学位論文要旨



No 119773
著者(漢字) 渋井,進
著者(英字)
著者(カナ) シブイ,ススム
標題(和) 顔表情の識別過程に関する実験的検討
標題(洋)
報告番号 119773
報告番号 甲19773
学位授与日 2004.12.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第532号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 繁枡,算男
 東京大学 教授 大築,立志
 東京大学 教授 長谷川,壽一
 東京大学 助教授 丹野,義彦
 東京大学 助教授 酒井,邦嘉
内容要旨 要旨を表示する

 本研究では表情認知過程において問題とされている,表情が次元的に連続処理をされているか(次元説),あるいはカテゴリー的に離散的な処理をされているか(カテゴリー説)という対立について実験的に検討した.

 次元説は表情認知および情動の空間を重視する感情空間を重視する立場である.表情間の関係性(類似性や相反関係)を決定するような複数の心理次元を仮定し,表情の知覚は,表情を多次元空間に位置づける過程だと考える.各表情が感情空間上で連続性を持って存在していると言う点で連続的な立場であるとも言える.

 カテゴリー説は,各表情カテゴリーは質的に異なった独立したものであると考える.カテゴリー分類が表情刺激から直接になされるとして,カテゴリーの非連続性,離散性を主張する立場である.

 これらのモデルの対立は概念的には理解しやすいが,両者を実験的に比較検討した研究は数少ない.筆者は次元説とカテゴリー説は必ずしも背反ではないという立場から,これらのモデルについて実験的に比較検討を行った.本論文の構成は以下の通りである.実験1 ではカテゴリー知覚の立場から2次元モデルの限界を示したとされる研究に対して,再検討を行った.その結果,表情認知に関わる2 次元的な情報処理過程の存在が確認された.実験2では顔表情への順応を用いて,顔への順応の過程の背後に次元的か,あるいはカテゴリー的な情報処理過程のいずれが存在するかを検討した.その結果,順応の背景にはカテゴリー的な情報処理過程が存在することが示唆された.以上の結果から統合モデルについての考察を行った.

 実験1では2次元モデルの検討を行った.次元説とカテゴリー説に関して比較検討した数少ない実験的な研究として.Young et al.(1997)とCalder et al.(2000)が挙げられる.いずれの研究もカテゴリー説の立場から2次元モデルでは説明できない現象を示している.実験1ではこれらの研究の,方法論的に不十分な点を再検討した.いずれの研究でも,次元説が支持されるためには,モーフィングによる基本表情間の合成表情刺激において,(a)表情間の推移(transition)は連続的である.(b)少なくともいくつかの変化では,表情間の推移に無表情あるいは第3の表情が現れる,といった2つの条件が必要であると主張している.彼らの研究では,被験者には連続的な知覚ではなく,カテゴリー知覚の傾向が見られることを示し,2次元モデルでは実験結果を説明できないとしている.本実験では,以上の研究の反応測定手法および,実験デザインの刺激設定に着目して再検討した.

 反応測定手法については,Young et al.(1997)では強制カテゴリー判断課題,Calder et al.(2000)では基本表情を用意して強度判断課題を課している.しかし,次元説においては,少数の限られたカテゴリーへの分類ではなく,細かな反応のばらつき(反応誤差)が問題となり,それを検出できる方法を用いる必要がある.この問題に関して,本研究ではRussell, Weiss, and Mendelsohn(1989)で考案された,Affect Grid 法という,感情空間への直接的刺激評定課題を用いる事により解決を図った.

 実験デザインの刺激設定に関しては,Calder et al.(2000)においては驚きと悲しみを始点として合成した恐れ,嫌悪と恐れ基準の怒り,嫌悪と恐れ基準の悲しみのみを扱っている.恐れ,怒り,悲しみ,の3表情のみを用いているという点は,この3表情がすべて快-不快の次元で不快の方向に位置する点で問題があると考えられる.この点に関して我々は,無表情と基本6表情の延長上で作成した合成刺激である反対顔(anti-faces)を作成した.表情のカテゴリー判断と空間上での領域との関係を考えるにあたっては,表情空間の原点付近に存在すると考えられる無表情を基準としたほうが,空間上での刺激系列のカテゴリーの変化が捉えやすく,また多くの表情についても統一的に検討することができた.

