学位論文要旨



No 119765
著者(漢字) 荻山,正浩
著者(英字)
著者(カナ) オギヤマ,マサヒロ
標題(和) 家と女性の働き : 戦前の日本の女性たちは家のために働いていたのか
標題(洋)
報告番号 119765
報告番号 甲19765
学位授与日 2004.12.08
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第189号
研究科 大学院経済学研究科
専攻 経済史専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 武田,晴人
 東京大学 教授 加瀬,和俊
 東京大学 助教授 谷本,雅之
 東京大学 助教授 中村,尚史
 一橋大学 教授 斎藤,修
内容要旨 要旨を表示する

 戦前の日本では、いうまでもなく、人々は家族を構成して暮らしていた。この点を念頭に、家族という集団を家という組織として捉えるとすれば、これまで、戦前の日本では、人々は家の存続や繁栄を目的として行動していたという説明がなされてきた。この説明に従えば、個々の世帯にとって、充分な収入を得られず、家計が逼迫したならば、それは家の存続や繁栄を脅かす要因となる以上、人々は、稼得活動に従事する場合、家の存続や繁栄をはかるため、多くの収入を稼ぐことを望んでいたことになろう。だが、現実の人々の就業行動に注目すると、こうした従来の説明に疑問を投げかけるような事実が見出される。

 戦前の日本では、明治期以降、工場制機械工業の勃興を契機として、工業化が本格的に進行し、それにともなって流通や販売などの経済活動も活発に営まれるようになった。こうした一連の変化を産業化として捉えるとすれば、戦前の日本では、多くの人々が農業に従事していたが、他方で、産業化の進展によって、さまざまな工場が設立されると、そうした工場で働く人々も次第に増大したことが知られている。もっとも、これについては、誰もが工場で働くことができたわけではなく、工場で働く機会に恵まれていたのは、一部の人々に限られていたことを指摘しておかねばならない。周知のように、戦前の日本では、産業化を主導していたのは繊維産業であり、そうした繊維産業の工場には、もっぱら未婚の若い女性たちが雇用されていたからである。つまり、工場で働く機会に恵まれていたのは、そうした若い女性たちに限られていたわけである。

 そこで、若い女性たちの動向に注目すると、繊維産業の工場の経営者は、高水準の賃金を支給して人手を確保していたから、農家の女性たちを例にとれば、彼女たちにとって、生家の農業を手伝ったり、各種副業に従事したりするよりも、繊維産業の工場に働きに出た方が多くの収入を手にしえた。しかも、そうした若い女性たちは生家のなかでは家長である父兄の監督下に置かれていたから、彼女たちが工場で働いて多くの収入を稼いだとすれば、父兄はそれを生家の家計に組み入れることで、家計収入を増加させることができた。こうした状況の下で、人々にとって家の存続や繁栄が重要な問題であったとすれば、若い女性たちは、家の存続や繁栄をはかるため、各種繊維工場で働いて多くの収入を稼ごうとし、父兄もまた同じ目的から彼女たちをそうした工場で働かせようとしたはずである。けれども、現実には、彼女たちは、なかなか各種繊維工場で働こうとせず、父兄もまた、彼女たちをそうした工場に送り出すのを躊躇していたという事実が伝えられている。もちろん、このことは、従来のように人々が家の存続や繁栄を目的に行動していたという点を強調するだけでは、彼女たちの就業行動を説明できないということを意味している。とはいえ、戦前の日本では、人々は家という組織を構成して暮らしていた以上、家の存在が人々の就業行動に何らかの影響を与えていたことは間違いない。では、人々が家の存続や繁栄を目的に行動したという従来の説明が充分な説得力を持たないとすれば、家の存在と人々の就業行動との間には、一体、どのような関係が存在したのだろうか。本稿の課題は、この点を明治期における大阪府泉南地方の若い女性たちの動向に即して解明することである。

