学位論文要旨



No 119767
著者(漢字) 田中,傑
著者(英字)
著者(カナ) タナカ,マサル
標題(和) 関東大震災後の東京下町における市街地の再形成と変容にみる復興の成果と限界 : 震災復興区画整理地でのビルトアップ実態に着目して
標題(洋)
報告番号 119767
報告番号 甲19767
学位授与日 2004.12.17
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5931号
研究科 工学系研究科
専攻 都市工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大方,潤一郎
 東京大学 教授 西村,幸夫
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 助教授 小泉,秀樹
内容要旨 要旨を表示する

目的:

 本研究の目的は(1)復興都市計画が行われた当時の都市計画的課題を再確認し、(2)建築物(バラック)の段階的な再建と、その後の建築物の段階的改善(バラック建て替え)の進捗状況を踏まえ、(3)その過程で如何に都市空間や居住者の生活が変容したか、そして(4)罹災者の生活再建という短期的な課題と市街地改造という長期的な課題が相互に干渉しあっていた実態を明らかにし、(5)復興がもたらした成果と限界を考察することとする。

第1部要旨

 第1章では明治以降、江戸以来の都市問題の数々を陸上交通網の整備と市域の拡大によって解決する路線が採られたことを文献研究によって整理した。

第2部要旨

 第2章では震災復興期都市計画に与えられた課題や都市計画の実施による復興の進捗に伴う成果を概観するため、1920年から1935年にかけての人口・建築ストックの変遷を統計によって把握した。その結果、下町では震災で家屋が破壊され人口が激減したが、やがて住宅用途を中心とした建物の再建がなされ、同時に人口が回復されて行ったことが明らかになった。ただ、区画整理によって減歩がなされた一方で建築物の高層化が進まなかったため1人当たりの居住スペースが狭くなる場合すら見られ、不燃化の推進についても目立った成果はあがらなかった。また、震災後の下町での人口回復は被災して避難した旧居住者が帰還したのではなく、9-14歳の若年男子の流入によって実現していたことが年齢階級別人口とコーホートの分析から明らかになった。同時期、山の手では建築物、人口ともに大きな変動は見せなかったが、東京市の外(郊外部)では建築物が爆発的に増加し、人口が大きく膨れ上がったことが判った。

 第3章では震災バラックに関する制度及び法的な位置付けに着目し、その成立と変遷を整理した。その結果、(1)震災バラックが建築禁止の例外として建築された訳ではなかった点、(2)震災バラックは市街地建築物法上の既存不適格建築であるが、被災前の市街地には同法施行前の建築物が大量にあり、それらが既存不適格であった点、(3)バラック建築の許可は焼失した既存不適格を大量に再生産したが、バラックの耐久性や使用価値を抑えることで将来的な建て替えを担保できた可能性を指摘できた。震災バラックは今日のわれわれがイメージとは性格が大きく異なる存在であった。

 第4章、第5章では日本橋区田所町・長谷川町地区及び下谷区御徒町3丁目地区を対象にケーススタディを行い、震災直後に仮復旧された市街地が区画整理を経て恒久的市街地へと空間的・質的に置き換えられて行った過程において、市街地の物理的な環境とそれを構成する社会関係が震災以前の市街地の原状と比較して如何に変容したのかを明らかにした。その結果、区画整理事業の実施により街区道路が拡幅・新設され、街区が整形になった一方で、区画整理事業が従前の権利関係を継承するため、例えば換地形状が区画整理前と同じ「ウナギの寝床型」のままであるケースが生じていたなど、市街地改造の実施は必ずしも抜本的なものとは言い難いことが判った。これらの点から、震災復興区画整理ではその本来的な目的である「宅地としての利用増進」が二の次とされ、基盤整備の実施と従前居住者への配慮が優先された場合があったと見られる。他方、漸進的に成立した下町の復興市街地が東京全体の都市計画に関する長期目標とどのような関係にあったのか、その整合状況を明らかにした。既存不適格建築には老朽化したままいつまでも残存するイメージがあるが、震災バラックに関する限りではそのようなケースは少なかった。これは建設単価の制限や将来的な取り壊しが周知されたため、長期的な利用に耐えるものを建てなかったためと考えられる。ただ、特に防火地区において顕著であったが、震災バラックの建て替えは必ずしも市街地建築物法を満たすことを意味した訳ではなく、バラックが新しく再生産されるに過ぎない場合が多く見られた。これには種々の要因が考えられ、それについては第7章で改めて検討した。市民生活の変化としては、借家人を中心とした一部居住者の地区外転出(人口減少)が見られた。これはRC化・高層化の停滞により減歩で失った床面積の回復が困難となったことが理由と考えられる。このほか、飲食店や商店が増えた代わりに製造業が減少したことも判明した。

