学位論文要旨



No 119775
著者(漢字) 新江,利彦
著者(英字)
著者(カナ) シンエ,トシヒコ
標題(和) ベトナム中部高原における少数民族定住政策に関する研究
標題(洋)
報告番号 119775
報告番号 甲19775
学位授与日 2004.12.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(国際協力学)
学位記番号 博創域第79号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 環境学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山路,永司
 東京大学 教授 古田,元夫
 東京大学 教授 池本,幸生
 東京大学 教授 小澤,一雅
 東京大学 助教授 春山,成子
内容要旨 要旨を表示する

研究の背景

 東南アジア諸国の多くは多民族国家である。その多民族の構成は、大陸部諸国においては共通している。即ち、人口の過半数を占め、平野部と都市部に集中している1つの多数民族と、人口は少ないが広大な山岳地帯に住む多様な少数民族とが対峙する構図となっている。植民地からの独立と、近代国家、国民国家建設の過程で、これらの国々は国内の山岳少数民族の管理と、彼等が占有する資源の管理・再分配に着手した。東南アジア大陸部各国政府の少数民族・山岳資源施策は、かつてその政府の指導者たちが戦った植民地政府の採った政策を模倣したものであった。狭い平野部に住む多数民族の土地なし農民救済のために、政府は山岳民族の占有資源を没収して国有化し、多数民族に分与した。その際に、各国政府は、この没収、国有化と多数民族の入植の受け入れは、少数民族自身が豊かになるための社会費用であると説明した。

 1888年以後、ベトナムを領有したフランス共和国政府は、フランス人入植者を送り込むに当たり、それを「ベトナムの文明開化を達成するため」であるとした。1976年以後、中部高原を領有したベトナム社会主義共和国政府は、キン族入植者を送り込むに当たり、それを「中部高原の全面的革命を達成するため」であるとした。そして、入植者と国営企業の土地を確保するために、土地利用の合理化と、「余剰」土地の没収・国有化を開始した。

 かつて広大な休耕地を確保し、20年周期で粗放的な巡回農業をしていた少数民族を、集約的な定着農業に転換させ、休耕地を没収して土地利用を合理化する過程、それが中部高原における少数民族定住政策である。

 本研究は、この定住政策の形成過程及び実行過程を様々な文献及び2つの事例から考察し、定住政策が少数民族にもたらした影響を考察するものである。

序章

 序章では、本研究の性格、事例地域の概要、既往の研究、本研究の手法と考え方を叙述した。

 本研究は、学術研究のモデル転換論に即していえば、創造モデル(第一モデル)に相当する。その特徴は仮説の提唱と実証である。しかしながら、本研究は特定の仮説を明示してそれを実証する方法を採らない。本研究の問題意識はベトナム政府の定住政策が少数民族の生存維持を保障していないのではないかという懸念であるが、本研究が実証する課題は生存維持ではなく定住政策そのものであり、実証の内容は、定住政策がもたらした影響を考察してその本質を明らかにすることである。

 本研究における事例地域は、中部高原南方のラムドン省コンオ山塊のマー族(87世帯425人)とビントゥアン省カロン渓谷のラグライ族・コホー族(635世帯3,348人:不登記住民を除く)である。コンオ山塊は灌漑のためにつくられたダテダムの湖畔にあるが、コンオにおける定住政策当局者はマー族に灌漑優先農地を分与せず、新たに別の山塊傾斜地を分与したため、人々は現在再定住の過程にある。カロン渓谷は古い歴史を持つ肥沃な盆地であるが、灌漑のためにつくられるダムで水没する予定であり、カロンにおける定住政策当局者はラグライ族・コホー族に下流の灌漑優先農地の分与と再定住を打診したが、人々はこれを拒否し、ダム湖の上流への移住を訴えて当局と交渉中である。コンオにおいて人々が故郷の山で焼畑を続けられない理由、カロンにおいて上流への移住が当局に認められない理由は、ベトナムのイデオロギー的な環境計画と関係する。ベトナムの環境計画は産業基盤と生物多様性の保護を目的とする。コンオ・カロンはいずれもダムの水源保全林であり、かつ周囲は国立公園或いは自然保護区予定地であるために、人々による林内耕作は認められないのである。

