学位論文要旨



No 119772
著者(漢字) 藤澤,巌
著者(英字)
著者(カナ) フジサワ,イワオ
標題(和) 干渉の国際法規制の歴史的構造 : 実効性および適用可能性問題への一視座
標題(洋)
報告番号 119772
報告番号 甲19772
学位授与日 2004.12.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第531号
研究科 総合文化研究科
専攻 国際社会科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小寺,彰
 東京大学 教授 岩沢,雄司
 東京大学 教授 酒井,哲哉
 東京大学 教授 木畑,洋一
 東京大学 教授 奥脇,直也
内容要旨 要旨を表示する

 現在、学説においては、一般国際法上明瞭な干渉の禁止規則が存在するとされている。それによれば、干渉の禁止は、規律対象行為としての国家意思の強制と、その適法性の判断基準としての国内管轄事項から構成される。しかし、米国のキューバに対する経済封鎖とそれに対する諸国の対応が示すように、現実の国際関係では、国家は学説が想定する規則に従っていないし、また、国家の個々の行動について、当該規則を援用して法的評価がなされることも稀である。

 今、法規範が諸国によって遵守されていないことを実効性の欠如と呼び、それが国家行動の評価のために援用されるという役割を果たしていないことを適用可能性の欠如と呼ぶとするなら、なぜ、一般国際法上の干渉についての法規範は、このように実効性も適用可能性も持っていないのかという問題が生じる。

 この問題については、ノエルのように、一般国際法上干渉の禁止は確固として存在するが、政治的な理由によって諸国はそれを守らないし援用することもないというように、国際法に外在する理由を指摘することも可能である。しかし、国家が国際法を軽視しているといった事実は国際法一般に当てはまる事情であり、なぜ特に干渉についての規範が実効性や適用可能性を欠くのかという問いには十分答えていない。

 そこで本論文では、これらの原因を法内在的に検討した。法内在的な原因についての先行研究としては、第一に、強制の定義が欠如しており、強制とそれに至らない圧力の区別が困難であるがゆえに干渉の禁止規範は適用できないとするノイホールトやヴェルーヴェンの見解がある。彼らの見解は、詳細な法規則が未発達な点に注目する点は妥当だが、その対象を強制の定義に限定している点で不十分である。すなわち、そもそも干渉とされる行為は国家意思の強制という規律対象行為で一元的に捉えることができるか否か、また、適法性判断基準は国内管轄事項概念であることに諸国の一致が存在するかどうかといった点を含む、干渉の規律の全体について法規則が未発達で、抽象的な法原則しか存在しない可能性を検討する必要がある。

 先行研究としては、第二に、学説や国際判例が発達させた干渉についての諸規則は、現実の国家実行や国際社会の構造と過度に乖離しているため諸国に一般的に受容されておらず、その結果適用可能性も実効性も有さないという、ロウやカーティーの見解がある。彼らの見解は、国家実行と学説・判例の乖離に注目していることは評価できるが、その具体的な経緯や原因の具体的な論証が十分でない点に問題がある。

 以上のような先行研究の評価に基づいて、本研究では、干渉の規律全体について、国家実行上は詳細な法規則が未発達で法原則しか存在しないので適用可能性を持たないのではないか、また、国家実行の未発達を補って学説や判例が発達させた諸規則も諸国によって一般的に受容されていない結果実効性を欠くのではないかという問題を、主要な国家実行と学説・判例の歴史的な展開を検討することによって明らかにすることを試みた。

 そこでまず第1部では、国家実行を歴史的に検討した。具体的には、干渉についての過去の主要な国家実行と学説上一般に認められている、19世紀前半のヨーロッパと、20世紀前半の米州の国家実行を、それぞれ第1章と第2章で検討した。

 検討からは、これらの国家実行は、それぞれの地域国際社会内部で相対的に孤立して展開したものであり、それらから、これらの地域を包摂する普遍的国際社会の一般国際法規則を導き出すことは困難であることが明らかになった。

 具体的には、第一に、それぞれの地域間で規律の内容が乖離しており、国家実行の一致から一般国際法を導き出すことは困難であった。具体的には、ヨーロッパでは干渉とは内乱への非中立的行動を意味したのに対し、米州では国家意思の強制を意味しており、そもそも何が干渉かについて一致がない。また、内乱への非中立的行動と国家意思の強制それぞれの適法性判断基準も、地域によって異なる。ヨーロッパでは内乱自体が政治制度の選択についての国家意思とみなされ、原則として内乱への非中立的行動が禁じられていたのに対し、米州では内乱時においても既存政府の意思が国家意思であり、既存政府の要請や同意に基づく当該政府への援助による内乱への非中立的行動は適法とされていた。またヨーロッパでは国際法違反に対する法や権利実現のための強制は適法であったのに対し、米州ではそのような強制も禁じられていた。

