学位論文要旨



No 119753
著者(漢字) 浅井,幸子
著者(英字)
著者(カナ) アサイ,サチコ
標題(和) 1920年代の新教育における教師の変容 : 「児童の村」の教師の一人称の語りを中心に
標題(洋)
報告番号 119753
報告番号 甲19753
学位授与日 2004.11.17
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第104号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐藤,学
 東京大学 教授 金森,修
 東京大学 教授 土方,苑子
 東京大学 教授 川本,隆史
 東京大学 (総合文化研究科)教授 小森,陽一
 國学院大学文学部 教授 田嶋,一
内容要旨 要旨を表示する

 本研究の主題は、1920年代の「児童の村」を中心とする教師の軌跡をたどり、その一人称の語りにおいて、教師としての「私」のあり方が模索され、「私」と子どもとの関係が再編され、教育と学習の新たな意味が生成する過程を叙述することにある。教育の世紀社による「児童の村」の教育実験の興味深い点は、池袋児童の村小学校において、教師が「私」という一人称で語り、固有名の子どもたちが登場し、教室で生起する出来事が物語の形で描出された実践記録の様式が成立し共有されている事実にある。教育の実践記録は現在でも、日常的な教育の経験を意味づけ関係を構成する主要なメディアの一つとして機能している。しかし1920年代には、「私」と子どもの具体的な言動によって織り成される教育の風景はいまだ稀有だった。本研究では、「児童の村」の教師の語りの変容をたどることを通して、1920年代の新教育の語り口に孕まれていた教師の心性や感性、子どもへのまなざしや接し方、教育の経験の意味を歴史的に探究した。

 「児童の村」の教育実験の特徴はその急進性にあった。教育の世紀社の同人による「児童の村」のプランには、「学校、学級、教室、教科目、学年、時間割等すべての既成概念」の「超越」が謳われている。「児童の村」は新教育における自由と個性の尊重の主張を徹底した一つのユートピアだった。この学校は、既に新教育に従事しつつも飽き足らず、あるいは行き詰まってさえいた教師を惹きつけることになる。「児童の村」に集った教師たちは、新教育よりも自分自身に関心を寄せ、子どもよりも教師である「私」の解放や救済を希求していた。彼らは「私」という一人称の語りにおいて、新たな教師としてのあり方を模索する。教師像の解体と再編が課題として浮上し、とりわけ教師の生活や内面の問題が焦点化された1920年代において、「児童の村」の実験学校は、教師における「私」が集中的に現出し問い直される場となった。「児童の村」の教師の語りは、教師の解体と再編の過程と、その過程を通した教育の変革の様相が可視化された特権的なフィールドである。

 各章では、池袋児童の村小学校に勤務した野村芳兵衛、平田のぶ、峰地光重、小林かねよ、芦屋児童の村小学校を設立運営した桜井祐男、雲雀ヶ岡学園の教育に従事した上田庄三郎、奈良女子高等師範学校附属小学校に勤務した池田小菊の七人の語りの変遷をたどった。その際、叙述を貫く視点として三つの課題を設定した。第一に、1920年代の新教育における教育の変革を教師の語りの様式とその変遷に即して描き、教師の自己意識や感性や信念といった内的な経験の変容を捉える。第二に、「児童の村」の教師による教育の記録に子どもの固有名が登場している事実に着目し、教育実践における子どもの発見の歴史的な構造と意義を検討する。第三の課題は、「児童の村」において実践記録の様式が成立する過程を叙述し、教育の文化的意味が生成し変容する過程を検討することにある。

 個々の教師に関する叙述は、テーマごとに三部に分けて行った。

 第I部では、野村芳兵衛と小林かねよの池袋児童の村小学校における教育の模索の経緯をたどり、一人称の語りを通して実践記録の様式が成立する過程を叙述した。野村と小林の語りの変遷は、1920年代の池袋児童の村小学校で生起した出来事、すなわち教師における「私」が現出し、子どもとその固有名が発見され、「私」と子どもの具体的な経験に教育の意味が見出される過程を表現し構成している。

 野村の特徴は、教室の子どもとの関わりを媒介として、教師としての「私」を問い、その新たなあり方を構築した点にある。彼は「私」として子どもに呼びかける中で、名前と顔を持つ子どもを見出し、「私」と子どもの経験としての教育を見出した。その教育の変革の核心は、「教師」と「児童」の制度化された関係の解体と再編にある。教師であることへの違和感にはじまる野村の教育関係の模索は、教師と子どもの「友情」という対等かつ多様な関わりにおける教育の構想へと結実していた。(1章)