 既往の研究として、ベトナム人による定住化政策の実際に対する批判的研究と、政府の開発計画と環境計画の狭間で困難な立場にある東南アジア諸国の山岳少数民族の土地利用に関する研究を考察し、当該領域における従来の成果と本研究の独自性を述べた。

 方法論として、歴史学及び人類学(民族史学)の定性調査手法を採用した。本研究の考察の基礎となるのは、漢文、ベトナム語、少数民族語による古文書・行政報告と、野帳に記した口碑などの聞取りから成る一次資料であり、翻訳や引用などの二次資料は可能な限り排除した。コンオでは約50世帯、カロンでは約700世帯(不登記住民を含む)を対象にアンケート票による定量調査を実施したが、その結果は定性的叙述に利用するのみであり、定量調査結果の計量的分析は行わない。

 本研究の考察の方向はレーニンの民族理論と部分的に一致する。即ち、少数民族は生計経済段階にある農民であり、少数民族問題の実質は農民の土地利用問題であって、そこから派生する水利費、人頭税、農地税の問題である。

 筆者がレーニンと意見を異にするのは、その生計経済と文化に対する考察の姿勢である。レーニンは経済構造の改造と伝統文化保護は可能であると考えていたが、東南アジア焼畑農民はその生産物を神霊として信仰するため、経済と文化は不可分であり、いずれかを改造していずれかをそのまま維持することはできない。定住政策という人々に従来の生計手段の放棄を要求する政策は、意図しない文化破壊をもたらし、既成の集落秩序と価値観を破壊する危険を伴う。

第1章 中部高原における少数民族政策の形成

 第1章では中部高原における少数民族問題の起源と、ベトナム人共産主義者による定住政策を含む少数民族政策の形成を考察した。

 ベトナム戦争は少数民族社会に様々な破壊的要素を残した。1962年に始まった南ベトナムによる住民集中管理政策(戦略邑政策)は、山間に散らばって住んでいた少数民族の集落を強制的に解体して数十集落を1つの戦略邑に集中し、共産主義の影響から住民を遮断し、医療・教育などの行政サービスを提供し、定着農業への転換を図った。戦略邑内部では反共宣伝の一環としてキリスト教を布教した。戦略邑は少数民族の伝統的な社会秩序、生計経済、価値観を破壊した。暴力的な政策は多数の反政府主義者を生み、中部高原の社会不安が拡大した。隣国のカンボジアはこの状況を利用し、反キン族の少数民族反政府組織FULRO(被抑圧諸民族闘争戦線)を設立して、少数民族に対し反キン族宣伝を組織的に行った。一方、共産勢力も少数民族を民族解放戦線に取り込み、中部高原自治運動を設立した。

 1975年の共産勢力による南北統一後、中部高原ではカンボジアの支援を受けたFULROによりキン族を対象とするテロ活動が続いた。1977年に始まった統一ベトナムによるキン族入植、国営農場・林業公社の設立、少数民族定住政策の実施は、ベトナム共産党が戦争中にすでに策定していた社会主義経済政策の規定路線であったが、FULRO対策、国防が重要な目的の1つとなった。入植者は屯田兵の役割を担い、先住少数民族キリスト教徒は潜在的FULRO分子と見なされた。定住政策は、1975年に「解放」された人々が再建した集落を再び強制的に解体し、数十集落を抹消して1つの定住区に集中し、FULROの影響から住民を遮断し、医療・教育などの行政サービスを提供し、定着農業への転換を図った。定着農業への転換により休耕地から放棄地となった少数民族の土地・山林は全人民所有の財産として政府が没収し、キン族入植者と国営企業に分与された。