 まず産業化が開始される前夜の明治10年代には、泉南の若い女性たちには、稼得活動に従事するとすれば、生家で綿糸や綿布を生産するか、他家に家事奉公に出るかという選択肢しか用意されていなかった。だが、その後、明治20年代以降、泉南でも、産業化が開始され、紡績工場や織物工場が設立されると、若い女性たちは、従来のように生家で働いたり家事奉公に出たりすることに加え、紡績工場や織物工場で働くこともできるようになった。この点を念頭に、収入の違いに注目すると、彼女たちにとって、生家で働くことは、家事奉公に出ることと比べれば、収入を稼ぐうえで必ずしも有利な選択ではなく、むしろ家事奉公に出た方が生家で働くよりも多くの収入を得られた場合も珍しくなかった。また彼女たちは、紡績工場や織物工場で働いたとすれば、生家で働いた場合よりも、はるかに多くの収入を手にしえた。つまり、彼女たちにとって、多くの収入を稼ぐためには、家事奉公に出るにせよ、紡績工場や織物工場で働くにせよ、生家を離れて働いた方が生家で働くよりも概して有利であったわけである。しかも彼女たちの生家のなかには、近隣の富裕な世帯に対して債務を負い、その返済に追われていた世帯が少なくなかった。こうした状況の下で、人々にとって家の存続や繁栄が重要な問題であったとすれば、債務を返済できず、家計が逼迫したならば、それは家の存続や繁栄を脅かす要因となる以上、若い女性たちは、多くの収入を稼いで家の存続や繁栄をはかるため、生家を離れて働こうとし、父兄もまた同じ目的から彼女たちを生家以外の就業先で働かせようとしたはずである。しかし、実際には、彼女たちは、家事奉公に出るにせよ、紡績工場や織物工場で働くにせよ、なかなか生家を離れて働こうとせず、あくまで生家で働くことに固執する姿勢を示していた。

 では、なぜ若い女性たちは生家を離れて働くことを嫌い、逆に生家で働くことを望んだのだろうか。そこで、収入以外にも、彼女たちの就業行動を左右した可能性のある要因を網羅し、それらを検討する作業を行った。具体的には、前借の有無、就業の難易、社会的評価、労働時間と労働日数、仕事の負担、仕事の性質、作業環境について検討を行った。ここでは、そのすべてに言及することはできないが、このうち、仕事の負担を例にとれば、以下の結果が得られる。まず若い女性たちが生家で綿布を生産した場合と織物工場で綿布を生産した場合に限られるものの、それぞれについて、史料からはどの程度の量の綿布が生産されたかが判明する。もちろん、生家で働くにせよ、織物工場で働くにせよ、彼女たちが仕事に励めば励むほど、多くの綿布が生産されるとともに、彼女たちにかかる仕事の負担は増大したから、こうした綿布生産量の多寡は彼女たちにかかる仕事の負担の強弱をあらわす指標となる。また仕事の負担と就業行動との関係についていえば、若い女性たちにとって、織物工場で働く場合、仕事の負担が重かったのに対し、生家で働く場合、仕事の負担が軽かったとすれば、彼女たちは、仕事の負担を免れるため、織物工場で働くのを嫌い、逆に生家で働くことを望んだとしてもおかしくはない。しかし、実際には、綿布生産量を分析すると、彼女たちは、織物工場では、ある程度の余裕を持って働いていたのに対し、生家では、限界となる水準まで仕事に励んでいたことが判明するから、彼女たちにとって、織物工場で働いた方が生家で働いた場合よりも、仕事の負担が重かったとは考え難い。この点からすれば、仕事の負担の強弱に即して、彼女たちの就業行動を説明することは不可能であろう。同じように、上述した要因を検討すると、いずれの要因についても、彼女たちの就業行動を説明できないことが明らかとなった。

 だが、このことは、若い女性たちの就業行動を説明しうる要因がまったく存在しなかったことを意味するわけではない。これについては、就業行動の特徴として、彼女たちは生家を離れて働くことを忌避し、逆に生家で働くことを希望していたという点に改めて注目する必要がある。つまり、彼女たちにとって、仕事場が生家であるか否かがきわめて重要な問題であったとすれば、彼女たちは、何より、生家で働くことを望んでいたからこそ、生家を離れて働くことを忌避し、逆に生家で働くことを希望したというように、その就業行動を説明することが可能となる。では、彼女たちにとって、生家で働くことにはどのような意味があったのだろうか。実は、当時の若い女性たちやその家族の言動に注目すると、彼女たちは、家族と離れ、家事奉公に出たり紡績工場に働きに出たりすることを大変な苦痛に感じ、父兄をはじめ、その家族もまた同様に彼女たちと離別することを苦にしていたことが窺える。この点からすれば、若い女性たちは、家事奉公に出たり、紡績工場や織物工場で働いたりすれば、多くの収入を得られたものの、そのように生家以外の就業先で働くとすれば、家族と分かれて働かねばならず、それを忌避していたからこそ、なかなか生家を離れて働こうとせず、父兄もまたそれに理解を示していたため、収入が減るのを承知のうえで、彼女たちが生家で働くのを容認したと考えられる。

