学位論文要旨



No 119788
著者(漢字) 牧田,東一
著者(英字)
著者(カナ) マキタ,トウイチ
標題(和) フォード財団と国際開発レジーム形成
標題(洋)
報告番号 119788
報告番号 甲19788
学位授与日 2005.01.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第536号
研究科 総合文化研究科
専攻 国際社会科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古田,元夫
 東京大学 教授 酒井,哲哉
 東京大学 教授 中西,徹
 東京大学 助教授 遠藤,貢
 明治学院大学 教授 竹中,千春
内容要旨 要旨を表示する

 アメリカの民間財団であるフォード財団(以下、財団と略す)が国際開発の初期、すなわち1950年代から60年代の初めに、どのような背景の下に活動を行い、それがどのような意味を持っているのかを問うことが本論文の目的である。筆者は、財団は当時のアメリカ・リベラルの牙城であり、彼らの信ずる主張を実現する装置として財団が活用されたと考えている。ここでいうリベラルとは、古典的な自由主義者のことではなく、ニューディール改革に見られるように、むしろ修正自由主義者、リベラル・リヴィジョニストのことである。彼らは、政府に経済開発における重要な役割を与えており、政府による計画や市場管理が経済開発を促進しつつ、貧困の軽減などの社会政策と調和を持って国家運営がなされるべきと考えていた。

 50年代の初めにアメリカを中心に始められた国際開発は、少なくともアメリカの文脈においては、こうしたリベラルの政治経済観の世界への投影であると筆者は考える。そこには、やや弱体化していたとはいえ、まだ強かったウィルソン主義的な国際主義が加わっていた。つまり、アメリカの国内の政治経済秩序を世界に普及していこうとする考え方である。そうしたアメリカの20世紀後半における国際主義プロジェクトは、日本とドイツの占領政策による社会の民主化、マーシャル・プランを通しての欧州各国の政治経済秩序のアメリカ化に次いで、国際開発という名の下に開発援助を通じて、当時次々と独立しつつあったアジア、アフリカ、ラテン・アメリカの国々に対しても行なわれていったのである。こうした壮大なプロジェクトを動かしていたのが、当時のアメリカ・リベラルたちであり、彼らが支配した重要な組織の一つがフォード財団であったと筆者は考える。

 序章の「はじめに」では研究を開始するに至った筆者の問題意識と本論文の形式要件について説明している。本論文では先行研究を3種類に分け、第1節では国際開発に関する先行研究を扱っている。これらは、「国際開発のアイディアの歴史的研究」、「国際開発の制度史的研究」、「外交史的研究」に分類され、本論文の立場から批判的に検討されている。第2節では第2次世界大戦後の国際秩序へのアメリカの国内社会秩序の影響に関する先行研究を取り上げている。フォード財団の活動もまさにこうした影響力の一部を構成していたと考えるからである。第3節では民間財団とはどのような制度であるのかに関する先行研究を扱っている。グラムシの文化的ヘゲモニー概念を用いて、アメリカの民間財団はリベラルと保守派の文化的ヘゲモニー葛藤における影響力行使の装置であると本研究では位置付けている。また、アメリカの民間財団がしばしばアメリカの国家機能の一部を担ってきた状況をさして、連合国家associative state論が主張されており、本研究でもこの立場を踏襲している。

 第1章ではアメリカにおけるフォード財団の姿を簡単に紹介している。第1節では財団の設立経緯、規模、活動の内容を概説し、第2節では50年~60年代前半の主要な財団スタッフについて説明している。第3節ではマッカーシズムと闘った市民権擁護の活動、都市貧困層の問題を扱ったグレイエリアと呼ばれたプログラム、そしてフェミニズムへの支援とその学問的制度化の問題を概説している。これらは、50~70年代のフォード財団の代表的なliberal causesである。第4節では財団活動全体におけるインド、ビルマ、インドネシアでの国際開発協力の活動の位置付けなどを概説している。

 第2章は1951年から1960年代半ばまでの財団のインドにおける活動を扱っている。第1節ではインドにおける国際開発プログラムが、どのような国際関係上の背景と財団の考えで開始されたかを論じている。ネルー首相とポール・ホフマン理事長の国際開発に関する合意があり、それは両者の国際平和に関する共通認識を反映していたことを示唆している。

