学位論文要旨



No 119781
著者(漢字) 須佐,秋生
著者(英字)
著者(カナ) スサ,アキオ
標題(和) 低温氷表面における大気不均一反応および光化学反応の速度論的研究
標題(洋)
報告番号 119781
報告番号 甲19781
学位授与日 2005.01.20
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5934号
研究科 工学系研究科
専攻 化学システム工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 越,光男
 東京大学 教授 定方,正毅
 東京大学 教授 山口,由岐夫
 東京大学 助教授 三好,明
 東京大学 教授 尾嶋,正治
 上智大学 教授 幸田,清一郎
内容要旨 要旨を表示する

 南極上空の極成層圏雲における不均一反応のオゾンの破壊過程に対する重要性など、大気エアロゾルにおける不均一反応過程の重要性が指摘されている。大気中の微量物質の移動反応過程は大きく次の3つの段階に分けて考えることができる。気相における均一相の反応および拡散などの移動過程、大気エアロゾル界面における物質移動反応過程、雲滴内部などの大気エアロゾルの液相及び固相における反応過程である。このうち、気相及び液相の均一相における物質の移動反応過程に関しては、物理化学モデルが存在し、その取り扱いは比較的よくわかっているのに対し、界面における物質の移動反応過程に関しては物理化学的な描像がよくわかっておらず未解明な点が多い。不均一過程における大気中微量化学種の振る舞いを理解し、その結果を大気の移動反応過程のモデルに反映するためには、物質の移動反応を各段階にわけて考え、各段階における移動速度の大小関係を把握する必要がある。そこで本研究は、対流圏上部から成層圏にかけての大気エアロゾルの成分として重要な氷表面の移動反応過程を実験的に追跡する手段の確立、そして取込反応過程のモデル構築のために実験的に基礎的な情報を得ることを目的として遂行した。前半では低温の氷の表面に対するNO2分子の取込過程を検討し、後半では氷表面反応として、今まで定量的な速度過程に関する議論がほとんどなされていない紫外光による氷表面の光反応過程を定量的に検討した。

 氷表面に対する分子の吸着及び取込反応過程に関する研究は、成層圏エアロゾルに対応する200K程度の温度条件における測定、極低温から140K程度までの氷が真に凍結した氷表面における測定に大別される。問題は200K程度の温度の氷表面は擬似液体であることがSHGの観測から指摘されており、液体とも異なる属性を持つ100MLs-1の程度の速度で蒸発及び凝縮を繰り返している動的な表面であるという点である。このような描像のはっきりしない表面における取込反応過程の解明を目的とする場合、表面における凍結した水分子と対象化学種NO2の相互作用に関する基礎的な情報から考えて行くことが必要であると考え、90-140 K程度の氷表面に対して検討した。凍結した氷を用いれば様々な表面状態の氷を用いた実験が可能であり、様々な結晶構造、モフォロジー、表面状態の氷を蒸着時の温度圧力条件、アニーリングなど温度履歴を操作することにより作成することができる。そこで、本研究においては広い温度範囲(100-220K)の氷表面に対する吸着反応速度過程を実時間計測しながら、吸着状態も同時観測可能なクヌッセンセル型反応器と反射赤外吸収分光法(RAIR)を組合せた表面反応解析装置を設計製作した。製作した装置は次のような特徴を持つ。薄膜サンプル作成時に取込係数γ(表面に入射する分子のうち、凝縮相に取込まれる分子の割合)を実時間測定することで低温基板上に被覆率(ML)で規定した薄膜サンプルを作成可能である。ついで、作成した薄膜試料に対する対象化学種の取込過程を取込係数γ及びRAIRによる吸着分子の振動モードの同時測定により測定できる。さらに、低温の超高真空条件下においてはRAIRを同時に観測した昇温脱離質量分析(TPD)スペクトルが測定可能である。これより、吸着状態を区別した取込過程の実時間測定と吸着状態に関する複合的な解析が可能になり、今までのような取込係数γのみの測定だけでなく、氷表面における分子の吸着状態を考慮した解釈が可能となった。

  はじめに温度120KにおいてAu基板に対する氷の吸脱着に関して測定を行い、蒸着圧力9×10-5Paにおいて取込係数γ=0.45±0.2の値を得た。取込係数取込係数γの値は氷の厚さに依存しせず、測定誤差の範囲で既往の研究と一致する結果を得た。また、測定した取込係数γの値は蒸着圧力に依存し、大きい圧力の時ほど小さな値となった。圧力に対する依存性から、表面状態の違いにより吸着過程において吸着分子のエネルギーの緩和速度が異なることが推測された。TPDスペクトルにより氷の脱離の活性化エネルギーが48kJmol-1であることを求め、昇温過程において同時に測定した時間分解RAIRにより、氷がアモルファス氷から立方晶の氷Icへ変化したことに対応するOH伸縮振動領域のピークの変化を観測した。このように、吸着物質だけでなく基質の変化する系において、表面と気相化学種の減少速度の同時測定により、基質の変化を踏まえた有効な解釈が行える可能性を提示した。