 野村の「友情」の教育は、『新教育に於ける学級経営』(1926年)のカリキュラムにおいて構造化されている。そのカリキュラムは、子どもの学習経験の意味を重層的に表現することによって、人と人、人と世界の言葉を媒介とした具体的な関わりを学習経験として構成していた。しかし、1930年頃に野村の語りから「私」という一人称と子どもの固有名が消えるに伴い、彼が構想する教育の構造もまた変化する。『生活学校と学習統制』(1933年)に提示された後期のカリキュラムの表現は、子どもの学習経験の意味を単層化して「国民教育」という目的に一元化し、教室集団や学校集団の「協働自治」に回収していた。(2章)

 小林かねよの語りの変遷は、「池袋児童の村」という語りの場の特徴を映し出している。教師の仕事に虚偽を覚え「人間になる」ことを希求していた彼女は、「池袋児童の村」への赴任以降、自らの課題を「子供と共に生活する」と表現するようになる。事実、一人ひとりの子どものあり方やその関係を精緻に描いた彼女の実践記録は、同時に、子どもと同じ時空を生きつつ教育の意味を生成する彼女のあり方を表現している。(3章)

 第II部では、三つの「児童の村」に勤務した三人の教師の語りを検討し、教育のユートピアとしての「児童の村」の展開を記述した。芦屋児童の村小学校の桜井祐男、雲雀ヶ岡学園の上田庄三郎、池袋児童の村小学校の峰地光重は、田園を志向する大正期のユートピアの相貌を持つ学校のヴィジョンを描いている。ただし三人の、自らへの関心の寄せ方、子どもの見出し方、教育や学校の構想は異なる。その教育の夢と経験には、1920年代の新教育に孕まれていた多様な教育の変革の可能性を見出すことができる。

 桜井は教師における自己の再生を通した教育の変革を主張した。自ら自己の追求を行った彼は、その過程において、自己が弱さを孕んでいることに気付く。彼が芦屋児童の村小学校に実現しようとしたのは、教師と子どもが一切の抑圧を免れて生きるユートピアだった。その無権力空間の夢は挫折しているが、自律した強い個を想定した新教育の中にあって、個の脆さや弱さを前提とする教育の試みとして重要な意味を有している。(4章)

 上田は秩序や制度を逸脱する個の理想を子どもに見出した。彼は子どもが大人を教育する「コドモ運動」と、その特徴を受け継ぐ雲雀ヶ岡学園の「素人の教育」を構想する。茅ヶ崎という郊外の別荘地に設立された雲雀ヶ岡学園には、アナーキーな生の革命が託され、子どもの擁護としての教育が展開された。その教育のユートピアは、子どもの日常生活の中に教育の可能性を探る挑戦として、アクチュアルな意味を帯びている。(5章)

 峰地の教育のユートピアは、農作業に人間形成を託す「田園学校」の構想にはじまる。その一貫した特徴は、子どもと具体的な事物との関わりを重視し、学習における子どもと教材の関わりを再編した点にあった。池袋児童の村小学校では、子どもが教材を生きる中に成立する生活学習が展開された。帰郷後に赴任した上灘尋常高等小学校では、愛郷心や郷土人の育成を掲げる郷土教育の流行の中で、具体的な事物に即すことのみを原理とする稀有な郷土教育が構想されている。(6章)

 第III部では、女性教師のジェンダーに着目して、池袋児童の村小学校に勤務した平田のぶと奈良女子高等師範学校附属小学校に勤めた池田小菊の葛藤と変容の過程を叙述した。1910年代から20年代における女性教師のジェンダー化の過程を、二人は女性と教師の狭間における葛藤として生きた。その軌跡には、女性である「私」が教師を生きることの困難とともに、新たな教育のあり方を生み出す可能性が孕まれている。

 平田の池袋児童の村小学校と子供の村保育園における教育の語りには、教室の子どもを愛するという当時の女性教師に課された使命が織り込まれている。繰り返される彼女の愛の挫折は、彼女が求め続けた子どもへの一方的な愛、すなわち女性教師の身体に内在化された愛の関係が、一種の虚構だったことを示唆している。しかし同時に、彼女の愛の模索の過程には、母子関係と教育の関係を相互に再編する可能性が垣間見える。(7章)