 しかし、若い女性たちの生家のなかには、負債を抱えていた世帯も少なくなく、そうした世帯は、彼女たちが生家で働いた場合、多くの収入を得られなかったから、債務を返済できず、家計が逼迫して家の存続や繁栄が脅かされるような事態に陥っていたものと思われる。もっとも、このことは、彼女たちが家の存続や繁栄に無関心であったことを意味するわけではない。彼女たちは、家族と分かれることを嫌い、家族とともに暮らすことを望んでいたが、家計が逼迫し、一家が離散して家の存在自体が消滅したならば、家族と生活を共にすることすらできなくなったからである。この点からすれば、彼女たちにとって、実は、家の存続や繁栄ほど、気がかりな問題はなかったはずである。だが、彼女たちは、そのように家族と一緒に暮らすため、家の存続や繁栄を願っていたが、皮肉なことに、家族とともに生活することを望み、家族と離別することを嫌うあまり、生家を離れて働いて多くの収入を稼ぎ、それによって家の存続や繁栄をはかることができなかったわけである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、明治期の泉南地方(大阪府)を主たる分析対象としながら、この時期に「若い女性」たちがどのような就業行動をとっていたのか、そして、これを規定した要因はどのようなものであったかを明らかにすることを主題としている。

 あらかじめ構成を示すと、以下の5章からなっている。

 第1章 はじめに

 第2章 若い女性たちの生家をとりまく状況

 第3章 若い女性たちの就業行動

 3-1 稼得活動のあり方

 3-2 明治10年代における就業行動

 3-3 明治20年代における就業行動

 3-4 明治30年代における就業行動

 3-5 明治40年代における就業行動

 第4章 就業行動を左右した要因

 第5章 結語

 まず本論文の構成に従って主要な論点とこれについての著者の貢献を明らかにし、その上で審査委員会の評価を記すこととしたい。

 第1章では、本論文の主題に関する著者の問題関心が明らかにされる。著者は、「これまで、戦前の日本では、人々は家の存続や繁栄を目的として行動していたという説明がなされてきた」が、この説明では、繊維産業の発展によって「工場で働く機会に恵まれていた」はずの若い女性たちが、「現実には、なかなか各種繊維工場で働こうとせず、父兄もまた、彼女たちをそうした工場に送り出すのを躊躇していたという事実」を説明し得ないとして、稼得を最大化しようとする説明では尽くせない「就業行動」に着目する必要があると主張する。そのために、「家の存在と人々の就業行動との間」に、どのような関係が存在したのかを、明治期における大阪府泉南地方の若い女性たちの動向に即して解明することを課題として設定する。

 第2章は、分析の舞台となる泉南地方の明治前半期に即して、若い女性たちの生家をとりまく状況が、農村の階層分化と債権債務関係を中心に概観される。同地方には債務返済に苦しむ貧しい農家が広範に存在していることから、これが次章でその就業行動を分析することとなる若い女性たちの生家の一般的な状況として捉えられている。

 第3章は、実証的な検討の中心的な部分をなし、10年ごとに時期を区分し、それぞれの時期にどのような就業行動が見られたのかを追及する。

 まず産業化が開始される前夜の明治10年代には、泉南の若い女性たちには、稼得活動に従事するとすれば、生家で綿糸や綿布を生産するか、他家に家事奉公に出るかという選択肢しか用意されていなかった。だが、その後、明治20年代以降、泉南でも、産業化が開始され、紡績工場や織物工場が設立されると、若い女性たちは、従来のように生家で働いたり家事奉公に出たりすることに加え、紡績工場や織物工場で働くこともできるようになった。