 以上のような2つの問題点を考慮し,我々の実験では,無表情を基準として6表情(怒り,嫌悪,恐れ,喜び,悲しみ.驚き)に対して,100%(例,喜び),50%,0%(無表情),-50%,-100%(例,反喜び)の合成刺激を作成した.これらの刺激をAffect Grid法により直接的に2次元空間上に評定を求めることにより,合成表情系列の評定値の空間上での位置関係がYoung et al.(1997)や,Calder et al.(2000)で主張された2次元モデルを支持するために必要な2つの条件を満たし,2次元モデルでも表情処理過程が説明可能ではないかと仮説を立てた.

具体的には実験1-1では線画を用いて,SD法による評定課題を実施し,その結果を因子分析することにより,これまで次元説を支持する立場が主張してきた表情判断の背景にある快-不快,活動性によって構成される2因子の存在を確認した.実験1-2ではAffect Grid法を用いて,実験1確認された快-不快,活動性の2次元上に刺激の直接評定を求める実験を行った.実験1-3ではカテゴリー評定課題によって-100%表情が特定の表情として認識されているかを検討した.実験1-4では実画像刺激の選定のための実験を行った.実験1-5および実験1-6では,実験1-2および実験1-3を実画像刺激に変更して実験を行った.実験1-7では条件(a)の連続性についてより詳細に検討するため,刺激の変化段階をより細かく,25%にして検討した.これらの実験の結果,恐れ,喜び,悲しみの3表情系列に関しては,2次元モデルによって説明できるものであった(図2).これは先行研究と異なり,2次元モデルで説明できる部分を含んでいる.

 実験2では,顔刺激に対する選択的順応とそれに伴う残効を用いて,順応の背景のメカニズムに次元的な処理が存在するか,あるいはカテゴリー的な処理が存在するかに付いて検討を行った.本来順応は,色や空間周波数などの比較的低次の知覚対象に対して確認されてきたが,近年顔や表情などの高次の刺激対象についても成立することが示されている.

 本実験では次のような仮説を設定した.次元説では個々の表情は快-不快,活動性で構成される次元上で捉えられ,順応の効果は次元空間上での刺激間の距離の関数として説明されるはずである.一方カテゴリー説を支持するのであれば,基本表情の処理チャンネルは独立しており,他の表情の影響を受けずに,順応刺激と同一のカテゴリーに属するメカニズムのみが順応の効果を受け,順応刺激の属するカテゴリーの強度評定値の差から説明されるはずである.

 以上のような仮説に基づき,怒り,喜び,悲しみ,驚きの4表情について以下のような実験を行った.基本表情への順応後に,表情への強制カテゴリー判断課題を課し,反応時間を測定した.順応刺激が呈示されることによるテスト刺激への反応時間の遅延を順応の効果と定義し,それが実験1-2のAffect Grid上で評定された次元上での順応刺激とテスト刺激との距離から説明されるか,あるいは実験1-3で得られた順応刺激の属しているカテゴリー強度評定値の差から説明されるかを検討した.実験2-2では,刺激を実画像刺激に置きかえて実験を行った.

 回帰分析の結果,順応の効果としての反応時間遅延は,カテゴリー強度評定値のほうがより良く説明する傾向を示し,順応にはカテゴリー的な処理過程が関与していることが示唆された(図3).ただし,特に驚きの表情に対しては他の表情と異なり,順応の効果は次元評定値およびカテゴリー強度評定値のいずれからも説明が出来なかった.この理由には,驚きが危険や注意を表すような伝達と関係しており,痛覚において順応が生じないような,適応的な意義からの人間の特性を反映する結果であるといえる.

