学位論文要旨



No 119778
著者(漢字)
著者(英字) NGUYEN THI LAN HUONG
著者(カナ) グェン テイ ラン フォン
標題(和) ベトナム市場経済下の国家所有制度と企業経営構造 : 国家、企業と労働者との関係の変化の分析
標題(洋)
報告番号 119778
報告番号 甲19778
学位授与日 2005.01.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第463号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 桜井,由躬雄
 東京大学 教授 古田,元夫
 東洋文化研究所 教授 原,洋之介
 東洋文化研究所 教授 加納,啓良
 早稲田大学 教授 小林,英夫
内容要旨 要旨を表示する

 本論はベトナムにおける1987年以降の刷新(ドイモイ)政策(社会主義経済の市場経済化)の中で、最大の問題である、国営企業の市場経済化への適応過程を、1990年-2003年の共産党の政策と、各国有企業の実態調査から分析し、現在の問題点を指摘し、今後の課題を提議したものである。

 序論では、ベトナム社会主義経済体制の中での国家所有(全人民所有)概念と、市場経済のもとでの企業経営構造との関係を理論的に分析する。ここでは社会主義下の企業は、社会的公平の追求を目的とすることが強調される。

 第1章ではドイモイ以前の全人民所有制度の形成をめぐる共産党の企業思想は、企業による搾取の排除を追求するものであったことをあきらかにした。

 第2章、第3章では、この理念の中での国有企業の機能を分析する。国営企業は国家経済計画を実施する機関だけでなく、労働者の雇用と生活を保障する組織であったことを論証した。

 第4章、第5章では、市場経済概念導入後、全人民所有制度での企業概念の変化を明らかにする。ドイモイ政策では、党は最終的な社会主義経済への過渡期として、さまざまな経済セクターの導入を認めている。市場経済の導入は、生産性を向上させ、経済活動を活発化させるための一道程である。国営企業は営利を追求した経済行動が求められ、国有営利企業「国有企業」に改変された。

 第6章では、1995年以降設立された諸国有企業シンジケートのトップであり、国家による持ち株会杜である国家総会社の展開が問題とされる。国家総会社は、国家の企業への行政指導を縮小し、企業に経営の実権を与えることを、本来の目的としている。しかし、国家は、地域産業の発展という政策目標のために、国家総会社を通じて、企業経営を指導し、具体的な投資プロジェクトも決定した。国家総会社は国家による、国有企業管理機関となっている。

 第7章では、国有企業側の意志決定状況について考察する。国有企業の企業長は、企業所有者である国家によって決定される。企業長は、企業の代表であるとともに国家資産の運用について決定権限を有しており、企業経営での大きな権限を付与された。

 第8章では、こうした国有企業改革が、労働者と国有企業との関係にどのような影響を与えたかを考察する。ドイモイ後、国家と労働者との間に労働契約概念が導入され、国有企業は、市場経済のもとでの生産性の向上、国有資産の増大のために、労働者の解雇が可能になった。それは、社会不安に直結する。したがって、市場経済化にもかかわらず、国有企業は依然として、労働者の雇用確保を義務づけられている。このために、国家は不振の国有企業にも、企業破産法を適用することができず、不良採算の企業が延命させられる。

 第9章では、市場経済の中での国有企業の経済活動の矛盾を、ナムディン繊維企業を例に考える。膨大な余剰労働力を整理できず、老朽化した設備を残したまま営利事業化をいそがされた同企業は、90年代半ばまでに破産状況にいたった。国家はこれに国家融資、また銀行融資、さらにODA資金まで注入して損失を補填した。

 第10章では、1990年代半ばからすすむ一部国有企業の株式会社化について分析する。ベトナムの国有企業の民営化は株式会社化という形式で展開されたが、株式の譲渡先は労働者、国内の経済組織に限定され、また2002年には重要産業では国家が100%の株式を保有し、またそれ以外の企業でも総数の50%を保有することが決められた。株式化は民営化とははるかに遠いものである。国家が株式の完全民間化に消極的であるのは、民営企業の利潤追求がもたらす政治、社会の不安定化を危惧したからである。

 第11章では、国家の株式化国有企業への投資活動と経営干渉について述べられる。自家株式には二種類の保有形態がある。第一は株式総数の50%以上を占める支配的な株式保有の形態である。第二は会社の定款により、国家が一定の事項に関する決定権を有する株式保有である。この結果、国家は経営者の任免権をもち、株主総会で議決権を行使する。株主総会の議決そのものを国家が認めなかった事例も紹介される。国有企業の株式会社化は、国家の干渉を排除するものではない。

第12章では、株式化国有企業での労働者持ち株制度について述べられる。労働者の企業経営参加を促進するために、1992年から国有企業の株式を労働者に譲渡する制度が生まれた。株をもった労働者は株式総会に出席し、また取締役メンバーにその代表を送り出すことができる。労働者株主は、同時に国家株主、企業内党組織の推薦する経営者を支持するので、結果的に経営構造を変化させることはない。

 第13章では、株式化された国有企業における民間株主の位置について論じられる。民間への株式の売却は、民間の資本の活用を目的とするが、外部株主の経営参加は、持ち株比率からも、また社会的、政治的に難しい。党は、投資家の利益追求思考を、国有企業の社会的機能に好ましくないと判断している。