 しかし、明治20年代の泉南では、若い女性たちは、乳母奉公を別にして、下女奉公にでようとせず、また遠隔地の紡績工場で働くことも忌避し、生家で綿織物生産に従事していたと推定される。明治30年代に入ってもこうした傾向は続いているが、この時期には下女奉公にでた女性たちが頻繁に奉公先を変えており、家事奉公人としての稼得については、その就業への障壁が小さくなったとも見られる状況であった。ところが、明治40年代にも工場労働や家事奉公人に対する忌避は続いていたと見られることから、若い女性たちはあくまでも、「生家で綿布生産に従事することに固執した」と、著者は主張する。

 第4章は、前章のような把握に基づいて、なぜ生家を離れることを忌避したのかについて、前借の有無、就業の難易、社会的評価、労働時間と労働日数、働き手にかかる負担、仕事の性質、作業環境、家族との離別など、おおよそ考えられそうな要因を順次検討し、その理由を探っていく。収入の違いに注目すれば、彼女たちにとって、家事奉公に出た方が生家で働くよりも多くの収入を得られた場合も珍しくなく、紡績工場や織物工場で働いたとすれば、はるかに多くの収入を手にしえた。このように稼得という点で見れば、必ずしも有利とは考えられない選択の理由が問われることになる。ここでの分析は、実証的と言うよりは、考え得る説明仮説を順次検討して棄却し、「彼女たちは、家族と離れ、家事奉公に出たり紡績工場に働きに出たりすることを大変な苦痛に感じ、父兄をはじめ、その家族もまた同様に彼女たちと離別することを苦にしていた」と推定している。

 第5章では、以上の検討を要約しつつ、若い女性たちとその家族が互いに離別を嫌う「心理」が彼女たちの就業行動に重要な影響をもっていたことを本論文の分析の主要な結論としている。そのうえで、そうした傾向は第一次大戦後までも続いていたであろうことを展望するとともに、こうしたその後の展開の分析と他地域との違いを検討する作業を今後の課題として検討を終えている。

 本論文は、以上のように泉南地域の若い女性たちの就業行動というミクロの視点に即して、かつ従来は注目されることの少なかった家事奉公人に関する資料などを徹底して収集し、独自の視点から分析を加えたところに、大きな特徴がある。

 これまでも若い女性たちが必ずしも進んで工場労働についたわけではなかったとの認識は示されてきたが、このような先行研究に対して、本論文が具体的に提示した新たな論点は、そうした家を離れた労働への「忌避」が単に工場労働についてのみではなく、最も手近な就業機会となっていた家事奉公人などに対しても見られたこと、そして、そうした行動の理由は、賃金格差によっては説明されないこと、生家の貧しさ、労働の強度などの労働条件などによる説明も不十分であることなどである。

 対象となる若い女性たちが選択し得たと考えられる就業の機会について、具体的な就業の内容を資料に即して再現しつつ、それらが自宅での綿織作業に比べて、不利な就業機会とは一概に言えないことは本論文で繰り返し強調されている。そうした捉え方は、それ故に工場労働の賃金水準が、他の就業機会において得られる収入に比べて高かったという事実とも整合的であろう。

 しかし、そうした成果の反面で、本論文には残された問題点が多いことも否めない。著者自身が認めるように、泉南という狭い地域ではなく、基盤となる農業構造の異なる他の地域との比較や、第一次大戦後の分析は、「戦前の日本の」の特徴として、著者の主張を確固たるものにする場合には、不可欠であることはいうまでもない。

 そうした分析を通して、特に本論文第4章の叙述は、見直される必要がある。対象となる女性たちの就業行動に影響を及ぼしたと考えられる「心理」に迫るために、著者はさまざまな説明仮説を、十分な資料を欠いている中で推定を交えながら棄却していくが、その論証には未だ改善の余地があり、異論を差し挟むことのできるという意味で未完成のものである。「心理」を直接的に資料から「抽出」しえないという判断のもとにとられた、この分析手法は迂回的であり、それが本論文を特徴づけているということができるとはいえ、独善の弊に陥らないためには一層の注意深い分析と論述が求められよう。今後の著者の研究に対する指針としてあえて指摘しておきたい。

 しかしながら、このような問題点があるとはいえ、本論文の実証研究の成果は、著者が自立した研究者として研究を継続し、その成果を通じて学界に貢献しうる能力を持っていることを明らかにしている。従って審査委員会は、本論文の著者が博士(経済学)の学位を授与されるに値するとの結論を得た。

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