学位論文要旨



No 119785
著者(漢字) 木村,正子
著者(英字)
著者(カナ) キムラ,マサコ
標題(和) アジア太平洋地域における卵形赤血球症の分子・民族疫学
標題(洋) Molecular- and ethno-epidemiology of ovalocytosis in Asian-Pacific region
報告番号 119785
報告番号 甲19785
学位授与日 2005.01.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4605号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 石田,貴文
 東京大学 教授 青木,健一
 東京大学 教授 北,潔
 東京大学 講師 井原,泰雄
 東京女子医科大学 教授 高桑,雄一
内容要旨 要旨を表示する

 赤血球形態の顕微鏡観察により、これまでに、卵形赤血球症ovalocytosisがアジア太平洋地域に住む人類集団中に比較的高い頻度で見出されてきた。世界の他の地域で見つかる卵形赤血球症および楕円形赤血球症は、孤発的で溶血性貧血を伴うものがほとんどだが、このアジア太平洋地域で多く見つかる卵形赤血球症は、多いところでは集団中の約半数までの高い頻度で見つかる点、臨床的に無症状である点が特徴とされ、東南アジア型/メラネシア型卵形赤血球症Southeast Asian/Melanesian ovalocytosis(SAO)と呼ばれるようになった。

 SAOが高い頻度で報告される地域がマラリア流行地にあること、マラリア流行地における調査で同一集団中で子供より大人にSAOの頻度が高いことが報告され、SAOがアジア地域におけるマラリア抵抗性形質の一つであると考えられてきた。SAOのマラリア抵抗性を示唆する報告は次々となされたが、SAOの遺伝様式、マラリア感染率にあたえる影響、抵抗性を示すマラリア原虫種などに関しては、報告間で異なり、矛盾を残したままであった。

 マラリアに対して抵抗性を持つ遺伝的形質としては、有名な例としてアフリカでみられる鎌型赤血球貧血症があげられるほか、G6PD欠損症、サラセミア、Duffy血液型などが知られている。それらの形質の分子機序として、ヘモグロビン、赤血球酵素、膜タンパク質などの異常が解明されており、マラリア抵抗性を示す機構についてもほぼ明らかになっている。一方、SAOの原因となる分子機序としては、1991年にバンド3タンパク質をコードするバンド3遺伝子の27塩基対欠失(B3Δ27)が報告された。バンド3タンパク質は赤血球膜に存在し、膜貫通ドメインが陰イオントランスポーターとして、膜内ドメインが細胞骨格系タンパク質を膜につなぎとめるアンカーとして働く。B3Δ27を持つバンド3遺伝子の産物は、膜貫通ドメインと膜内ドメインの境界部位の9アミノ酸が欠失しており、その両ドメインの働きが影響を受けることが明らかにされている。この欠失はヘテロ接合で存在すると卵形赤血球症を呈するが、ホモ接合体の生存例が見つかっていないことからホモ接合体は胎児期に致死であるとされている。B3Δ27による卵形赤血球症が、そのマラリア抵抗性によって選択されてきたならば、B3Δ27はマラリアによる淘汰圧の下での平衡多型の例として考えられる。ほとんどのB3Δ27の報告がアジア太平洋地域からなされていることを考えると、アジア太平洋地域における人類集団のマラリアへの遺伝的適応という観点からも、この形質は非常に興味深い題材であるため、卵形赤血球症とマラリアについて分子-民族疫学的研究をおこない、そこで得られた知見を本論文としてまとめた。本論文の第I部では、卵形赤血球症についてこれまでになされてきた研究を中心に本研究の背景を紹介し、第II部では、B3Δ27についてその分布と起源についての研究結果をまとめた。第III部では、B3Δ27とそれ以外の機序による卵形赤血球症についてマラリア抵抗性との関連を調べ、第IV部では本研究全体の総括をおこなった。