 その結果、スペイン内戦に見られるように、戦間期においても、干渉の概念や内乱への関与の適法性判断基準については、一般国際法が発達していなかった。

 第二に、そもそもこれらの国家実行上の規律は、それぞれの地域国際社会の構造に規定されており、普遍的国際社会に同じ構造が存在しない限り、一般国際法化することができないと考えられた。すなわち、19世紀ヨーロッパの国家実行は、列強の法的優越性と、それらの列強の共同行動という形での集権的な紛争処理手続きの存在を前提としていた。その結果、干渉や強制措置についても、干渉の権限を有するのは大国だけであり、また干渉についての規範の解釈適用実施は列強の協議手続きに委ねられていた。他方、20世紀前半の米州で確立した絶対不干渉を意味する「対内・対外事項」への不干渉規則は、米州で確立した集権的紛争処理手続きによる、国際法や権利の実現と不干渉規範自体の解釈適用実施を不可欠の前提として、米州諸国に受容されたものであった。

 そして、このようにヨーロッパや米州の国家実行の前提となっていた、国家間の法的不平等や集権的紛争処理手続きが、20世紀前半までにおいて普遍的国際社会に存在しなかったことは、スペイン内戦や1923年のコルフ事件などにおける国際連盟の実態から明らかになった。したがって、20世紀前半まで、国家実行上は、その地域的性格の結果、一般国際法の詳細な規則は未発達であったと考えられる。

 しかしこれに対して、主要な学説や判例では、干渉についての一般国際法規則の存在が主張されてきた。そこで第2部では、学説や判例を歴史的に検討し、国家実行が未発達な中で、いかなる理由で、そしていかにして、それらが一般国際法規則を発達させてきたのかを検討した。まず第3章で、第一次世界大戦前の代表的な国際法学者であるオッペンハイムの議論を中心に分析し、第4章では、適法性判断基準についての現代の通説である国内管轄事項概念を導入したフェアドロスやセルの干渉論、そして国際司法裁判所が初めて干渉について判断したコルフ海峡事件を分析した。

 検討からは、これらの学説や判例が、国際法の諸原則や目的を用いて、干渉についての一般国際法規則を導出しようとしていたことが明らかになった。オッペンハイムは、19世紀ヨーロッパの国家実行を基としながら、それを、国家平等や主観的権利・利益の実現、客観的法の支配の実現といった、国際法の諸原則や諸目的を基準に解釈し取捨選択することによって、一般国際法を導出していた。他方フェアドロスやセル、そしてICJは、国家実行を介さずに、国家平等や客観的法の支配の要請といった国際法の原則や目的から、直接に諸規則を演繹していることが明らかになった。

 そして、これらの学説や判例が、一般国際法規則を導出する必要を感じた背景には、それらが、地域国際社会を越え普遍化した国際社会を対象とし、その国際社会が存続するためには干渉についての諸規則が存在しなければならないという認識があった。また、彼らが導出した法規則は、列強の法的優越性と集権的紛争処理手続きを否定している点で内容的にも国家実行から乖離しているが、これは、ヴァッテル以来普遍的国際社会は自然状態と捉えられ、その結果国家は法的に平等であり、集権的手続きは存在しないと考えられたためであった。

 最後に結論において、現代一般国際法についての諸国の法的信念の主要な証拠である、1970年の友好関係原則宣言の起草過程を検討した。

 検討からは、この宣言においても、内乱への非中立的行為と国家意思の強制という二つの行為類型の関係、特に両者を同一の適法性判断基準に委ねるべきか否かについて、また干渉概念を詳細に定義すべきかあるいはそれは集権的機関に委ねるべきか、そして適法性判断基準は「国内管轄事項」か「対内・対外事項」か、といった主要な諸問題について諸国の一致が存在せず、したがって国家実行は未発達であり、学説や判例の諸規則も一般的に受容されていないので、干渉については一般国際法上抽象的な原則しか確認できないことが明らかになった。

 また、普遍的国際社会は国家平等を大前提とし一部の大国の法的優越性を承認していないこと、国連が存在する現在においても当事国の同意に依存しない集権的な紛争処理手続きは確立していないというのが、多くの諸国の認識であることがわかった。したがって、それらの要素を前提としていたヨーロッパや米州の国家実行は、依然として普遍的国際社会に妥当性を持たないと考えることができた。

