学位論文要旨



No 119761
著者(漢字) 長尾,修身
著者(英字)
著者(カナ) ナガオ,オサミ
標題(和) 操作性を持つスピン系の構築
標題(洋)
報告番号 119761
報告番号 甲19761
学位授与日 2004.11.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第528号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 菅原,正
 東京大学 教授 小島,憲道
 東京大学 助教授 松下,信之
 東京大学 助教授 小川,桂一郎
 東京大学 助教授 村田,滋
内容要旨 要旨を表示する

 本研究は、π共役系のトポロジーを設計することで、スピン間に強磁性的な相互作用を持つ熱力学的安定性の高いスピン系を構築し、さらにその発生法を工夫し、スピン多重度変換の可逆性を飛躍的に向上させることで、「操作性を持つスピン系」の実現を目指している。第I部では"分子磁性"研究において確立された静的スピン整列系の知見を基に、外部環境の変化に伴いスピン系が変化するような「動的な有機スピン系の構築とその制御」を目的とした。第II部では、有機安定ラジカル分子上の局在スピンと金属微粒子内部の伝導電子との間に磁気的な相互作用を持たせることで、「新しい有機・無機複合型ナノスピン系を構築する」ことを目標として掲げ、その目的に沿う新しいラジカル配位子の開発や、有機ラジカル配位型金属微粒子の合成を行った。

 第I部、第1章「有機安定ラジカルを用いた機能性スピン系の開発にむけて」では、操作性を持った有機スピン系を構築する際の基本的な分子設計について、考察を行った。分子内で複数のスピン間に強磁性的な相互作用を発現させる上で、m-フェニレン骨格を介した新たなπ共役系分子が有効であることを論じている。

 第2章「プロトン誘起電子移動による三重項有機ビラジカルの可逆的発生」では、外部応答性を持つスピン多重度変換系分子の設計の具体例として、プロトン付加によってアクセプター性を変化させるp-キノジイミンと、比較的ドナー性の高いトリフェニルアミンとを、m-フェニレンを介して分子内に配置したドナーアクセプター共役分子2.1を合成した(図1)。2.1に対してトリフルオロ酢酸を添加すると、p-キノジイミンがジプロトン化されることでアクセプター性が増大し、ドナーであるトリフェニルアミンから電子移動が起こる。その結果、p-フェニレンジアミンカチオンラジカルとトリフェニルアミンカチオンラジカルが可逆的に生成することを、紫外可視吸収スペクトルの測定結果より確認した。また、生成したジカチオンジラジカルの電子スピン共鳴スペクトルは、三重項に特有の微細構造を示し(図2)、その強度対温度の逆数の変化がCurie則に従うことから、三重項状態を基底状態に持つことが分かった。この新しいプロトンの付加・脱離によるスピン多重度変換分子は、塩化ポリビニルフィルム中でも可逆的に作動することが確かめられており、磁性薄膜としての応用も期待される。

 第3章「三重項ビラジカルを与える長鎖アルキル置換有機分子の二次元配列化」では、基板上で規則的な二次元構造を形成することができ、かつ、電気化学的酸化還元によってスピン多重度を変化させ得る分子として3.1を合成した(図3)。p-フェニレンジアミンダイマー3.1には、安定なカチオンラジカルを与えるN,N,N',N'-テトラメチルフェニレンジアミンが、m-フェニレンを介して交差共役の形で組み込まれており、さらに、分散力による基板上での配列を可能とするオクタデシル基が、末端のアミノ基に導入されている。電気化学的な酸化に伴って3.1は中性種、モノカチオンラジカル、ジカチオンジラジカルの三つの状態を安定に、かつ、可逆的に与えることが明らかになった。また、モノカチオンラジカル、およびジカチオンジラジカルの酸化電位が十分に区別できる(-0.19V、-0.02VvsFc/Fc+)ことから、異なる三つのスピン状態を容易に制御できることが分かった。p-フェニレンジアミンダイマー3.1の自己集積膜を、走査型トンネル顕微鏡を用いて観測した結果、明暗が交互に並んだストライプ構造(1.2nm、1.6nm)が観測された(図4)。このストライプ構造について分子動力学法によるシミュレーションを行った結果、3.1は基板上でπ系がカラムを形成し、かつ、横に伸びたアルキル基が鎖間で入れ子構造を形成していることが明らかとなった。これらの結果に基づき、基板を用いた記録素子としての可能性についても提案を行った。