 第14章では、1999年度からの第2期の改革について論じられる。1999年、新企業法(旧会社法の改正)は独資有限会社という企業形態を認めた。独資有限会社は国家の権限委譲をうけた組織が、企業を所有する制度である。独資有限会社では、国家は依然として経営者の任免や会社財産の売却についての管理権限を有するが、それ以外の経営は、すべて独資有限会社の取締役会に任される。

 また、2003年には国有企業法が改定され、国有企業が国家所有者と独立して、他の企業に出資し、その企業の支配権を握ることが可能になった。国家と取締役会との権限分掌が明確になり、経営権の自由度は著しく向上した。しかし、国家は依然として、経営者の任免、重要な経営事項を決定する権限を有している。

 第15章では、市場経済を通じた社会主義建設という党の政策の枠組の中で、国家から優遇されてきた国有企業と、一方で急成長する民間企業との不平等問題について論じられる。1990年会社法以来、両者は基本的には平等とされていたが、民間企業の起業要件はきびしく制限された。1999年に企業法が制定され、会社設立時の許可申請手続きが廃止され、民間会社への民間投資が激増した。しかし、国有企業は依然として、国家の土地、財産を株式化するなど、さまざまな優遇措置を受け続けている。

 結論は以下のとおりである。ベトナムにおける国有企業問題は、(1)企業運営における行政機関と企業の未分離、(2)党機関と企業経営集団との未分離、(3)国家による労働者の保護、(4)国有企業に関する法環境の未整備、(5)株式会社化された国有企業の経営権の不安定性、(6)国有企業と民間企業間での不平等性にある。これらは共通して、全人民的所有を前提として、経済性のみならず、社会性、政治性をもたされた社会主義の企業活動と、旧来の市場経済原則に依拠した企業法概念との間の矛盾から生じている。著者は、市場経済における企業の経済概念のみならず、社会的、政治的概念の研究をすすめ、新たなベトナムでの企業法を整備していくことを提議している。

審査要旨 要旨を表示する

 旧国営企業(現国有企業)の改革は、市場経済の導入による経済発展を課題とするドイモイ(刷新=旧ソ連のペレストロイカ、中国の開放改革経済政策にあたる)政策下のベトナムにおける、最大の経済的、社会的問題である。しかし、国外では、開発経済学からの政策提言的な研究、またベトナムでは政策理論としての研究はあっても、政策展開と実態調査とを結びつけた総合的な研究は少ない。提出論文は、本来、ベトナム商法の専門家としてハノイ大学法学部で教鞭をとっていた筆者が、本研究科において日本、イギリス、ロシアでの国営企業の民営化過程の研究をすすめ、さらにJICAなどの研究委託により、ベトナムでの現場企業の企業経営、労使関係の実態を調査し、ベトナム共産党の政策過程を詳細に検討した、ドイモイベトナム研究史上において特筆すべき業績であり、社会主義企業法の新しい道程をみすえる画期的な論文である。

 ベトナムの国営企業は、全人民所有制度のもとで、政府の経済計画を達成し、労働者の雇用を確保する制度である。一般には、ベトナムのドイモイ政策は社会主義経済の市場経済への移行政策として理解されているが、共産党の見解では最終目的である社会主義経済社会への道程として、経済部門に市場経済を導入したものである。したがって、市場経済のもとで、経営自主権を獲得した国営企業(国有企業とよぶ)も、企業利潤の追求だけではなく、地方における産業振興、雇用の確保をその主な企業目的としなければならない。この非経済的機能を維持するために、国家は国有財産を資本として国有企業に賦与し、経営不振にもてあつい資金援助を行う。その代わり、親会社であり、持ち株会社である国家総会社を通じて、国有企業の経営者の任免、重要な経営方針などを強力に管理し、企業内党組織、企業内労働者の経営への発言力もきわめて強いことなどを、豊富な実地調査により実証した。

 90年代半ば以降、民間資本、外国直接投資の活用のために国有企業の株式化が進められたが、この場合も株式総数の50%以上は国家によって保有され、また多くの株式が労働者に譲渡され、民間投資家の経営参加は難しい。これらのベトナム国有企業の民営化の不徹底は、国有企業が利潤追求のほかに社会的任務をもたされているからである。筆者によれば、多くの国有企業が余剰労働力の整理ができない理由もこれによる。筆者は、社会主義下の民営化の問題点が、党体制がめざす企業像と市場経済下の企業像との矛盾にあるとし、この矛盾を克服する新たな法体系の整備を提議している。

 以上のように、本論は国有企業の民営化にともなう本質的な問題点を摘出し、それが社会主義の企業論と市場経済下の企業論との矛盾にあることを指摘し、新しい展開の必要を論じている。これはこれまでの市場経済論者による国有企業民営化論のもつ安易なアプローチを批判し、ベトナム国情の地域論的認識に立脚した、きわめてすぐれた指摘であり、ベトナム人の長期日本留学にしてはじめて生まれた識見である。

 日本語にやや不十分な表現があり、また重複がままみられるなどなど、若干の表現上の問題があるが、これは十分に修正可能である。本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位を授与するにふさわしい水準に達していると判断する。

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