 以上から、本論文の問題関心である、一般国際法上の干渉の禁止規範の実効性および適用可能性の欠如の法内在的原因は、国家実行上は明瞭な一般国際法規則は発達しておらず、また、学説や判例が発達させた一般国際法規則も諸国によって一般的に受容されていないことにあると結論づけることができる。

審査要旨 要旨を表示する

 「不干渉義務」は国際法の基本原則と位置づけられているもので、一般にも馴染みのある概念である。国家が他国を強制してはいけないという抽象的な意味はともかく、その具体的な意味は、他国の内乱に外部から関与すべきではないという点以外は意外にはっきりしない(それゆえに政治的な言辞として頻繁に使われてきたと言える)。通説は、「干渉」とは、(1)国内管轄事項についての、(2)他国の意思の強制あるいは命令的関与と理解するが、現実の国際関係では、この理解にたって国家の行為が評価される例は稀である。

 藤澤巌氏の論文『干渉の国際法規制の歴史的構造-実効性および適用可能性問題への一視座-』(以下、「本論文」という。)は、「不干渉義務」が国際法の基本原則として位置づけられながら、その具体的な意味内容が不明確であることを、「干渉」をめぐる歴史的な実践および学説の流れの双方から検討し、現在でもその状況が変わらないことの原因を探ったものである。この分野の包括的な研究としてはわが国初のものであり、国際的にも貴重な貢献と言える。

 本論文は、歴史的実践を扱った第1部と「干渉」に関する国際法学説の発展を扱った第2部から構成される。

 第1部で取り上げられるのは、「干渉」についての主要な国家実行が蓄積された、19世紀のヨーロッパ(第1章)と20世紀の米州(第2章)である。「ヨーロッパ公法」が妥当すると考えられた19世紀のヨーロッパ国際社会では、「ヨーロッパ公法」秩序の基本的な枠組みを侵害するような内乱に関しては、特定の国家に「干渉権」が認められていた。これに対して米州国際社会では、「米州国際法」の名のもとに米州における米国の覇権を前提として「モンロー主義」が声高に主張され、それに対する米州諸国の反作用として絶対的不干渉が合意された。もっともそれは米州諸国間の紛争を処理する別途の手続きの整備を前提にしていた。これら両地域における国家実行は、主権平等を基本原則とする現代国際社会とは基本的な構造を異にする時代の地域国際社会での実行である。そのため、これらの「干渉」に関する実行をもとに、現在において不干渉義務の解釈論を展開することには大きな制約がある。

 またこれらの歴史分析を通じて、国際法上「干渉」と呼ばれてきた行為が歴史的には一つではなく、内乱の当事者に対する非中立的行動と、国家意思の強制という、二つの行為が並存してきたことが、歴史的資料および事例の克明な検討を通じて明らかにされる。19世紀ヨーロッパでは「干渉」とは内乱への関与を意味し、他方、20世紀米州では国家意思の強制を指していた。歴史的に起源を異にする二つの「干渉」概念が現代国際法に未整理のまま受け継がれたために、「干渉」の概念が曖昧になり、干渉には、内乱への関与と国家意思の強制という2つの内容があるとする理解が生まれた。本論文では、「干渉」の内容の両義性が生まれた経緯が緻密に跡づけられている。

 第2部では、第1部の歴史的な政治環境の違いを背景として考慮しつつ、「干渉」に関する国際法学説史が仔細に検討される。現在の通説は、国家意思の強制行為(命令的関与)を規律対象とし、「国内管轄事項」概念を強制の適法性判断基準とするものである。本論文では、まず、「干渉」の一般的定義として現在でもしばしば引用される定義(前述の通説はこの定義を敷衍して構成されたもの)の創設者であるオッペンハイムの「干渉論」を取り上げ、それが、19世紀ヨーロッパの歴史的実践を、ヴァッテル以降の学説を取りこみつつ、一般国際法の原則として整理したものであることが明らかにされる(第3章)。これに対して、「国家管轄権」を「干渉」の軸に据える通説の起源である、戦間期のフェアドロスやセルの学説は、国家実行を踏まえたというよりも、国家平等の観念や「客観法の支配」の要請といった国際法の理念、原則および目的から、直接的に干渉に関する諸規則を演繹している。この点は、フェアドロス等の学説を受けて「干渉」概念を構成した国際司法裁判所「コルフ海峡事件」判決についても同じである。これらの学説および裁判例が、「干渉」に関する一般国際法「規則」を導出することの必要性を感じた背景には、地域国際社会を越え普遍化した国際社会には、共通した不干渉の規則が存在しなければならないという認識があった。他方、フェアドロスの見解を受け継いだ通説は、このような学説史的な経緯の違いにもかかわらず、自己の学説が国家実行に根拠を有すると主張してきた。しかし、通説の起源であるフェアドロスは、国際社会における客観的法の支配という国際法の目的から、直接的に不干渉義務に関する諸規則を演繹している。つまり、彼の干渉論は、すぐれて理論的な考察の所産であって国家実行に基づくものではない。本論文はこのように通説の拠ってたつ基盤を明らかにすることによって通説の限界を見事に解き明かしている。