 第II部、第4章「有機ラジカル配位子によるスピン分極金属微粒子の開発」では、有機分子上の局在スピンが、伝導電子と相互作用を示す系の構築を目指し、伝導電子を内包する金属微粒子に、交差共役型のπラジカルを化学吸着させることを目指した。このように有機スピンが伝導電子と明確に相互作用する系は、世界的に見てもこれまでにまだ実例が示されていない。既に、当研究室の原田により、有機ラジカル配位型金微粒子(HexSPN@Au)が合成され、金属表面と有機安定ラジカル間で見出された磁気的相互作用ついて議論されているが、筆者はここで、有機πラジカル配位子と金族微粒子との磁気的相互作用をさらに大きくするためのアプローチとして、配位子の改良、金属の変換が重要であることを指摘している。

 第5章「金属微粒子に吸着可能なニトロキシド型有機配位子の開発」では、金微粒子の電子構造に対して、より強いスピン分極を引き起こすことが可能な有機安定ラジカル配位子として、ラジカル部位にt-ブチルニトロキシドを用いた新たなラジカル配位子を取り上げ、置換位置による磁気的相互作用の違いを比較検討するために、ジフェニルジスルフィドのp-位、およびm-位にt-ブチルニトロキシドを導入した分子を設計した(図5)。この内、特にm-位にt-ブチルニトロキシドを導入した5.2については、化学吸着部位としてヘキサンチオールとのヘテロジスルフィドを持つ5.14の合成に成功した。また、得られたラジカルのESRスペクトルから、ニトロキシドの不対電子のスピン密度が芳香環へと染み出していることを明らかにした。非経験的分子軌道法による計算も、その結果を支持している。なお、この新規πラジカル配位子は金基板に化学吸着することを、多重反射赤外吸収スペクトル、およびサイクリックボルタンメトリーの測定より確認した。

 第6章「有機安定ラジカル配位子吸着パラジウム微粒子の性質」では、有機安定ラジカル配位子と金属微粒子表面の電子間に見られる磁気的相互作用を大きくすることを目的に、金とは電子構造の異なるパラジウム微粒子を用いた系の構築を目指した。電子配置(Kr)4d105s0を持つパラジウム原子を金属微粒子として用いることによって、互いに直交し縮退したd軌道にホールを発生させ、有機安定ラジカルのスピンとの間に生じる磁気的相互作用を増大させることができると期待される。微粒子の合成には、まず相関移動触媒であるテトラ-n-オクチルアンモニウムブロミドで周囲が覆われたパラジウム微粒子を調製し、そこに、HexDSPNの溶液を加えることで配位子交換させ、目的のパラジウム微粒子HexSPN@Pdを得た。

 HexSPN@Rdの粒径評価については、透過型電子顕微鏡による解析と共に、X線小角散乱法を用いた。これまでのX線小角散乱法による粒径解析では、分布を持った粒子の散乱プロファイルに対しては十分なフィッティングが行えなかったが、株式会社リガクとの協同研究において、ガンマ分布関数を用いることにより、理論的な散乱曲線が実測値と精度良く合致することが明らかとなり、今回合成したパラジウム微粒子についても、粒径、分散をそれぞれ3.08nm、26.2%と求めることができた(図6)。

 HexSPN@Pdの磁化率測定の結果、XpTの値は150K付近を境に温度上昇に伴って低下することが見出された(図7左)。そこで、櫛形電極(ギャップ2μm)伝導度の測定を行ったところ、オクタンチオールが化学吸着したパラジウム粒子の薄膜は絶縁体であるのに対し、HexSPN@Pdは半導体的な挙動を示し、また、温度上昇に伴い活性化エネルギーが急激に低下し、金属的挙動へと移る様相を見せた(図7右)。この結果から、XpT値の減少が表れる原因としては、高温領域において熱エネルギーが金属微粒子のバンドギャップを上回り、価電子帯の電子の多くが伝導体へと熱励起され、有機の局在スピンとの間に反強磁性的な相互作用を生したことが挙げられる。因みに、この微粒子の伝導挙動を2Kまで測定したところ、10K以下ではそのコンダクタンスはほとんど温度変化を示さなかった(図8)。このことよりパラジウム粒子間にトンネル伝導が関与することが実証された。本来の目標である負性磁気抵抗の検出には到らなかったものの、πラジカルチオールが化学吸着したパラジウム微粒子においては、高温域で伝導電子と有機のπスピンとの相互作用が顕在化したり、10K以下では粒子間でのトンネル伝導が検出されるなど、興味ある物性が見出された。