 実験1では表情処理の次元的な処理の存在が確認され,実験2ではカテゴリー的な処理過程が示唆された.これは,表情の次元的な処理は,色や音の心理次元同様の初期知覚レベルであるのに対して,情動のカテゴリー判断は,注意や努力を払って実行されるより高次の認知的段階の処理であるという系列的な階層モデルや,Yamada and Shibui(1998)で提案してきた処理モデル(図4)に合致する結果である.これまで次元説とカテゴリー説は対立するものと見なされていたが,統合モデルが仮定できるという可能性が示された.

図1 実験に用いた刺激例(喜び系列).

23 歳の男性表出者の顔を元に,6表情に対して無表情(0%)との間でモーフィングの技術を応用し,反対顔(-100%)および中間表情としての50%,-50%表情を作成した.

図2 Affect Grid法による2次元空間上での刺激布置(実験1-7似おける喜び系列).

30名の被験者の実画像刺激に対するAffect Grid法での評定値の平均値をプロットした結果を示す.横軸は快-不快,縦軸は活動性を示す.系列は,無表情を通り他の表情へと移行し,2次元モデルを支持するための条件は満たされた.

図3 順応による反応時間遅延と次元評定値およびカテゴリー評定値の関係(実画像刺激).

順応刺激が喜びの場合の反応時間遅延と次元評定値および,カテゴリー評定値との関係を示す.順応刺激からの意味的な距離が遠ざかるにつれて,反応時間の遅延は少なくなる順応の効果が見られた.

図4Yamada and Shibui(1998)のモデル.

ある表情刺激は,まず視覚的情報が湾曲性・開示性で構成される空間上に抽出され,次に快-不快・活動性で構成される感情的意味空間へとマッピングされる.そして他の文脈などの関連情報を考慮した上で,プロトタイプとのマッチングがなされ,カテゴリー化がなされる.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、人間の表情認知過程の解明を目的とした実験心理学的研究である。表情認知過程に関して、表情が次元的に連続処理をされているか(次元説)、あるいはカテゴリー的に離散的な処理をされているか(カテゴリー説)、という対立する2つの立場があり、近年論争がなされている。次元説においては、表情間の関係性(類似性や相反関係)を決定するような複数の心理次元を仮定し、表情認知は、表情を多次元空間に位置づける過程だと考える。この場合、表情の識別とは、この多次元空間における距離に基づく判別の問題となる。各表情が多次元空間上で連続性を持って存在しているという点で、連続次元説と言われることもある。カテゴリー説は、各表情カテゴリーは同一空間に属さない、質的に異なった独立したものであると考える。カテゴリー分類が表情刺激から直接になされるとして、カテゴリーの非連続性,離散性を主張する立場である。この2つの立場の相違に関して、従来の研究はどちらかの立場に立って実験研究を進めており、2つの立場を実証データを通して比較検討した実験的研究は数少ない。論文執筆者は、この2つの説が必ずしも背反ではないという立場から、研究を進めている。

 第1章では、これまでの表情認知研究の歴史的展開について概観するとともに、次元説とカテゴリー説を代表する研究を紹介し、これまでの表情認知研究の問題点を明らかにしている。さらに、工学的画像処理技術(特にモーフィング)の発展がもたらした表情刺激操作について、顔を定量的に操作して被験者に対する反応を測定するという、顔における実験心理学が可能になったことを紹介している。本論文が評価される点は、本来情報の忠実性と刺激操作という二律背反に悩まされていた顔研究において、このような先端技術の応用によりこの背反性の解決を図り、概念的な対立であった次元説とカテゴリー説に関して、実験によって実証的な立場からその異動を検討している点にある。