 第2節では1951-55年のインド政府国家開発5ヵ年計画の時期の財団の活動を述べている。この時期の中心はインド政府が開始したコミュニティ開発への支援であり、この契機となったエタワー・プロジェクトを含めて、アメリカ政府と財団がコミュニティ開発に傾倒していき、また、後にコミュニティ開発が「失敗」と見なされていった経緯と今日的評価を述べている。

 第3節では1956-60年の第2次5カ年計画の時期を扱い、この時期の特徴であった工業化の象徴である製鉄所建設への財団の関与、また工業化と相互補完的に考えられていた農村産業、小規模産業振興への協力、また、この時期に始まった社会科学への助成を扱っている。

 第4節では、1961-65年の第3次5カ年計画の時期を対象とし、この時期の最大のプロジェクトであり、後の緑の革命を準備したと言われる集約的農業郡プログラムを中心に、家族計画、経営学、大学を中心とする教育援助の方向転換を扱っている。この時期から、インド型社会主義から選択的投資へとフォード財団の関与のあり方が変わっていったことを示している。

 第5節は、小括として、アメリカ政府をはじめとする各国政府の対インド援助と財団の援助の規模を比較し、それが量的にどの程度の意味を持っていたかを示している。(第3、4章も同様なので、以下略)。ネルーの率いたインド政府と財団の関係が、異なる政治経済思想の混在と競争の中での同盟関係であったこと示し、また、財団がインドで影響を与えていくときに、どのような方法(影響力の技法)をとったのかを分析している。最後に、民間財団がアメリカ、インドの両政府と緊密な協力関係を築いていくことの意味を、連合国家というアメリカ特有の国家のあり方との関連で論じている。

 第3章は1952年から1962年代までの、財団のビルマにおける活動を扱っている。第1節ではビルマにおける国際開発プログラムが、どのようなアメリカ=ビルマ関係を背景として開始されたかを論じている。そこでは、相互安全保障法による経済援助のひも付き化の結果として、ビルマ政府がアメリカ政府経済援助を拒否し、アメリカの経済協力機関が不在となったために、財団が招かれたことが明らかにされる。

 第2節では1952-58年のビルマ政府国家開発8ヵ年計画の時期の財団の活動を述べている。行政改革、文化機関支援、技術教育、農業開発・コミュニティ開発のプロジェクトを概説している。文化援助へのアメリカ・リベラルの関与の仕方を論じ、フォード財団の技術協力がアメリカの国内で活動していた非営利組織(NPO)によって担われていたことを示し、その意味を考察している。最後に、財団が主として関わったinstitution building(制度・組織作り)の手法と問題を取り上げている。

 第3節では1958-60年のネ・ウィン将軍による選挙管理内閣の時代と、総選挙で復活したウ・ヌ首相による60-62年のピダウンス政権時代の活動を扱い、その後の歴史の展開に大きな影響を与えたビルマの国家開発の「失敗」とはどういう意味であったのかを再考している。また、ビルマの政権を担ったビルマ社会党の民主的な社会主義者たちの思想と、フォード財団に代表される当時のアメリカ・リベラルの思想の違いと、両者の協力における妥協のあり方について考察している。

 第4節ではビルマの国家建設にアメリカ・リベラルがどのように関与していたのかを考察し、彼らがニューディールの経験を下敷きにしたという事の意味を分析している。また、ビルマの国家開発の「失敗」との関連において、中断した財団の活動をどのように評価することが出来るのかを論じている。

 第4章は1952年から1965年までの、財団のインドネシアにおける活動を扱っている。第1節ではインドネシアにおける国際開発プログラムの開始がどのようなアメリカ=インドネシア間の国際関係を背景としていたのか、財団はどのような考えで開始したのかを論じている。また、財団の協力相手であったインドネシア社会党系の知識人について概説している。

 第2節では1950-57年のインドネシアにおける議会制民主主義の時代の不安定な政治状況と、アイゼンハワー政権のダレス国務長官によるインドネシアの外島分離独立への介入という秘密外交について概説し、それがいかにフォード財団に困難をもたらしたかを分析している。また、アメリカ政府の冷戦外交に基づく性急な介入政策と財団の開発協力を長期的な観点から比較している。