 以上、申請者は現在活発な研究を展開している"分子磁性"研究分野の中にあって、有機スピン系の新しい可能性を示すべく、操作性を持つスピン系を開発すると共に、新規なπ共役ラジカル配位子を合成することで、金属微粒子内の伝導電子と電子的相互作用を示す系を構築することができた。

図1.ドナーアクセプター共役化合物2.1の構造式

図2.2.1のプロトン添加により表れた三重項ビラジカルのESRスペクトル(―)とそのシミュレーション(…)

図3.3.1の構造式

図4.3.1aのHOPG上でのSTM像

図5.金属微粒子に配位可能な有機安定ラジカル配位子

図6.X線小角散乱法により得られた金、およびパラジウム微粒子の散乱プロファイル(o)と、ガンマ関数を用いた理論曲線(―)

図7.HexSPN@PdのXpT vs Tプロットと、Ω-1 vs T-1プロット

図8.HexSPN@Pdのコンダクタンスのアレニウスプロット

審査要旨 要旨を表示する

 近年、分子磁性と呼ばれる分野が急速な発展を遂げ、高スピン分子、有機強磁性体、光磁石などといった新しいスピン系が、続々と創り出された。本研究は、これまでの静的な強磁性体を追求した段階から一歩進み、分子が磁性を担うという特色を最大限に活かすべく、外的刺激(電子授受、圧力、光照射など)に応答する「操作性を持つ」スピン系の実現を目指している。論文は第1部と第2部の2部構成から成り立っているが、一貫して、上記の方向性を追求している。

 第I部、第1章「有機安定ラジカルを用いた機能性スピン系の開発にむけて」は序論であり、操作性を持った有機スピン系を構築する際の基本的な分子設計について考察を行い、分子内で複数のスピン間に強磁性的な相互作用を発現させる上で、m-フェニレン骨格を介したπ共役系分子が有効であることを、原子価結合法、および分子軌道法の観点から論じている。論旨は明快であり、後に続く研究内容の優れた導入部となっている。

 第2章「プロトン誘起電子移動による三重項有機ビラジカルの可逆的発生」では、外部応答性を持つスピン多重度変換系の具体的設計例として、プロトン付加によってアクセプター性が著しく向上するp-キノジイミン骨格と、ドナー性の高いトリフェニルアミンとを、m-フェニレンを介して分子内に配置したドナーアクセプター共役分子を提案した上で、実際に、この分子を合成し、p-キノジイミン骨格にプロトン化が起こると、ドナーであるトリフェニルアミンから電子が移動し、基底三重項種が発生することを、実験的に証明している。生体系における電子移動にはプロトン移動と連動して起こるものが多いが、本系は巧みな分子設計で機能性分子にこのような機構を持ち込んだ点が、審査員より高く評価された。この新しいプロトンの付加・脱離によるスピン多重度変換分子は、ポリ塩化ビニルフィルム中でも可逆的に作動することが確かめられており、磁性薄膜としての今後の展開も期待される。

 第3章「三重項ビラジカルを与える長鎖アルキル置換有機分子の二次元配列化」では、容易に酸化されカチオンラジカルを与える二つのp-フェニレン骨格をm-フェニレンで連結し、さらに基板上での配列制御のために分子両端の窒素原子上にオクタデシル基を導入した分子を合成し、この分子が、電気化学的酸化還元によって、二重項モノカチオンラジカル、基底三重項ビス(カチオンラジカル)を段階的かつ可逆的に与えることを実験的に証明した。さらにその分子が、高配向性グラファイト上に、分子長に対応する2.8nmのストライプ状の自己集積化単層膜(SAM)を形成することを、走査型トンネル顕微鏡で確認し、コンピュータ解析によりその分子配列も明らかにしている。装置の性能の関係で、まだ基板上での一分子酸化・還元には成功していないが、これらの実験結果に基づき、スピン活性な分子の自己集積化単層膜を用いた記録素子としての可能性についても提案を行っている。意欲的な試みと言うことができよう。

