学位論文要旨



No 119790
著者(漢字) 荒谷,大輔
著者(英字)
著者(カナ) アラヤ,ダイスケ
標題(和) 捻れたイマージュ : ベルクソンにおける認識論と存在論の交錯
標題(洋)
報告番号 119790
報告番号 甲19790
学位授与日 2005.02.16
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第464号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 熊野,純彦
 東京大学 教授 佐藤,康邦
 東京大学 教授 菅野,覚明
 東京大学 助教授 榊原,哲也
 慶応義塾大学 助教授 石井,敏夫
内容要旨 要旨を表示する

 ベルクソンは、「イマージュ」という概念を用いて、観念論と実在論という哲学上の対立を乗り越えようとした。我々が知覚する限りにおいてあるものと、知覚とは無関係に存在するものの間の関係について、互いに対立した世界観を提示する観念論と実在論という二つの哲学を、イマージュというある特殊な概念を導入することによって、総合的に統一しようと試みようとしたのである。

 だが、しかし、まさにそうした企図をもつことによって、ベルクソンのイマージュ論は、非常に多くの解釈上の困難を引き起こすものとなった。イマージュとは、一方において、「感覚を開いたときには知覚され、閉じたときには知覚されない」[MM,11]ような、我々の知覚に強く依存するものでありながら、しかし、他方において、「知覚する意識とは無関係に存在する」[MM,2]ものでもあるともいわれる。ベルクソンは、イマージュというひとつの概念に、知覚と存在という二つの側面を同時に含ませることによって、観念論と実在論の対立を乗り越えようとした。が、しかし、まさにそのことによって、イマージュ論は、解釈者によって「実在論」と見なされたり、「観念論」と評価されたり、整合的な解釈を許さないものとなったのである。

 こうした解釈の困難は、認識論と存在論という、哲学における二つの問いの立て方の間に存する捻れに由来するものであるといえるだろう。「我々に知られうるものは何か」を問う認識論は、ロックにはじまる近代の認識批判以降、「存在するものとは何か」を問う存在論から峻別されるべきものとなった。我々に与えられる経験に忠実に世界を理解しようとする理論は、我々の認識を超越した存在の原因の探求から、厳然と区別されなければならないことになったのである。ベルクソンのイマージュ論は、我々の知覚と端的な存在の区別を、イマージュという同一の概念における「程度の差異」とみなすことによって、近代の哲学が厳密に区別してきた問題設定を逸脱していることになる。イマージュ概念が、とりわけ難解なものであるのは、それが、哲学が歴史的に規定してきた問いの枠組みを越え出るものであるからだということができるのである。

 では、そうした逸脱をもって、ベルクソンのイマージュ論は、無意味なものとして退けられるべきなのだろうか。そうではないということを示すのが本論の課題である。本論の検討を通じて、ベルクソンのイマージュ論が、これまでの哲学の歴史的な規定を無視して打ち立てられているものではなく、むしろ、これまでの枠組みを引き受けながらも、そこでは扱えきれない事柄を掘り出し、哲学の枠組み自体を乗り越えようとするものであったことが明らかになる。ベルクソンのイマージュ論を、哲学の歴史に照らして考察することによって、その整合的な解釈が可能になると同時に、それが哲学の歴史において、ある根源的な見直しを求めるものであったことが明らかになるのである。

 イマージュ論とは、認識批判が設定した枠組みを無視し、独断的な形而上学へと立ち戻るものなのだろうか。第一部において我々は、ベルクソンのイマージュ論が、決して経験から超越して立てられたものではないことを示すことになる。与えられた経験に対して忠実になるという点に関しては、むしろ、ベルクソンは従来の経験論よりももっと徹底していたということができるのである。『意識に直接与えられるものについての試論』から『物質と記憶』に至るまで、ベルクソンは、ある意味において一貫して、純粋に時間的な様態において「意識に与えられる経験」に忠実であろうとした。こうした観点からするならば、「経験論が誤りであるのは、経験を高く評価しすぎたことにあるのではなく、むしろ、真の経験、つまりは精神が対象と直接的に接触することから生まれる経験のかわりに、バラバラにされた経験をおいたことにある」[MM, 204]ことになるだろう。ベルクソンは、経験論よりも一層経験に忠実であろうとしたということができるのである(第一章)。