 第3節では1958-65年のスカルノによる指導される民主主義の時代に始まった財団のプロジェクトを扱っている。インドネシア大学等での経済学部支援を叙述し、その中で財団がいかにインドネシア社会党系知識人と協力関係を維持しようとしたかをみている。これらの知的機関への関与が、9月30日事件以降のスハルト政権での財団の復活につながったのである。また、フォード財団とインドネシア社会党系知識人の協力関係の内容と変化を分析し、この協力関係から出来上がった知識人ネットワークについて述べている。

 第4節では、インドネシア社会党系知識人と財団の協力関係が、様々な地域でのアメリカ・リベラルと民主的社会主義者との協力関係の一部であったことを示唆している。また、50~60年代の財団の活動を、アメリカによるアジアでの「知識の生産・再生産の制度・組織作り」という観点でまとめ、その後の時代への影響と意味を考察している。

 終章では、初めに、第2~4章で扱ったインド、ビルマ、インドネシアにおけるフォード財団の活動とその結果について、相違点に焦点をあてながらまとめている。

 次に、国際開発史研究、戦後国際秩序へのアメリカの国内秩序の影響に関する研究、そして、アメリカの民間財団研究の3つのグループの先行研究毎に、本研究がどのような新しい知見を提示することが出来たのかを論じている。

審査要旨 要旨を表示する

 提出された論文「フォード財団と国際開発レジーム形成」は、アメリカ合衆国の代表的な民間財団であるフォード財団の、1950年代から60年代初頭のインド、ビルマ、インドネシアにおける活動を、ケネディ政権の登場によって本格的には形成されてくる「国際開発レジーム」の前史として、実証的にあとづけ検討したものである。

 論文は序章と終章を含めて6章から構成されている。序章では、1950年代の国際開発レジームの形成期におけるフォード財団の活動を実証的に論ずることを通して、フォード財団に象徴されるアメリカの政治経済の規範が、どのように国際開発レジーム形成過程に持ち込まれたのかを探るという、本論文の基本的問題意識を提示し、国際開発史研究、戦後国際秩序へのアメリカの国内秩序の影響に関する研究、アメリカの民間財団研究という三つの研究領域での先行研究の検討が行われている。

 第1章「アメリカにおけるフォード財団」では、フォード財団が、ニューディール以来の、政府に経済開発における重要な役割を与え、政府による計画や市場管理が経済開発を促進しつつ、貧困の軽減などの社会政策と調和を持って国家運営がなされるべきだと考えるリベラル・レヴィジョニストという意味でのアメリカ・リベラルの牙城であったことが提示されている。

 第2章「インドにおけるフォード財団」では、1951年から60年代半ばまでの財団のインドにおける活動を扱っている。インドに対するフォード財団の援助は、カナダやフランスの政府開発援助に等しい規模に達し、国際開発レジームがまだ整っていなかった50年代においては特に大きなインパクトをもっていた。フォード財団とネルーのインド政府は、開発と平和の間の因果関係についての共通の理解を基礎とした緊密な関係、アメリカ・リベラルと途上国の社会主義者の同盟の典型ともいえる関係を結び、50年代からネルーの死の頃までは、フォード財団はインド政府計画委員会の内部に食い込み、国家開発においてインド政府とあたかも融合したかのような、民間フィランソロピーとしては至高の時をもった。個々の開発プロジェクトは、当初の期待どおりの成果をあげられなかったが、財団の影響力の技法は、途上国政府からの活動への正統性の獲得、政策実験によるデータの集積と開発プロセスの研究、途上国の知識人を巻き込む国際開発に関わるアメリカの大学を中心とする国際的知識共同体の形成、という国際開発レジームの形成につながる性格をもっていた。