 第II部、第4章「有機ラジカル配位子によるスピン分極金属微粒子の開発」では、金属微粒子の表面に化学吸着(共有結合形成)することで、金属表面の電子構造と応答しうるπ-ラジカルチオール型配位子の開拓を目指している。既に、当該研究室の原田により、π-ラジカル配位型金微粒子(HexSPN@Au)が合成され、金属表面と有機安定ラジカル間で見出された磁気的相互作用ついて議論がなされているが、有機スピンが伝導電子と明確に相互作用する系は、世界的に見てもまだ提示されていない。筆者はここで、有機πラジカル配位子と金属微粒子との磁気的相互作用をさらに大きくするためのアプローチとして、配位子の改良、金属元素の変更が必要であることを指摘している。

 第5章「金属微粒子に吸着可能なニトロキシド型有機配位子の開発」では、金属微粒子の電子構造に対して、より強いスピン分極を引き起こすことが可能な有機安定πラジカル配位子として、ラジカル部位にt-ブチルニトロキシドを用いた新たな配位子を設計し、試行錯誤の後に、化学吸着部位としてヘキサンチオールとのヘテロジスルフィドを用いることで、ニトロキシド型配位子の合成に成功している。なお、この新規ラジカル配位子が金基板に化学吸着することは、多重反射赤外吸収スペクトル、およびサイクリックボルタンメトリーの測定より確認されている。目的化合物の合成に関し、本来ラジカルの消滅剤であるチオールとラジカルを共存させる上で、予想以上の困難があったが、チオールの保護基を工夫することでその合成に漕ぎつけた努力は十分評価できる。

 第6章「有機安定ラジカル配位子吸着パラジウム微粒子の性質」では、有機安定ラジカル配位子吸着パラジウム微粒子の作成法を確立し、その磁性・導電性を計測することで新しい物性を見出す研究について論述している。まず、金属微粒子として、金とは電子構造の異なるパラジウム((Kr)4d105s0)微粒子を用いた点に、申請者の物質に対するセンスが伺える。π-ラジカル配位子が吸着したパラジウム微粒子の合成には、相間移動触媒であるテトラ-n-オクチルアンモニウムブロミドで周囲が覆われたパラジウム微粒子を調製し、そこに、ジスルフィド型のπ-ラジカル配位子前駆体HexDSPNの溶液を加え、配位子交換させる方法により、目的とするパラジウム微粒子HexSPN@Pdを得ている。

 このパラジウム微粒子を用いた物性研究を行う上で、微粒子の平均粒径を明らかにすることは、極めて重要である。本研究の注目すべき点として、申請者は、新規物質の合成のみならず、X線小角散乱法を用いた金属微粒子の粒径評価法を確立したことが挙げられよう。これまでのX線小角散乱法では、散乱プロファイルのシミュレーション解析が、広い粒径分布を持った微粒子に対しては十分な精度を持たないという問題があった。この仕事では、散乱プロファイル解析にガンマ分布関数を導入することで、実測値を精度良く再現できることを明らかにした。この仕事は株式会社リガクとの共同研究ではあるが、X線小角散乱法に適した平均粒径の異なる金属微粒子を調製・精製し、解析を行ったことから見て、この仕事における申請者の貢献は大きいものと認められる。

 本章の後半において、申請者は、今回新たに得られたπ-ラジカル配位型パラジウム微粒子(HexSPN@Pd)について、磁性測定を行い、πラジカルチオールが化学吸着したパラジウム微粒子においては、高温域で伝導電子と有機のπスピンとの間に強い反強磁性的相互作用(J=-1300K)が顕在化すること、また櫛形電極を用いた微粒子薄膜のコンダクタンス測定より、この試料は250K以上ではほぼ金属的、200Kから50Kの領域では半導体(ΔE=11meV)、10K以下では粒子間の電子輸送にトンネル伝導が検出されることなど、興味ある知見を得た。さらに、これらの挙動について微粒子内部の電子構造と表面に化学吸着したπラジカルチオールの電子構造間の相互作用に基づいて、統一的な解釈を与えている.本の論文の中で特に重要な成果といえるであろう。

 以上、申請者は現在活発な研究が展開されている"分子磁性"研究分野の中にあって、有機合成、計測・物性評価にわたる幅広い研究を展開し、種々の外場応答性のあるスピン系を構築することで、有機スピン系の新しい可能性を示した。

 よって、本論文は博士(学術)の学位論文として合格であると認められる。

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