 1977年のイデオロギー的な経済目的と軍事目的に基づく第1次定住化は、所期の目的を達成した1982~83年に、国家財政の極端な悪化によりいったん縮小された。定住に成功した人々は1981年100号指示(農業生産請負事業)により定着農業の余剰生産物を市場で売ることが可能になった。定住に失敗した人々は山林に帰り、林業公社管理地の中の「林業村」で慣習用益権に基づく焼畑農業を再開した。1980年代の中部高原少数民族社会は小康状態にあった。

 1990年、イデオロギー的な生態系保護目的に基づく第2次定住化が始まった。新たな定住政策は、農業基盤や社会基盤(貯水池、ダム)、生物多様性の保護のため、焼畑による山林の伐採と主穀栽培を禁止し、換金作物による現金収入の獲得と主穀の購買を奨励した。しかし、換金作物の価格は一定せず、人々の生活水準は悪化した。ベトナムは国家財政再建のため国際通貨基金と世界銀行の構造調整政策を受容したが、それは僻地における医療・教育の大幅な後退をもたらし、それも人々の生活水準低下の原因となった。ベトナム政府は民生改善のために第327計画(山林管理請負事業)、第135計画(農村基盤整備事業)、第661計画(分収造林事業)や飢餓解消-貧困緩和国家目標計画を策定し実施したが、地域住民の土地利用を考慮しない開発計画と環境計画のため、少数民族に主穀生産のための十分な土地を分与するという課題は長期間放置された。

 2000年、主力換金作物であったコーヒーの価格が暴落し、定住政策に打撃を与えた。多くの少数民族農家は破産状態に陥り、主穀を購入するための資金を失って飢餓と直面した。アメリカを基地とする元FULROメンバーと福音派キリスト教徒は、コーヒー価格暴落に伴う社会不安を利用し、2001年2月、中部高原で数万人の少数民族が参加する同時多発暴動を組織し、数千人の少数民族難民がカンボジアに逃亡させた。ベトナム政府は暴動を鎮圧する一方で債務繰り延べ、土地分与などの解決策を打ち出したが、土地の不足や難民の帰還は速やかに解決されなかったため、元FULROメンバーは2004年4月に再び数万人規模の同時多発暴動を組織した。

 定住政策の最大の問題点は、その中核である定着農業政策が、生存維持・主穀生産のための十分な農地確保を実現できなかったことであった。

第2章 チャム王家による中部高原支配

 第2章では阮朝、フランス、ベトナム共産党に先立って中部高原を支配したヌガルチャム王国(順城鎮、1693-1832)のチャム王家による中部高原支配を考察した。

 漢文史料(一統輿地誌、勦平順省蠻匪方略、明命十七年地簿、大南寔録、大南一統誌、同慶地輿誌)、チャム写本(順城鎮文書、アーリヤートゥアンポー、ダムヌイ・ポータンアホク)及び初期のフランス人の記録(エーモニエ報告、ブリエール報告)、1975年以後採取された民話によれば、チャム王家及び阮朝は中部高原において一種の場所請負制度を実施していた。場所請負制度とは、土地ではなく人間を収税の単位とし、国家がその収税権を第三者に買取らせ、第三者が彼等を使役し、税収を確保して国家に納税するものである。順城鎮文書には、安南民(キン族)への借金が累積した順城民(チャム族)貴族が順城鎮藩王(チャム王)に山岳民集落の収税権買取を陳情する文書が2件収められている。1835年の羅奔王の乱は、分収蛮税(山岳民からの収税業務)を務めるチャム族貴族によるものであった。山岳民からの徴税においてキン族と共にチャム族を活用する方針は阮朝及び仏領時代にも維持された。

 1889年のブリエール報告によれば、山岳民収税官は半官半商であった。恐らくは有利な取引条件の獲得のために、収税業務はしばしばサボタージュによって滞り、収税額が定額の半分に満たない年もしばしばあった。