 B3Δ27がSAOの分子機序として報告された以後、少数の個体や集団でその存在が確認されたとの報告はあったものの、広くアジア太平洋地域での分布は明らかにされていなかった。そこで、本論文第II-1章では、タイからマレーシア、インドネシア、台湾、フィリピン、パプアニューギニアにかけての地域に住む44集団、計3881人についてPCR法を用いてB3Δ27のスクリーニングをおこない分布を明らかにした。その結果、赤血球形態の観察によってこれまでに報告されてきたSAOの頻度と比較して、B3Δ27の頻度が低いことが判明し、これまでに赤血球形態の観察により報告されてきたSAOにはB3Δ27以外の原因によるものが含まれていた可能性と、同じ民族集団とされている中でもB3Δ27の分布が集団によって大きく異なっている可能性が考えられた。そして、本研究ではB3Δ27の分布がオーストロネシア語族の集団の分布とよく一致していることが観察された。オーストロネシア語族の集団は、現在ではアジアから遠く離れたマダガスカル島などの地域にも住んでおり、それらの地域にもB3Δ27が分布しているとの報告があることを考えると、B3Δ27は、オーストロネシア語族の集団の移動とともに、アジア太平洋地域に拡散していったと考察された。

 B3Δ27の分布がアジア以外までの非常に広い地域にわたっていること、また、赤血球形態観察によりマレー半島とパプアニューギニアで高い頻度で見つかるSAOが同起源のものか否かで議論があったことなどから、第II-2章では、B3Δ27の起源を探るべく、バンド3遺伝子の塩基配列の変異を調べB3Δ27の連鎖多型を明らかにし、ハプロタイプ解析をおこなった。対象としたのは、アジア太平洋地域に住む様々な集団中のB3Δ27をもつ個体、およびアジア太平洋地域と他の地域の一般集団であり、ハプロタイプの推定は、SSCP法を用いて個々の多型の遺伝子型を決めたのちPHASEプログラムを用いておこなった。さらに、B3Δ27についてはハプロタイプの推定のみではなくallele-specific PCR法によって直接、連鎖多型を決定した。この結果、B3Δ27を持つバンド3遺伝子が、全て同じハプロタイプを持つことが示され、B3Δ27が単一起源であることが強く示唆された。B3Δ27が生じた染色体のものと考えられるハプロタイプの分布を一般集団中で調べたところ、その頻度は低いながらも、東南アジア大陸部からインドネシア島嶼部にかけて見つかるのに対し、オーストロネシア語族の起源とされている台湾には見つからず、またフィリピン、ニューギニア高地でも見つからなかった。このことから、B3Δ27は、ニューギニアや台湾の方よりは、アジア大陸から島嶼部で起きた可能性が高いと考えられた。考古学的・言語学的研究から推定されているオーストロネシア語族の移動の時期と、現在のB3Δ27の分布とを考えると、B3Δ27は紀元前三千年から紀元前二千年くらいの時期に、アジア太平洋地域に拡散してゆくオーストロネシア語族の集団中の遺伝子プール内に増え、その後、創始者効果や遺伝的浮動、またマラリアによる選択淘汰を通じて広がっていったと考察された。

 赤血球形態の観察によって報告されてきたSAOと今回明らかにしたB3Δ27の頻度の間に大きな差があったこと、実際にB3Δ27を持たない卵形赤血球症の例も見つかったことなどから、SAOとして報告されたものの中に含まれるのが、B3Δ27だけではない可能性が示された。SAOとマラリアの関係については報告間で異なった結果を示すものが多かったため、卵形赤血球症とマラリアの関係を明らかにするには、分子機序の異なるものは、個々についてマラリア抵抗性を評価することが重要となる。そこで第III部において、卵形赤血球とマラリアの関係を明らかにすべく、卵形赤血球症をB3Δ27によるものとそれ以外のものに分類し、それぞれについてマラリア感染率および感染しているマラリア原虫の種類について研究をおこなった。