 だが、そうして求められるような「純粋に時間的な経験」とは、どのような身分をもつものなのだろうか。ベルクソンによれば、徹底した「認識批判」の果てに見いだされる純粋な持続とは、必然的に純粋な記憶であることにある。しばしば、ベルクソンの「独断」の代名詞としても語られる「純粋記憶」における過去の残存という事柄について、それが決して経験を超越したものではなく、かえって我々の時間的な経験を構造的に突き詰めていった結果必然的に規定されるものであることが示されるだろう。我々の経験が、本性的に時間的なものである限りにおいて、我々に与えられる直接的な経験は、「記憶」として保持されるものであることになるのである(第二章)。

 こうして、純粋記憶という特異な様態において与えられる経験を自らの理論の基底におくことで、ベルクソンにおいては、従来の経験論においては問題となり得なかった問いに対して答えなければならないことになる。すなわち、純粋に時間的な様態における経験が、どのような構造によって、通常見いだされるような空間によって画される経験へと、その本性を転回することになるのかという問題である。そうした本性を異にする二つの経験を取り結ぶことは、カントの図式論において焦点となる事柄であったが、ベルクソンにおいてもまた、その転回が図式という概念によって説明されることになる。第一部においてイマージュ論を認識論的に突き詰めていく試みの最後となる第三章では、そうした経験の転回の構造が明らかにされることになるのである。

 だが、第一部を通じて展開される認識論的イマージュ論は、まさに問題を認識論的なものに設定していたことにおいて、ある予断を持っていたことになる。そこに経験が与えられるところの「私」なるものを暗黙のうちに前提していたことにおいて、認識論的な問題設定は、ベルクソンのイマージュ論を解釈しきれないことになるのである。第二部において、従来の認識論的な理論における「私」の身分を確認することで、とりわけ直接的に与えられる経験に基礎をおくベルクソンの理論において、そこにおいて経験が与えられるものを「私」として解釈する限り、ある根源的なアポリアに至ることが示されることになる。イマージュ論は、認識論的な枠組みにおいて解釈されるかぎりにおいて、ある乗り越えがたい困難に出会わざるを得ないことになるのである(第一章)。

 こうして、第一部において展開された認識論的なイマージュ論を、その認識論的な枠組みを取り払って解釈することが求められることになる。「私」という意識主体を前提とせず、それでもなお、「与えられる経験」を超越することなく、イマージュ論を解釈することはいかにして可能となるのだろうか。我々はその鍵を、デカルトとベルクソンが相分かれる地点に見いだすことになる。思考それ自身の瞬間的な確実性を疑い得ないものとして見いだしたデカルトは、そこからすぐに「私」の存在の確実性を導き出した。だが、そうした「私」の導出はどのように正当化されるのだろうか。デカルト研究の知見を踏まえてながら、本論においては、瞬間的な思考の確実性から、「私」という時間を通じて同一の存在を導き出すことは、デカルトにおいて、ある超越的な媒介を経ることなしにはなしえないことが明らかになる。ベルクソンは、デカルトが見出した確実性に止まりつつ、いかなる「私」も前提することのない経験を描き出そうとしたということができる。ベルクソンのイマージュ論は、「私」という主体を前提にすることのないままに端的に存在する経験を、それが与えられる場を超越することなく、記述したものだということができるのである。そのためにも、瞬間的に立ち現れる現象の確実性が、いかにして時間的に持続するものとなるのか、存在における時間の構成を記述しなければならないだろう。第二部第二章は、第一部における認識論的イマージュ論の時間規定を読みかえつつ、立ち現れる現象の時間性を記述することに充てられることになる。