 チャム王家による中部高原支配の本質は、商業を通じた山岳少数民族の統治機構への取り込みと管理であり、王家と山岳民の相互依存であった。収税と交易は平行して行われ、山岳民は塩や食器などの生活必需品や、銅鑼や甕(かめ)など飢饉の際に交換権原となる威信財を入手した。民話によれば、山岳民が栽培したマンゴーなどの果樹はしばしばチャム族が高値で買入れ、山岳民に巨利をもたらした。これに対し、チャム王家は優秀な労働力(ラグライ族はチャム王家の農園労働者、祠堂建築職人として働いた)や、雄象、象牙、犀角、黄蝋、魚皮、烏柑木など阮朝への職貢(しょくこう)品や交易品を入手することができた。阮朝はチャム王家を山岳民の使用主と見ていた。チャム王家の財政はチャム族臣民だけでなく山岳民との関係に依るところも大きかった。

第3章 灌漑事業の恩恵が受けられない人々

 第3章ではラムドン省ダテ川上流コンオ山塊のマー族(約400人)における定住政策の経験を考察した。コンオは1977年に始まった第1次定住化が失敗した地域である。

 第4章で扱うビントゥアン省カロン渓谷のラグライ族、コホー族(母系制)とコンオ山塊のマー族(父系制)の間には、家族制度上の違いはあるが、生活水準の格差は無かった。彼等は何れも近世にはチャム王家の支配下にあり、阮朝、フランス、南ベトナムの支配を受け、ベトナム戦争中は共産勢力に協力し、社会主義革命に功績があった。コンオ山塊マー族における第1次定住化失敗の原因は、マー族の定住化を担った政策当局者の拙速である。コンオ山塊はドンナイ川大湾曲部の低湿地帯と隣接する。低湿地帯はかつてインド文明が栄え、煉瓦造りのヒンズー教遺跡(カッティエン遺跡)が残るが、しばしば洪水の被害を受ける。カッティエン遺跡放棄の理由も洪水であると考えられる。この地域で持続可能な農業を実現するためには排水と治水のための大規模な農業基盤整備が必要である。水田民族であるキン族は13世紀以来こうした土木事業の経験を持つが、焼畑民族であるマー族にはその経験は無かった。他の地域の定住化が現耕作地における焼畑から定畠・水田への漸進的な転換であったのに対し、コンオ山塊の定住化は(1)「山塊居住から低湿地居住への転換」と(2)「焼畑農業から水田農業への転換」という2つの未知の環境への拙速な転換であった。

 1977~1980年は本格的な排水・治水設備が完成しておらず、天候不順で旱魃や洪水も発生した。不慣れなこともあって水田農業の生産は改善されず、人々は飢餓に瀕した。1982〜83年、低湿地帯の定住区は崩壊した。マー族はダテ灌漑事業(ダテダム建設事業)のための伐開に従事するという名目でコンオ山塊に帰還し、焼畑を再開した。

 コンオ山塊に帰還したマー族はダテ林業公社管理下のコンオ林業村生産組に再編された。コンオ山塊の農業生産に適した片岩土壌と効率的な焼畑技術により、飢餓は解消された。ダテダム建設のための伐開業務から現金収入も得られた。

 1990年、コンオ山塊で第2次定住化が開始された。コンオ山塊は定住化に抵抗する山塊の焼畑部落(山上組)と定住化を受け入れる山麓の定住部落(下山組)に分裂した。山麓の灌漑予定農地はキン族などの入植者に分与され、マー族には十分な土地は分与されなかった。住民は農業ではなく日雇いの竹取で生計を立てるようになった。竹取は比較的高額な現金収入をもたらすが、中間搾取があり、また竹取採取のために林内で野宿することはマラリア罹患の危険を増大させた。いちどマラリアに罹患した人間はもはや健常者の労働能力を持たない。1996年にダムが完成すると焼畑は厳禁されるようになり、人々の飢餓は極限に達した。事態を解決するため、焼畑部落は隠し焼畑を行い始めた。また、ラムドン省ダテ県人民委員会はダテ集水域の圏外にあり水源保全林に指定されていない山塊傾斜地をマー族のための入植地として開発する事業を策定、実施した。