 最後に、現代の干渉論が依拠する1970年の友好関係原則宣言の起草過程が検討される(結論)。友好関係原則宣言においても、内乱への非中立的行為と国家意思の強制という二つの行為類型の関係など、「干渉」に関する主要な問題の整理は充分に行われておらず、現代でも諸国間に干渉概念の内容について明確な一致は存在せず、また国家実行も未発達であることが示される。そのうえで、「干渉」については、現在でも一般国際法上は抽象的な原則しか確認できないと結論される。

 本論文の意義としては、下記の二点が挙げられる。

 本論文の第1の意義は、関連する実行および学説を踏まえることによって、不干渉義務に関する従来の通説の限界を示したことである。すなわち、従来の通説が、異なる時代の国家実行に起源をもつ「干渉」概念(オッペンハイム学説)を、国家実行から乖離することを意に介さず、むしろ国際社会の法理念から直接に「干渉」概念を導きだした学説(フェアドロス学説)と無批判に繋いで理解することにより、あたかも明確な不干渉義務の規則がずっと存在し続けてきたかのように粉飾してきたことが、極めて説得的かつ批判的に明らかにされている。とりわけ「干渉」に関する歴史的実行や学説の構造を踏まえれば、通説の理解を採るためには多くの前提を受け入れなければならないことが明らかにされている。とくに通説が依拠するフェアドロス学説が、国家実践にではなく、彼の国際法体系の推論からの必然として導出されたことを示したことは、何より本研究の重要な貢献である。これらの点から、「干渉」は主権平等原則から直接的に導出される法概念ではあっても、実定国際法上は、法規則とは区別された法原則レベルでしか存在しえないことが本研究によって論証されたと言えよう。

 第2に、「干渉」をめぐる歴史的実践や学説状況が、内在的な方法で、かつ一望できるような形で整理紹介されたことは、今後「干渉」について研究を進めていく上での基礎的作業が出来上がったと言える。従来は、思い思いに、断片的な形で、学説や歴史的実践が取り上げられてきたきらいがあり、それが干渉概念の混迷をもたらしてきた。本研究は、豊富な資料を駆使して、関連の政治的文脈、時代背景、学説状況と常に照らし合わせながら「干渉」概念の歴史的な発展経緯を明らかにしており、「干渉」に関する研究状況を一変させるものである。

 もっとも本論文には、なお望蜀の憾を抱かせるところがないわけではない。

 第1に、「干渉」概念に関する歴史的経緯はともかく、不干渉義務が国際法の基本原則と位置づけられている以上、その方向性も含めて、「干渉」が解釈論上どのように扱われるべきかが本論文では十分に議論されていない。本論文によって、「干渉」が国際法上の基本原則以上の意味を持ちにくい事情が理解できたとしても、かつてオッペンハイムやフェアドロスが試行したように、「干渉」を国際法上有意味な概念として再構成する作業は、現代においても、いっそう重要であり、この点まで議論が進んでほしかったという思いは強い。これは今後の課題と言えよう。

 第2に、歴史的な経緯について、19世紀ヨーロッパ、20世紀米州という代表的な場面に検討が絞られた。これは、現代において「干渉」の本質的な内容とされる、内乱への不関与、また国家意思の強制が、「干渉」の内容として唱えられはじめた時代または地域に着目したためであり、この選択には一定の意味があることは間違いない。しかし、その他の時代、またその他の地域で、「干渉」が主張されたことも事実である(一例としては戦間期のスペイン内乱)。これらについて、本論文で検討しない理由は示されていない。むしろ、19世紀ヨーロッパ、20世紀米州以外の実行も検討すれば、本研究における歴史的分析はより包括的なものになったはずである。同じ問題は学説についてもあり、なぜフェアドロスの学説に大きな影響を与えたケルゼンを取り上げなかったか。また米州諸国における国際法学説の展開についてもより一層突っ込んだ説明があった方がよかったと思われる。しかし、以上の点は、本論文の学術的な価値をいささかも損なうものではない。

 したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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