第3部要旨

 第6章では海外での代表的な都市復興計画の概要と手法を文献調査によって把握し、被災市街地の再建と郊外化の関係を比較した結果、東京の震災復興過程では郊外部の空間利用が計画的ではなかった点が浮彫りになった。またロンドンの大火復興時の計画システム、建築規制や計画の方針を整理したところ、被災地の再建に資源を集中投下させ、人口の回復や家屋の再建を義務付ける仕組みがあったことが判明した。

 第7章では1930年代前半のバラック建て替えと耐火化の実態を分析し、バラック建て替えが停滞した要因を考察した。まず、区画整理実施時に存在したバラック23万棟のうち半数弱しか市街地建築物法に基づいた建て替えがなされなかったことが判った。また、火災保険特殊地図を用いて耐火建築物の用途、階数、立地場所を分析したところ、1.)事務所、商業ビルは都心近くの防火地区内に偏って立地し、かつ防火地区内のものの方が階数が高いこと、2.)学校、官公署、倉庫は防火地区の内外で立地や階数に違いがなく、中層以上のものは少ないことが判った。これらの事実から、バラックの耐火建て替えが15,000棟あまり(23万棟の7%弱に相当)実現した要因を1.)防火地区の規制に加え、建物所有者が立地の良さを有効活用する意志を持っていたこと、2.)用途の特性上必要だったことと考え、これらの条件が整わなかったり、あるいは借地法第2条の運用(バラックの建て替えが借地権を失わせる)や道路斜線制限(他方、バラックは斜線制限は無く階数制限のみ)による障碍が大きな場合にはバラックの建て替えが停滞することが判った。もっとも、既往研究では耐火建て替えが停滞した主要因として借地法第3条や耐火構造のコスト高を挙げるものが多い。しかし、震災以前の非木造建築面積と復興後(1930年代)の非木造建築面積を比較すると、前者の方が住宅と銀行・会社用途を中心に広く、これは不動産の権利上耐火構造で建築することが可能だったのにしなかったことを意味する。また耐火構造には多額の費用がかかるという"通念"は、当時(震災から1930年代初頭)木材価格が高騰する一方で工業建材価格が低下していたこと、当時広く普及した木造モルタル塗りとRC構造では坪の単価の差額が100円に満たず、その半分は補助金で賄えたことから説得力が充分でない。以上から、耐火建て替えの実現に必要なのは既往研究で指摘された要因よりも、不動産需要に対する見込みの如何がより重要であったと考えられる。

結論:

 震災復興は震災前から復興期にかけて発展した建築・都市計画に関する技術を実践する場を平時に比べて短期間に極めて大量に提供した。これにより道路や公園を始めとする都市施設が充実し、建築物の近代化、大規模化、不燃化が実現した一方、実践活動の積み重ねを通じて建築・都市計画に関する技術、理論が更に高められることとなった。

 ただ、こうした実践によって改善された箇所は広大な規制市街地のごく一部(点と線)に過ぎず、市街地の大部分(面)は従前と変わらない建築物で稠密に埋められていた。震災で焼失し、面整備が行われた被災地には理想的市街地を全く新しく形成することができたはずなのに、何故このような結果になったのだろうか。

 直接的な理由としてはバラックの撤去が猶予されたことが挙げられる。しかし、より本質的には、市街地整備の理論や手法を取り揃えはしたものの、それを使って実現を目指すべき復興市街地の姿が当局にとって明らかではなかったためと考えられる。

 震災復興の限界点として 1.)バラックが既存不適格状態で残存したこと、2.)耐火化が停滞したこと、3.)被災者が未帰還に終わったことなどが挙げられる。これらのポイントのうち、いくつかは相互にトレードオフの関係にあったと見られる。当時の都市計画では市街地を形成する規制制度が都市計画上の諸課題に対して個別的かつ原理主義的に対処していたが、目指すべき市街地像が明確であれば、害悪の発生をコントロールしながら目標市街地の形成を誘導することも可能であったろう。

 当時の内務省が掲げた一元化テーゼも確かに戦略的都市計画方針ではあったが、都市構造を大きく変えていくには余りに「一元的」過ぎた。復興期において上記のような多元的な戦略的都市計画を持たないまま、基本的には市民の自律的行動に基づいて市街地形成が行われたことは残念であったと言わねばならない。