 コンオ山塊のマー族は、灌漑貯水池の湖畔に住みながら、遂に灌漑の恩恵を受けることが無かった。コンオ山塊マー族にとっての定住政策とは、行政の都合でマー族をある場所から別の場所に移し、マー族から林内耕作(焼畑)などの山林用益権を取上げるものであった。

第4章 灌漑事業の享受を拒絶する人々

 第4章ではビントゥアン省ソンルイ川上流カロン渓谷におけるラグライ族・コホー族(約3,000人)の定住政策の経験を考察した。

 コンオ山塊のマー族が互いに近い親縁関係にある同一民族諸部族の集合体であるのに対し、カロン山塊のラグライ族・コホー族は、相互の親縁関係は比較的薄い異民族・異部族の集合体である。ごく一部の住民を除き、彼等はカロン渓谷の先住民ではなく、今世紀初頭から1982年までに様々な理由でカロンに移住した人々である。ほとんどの住民は本来焼畑農民であるが、カロンへの入植後は水田農民となった。カロン渓谷の土地は肥沃な沖積土壌であり、元々はチャム王家の水田であって、周辺の焼畑農民はしばしば徴用労働者として王家の水田を耕作していた。そのため、1977年に第1次定住化が始まったとき、先発組(カロン渓谷西部―ファンソン社住民)は速やかに再入植・定住化に成功した。

 しかし、1977年の第1次定住化は複数の問題を孕んでいた。1977年、カロン渓谷入植を進める一方で、ベトナム政府はファンリ・ファンティエト灌漑事業(ソンルイダム建設事業、カジャイダム建設事業)の実施可能性研究を開始していた。カロン渓谷はソンルイダムの水没予定地となっていた。また、東隣―ファンラム社住民が入植したカジャイ渓谷(カティップ川・カカウ川流域)はカジャイダムの水源保全林予定地となっていた。

 1982年、ベトナム政府はソンルイダム事業の休止とカジャイダム事業の実施を決定し、ファンラム社住民はカジャイ渓谷を退去して、後発組としてカロン渓谷東部に入植した。1992年、ファンソン社とファンラム社の間で牛泥棒をめぐる住民衝突が発生し、ファンラム社定住区は現在の場所に移った。

 1998年、ベトナム政府はソンルイダム事業の実施を決定し、ファンソン・ファンラム住民は再定住を迫られることになった。このとき、ビントゥアン省人民委員会はファンリ・ファンティエト灌漑事業享受地域の中でも最もカロン渓谷に近いダゴン地区への入植を住民に打診したが、住民はこれを拒絶した。

 ファンソン・ファンラムの住民が灌漑事業享受地域への入植を拒絶する理由は次の3つである。第1の理由は、ダゴン地区は現在は荒廃林地であり、カロン渓谷内の山林と違って可食雑草や薪炭材が少ない上、すでに不法占拠者が入植していることである。第2の理由は、ファンソン側(渓谷西部)の土壌は大変よく、ダゴン地区の石がちな土壌とは比べられないことである。第3の理由は、ファンラム社(渓谷東部)の人間にとって、1982年に水没するわけではないカカウ・カティップを放棄させて水没予定のカロンに入植を強いたのは行政の無責任であり、代替農地を分与するならダゴンではなくカティップ・カカウが望ましいことである。しかし、この3つ以外に重要な背景がある。それは、1962年以来、カロン渓谷住民、特に後発組住民が3~5回に及ぶ強制再定住を経験したという事実と、1977年以来、ベトナム政府、ビントゥアン省人民委員会は一貫して、カロン渓谷における開発計画と環境計画の策定過程への住民参加とその住民への周知を怠ってきたという事実である。

 カロン渓谷住民は水没予定地とわかっている場所での定住化を、その事実を知らないまま強制された。カロン渓谷には1972年以来少なくとも2つの発電所建設計画とそのための圧力隧道、放水路、ダム建設計画が策定され、現在も実施可能性調査が進められているが、住民には周知されていない。また、カロン渓谷及びその東方で計画されている生物多様性保護区-カロン・ソンマオ自然保護区の設置は域内での農業生産活動を全面的に禁止し、カロン渓谷住民の東方-カティップ・カカウへの帰還・再入植の望みを断ち切る。

