抽象性を持ったモデル構築にはつねにつきまとう問題であり、細部の傷が全体の価値を必ずしも低めるものではないとの結論に達した。

 また、考古学的発掘報告の部分に関しては、世界的な水準を十分にこえているという指摘もあった。これまでの多くの発掘報告は、詳細のデータの提示をともなわず、分析の当否を判定することが困難であったことが少なくないが、具体的な資料の提示をともなった渡部氏の実証的な研究は、アンデス考古学に対する大きな貢献であるという示唆が、考古学を専門とする審査員から行われた。

 渡部氏の論文において提示された野心的なモデルは、アンデス文明社会の性格についての新たな議論を巻き起こすことが予想され、歴史学、考古学、文化人類学にまたがる大きな射程をもつこの論文は、高い学術的価値をもつことが審査員の間の共通の認識である。

 よって、渡部氏の論文は博士(学術)の称号を与えるに十分な内容を持つ論文であると、審査員の全員一致で判定する。

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