 奈良女子高等師範学校附属小学校において池田が提示した「教室の家庭化」という教育の変革のヴィジョンは、彼女が女性性を肯定的に受容する過程において成立した。その斬新さは、くつろぎや落着きを備えた教室空間と、自然な愛着を備えた人間関係の重要性を、子どもの創造的な学習の実現と関連づけて指摘した点にある。ここには教室を親密圏として構成することによって教育の関係と学習の質を再編する可能性が示されている。(8章)

 従来の研究は、1920年代の「児童の村」の教師の実践を、教育の世紀社の同人によるプランの実現として、あるいは1930年代の生活綴方や生活教育が生み出される過程として叙述してきた。その経験には固有の意義があまり見出されていない。しかし上記のように、1920年代の「児童の村」では、教育の夢と経験が交錯する教師の語りにおいて、新たな教師の心性と感性、新たな子どもとの関わり方、教育実践の新たな意味が生成している。とりわけ池袋児童の村小学校において、実践記録という教師の語りの様式が成立し共有されていたことの歴史的な意義は大きい。実践記録の伝統は現在にまで受け継がれ、記述され論じられ交流される中で再編されつつ、日常的な教育実践の意味と関係を構成し規定している。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、1920年代の児童の村(小学校3校)を中心とする教師たちの教室の記録における一人称の語りの成立とその変容過程を分析し、教師である「私」と固有名の子どもによって教室の風景を叙述する実践記録の様式の成立を歴史的に探究することを主題としている。この主題に接近するために、本研究は、教師たちの日誌や手記や手紙を渉猟し、それらの記述において可視化される教師としての自我の亀裂や葛藤、子どもへのまなざしと関わり、教室の出来事に対する意味づけなどの教師の経験世界を叙述し、その変容過程を新教育の高揚と衰退の歴史的文脈に即して考察している。

 本論文は3部8章によって構成されている。第一部は池袋児童の村小学校の野村芳兵衛(第1章、第2章)と小林かねよ(第3章)における一人称の語りの成立と固有名の子どもの発見が考察されている。同校に集った教師たちがいずれも自我の模索に逡巡した事実が提示され、子どもとの「友情」にもとづく「交友」(野村)あるいは「子供と共に生活する」関わり(小林)によってカリキュラムを創造した実践の意義が考察されている。

 第2部は芦屋児童の村小学校の桜井祐男(第4章)雲雀ケ岡学園の上田庄三郎(第5章)池袋児童の村小学校の峰地光重(第6章)における教育ユートピアの構想が探究されている。抑圧と圧迫を排除した無権力の空間である「慰安所」としての学校を構想した桜井、子どもが大人を教育する「コドモ運動」と個性が礼賛される「素人の教育」を構想した上田、自然の事物との関わりに子どもの「生命」の発露を求めて「田園学校」を構想した峰地は、それぞれヴィジョンを異にしているが、教師としての「私」の解放を教育ユートピアと結合した点で共通した特徴を有している。

 第3部は女性教師のジェンダーの葛藤が検討の対象とされ、池袋児童の村小学校に勤務し後に子供の村を開設した平田のぶ(第7章)と芦屋児童の村小学校の桜井と共に文芸雑誌の同人として活躍した奈良女子高等師範学校附属小学校の池田小菊(第8章)の教育愛をめぐる自我の葛藤が叙述され、女性と教師、養育と教育、家庭と学校の狭間を生きた女性教師の葛藤とそこから開かれる教育の可能性について考察している。他者の子どもを母性によって愛することを追求した平田において繰り返された愛の挫折は、母子関係に帰着する女性教師の愛の屈曲を示し、女性性を肯定し「教室の家庭化」による自然な愛着関係を希求した池田の教育実践は教室を親密圏として再構成する可能性を示唆している。

 本研究は、児童の村の教師たちの自我意識や感性や信念の葛藤をアクチュアルに描き出すことにより、教師である「私」の内省と顔と声をもつ固有名の子どもとの関わりを物語の様式で記述する実践記録の成立を歴史的に意義づけることに成功している。教師の自我意識の精緻な分析によって新教育の歴史研究に新たな切り口を提示した本研究は斬新であり、日本の教師文化の特徴的な伝統とされる実践記録の様式の成立を歴史的に解明した功績は大きい。よって、本論文は博士の学位の水準を満たすものとして評価された。

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