 カロン渓谷住民にとって、定住政策そのものは成功であった。まさにそのために、肥沃な農地を水没させ、或いは耕作不可能にする現在のベトナム政府及びビントゥアン省人民委員会の開発計画・環境計画策定過程は、人々の目に、無責任であり、信用できないものに映っている。

終章

終章では、中部高原少数民族定住政策について各章で行った考察を総括し、解決のための提言を行った。

 コンオ山塊の住民が参加している現在のトンカロン再定住事業は、山塊傾斜地500haにマー族300世帯が移住する集中農業-居住地の建設である。農地と住居の集中は居住環境基盤整備には便利であるが、農薬の大量投下や生活廃水の集中は環境にむしろ有害である。コンオ山塊マー族のための解決策は、特定の山塊傾斜地への大挙定住ではなく、水源保全林及び国立公園における分散居住と林内耕作(焼畑)の容認である。ベトナムの林業実務家は1960年代から焼畑放棄地の森林回復力や水源保全林における農業と土壌保全の研究を進め、20年周期で巡回する持続可能な焼畑が可能であること、水源保全林で土壌や水源涵養力を保全する農業が可能であることを実証した。ベトナム政府はこれらの科学研究の成果を定住政策に生かすべきである。

 カロン渓谷における最大の問題は、地域に関する開発計画・環境計画の策定過程に関する情報の欠落である。人々は個々の開発事業や移転事業に反対しているわけではなく、その策定過程の不透明性に反対しているのである。従って、これはコンオについても同様であるが、ベトナム政府は人々に影響を及ぼす全ての開発計画と環境計画の策定過程を公開し、策定過程への住民の参加を保障する仕組みづくりが必要である。また、カロン渓谷水没後の代替農地として、カロン・ソンマオ自然保護区の計画面積を改定し、カカウ・カティップを自然保護区から外して、代替農地として人々に提供すべきである。

 日本は、ベトナムにおいて政府開発援助を行なう開発関与国であり、生物多様性保護支援を行う環境関与国である。ベトナムは主権国家であり、日本はベトナムの主権を侵害しない範囲内で、ベトナムと開発の経験を分かち合うべきである。日本の国際協力事業における環境社会配慮ガイドラインを更に末端の集落や人々の生活を守るものとなるように充実させ、開発計画と環境計画が人々に利益だけをもたらし被害を押し付けないよう努力する必要がある。

 少数民族は定住政策、再定住事業、開発事業そのものに反対しているわけではない。彼等は、過去にそれらの事業がもたらしたような、詐欺的な不利益、被害、再三にわたる強制移転を懸念しているのである。公平で公開された民主的な政策決定の実現のために、ベトナム政府と協力することが求められている。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、ベトナム中部高原地域における少数民族の定住政策の形成過程及び実行過程を対象に、定住政策が少数民族にもたらした影響を考察したものである。

 本論文は、序章・終章を含め6つの章から構成されており、その要約は次の通りである。

 序章では、本研究の性格と、事例地域の概要、既往の研究、本研究の方法論、考察の方向を記述している。本論文の性格は学術研究のモデル転換論に即していえば創造モデル(第一モデル)に相当し仮説の提唱と実証に特徴がある、としている。

 本論文における事例地域は、中部高原南方のラムドン省コンオ山塊とビントゥアン省カロン渓谷である。既往の研究として、定住化政策の実際に対する批判的研究および山岳少数民族の土地利用に関する研究をレビューし、当該領域における従来の成果と本研究の独自性を述べている。すなわち、本研究では歴史学及び民族史学の定性調査手法を採用したこと、本論文の考察の基礎となるのは、漢文、ベトナム語、少数民族語による古文書・行政資料と、口碑などの聞取りから成る一次資料であり、翻訳や引用などの二次資料を可能な限り排除していることが大きな特徴である。