 続く第三章では、前章で見出されたような、純粋に時間的な様態において「私」という主体すらも無関係に紡がれていく存在から、いかにして具体的な諸特徴を備え、他と区別された存在者が立ち現れることになるのかが問われることになる。第三章におけるこうした問いは、我々が目にする具体的な存在者が存在するに至る構造を問う限りにおいて、「存在するとは何か」を問題にする存在論的な関心を伴うものであることになるだろう。すなわち、ここでは、いかなる「独断」にも陥ることなく、立ち現れる経験を超越することなしに記述される「形而上学」が志向されることになる。『物質と記憶』初版の序文にベルクソンが書いていたように、イマージュ論とは、「心理学」的に厳密な記述を通じてはじめて至ることができるような、「形而上学」の構築を目指すものであることになるのである。第一部第三章において展開された経験の転回の構造の記述から、認識論的な枠組みを取り外すことによって、イマージュ論における存在の出来の構造を記述することができることになる。こうして、認識論が設定した厳密な批判を受け継ぎながら、認識論がなおも前提としていた枠組みを取り外し、立ち現れる事柄に忠実になることで、経験を超越することない存在論を記述することができることになるのである。

 ベルクソンのイマージュ論は、哲学の歴史が紡いできた問題の設定を継承しつつ、そうした設定自体が生み出してきた観念論と実在論などの対立を、枠組み自体を根元から見直すことで、乗り越えることに成功したということができるのである。

審査要旨 要旨を表示する

 ベルクソンの主著『物質と記憶』は、なお解釈が一定しない一書である。そのことは、『物質と記憶』の中心概念である「イマージュ」についても当てはまる。実際ベルクソンは、イマージュは「感覚を開いたときには知覚され、閉じたときには知覚されない」存在であると書くことでイマージュの観念論的な性格を主張する一方で、イマージュは「知覚する意識とは無関係に存在する」ものであると記すことで、その実在論的な性格を強調する。ベルクソン自身の、一見矛盾した説明が、整合的な理解を阻んできたのである。

 本論文はまず「序論」で『物質と記憶』の解釈史を辿りながら、イマージュをめぐる統一的な理解を追及すべきことを宣言する。荒谷氏によれば、認識論と存在論とが交錯する場面でイマージュ概念の意味は見定められなければならず、その場面でこそまた、ベルクソンが観念論と実在論を同時に乗り越えた次第が見届けられるべきなのである。

 本論文の第一部はまずアリストテレス以来の存在論がロック以後の認識批判によって超克された事情を確認し、イマージュ論が認識批判の成果を十分に踏まえた後に、しかも経験論よりも徹底して経験に内在しようとするものであったことを主張する。純粋に時間的な在り方において忠実に取り出された真の経験とは「記憶」であり、それを構造化するものは「図式」であることが説得的に明らかにされる。これがいわばイマージュ論の認識論的な側面にほかならない。だが、認識論的なイマージュ論は、まさにそれが認識論的なものであるがゆえに、経験がそこで展開する「私」の存在そのものを置き去りにしてしまう。そこで、本論文は第二部において、まず「私」の身分を認識論の歴史に即して確認し、「私」の存在をめぐる問題が、認識論的な地平においては解きがたい難問を提起することを確定する。それは一言でいって、デカルトがコギトの確実性のためにむしろ神による連続創造を要請し、カントが超越論的な主観の存在を要求した事情と関係しているのである。そのような確認を受けて本論文は、ベルクソンのイマージュ論が、「私」という主体を前提することなく、端的に生起する経験を描き出そうとするものであり、かえって「私」の生成そのものを存在論的に辿りなおそうとするものでもあったことを解明してゆく。

 本論文は総じて、位置づけの難しいベルクソン哲学を哲学史の文脈に着床させ、またイマージュ論における認識論と存在論の交錯という正統的な問題を、斬新な視角から解明するものである。解釈の細部にはもとより異論の余地もあり、研究史の踏まえ方にもなお不十分な面が見られるとはいえ、本論文がベルクソン研究の懸案のひとつに果敢に立ち向かい、以後の研究の礎を築こうとするものであることについては疑いを容れない。よって本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位を授与するに相応しいものと判断する。

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