審査要旨 要旨を表示する

大火や大震災によって被災した都市の復興にあたっては、被災者の生活再建が第一の課題であるが、都市基盤と建物の質が一般に脆弱・貧困な日本や非欧米諸国の都市においては、被災地を従前の姿に「復旧」するのではなく、高い防災性・機能性・快適性を備えた持続的な市街地として計画的・抜本的に作り直すことも重要な課題である。この二つの課題は、一般には相反する課題なので、都市の復興においては、被災直後の応急仮設的生活空間を早期に確保すると同時に、これが新しい復興市街地の形成の制約とならず、応急仮設的生活空間が復興市街地へと円滑に移行していくような仕組みが必要となる。

 本論文は、上記のような観点から、関東大震災(1923)後の東京の震災復興過程を対象に、応急仮設的生活空間の形成の仕組みと実態が復興市街地の形成にどのような影響を与えたかを歴史研究として明らかにしたものである。

 第1章では、この時期の日本および東京の都市政策の基本路線は、陸上交通網の整備を通じた都市的宅地の拡大を通じて、住宅問題その他の都市問題を解決しようとするものであったことを再確認し、第2章では1920年~1935年の人口・建築ストックの変遷を分析し、下町では震災による家屋滅失により人口が激減したが、建物の再建とともに人口が回復したが、区画整理により減歩がなされた一方で建築物の高層化は進まなかったため1人当たりの居住スペースが狭くなる地区も存在したこと、不燃化についてはあまり成果が上がらなかったこと、山の手では建築物、人口ともに大きな変動はなかったが、東京市外(郊外部)では建築物が爆発的に増加し、人口が急増したこと、震災後の下町での人口回復は旧居住者が帰還したのではなく、9-14歳の若年男子の流入によるものであること等を明らかにしている。

 第3章では震災バラックの制度的成立と変遷を整理しつつ、バラックの実態と変容を明らかにしている。特に、震災バラック建築の許容は本建築の建築禁止に伴う措置ではなかった点、早期の建替を誘導するため、バラックの規模や耐久性を抑制していた点、等を指摘している。

 第4章、第5章では、日本橋区田所町・長谷川町地区及び下谷区御徒町3丁目地区を対象にケーススタディを行い、震災直後に仮復旧された市街地が区画整理を経て恒久的市街地へと空間的・質的に置き換えられて行った過程において、市街地の物理的な環境とそれを構成する社会関係が震災以前の市街地の原状と比較して如何に変容したのかを明らかにした上で、区画整理事業の実施により街区道路が拡幅・新設され、街区が整形になった一方、敷地形状は従前と同様な「ウナギの寝床型」のままである事例も生じていたなど、市街地改造の実態は抜本的なものとはいえず、街路整備と従前居住者への配慮が重視されたと指摘している。

 第6章では、海外での代表的な都市災害復興過程と東京の震災復興過程を比較検討し、ロンドンの大火復興時には、被災地の再建に資源を集中投下させ、人口の回復や家屋の再建を義務付ける仕組みがあった一方、東京の震災復興過程では郊外化のコントロールが欠如していた点などを指摘している。

 第7章では、1930年代前半のバラック建替と耐火化の実態を分析し、バラック建替が停滞した要因を考察している。区画整理実施時に存在したバラック23万棟のうち、市街地建築物法に適合した建築物に建替えられたのは半数弱であること、バラックの耐火建て替えは15,000棟程度(23万棟の7%弱に相当)であることを明らかにした上で、建物の用途の特性上必要であったり、土地を高度利用しようとする意図がある場合はバラックの建替が進み、これらの条件が整わなかったり、借地法第2条の運用(バラックの建て替えが借地権を失わせる)や道路斜線制限(バラックには斜線制限は無く階数制限のみ)が障害となる場合、バラックの建替が停滞することを明らかにしている。

 結論では、震災復興の限界として、 1.)バラックが既存不適格状態で残存したこと、2.)耐火化が停滞したこと、3.)被災者が未帰還に終わったこと、を指摘し、震災復興によって改善された箇所は市街地のごく一部(点と線)に過ぎず、広大な東京の既成市街地の大部分(面)は震災復興後も震災前と同様な建築物が密集する結果となったこと。その直接的要因はバラックの撤去が猶予されたことにあるが、そのような政策を選択せざるをえなかった本質的要因は、震災前の姿とは異なる、新しい復興市街地の具体的な姿が計画・事業当局を含む誰にとっても明らかではなかった点にあることを指摘している。

 このように本論文は、都市計画の分野において、きわめて重要な課題である、都市復興計画・事業の方法論について、新規かつ有用な知見と考察を提供したものといえる。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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