 第1章では、中部高原における少数民族問題の起源と定住政策を含む少数民族政策の形成を考察している。

 1962年に始まった南ベトナムによる住民集中管理政策は、山間に散らばって住んでいた少数民族を1つの戦略邑に集中させ、定着農業への転換を図ったものである。1977年には、多数民族であるキン族の入植、国営農場・林業公社の設立、少数民族定住政策が開始されたが、1980年代に縮小された。1990年の新たな定住政策は、農業基盤や社会基盤の整備、生物多様性の保護のため、焼畑を禁止し換金作物の栽培を奨励したが、その価格は一定せず定住政策に打撃を与えた。

 以上の経緯を考察し、これまでの定住政策の最大の問題点はその中核である定着農業政策が十分に機能できなかったことであった、としている。

 第2章では阮朝、フランス、ベトナム共産党に先立つチャム王家による中部高原支配を考察している。

 漢文史料、チャム写本、初期のフランス人の記録、および1975年以後採取された民話によって、チャム王家及び阮朝は一種の場所請負制度を実施していたことを明らかにしている。これは、土地ではなく人間を収税の単位とするものである。この政策の本質は、商業を通じた山岳少数民族の統治機構への取り込みと管理であり、王家と山岳民の相互依存であったことを明らかにしている。

 第3章ではコンオ山塊のマー族(約400人)における定住政策の経験を考察している。

 ここでの第1次定住化失敗の原因は、政策当局者の拙速である。この地域で持続可能な農業を実現するためには大規模な農業基盤整備が必要であったが、焼畑民族であるマー族にはその経験は無かった。にもかかわらず、焼畑から水田への移住を推進した。天候不順で旱魃や洪水も発生し低湿地帯の定住区は崩壊した。マー族はダテ灌漑事業のための伐開に従事するという名目でコンオ山塊に帰還した。さらに1990年に第2次定住化が開始されたが、これも1996年に破綻した。

 以上より、マー族にとっての定住政策とは、行政の都合である場所から別の場所に移し、マー族から山林用益権を取上げるものであった、と結論づけている。

 第4章ではカロン渓谷におけるラグライ族・コホー族(約3,000人)の定住政策を考察している。

 この地区では1977年に第1次定住化が始まったが、数度にわたって入植・定住を繰り返している。本論文では、住民が灌漑事業享受地域への入植を拒絶する理由を、山林地域の不適切性、現在の居住地の土壌条件の良さ、非水没地域から水没地域への移転を強制されたことに対する不信感、後発組住民が数回に及ぶ強制再定住を経験したこと、そして政府が開発計画と環境計画を住民に周知しなかったこと、と調査により結論づけている。すなわち、カロン渓谷住民は水没予定地とわかっている場所での定住化を、その事実を知らないまま強制された。また、計画されている生物多様性保護区の設置は、域内での農業生産活動を全面的に禁止している。このことより、政府および省の開発計画・環境計画策定過程は、人々にとって無責任で信用できないものに映っている。

 終章では、各章で行った考察を総括し、解決のための提言を行っている。

 第一事例であるコンオ山塊の解決策としては、水源保全林及び国立公園における分散居住と林内耕作(焼畑)の容認であると提言している。その根拠として、20年周期で巡回する持続可能な焼畑が可能であること、水源保全林で土壌や水源涵養力を保全する農業が可能であるという実証研究を挙げている。

 第二事例であるカロン渓谷における最大の問題は、地域計画の策定過程における情報の欠落であるとしている。人々は個々の開発事業や移転事業に反対しているわけではなく、その策定過程の不透明性に反対していることを明らかにしている。このことより、政府に対する提言を行っている。

 以上より、本論文はベトナム中部高原における少数民族定住政策の問題点を明らかにし、解決の方向を示したものであり、その学術的価値は極めて高い。したがって、博士(国際協力学)の学位を授与できると認める。

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