 第2章ではカテゴリー知覚の立場から、次元説を代表する2次元説で説明できない現象を示したとされるYoung et al.(1997)とCalder et al.(2000)の先行研究に対して、方法論的な問題点を取りあげ、2次元説による説明の可能性に関して再検討を行っている。これらの研究では、2次元説が支持されるためには、モーフィングによる基本表情間の合成表情刺激において、(a)表情間の推移は連続的である、(b)少なくともいくつかの変化では、表情間の推移に無表情あるいは第3の表情が現れる、といった2つの条件が必要であると主張している。彼らの研究では、被験者のデータはこの2つの条件を満たさず、2次元説では実験結果を説明できないとしている。論文執筆者は、これらの先行研究の反応測定手法および、実験デザインにおける刺激設定を中心として再検討を行っている。反応測定手法については、いずれの研究も強制カテゴリー判断課題およびカテゴリー評定課題を行っている点に、カテゴリー的なバイアスが存在するため不連続な性質が示された可能性を問題点として指摘している。この問題点を克服するために、Affect Grid法という直接的な2次元評定課題を用いることにより、2次元空間上での刺激間の連続的な性質が確認されたことを示している。刺激デザインに関しては、先行研究においての刺激合成が、2次元空間上で極端に隅の方向へと設定されてしまっているために、刺激強度が飽和してしまっていた可能性を指摘している。この問題点に関しては、先行研究では基本表情間で外分をとって作成した刺激が用いられていたのに対し、各基本表情と無表情との関係で外分をとるように変更する事により、2次元空間上の幅広い領域において表情識別を検討する事ができるとした。その結果、いくつかの刺激系列において無表情に対して外分を取った反対表情顔は、他の表情へと連続的に移行し、先行研究において指摘されていた2次元モデルに必要な条件を満たすことを示した。これらの結果から、空間上に配置された刺激間の関係性が、表情認知に関わる次元的な処理過程の存在が確認されたことを示している。

 第3章では顔表情への順応を用いて、順応を引き起こすメカニズムにおいて、次元的か、あるいはカテゴリー的な情報処理過程のいずれが存在するかを検討した。顔表情への順応は比較的高次な情報処理過程を反映する現象であると近年報告されている。順応の効果は、順応刺激の存在による、テスト刺激の表情判断における反応時間の遅延によって測定されるとした。そのような順応の効果が、順応刺激とテスト刺激の間の2次元空間上でのユークリッド距離(次元的距離)あるいは、順応刺激の属するカテゴリーのみに関する距離(カテゴリー的距離)のいずれから説明可能かということを比較検討した。回帰分析の結果は、順応刺激が怒り、喜び、悲しみの条件では、次元的距離とカテゴリー的距離ともに、反応時間の遅延を良く説明した。しかし、順応刺激が驚きの条件ではいずれからも説明できなかった。このように、順応の背景にはカテゴリー的な情報処理過程が存在する可能性が示された。また、驚きに関して順応が見られなかったことも、新たな知見として評価できる。驚きが危険などを伝える機能を持っているという観点から考えると、これまで他の感覚モダリティーに関して得られている、痛覚には順応が生じないという知見と同様に、進化適応的な必要性から説明が可能である。

 第4章においては、次元的な情報処理を反映するデータおよびカテゴリー的な情報処理を示唆するデータを得たことを根拠として、次元説とカテゴリー説を統合する情報処理モデルについての考察を行っている。コンピュータービジョンにおける画像認識のモデルや、他の物体のカテゴリー化のモデルと比較考察することにより、次元的な情報処理過程の後にカテゴリー的な情報処理が存在するという、段階的処理モデルを提案している。

 本論文は、これまで概念的な議論が中心に行われてきた表情認識過程における次元説とカテゴリー説間の異同に関して、実験により比較検討を試みているところに新鮮さがある。また、個々のデータは、心理学のみならず工学的な顔認識システム構築に関して参考となる、興味深い結果を提供している。さらに、驚きに関して順応が成立しない可能性を示した事は、実験的検討が難しい感情研究の分野に対して、実験心理学の分野から、新たな知見を示している点で評価できる。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

 なお、本論文の第1章の一部は学術雑誌である「心理学研究、72巻」に、第3章の実験データを含む一部は「日本顔学会誌、4巻」に厳格な審査を経て掲載済みである。また、第2章の実験データを含む一部は「心理学研究」に投稿し審査中である。

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