 第III-1章では、まずB3Δ27による卵形赤血球症について、マラリア感染による症状を呈する人(n=129)と健常人(n=231)の間でB3Δ27の頻度を比較したが、有意な差はみられず(P>0.8)、B3Δ27はマラリア感染による有症状率には影響を与えないことが明らかになった。また、マラリア感染者については感染原虫の種類についても分類し、原虫種ごとでB3Δ27の頻度を比較したが、マラリア原虫の種類による差はないことが判明した。最近のニューギニアにおける研究の報告では、B3Δ27は脳性マラリアに対して抵抗性を示すことが明らかにされており、本研究の結果とあわせて考えると、B3Δ27は感染を防ぐのではなく感染後の症状の重篤化を防ぐことにより、マラリアへの抵抗性に寄与していると考えられた。

 次に第III-2章では、ボルネオ島東部の人類集団中に見られたB3Δ27以外の原因による卵形赤血球症について、塗沫標本上でみられる卵形赤血球の割合と、マラリア感染との関係を調べた。その結果、赤血球のうち50から100%が卵形を示す個体では、有意にマラリア感染率が低下していることが観察された(P<0.05)。この集団でみられたように、B3Δ27以外の機序によっておきる卵形赤血球症で、マラリア感染率を有意に低下させる働きを持つものがあることが示されたことから、SAOのマラリア抵抗性に関する報告に見られる矛盾点は、複数の異なる機序による卵形赤血球症をSAOという一つの形質として扱ったことによって生じたものと考えられた。

 そこで、このようなB3Δ27以外の卵形赤血球症の分子機序を明らかにすることを目的として、第III-3章では赤血球膜タンパク質の研究をおこなった。第II部のスクリーニングの過程で見られたB3Δ27以外の原因による卵形赤血球症の血液試料について、卵形赤血球症をきたす原因として報告がある膜タンパク質のグリコフォリン、スペクトリン、バンド4.1についてウェスタンブロッティング法を用いて調べた。その結果、スペクトリンとバンド4.1のいずれかのタンパク質が検出されないもの、および発現量が低下しているものが見つかったが、異なる泳動度を示すものは見られず、また今回調べたタンパク質については異常が検出されないものもあった。このことから、アジア太平洋地域において見られる卵形赤血球症には、B3Δ27以外の原因によるものが複数存在し、その原因としては、スペクトリン、グリコフォリン、バンド4.1やその他の分子機序を持つものが含まれる可能性が示された。

 以上の研究の結果より、赤血球形態の観察によってアジア太平洋地域でSAOとして報告されていた卵形赤血球症は、B3Δ27による単一の形質ではなく、バンド3タンパク質以外の様々な分子機序の関与があったと考えられた。B3Δ27は、ハプロタイプ解析の結果から単一起源であると考えられ、紀元前三千年から紀元前二千年頃に東南アジア島嶼部のオーストロネシア語族の集団中で頻度が高くなった後、マラリアによる選択も手伝って人類集団の分布拡散に伴い、現在のようにアジア太平洋地域に住む様々な人類集団中に広く存在するようになったと考えられた。B3Δ27のマラリア抵抗性は感染を防ぐというより、マラリア感染後の症状の重篤化を抑えることによると考えられた。それに対し、本研究ではマラリア原虫の感染に抵抗性を示す例がB3Δ27以外の機序による卵形赤血球症で見いだされた。今後アジア太平洋地域における卵形赤血球症とマラリアの関係を解き明かしていく上で、その分子機序の解明が、非常に重要となると考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

 卵形赤血球症はアジア太平洋地域に住む人類集団中に比較的高い頻度で見いだされ、その分布をもとに東南アジア型/メラネシア型卵形赤血球症Southeast Asian/Melanesian ovalocytosis (SAO)と呼ばれている。SAOの疫学的調査から、SAOがアジア地域におけるマラリア抵抗性形質の一つである可能性が指摘されてきたが、その有無、機構に関しては、報告間で異なる見解が示され、矛盾を残したままであった。SAOの原因となる分子機序としては、バンド3タンパク質をコードする遺伝子の27塩基対欠失(B3△27)が報告された。この欠失はヘテロ接合体で卵形赤血球症を呈するが、ホモ接合体は胎児期に致死であるとされている。B3△27による卵形赤血球症が、そのマラリア抵抗性によって選択されてきたならば、B3△27はマラリアによる淘汰圧の下での平衡多型の例として考えられる。この形質は、アジア太平洋地域における人類集団のマラリアへの遺伝的適応という観点からも非常に興味深く、卵形赤血球症とマラリアについて分子-民族疫学的研究をおこない、得られた知見をまとめたのが本論文である。

