学位論文要旨



No 119770
著者(漢字) 権,静
著者(英字)
著者(カナ) コン,ジョン
標題(和) 古代日本・朝鮮における文学世界の形成 : 東アジア世界における漢字の受容と内部化
標題(洋)
報告番号 119770
報告番号 甲19770
学位授与日 2004.12.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第529号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 神野志,隆光
 東京大学 教授 義江,彰夫
 東京大学 助教授 齋藤,希史
 東京大学 講師 徳盛,誠
 国立歴史民族博物館 教授 平川,南
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、文字を持たなかった古代日本と朝鮮が、どのように中国の文字であった漢字を自国に取り込み、各自の言語と関わらせていったのかを論じたもので、漢字が自国の言語を表記するために国内に導入され定着したとする従来の自然成長論的な文字への視点をかえりみ、中国との政治関係において文字の始まりを捉えようと試みたものである。

 特に韓国の場合、文字は古代朝鮮の言葉を表記する必要性から受容されたと認識され、国文学界では主に文字資料に見える吏読的な表現に研究の焦点を置き、歴史学界では個々の文字資料から同時代の歴史的事実を読み取ることに研究の焦点を置いてきた。

 そのため、文字資料全体を視野に入れ、その中で個々の文字資料が占める位置によって、どのような性質の違いを見せているのかが論じられてこなかった。それは韓国に同時代の文献資料が残されていないこととも関連する。そこで古代朝鮮と同様に、当時の漢字文化圏に属していた日本の文字資料との比較検討が重要な意味をなす。日本と朝鮮は共通して当時の東アジア世界に属しており、その面で両国における文字の問題は類似性をもつ。

 第一章では、古代日本と朝鮮の文字の問題を東アジア世界という枠組みの中で、共通した視点で捉える必然性はどこにあるのかについて論じる。

 第二章では、日本と韓国の現在の文字資料の状況とそれをどのように整理し検討すべきかについて論じ、それを土台した年表を提示する。

 第三章第一節では、古代日本と朝鮮における文字の始まりの問題を、中国を中心とする当時の東アジア世界に属していた両国の立場と関わらせて論じる。日本の場合は地理的な特徴から後漢光武帝建武中元二年(57)に遣使し印綬を賜わることによって、国家として初めて中国の文字に接することになるに比べ、朝鮮の場合は高句麗が後漢光武帝に遣使朝貢し国王に冊封される32年以前に、漢が楽浪を含めた漢四郡を設置したことによって、紀元前108年に既に漢字が半島に持ち込まれることになる。このように文字と始めて接した様子は両国で異なっており、そのため朝鮮の文字は楽浪時代のものが、文字への要求の高まりとともに発展し定着したものと認識されてきたが、楽浪時代の碑文や瓦當文字の検討から分かるように、それは漢の文字が楽浪に持ち込まれたにすぎないものである。楽浪の文字は、朝鮮が国家として政治的に文字を必要とする以前に国内にもたらされ、そのため社会内部とは隔たったところで存在した。だとすると、朝鮮が国家として自ら文字を必要とするようになったのはいつなのか。それは、日本の「漢委奴国王」印と性質を同じくする、高句麗の「晋高句麗率善邑長」・「晋高句麗率善佰長」・「晋高句麗率善仟長」印から推定することができる。これらの印は、日本と高句麗が当時の中国を中心とする世界秩序に、中国との冊封関係を通じて参加していたことを表わすものである。

 これらの印によって、倭の使者が57年に後漢光武帝から授かった「漢委奴国王」の金印と同様なものが、それより先の32年に同帝に遣使した高句麗に対しても授けられていたと推定できる。百済と新羅においては、印は発見されていないが、百済の場合、425年の宋太祖文帝との「国書」の授受から、新羅の場合、502年と508年の魏への朝貢記事から、百済と新羅における文字はやはり中国との政治関係を結ぶための手段として始まったことが分かる。このように、日本の文字の性質を検討することによって、同じ漢字文化圏に属していた朝鮮半島の文字の特徴がより明瞭となる。

 第二節では、第一節のような対外関係の場でのみ意味を持っていた文字が、どのような要請によって、国内で機能するものへと変化していったのかについて論じる。

 日本の場合、5世紀になると「王賜」・「吾左治天下」・「治天下獲加多支□□□鹵大王世」などの刀剣銘のように、中国を中心とした天下ではなく、日本の王が治める日本中心の天下観が表れるようになる。刀剣に刻まれたこのような文字は、文字が外交の場だけではなく国内でも意味を持つものとなったことを示す。このように文字によって国家を組織する方法は、日本の刀剣そのものが魏から授与された「五尺刀」を模倣したものであるのと同様、中国から学んだものであった。現在、その「五尺刀」は残っていないが、中国から日本へ下賜された「中平刀」と「七支刀」を目にすることができる。この両刀は刀の冒頭に「中平」(後漢)、「泰和」(東晋)と中国の年号を掲げ、中国皇帝の権威を表している。日本はそのような方法を国内に転じ、刀剣の授与を通じて王の権威のもとに国家を組織したのである。 刀剣を通じて王の権威を示した日本と異なり、朝鮮の場合は碑の建立によって王の権威を誇示している。新羅の真興王巡狩碑と高句麗の広開土王王陵碑がそれである。