 次に温度120Kにおいて様々な結晶状態、モフォロジーの氷に対するNO2ガスの取込過程を測定した。1260cm-1付近、1750cm-1付近にN2O4の対称伸縮振動及び非対称伸縮振動に対応する吸収をRAIRスペクトルで観測した。1260cm-1付近の対称伸縮振動領域に注目し、暴露時間に対するピークの成長過程の観察から各吸収ピークを次のように帰属した。1270cm-1を氷表面と直接的に相互作用している第1層目のN2O4、1298cm-1のピークを多層吸着したMulti-layer N2O4、1260, 1306cm-1のピークをランダムに堆積したMulti-layer N2O4に帰属した。これらのMulti-layer N2O4が堆積する時の取込係数γを測定し、NO2の分圧に対する依存性を見い出した。取込係数γの値は氷薄膜の作成条件及びNO2の分圧に依存し、7×10-3-8×10-2の範囲の値であった。時間分解RAIRスペクトルとの突き合わせにより、アモルファス氷の第1層の吸着過程における取込係数γ=7-9×10-3 であり、非常に小さいことがわかった。次に高い蒸着圧力において表面積の大きいアモルファス氷に対してNO2を吸着したところ、大きな取込係数γ=0.2を観測した。吸着分子の吸着環境の変化により、RAIRスペクトルにおける吸収ピークは低波数側へシフトし、昇温脱離質量分析スペクトルにおいて水分子と共に脱離するNO2を観測したことから、極性の比較的小さなNO2分子においてもアモルファス氷のモフォロジー、もしくは表面OH基の存在量の大小が吸着状態及び取込確率に対して大きな影響を与えることを明らかにした。

 以上のように設計製作した装置を用いてクヌッセンセル型反応器により測定表面に対する取込係数γの実時間測定を行い、時間分解RAIRスペクトルと組合せた解析が、吸着状態を区別した実時間の取込過程の測定において有効であることを示した。様々な氷の表面状態に対してさらに広範囲の温度条件で測定を行うことにより、氷表面の取込反応過程の物理化学的なモデルを構築し、実大気中の温度に対応する動的な表面における取込反応過程のメカニズムを解明して行くための実験的な手段と基礎的な情報を得た。

 次に氷表面反応のひとつの可能性として氷表面に吸着したN2O4に対して紫外レーザー光を照射し光誘起反応に関する検討を行った。紫外光により脱離した分子の並進エネルギー分布、脱離の収率、脱離した化学種の相対的な収率に関してレーザー脱離質量分析法を用いて測定し、氷表面における光化学速度過程について初めて定量的な議論を行った。

 高真空条件下においてアモルファスな氷薄膜、結晶化した温度90K程度の氷薄膜に対して10ML程度のN2O4を吸着し、これに対して波長193nmのエキシマレーザー光を照射し、脱離した分子の飛行時間型(TOF)スペクトルを電子衝撃イオン化四重極型質量分析計を用いて測定し、中性分子NO2、NO、O2およびO原子の脱離を観測した。信号強度の減衰速度から総括の脱離の断面積を見積もった。アモルファス氷の場合、気相のN2O4の光吸収断面積と比較して二桁程度小さな値をとったのに対し、結晶化した氷の場合には気相におけるN2O4の光吸収断面積とほぼ同程度の値となった。また、生成物の分岐比に関しても結晶化した氷の場合にはNO2とNOの比がほぼ1:1であり、気相と同様に考えて説明可能であった。しかし、アモルファス氷の場合にはNO2の脱離の効率が1-2桁低下し、収率および生成物の分岐比に対して氷のモフォロジーもしくは表面状態の違いが反映された。アモルファス氷における典型的なTOFスペクトルはv3のMaxwell Boltzmann分布によりフィッティング可能であり、観測された並進エネルギー分布は強く脱励起するモデルで説明可能であることが明らかとなった。並進エネルギーは余剰エネルギーが統計的に分配されたと仮定して見積もった値より同程度か少し小さな値となり、氷表面の光解離過程において一部のエネルギーが氷表面に拡散した可能性が示唆された。