 本論文の主文は4つの部分から構成されている。第I部で研究全体の背景の説明と位置づけがなされ、第II・III部に研究成果が提示され、第IV部が全体のまとめに充当されている。

 第I部では、卵形赤血球症についてこれまでになされてきた研究を中心に本研究の背景が紹介されている。

 第II部のII-1章では、アジア太平洋地域に住む44集団、計3881人についてB3△27の分布検索をおこない、これまで顕微鏡観察から報告されてきたSAOの頻度に比べB3△27の頻度が低く、SAOにはB3△27以外の原因によるものが含まれていることを示唆した。B3△27の分布がオーストロネシア語族の集団の分布とよく一致していたことから、B3△27はオーストロネシア語族の集団の移動とともに、アジア太平洋地域に拡散したとの説を提唱した。II-2章では、B3△27の起源を探るべく、バンド3遺伝子の塩基配列の変異を調べ、ハプロタイプの同定と解析をおこなった。その結果、B3△27を持つバンド3遺伝子は全て同じハプロタイプを持つことが示され、B3△27が単一起源であることを強く示唆した。B3△27を担うハプロタイプの分布からB3△27は、アジア大陸から島嶼部で起きた可能性が高いと考えられた。考古学的・言語学的知見と併せ、B3△27は紀元前三千年から紀元前二千年の時期に、オーストロネシア語族内に生成・伝播したと考察し、初めてB3△27の由来に言及することが出来た点は、人類学・民族学的見地からも高く評価されるものである。

 第III部のIII-1章では、B3△27による卵形赤血球症について、B3△27はマラリア感染による有症状率には影響を与えないことを明らかにした。また、マラリア感染者においては、B3△27の存在とマラリア原虫の種類には関連が無いことが判明した。本研究の結果に臨床疫学のデータを援用すると、B3△27は感染を防ぐのではなく感染後の症状の重篤化を防ぎ、マラリアへの抵抗性に寄与していることが考えられた。III-2章では、B3△27以外の原因による卵形赤血球症とマラリア感染との関係を調べ、高頻度で赤血球が卵形を示す個体では、有意にマラリア感染率が低下していることが観察され、B3△27以外の機序によっておきる卵形赤血球症にマラリア抵抗性の存在が示された。III-3章ではB3△27以外の原因による卵形赤血球症において、膜タンパク質のスペクトリンとバンド4.1の関与が示され、アジア太平洋地域における卵形赤血球症の分子基盤は複数存在することが示された。

 以上より、本論文では、これまで顕微鏡観察によってSAOとして報告されていた卵形赤血球症には、様々な分子機序に起因するものがあること、B3△27の起源は単一であり紀元前三千年から紀元前二千年頃に東南アジア島嶼部のオーストロネシア語族に遡ること、B3△27はマラリア感染を防ぐのではなく症状の重篤化を抑えることを明らかにすることにより、先行研究の不備を補い、矛盾を解明した点は人類学のみならず基礎医学の視点からも高く評価される。さらに、アジア太平洋地域における人類の拡散と小進化を研究する上で、有用な分子指標を提示し得たことは、今後の発展が大いに期待されるものである。

 本論文は石田貴文他との共同研究に基づいている。石田は指導教員として、その他の共同研究者は試料・抗体提供者の立場から共著者として参画している。本論文の実験・解析は論文提出者が終始主体となっておこない、その論文への寄与は十分と判断される。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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