 真興王の四つの巡狩碑は、秦の始皇帝が天下を統一したあと国内を巡幸しながら国土の果てに碑文を建て皇帝としての偉業を誇示したように、国の境に立てられており、国内全土に国王の権威が行き亘ったことを確認している。広開土王陵碑は天下の中心たる高句麗に相応しい広開土王像をえがき、その王の権威のもとに社会を秩序づけることを目的としたもので、国家を組織する方法として碑文が用いられていることに注目すべきである。

 第三節では、社会内部で機能するようになった文字が地方の支配層にまで広がり、文字の交通によって社会が運営される様相と、漢字が各国独自の言語と関わっていく過程で、漢字を用いた文章表現が純漢文から非漢文へと変容していくことの意味を論じる。そして最後に吉祥句のもつ意味を三国(中国・朝鮮・日本)の用例の比較検討を通じて考察する。

 日本で非漢文資料が見えるのは、推古朝遺文の資料批判の結果、7世紀後半からとされる。そして同時代の地方から発見された西河原森の内遺跡木簡から、7世紀後半には文字の習熟が地方の支配層にまで普及していたことが確認される。このように漢文は、漢字が内在化するにつれ日本の言葉と関わりを持ち、それに合った形へと変容していったといえる。つまり漢文から非漢文への変容は、文字が内在化するにつれその国の言語と関わりを持ち、それに合った語順に漢文が訓読された結果なのである。

 朝鮮における非漢文は、高句麗では「中原高句麗碑」(481頃)から、新羅では「迎日冷水里碑」(503)を始めとする6世紀初の碑から見える。百済の場合、非漢文資料の金石文は発見されていないが、6世紀中頃の付札木簡が発見されていることから、当時の社会が文字の交通によって支えられていたことが分かる。

 韓国では、このような非漢文について漢文より劣る文体、または漢文へと発展する前段階の文体といった認識がある。特に新羅の場合、巡狩碑(551~558)のような漢文体の資料が6世紀初の非漢文資料より年代がさがるため、新羅の文字は非漢文から漢文へと発展していったとする認識が強い。しかし、第一節で述べたように、文字は中国との政治関係から始まるのであり、同じ漢字文化圏に属していた新羅も例外ではない。そのことは、新羅の前身である辰韓が晋に280、281、286年の三度にわたって朝貢していること、『魏書』の「斯羅」が新羅の音訳ならば、502年と508年の二度にわたって北魏への朝貢が確かめられること、「蔚珍鳳坪碑」に見える520年に頒布された法令が中国の律令をモデルとしていることなどから言え、新羅においても政治的な文字は存在したはずであり、それは漢文でなければならないのである。巡狩碑が漢文で書かれたのも、その時にようやく新羅が漢文を書けるようになったからではなく、その碑自体の性質によるものである。つまり、「迎日冷水碑」・「蔚珍鳳坪碑」・「丹陽赤城碑」・「南山新城碑」などの碑文は、文中の「教事」・「別教」との文字から分かるように、王の命令や決定を国内の民に広く知らせることを目的としており、そのため碑文は新羅独自の文字使いによってなされていたと思われる。

 それに対して「真興王巡狩碑」や7世紀の「文武王陵碑」及び「金仁問碑」は、中国の経典から引用された言葉を多く含み、純粋な漢文によってなされているが、それはこれらの碑文が国外を意識し、新羅の国威を示すことを目的としたためと思われる。

 このように新羅における文字はやはり、対外的に用いられた漢字から社会を秩序づける内部の文字、つまり非漢文に変容していったのであって、その逆は想定し難い。

 非漢文は、同じ漢字文化圏に属していた日本の例が示唆するように、文体の優劣の問題ではなく、漢字が各国の言語と関わり、その言語にあったかたちで訓読されたことを示すものである。朝鮮でいつから訓読が始まったのか明らかではないが、1973年と2000年7月から2001年4月にかけて訓読の痕跡が残されている多くの仏書が発見されており、その発端は7世紀の学者、薛聰が行った「訓導」・「訓解」にあるとされている。しかし、日本における訓読が、資料的(正倉院文章)には8世紀後半までしか遡れないが、木簡や非漢文資料から推測されるように7世紀後半には既に行われていたと思われることから、新羅における訓読やはり資料的には7世紀後半までしか裏づけられないが、新羅の非漢文資料が示唆するように6世紀の段階にはなされていたと思われる。

 以上のようにこの論文は、朝鮮の文字の特徴を、日本における文字の有様との比較検討を通じて明らかにすることを目指したものである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、その論題が示すとおり、古代日本・朝鮮における文字世界の形成について、東アジア世界における漢字の受容と内部化という視点から論じたものである。