 以上のように、大気エアロゾルを模した氷表面の不均一過程に関する普遍的な機構を解明するための新規な実験手段を確立し、吸着状態を区別した実時間の取込過程を測定することにより、取込過程を実験的に明確に測定することを可能とした。氷表面に吸着したN2O4の光反応過程を定量的に明らかにし、氷表面におけるエネルギー緩和過程及び光反応の収率の違いが氷の表面状態と密接に関係していることから、大気エアロゾルの不均一過程を定量的に考える時に、その表面状態の違いは重要である。大気エアロゾルの不均一過程を物理化学的手段により実験的に解明することで、工業的に排出された物質が地球の大気においてどのように振舞うのか明らかにしてゆくことができると考える。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は「低温氷表面における大気不均一反応および光化学反応の速度論的研究」と題し、大気エアロゾルを模した氷表面における大気微量化学種の物質移動および反応過程に関する知見を得る目的で、NO2分子の低温氷表面に対する取込過程と吸着状態、および吸着したN2O4分子の光反応過程について実験的に検討した結果をまとめたもので、全7章からなる。

 第1章は序論で、大気エアロゾル表面における物質移動および反応過程が成層圏オゾンの増減や地球の熱放射収支を理解する上での重要性、およびNO2の取込過程における表面反応の重要性を指摘している。大気エアロゾル表面の重要な成分である氷に関する実験室的な研究の問題点に関して指摘し、氷表面におけるN2O4の光反応過程について既往の研究をまとめ、問題点を整理している。これらを踏まえた上で、氷表面反応解析のための新たな実験的手段の確立とNO2分子の取込過程の検討、NO2分子の表面光反応過程の検討を本研究の目的としている。

 第2章では、氷表面に対する物質の取込反応過程に関する既往の実験室的研究において適用されてきた手法に関して概観し、気相の分析手法、固体表面のその場観察の手法の各々について、得られてきた成果と適用の限界と問題点についてまとめている。本研究において採用した反射赤外分光(RAIR)法とクヌッセンセル型反応器を組合せた実験手法およびレーザー脱離質量分析法の利点を挙げている。

 第3章では、本研究において用いた表面過程解析の手法について原理を解説し、設計製作した反射赤外吸収分光(RAIR)法とクヌッセンセル型反応器を組合せた氷表面解析装置、およびレーザー脱離質量分析装置についての概要と具体的な実験手順を述べている。

 第4章では、Au基板に対するH2Oの吸脱着過程についての実験結果およびその解釈について述べている。クヌッセンセル型反応器とRAIRを組合せた表面反応解析装置により、被覆率を規定した薄膜サンプルの作成を可能とし、これを用いてAu基板に対するH2O分子の多層吸着過程における取込係数を測定している。既往の研究により得られている値との比較から、取り込み係数は水分子の蒸着圧力に依存すると結論している。また、作成した多層吸着氷薄膜の昇温脱離スペクトルの測定から脱離の活性化エネルギーが水分子の水素結合エネルギーの2倍程度であることを示している。さらに、アモルファス氷が結晶化する過程を時間分解RAIRスペクトルにより追跡しその動力学を論じている。

 第5章では、Au基板に生成したアモルファス氷と結晶化した氷薄膜に対するNO2の吸着状態および吸着脱離速度過程を検討している。吸着過程の時間分解RAIRスペクトルの測定から、氷表面の第1層に吸着したN2O4あるいはNO2と多層吸着したN2O4の吸収ピークを区別して検出することに成功している。また、複数の種類の構造をもつ氷に対して吸脱着過程を測定し、取込係数の圧力依存性から氷表面に対するNO2分子の取込速度過程に異なる吸着機構が関与していることを示唆している。

 第6章では、レーザー脱離質量分析法を用いてアニールした氷とアニールしていない氷の薄膜表面に吸着したN2O4分子の光化学過程を検討している。波長193nmのエキシマレーザー光を照射して脱離分子の飛行時間スペクトルを測定し、NO2、NO、O2分子およびO原子を検出している。この実験の結果から、アニールして結晶化した氷の表面光反応過程の分岐比は気相と同様であることを結論している。また、これら脱離化学種の並進エネルギー分布を検討することにより、アモルファス氷の表面における光反応では主にNO分子が脱離し、NO2の脱離の収率は氷薄膜の細孔内における再吸着効果により小さくなることを示している。

 第7章は研究の総括であり、実験により得られた知見と未解決の問題点を整理し今後の展望について述べている。

 以上要するに、本論文は氷表面に対する分子の取込過程および光反応過程の詳細を実験的に明らかにし、NO2分子の氷表面に対する取込メカニズムおよび光反応過程に関して定量的に新しい知見を加えた。さらに実験手法の複合化により、表面実験化学において新しい知見を取得しうることを示したものであり、化学システム工学の発展に寄与するところが大きい。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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