 第3章「ビルマにおけるフォード財団」では、1952年から1962年までの財団のビルマにおける活動を扱っている。ビルマにおけるフォード財団の活動は、アメリカ政府の援助が相互安全保障法によってひも付きになり、ビルマ政府がそれを拒否するという状況ではじまり、財団はビルマ政府にとって、規模と安定継続性という両面で、アメリカ政府より優れた援助機関であった。ビルマでの財団の活動も、ウ・ヌ首相を中心とするビルマ社会党の社会主義者との緊密な関係を軸に展開されるが、その中で生じたアメリカ・リベラルとビルマの社会主義者との葛藤は、前者の側のより大きな妥協によって解決されることが多かった。ビルマでの財団の活動は62年のクーデタで断絶を余儀なくされるが、財団がビルマに蒔いたリベラルな知識生産・再生産システムの種は、制度・組織づくりの失敗の残滓としてではなく、未完のプロジェクトとしての意味を持ち続けている。

 第4章「インドネシアにおけるフォード財団」では、1952年から65年までの財団のインドネシアにおける活動を扱っている。フォード財団が主要な提携の相手としたインドネシア社会党系の知識人は、インドネシアにおける反米主義の台頭で、野党的な立場においやられていった。このために財団が活動を許容される空間は限定されざるをえなかったが、そこで展開されたインドネシア大学等での経済学部支援は、のちに「バークレイ・マフィア」などと呼ばれるスハルト政権下で活躍する経済テクノクラートの養成に結実し、財団のアジアにおける知識の生産・再生産の制度・組織づくりという面での大きな影響力を示す一例となった。

 終章では、インド、ビルマ、インドネシアにおける財団の活動を、その相違点を中心にまとめなおした上で、本論文の意義が、国際開発史、戦後国際秩序へのアメリカの国内秩序の影響、アメリカの民間財団という三つの研究領域でまとめられている。短期的な視点からは失敗とみなされるかあるいは無視されることが多かった1950年代のフォード財団の国際開発が、国際開発レジームの形成を準備し、現実に今日に至るまで、アメリカをはじめとして多くの先進国を途上国の開発問題に関与させることに成功したという意味において、成功であったと評価すべきであるとしている。

 本論文の最大の意義は、フォード財団の1950年代のインド、ビルマ、インドネシアにおける国際開発活動を、財団の文書館に所蔵される莫大な一次資料を活用することによって、きわめて実証的に解明したという点にある。このような研究は、アメリカでもなされておらず、国際的にも開拓的成果とみなしうる成果である。775頁、120万字に近い大作であるが、その実証研究としての密度もきわめて高いものと評価されよう。

 第二に、本論文は、従来は冷戦という文脈で論じられることの多かった1950年代の国際開発の活動を、フォード財団に貫かれている、ニューディール、マーシャル・プランに連なるアメリカ・リベラルの国際展開という、より長い歴史的視座から論じた研究という意義を有している。

 第三に、本論文は、国際開発史では軽視されてきた1950年代に着目し、この時期のフォード財団の活動が、1960年代に本格的に制度化される国際開発レジーム形成の前段階の政策実験として大きな意味をもったことを提示し、フォード財団の影響力形成の技法であった知識人のネットワークの形成が、国際開発レジームの発展にとって長期的に大きな意味をもったことを説得的に提示している。

 第四に、本論文は、アメリカの財団側からだけでなく、途上国の側の文脈から、フォード財団の活動の意味を問い直しており、財団の主たる協力者として民主的な社会主義者を摘出しており、彼らとアメリカ・リベラルの提携においては、アメリカ・リベラルの側の妥協で協力が成立するケースが多かったという、興味深い論点が提起されている。これは、アジアにおける社会民主主義、アジアの対米関係の研究にも、新しい問題提起を投げかける意義をもっている。

 審査ではいくつかの問題点も指摘された。それは、国際開発レジームという概念が未成熟で、こうしたトランスナショナルな公共空間においてフォードのような民間財団がどうような位置を占めるのかが、まだ必ずしも明確でない、アメリカ・リベラルに対する過大評価があるのではないか、フォード財団とフォード自動車が一体でないことは理解できるが、財団を企業活動という側面からも検討する必要があるのではないか、フォード財団にとっての低開発の原体験や第二次世界大戦の意味などにも踏み込んでほしかった、などのコメントや注文である。審査委員会は、これらの問題点についても議論したが、これらは基本的には、論文提出者の今後の課題の指摘であり、今回の提出論文の意義を損なうものではないと判断した。

 したがって、本審査委員会は提出論文が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

UTokyo Repositoryリンク