 圧倒的に強大な中国との関係のなかで、みずからの文化と国家を形成するという古代東アジア世界の問題を、日本と朝鮮とは共有していた。文化の根幹というべき文字についていえば、日本も、朝鮮も、みずからの言語において文字を生むことなく、中国から漢字を受け入れることによって文字を得たのであった。本論文は、それがどのように果たされてゆくかを、朝鮮と日本とをあわせて考察しようとする。

 日本においても、韓国においても、自分たちの歴史にかかわる重要な問題として、文字世界の形成に関する多くの研究が積み上げられてきた。さらに、韓国・日本における木簡の発見など、近年、文字資料の状況は大きく変わり、新しい問題認識がもとめられている。そのなかで、日本・朝鮮をあわせて見るということが必須不可欠の課題であることも明確になってきたのである。そのことは従来も欠けていたところであるが、現在の状況にあって、とくに切望されるものとなっている。ただ、それは、日韓双方の資料と研究とに対する目配りが必要であり、容易な課題ではない。本論文は、それに対して果敢に挑戦したものであり、古代日本および朝鮮の文字世界の形成について全体的な展望を与えようとしたものである。

 本論文は、第一章「問題設定--古代日本と朝鮮半島における文字の始まり」、第二章「文字資料の現状況と整理」、第三章「古代日本と朝鮮における文字--「外部の文字」・「内部化した文字」・「内在化した文字」を通じて--」、第四章「結論、及び以後の課題」の四章によって構成される。第一章において研究史をふりかえって問題の所在を確認し、第二章で資料について整理することを経て、第三章を本論とし、第四章でまとめを与えるという構成である。

 注目されるのは、日本における研究の到達水準を十分に学んだことによって、韓国の研究の現在に対する明確な批判を育てるなかで、本論文が成されたということである。方法的問題として第一章で述べられるところであるが、韓国の国文学の研究は、もっぱら漢字は朝鮮の言葉を表記するために取り入れられたものという観点から論議してきており、歴史学は、資料から当時の事実を読みとることに重点を置いてきたのであった。本論文は、それを批判し、文字資料の包括的整理のうえに、中国との関係における文字の始まりの問題をとらえることから出発して、資料に即して歴史的に見渡すべきことを主張する。そして、資料的にはより豊かな日本において明らかにされてきた観点を、古代朝鮮に対する把握として生かそうというのである。

 それが、第三章において、「外部の文字」・「内部化した文字」・「内在化した文字」という把握のしかたとして具体化される。「外部の文字」とは、文字が社会内部で用いられるのでなく、外部、つまり中国との関係において用いられることから始まったということである。自然発生的な文字使用というのでなく、政治的な問題として始まった文字ということを、日本・朝鮮に共通する東アジア世界の問題としてとらえるべきだというのである。そこから、文字が内部で用いられるようになり(『内部化した文字』)、自分たちの言葉のなかに入りこんで用いられるにいたる(『内在化した文字』)という展開が、古代日本・朝鮮における共通の文字の歴史として見渡される。

 その叙述は、一々の資料に即してなされてゆくのであり、説得的であるが、とりわけ古代朝鮮の文字資料が、最近発見された木簡まで含めて包括的に取り上げられたことは、意欲的な、従来にはなかった試みとして特記されよう。

 本論文が評価される点は、なにより、古代朝鮮の文字資料を包括的に取り上げ--そのための資料批判的手続きが第二章において成されているが、その実証的努力は多大なものがある点も評価したい--、日本とあわせ見て東アジア世界における共通の問題として日本・朝鮮をとらえることによって、全体的な把握の方向を与えたということにある。古代日本の文字の位置づけが韓国の資料を視野に入れることとともに果たされるべきだという、正当な研究の方向性を具体化したものとして、本論文の試みの意義が評価されるとともに、特に高く評価されるのは、韓国側の研究を批判的にとらえ直していったことである。「外部の文字」・「内部化した文字」・「内在化した文字」という把握は、従来の韓国の研究になかった新しい視点であり、日本で学んだことを生かしたものである。比較的研究が結実した成果ということができる。本論文のこの提起は、韓国の国文学研究にとっても、新鮮で刺激的なものと受け止められるであろう。本論文が開いた見地を、より充足し、発展させて、韓国の研究とあいわたることが期待される。

 ただ、その「外部の文字」・「内部化した文字」・「内在化した文字」という基本概念について、十分成熟したものとなっていない憾みがのこると、審査委員の指摘があった。朝鮮側の資料に対する、新たな把握の提起であるだけに、より明確にして説得性を高めることがもとめられるであろう。そのためには、古典漢文にかんする学力の増進も望まれる。しかし、そうした欠点は、今後の研鑽によって補われうるものであり、本論文の価値を損なうものではないということが審査委員の一致した評価であった。

 したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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