学位論文要旨



No 119791
著者(漢字) 池田,知正
著者(英字)
著者(カナ) イケダ,ノリマサ
標題(和) 7世紀初頭までの突厥の勃興・拡大・分裂と東半ユーラシア史
標題(洋)
報告番号 119791
報告番号 甲19791
学位授与日 2005.02.16
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第465号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 平勢,隆郎
 東京大学 教授 小松,久男
 東京大学 助教授 吉澤,誠一郎
 東洋文化研究所 教授 鈴木,菫
 新潟大学 教授 関尾,史郎
内容要旨 要旨を表示する

 6世紀末に内乱状態に陥った突厥は,7世紀初頭までにモンゴリアとトルキスタンの政権に集約され,普通,前者は「東突厥」,後者は「西突厥」と呼ばれている。通説では583年に突厥が東西に二分したとされている。この通説と分裂に関する諸説を再検討したうえで,内乱が収拾する7世紀初頭までの突厥情勢を分析し,分権化の過程を検討することが本稿の第一の目的となる。その際,鉄勒・吐谷渾が突厥史において果たした役割をも浮き彫りにし,これらを通じて東半ユーラシア史と突厥史の結節点をみいだそうという目論見もある。また,伝統的実証史学に基づく諸研究には行論上の客観性にしばしば難点が伺える。そこで,本稿では歴史事象のもつ「多重併存性」・不連続性を温存する形で行論を展開し,歴史学の客観的な方法を試行する。これが第二の目的となる。

突厥の分裂を検証するために,まず,漢語としての「西突厥」の性格を明らかにしなくてはならない。極力,同時代に近い漢文史料を精査すると,突厥西部境域に対する呼称は,当初,一般的には「西面〔突厥〕」が認められる。「西突厥」という語の用例は統葉護可汗政権,古く見積もって射置可汗政権を指す不確かな使用例より遡らない。一方,「西突厥」という語が一般的化した後も仏僧の見聞による民間系史料には「西突厥」という語がみいだされない。また,『隋書』内部では「西突厥伝」と呼ばれるべき箇所が「突厥伝」と呼称されていることから,『隋書』編者の意識の中には「西突厥伝」という認識がなかった可能性がある。以上より,『隋書』西突厥条冒頭の「西突厥」は,唐で使用されていた「西突厥」という語を襲用したものか,元来,別語(「西面突厥」の可能性が最も高い)が用いられていたが,現行『隋書』では「西突厥」に置き換わってしまった可能性が有力であるが,後者の可能性がより高い。

 この結論は,『隋書』西突厥条冒頭文に強く依存した通説をはじめとする従来の諸説にのっとって突厥分裂について考えることの危険性を警告する。と同時に隋代以前に「西突厥」が出現したことを前提とする歴代史書の記述が単なる解釈に過ぎない可能性をも想定させる。そこで,歴代史書の「西突厥」起源観について整理すると次のような結果が得られる。『隋書』は「西突厥」の開祖を大邏便とし,その西突厥条冒頭文には,大邏便と摂図の「隙」がもとで分裂が生じたと記されているのみで,それ以上の情報はない。『通典』は大邏便対摂図の東西軍事陣営対立構造の出現時点を「東西部」の成立とし,『通典』原注は,これを「二国」の成立とする。『通典』原注の見解では「部」とは「国」のことである。『資治通鑑』は東西軍事陣営の対立構造の出現時点を583年とし,大邏便が「西突厥」と「号」したのは585年のことと考えた。胡三省は大邏便と摂図の「隙」を583年の東西軍事陣営の対立構造の出現に関わる一連の事象とみなした。一方,『新唐書』は「西突厥」の開祖を〓厥とし,その起源を吐務(〓厥の祖父)に求めている。また『旧唐書』は「突厥伝下」冒頭文で,ただ「西突厥」と「北突厥」は「同祖」であると記しているだけだが,この箇所に対し二つの復元が想定される。ひとつは『隋書』以来の「西突厥」の開祖を大邏便とする記述の省略であるというもの,もうひとつは『旧唐書』が先行史書の記す大邏便起源説に対して疑問を抱いたとするもので,両者の可能性は同等である。前者の場合,「西突厥」大邏便起源説に初めて異論を唱えたのは『新唐書』であり,後者の場合,『旧唐書』が大邏便起源説に初めて異論を唱えたことになるが,『旧唐書』は「西突厥」の起源について,これといった見解を示すことはしなかったか,あるいはできなかった。大邏便起源説以外の独自の起源観を最初に提示したのは『新唐書』である。

 前近代の漢文諸史書の「西突厥」起源観を念頭において諸書の先入観を警戒しながら実際の分析作業を行うことになるが,その前に突厥可汗の系譜・継承に関する未解決の問題の解明に触れておく。まず,摂図の後継可汗について,『隋書』「高祖紀」から摂図→雍虞閭の継承が,同書突厥条から摂図→処羅侯→雍虞閭の継承が想定されるが,若干前者の可能性が高いと考えられる。また,処羅侯・雍虞閭ともに登位した可能性もわずかながら存在する。染干の系譜については,摂図の子(『隋書』突厥条),処羅侯の子(同書長孫晟条)の両様に復元されうるが,前者の可能性が高く,この結論は,護雅夫氏による思摩の系譜についての推論を支持し,思摩は処羅侯の子である可能性が高いと判断される。『新唐書』が記す思摩可汗登位の蓋然性は,当時の突厥の状況に照らせば高く,597年のことと思われるが,遅くとも599年前後までに可汗位を放棄した可能性が高い。さらに,思摩の可汗登位の確度に依存するという条件付きで,以下の結論が導き出される。ほぼ同時期の可汗である思摩・雍虞閭・泥利可汗は,共に治下の人間集団による推挙で登位している。つまり即位形式上等質であり,雍虞閭が「大可汗」と自称している点,三人と比較的近い時代の人物で史料上「大可汗」だったとされる菴羅・摂図・射匱可汗らも同様の形式で即位している点から,三人は即位形式からみる限り「大可汗」であったと想定される。他の系譜問題としては,土門と科羅の関係について,兄弟である可能性は父子である可能性より極めて高いことも指摘できる。

 さらなる補助的作業としてトゥルファン出土漢文文書中に見える突厥首長とおぼしき人物についても,現状における考証の限界点を探りつつ検討を行うと,次のような結論をえることができる。文書中の「阿博珂寒」・「貧〓珂寒」は従来の諸見解通り,各々,大邏便・貧汗可汗に比定される。「南〓珂寒」と「南相珂寒」は大邏便等と同時代の同一人物であり,前者は後者の異字表記である可能性がきわめて高く,編纂史料にみえない小可汗であるとする可能性以外に,菴羅であるとする新たな可能性を提示しうる。「〓〓〓」・「依提具〓」は突邏人である可能性もあるが,史料による限り,大邏便等と同時代の〓(シャド)であったということのみが指摘できる。「恕邏珂寒」・「吐屯〓」については,各々,達漫・伊吾の吐屯設である可能性がきわめて高い。「尼利珂蜜」が泥利可汗である可能性はあるが,決定的根拠は存在しない。達漫と同時代人の可能性が極めて高い「北相珂寒」は,思摩,達漫治下の応娑の小可汗,薛延陀の小可汗との比定が考えられるが,現状ではどれと判断することもできない。

 以上の結果をふまえて,7世紀初頭までの突厥首長とその所部の関係・状況をみていく。その際,鉄勒の動静が突厥の分裂を考える上で欠くことのできない要素であることが明らかであるので,この点をも考慮して概観したい。突厥最初の対外戦争で征服された鉄勒は,軍事面で突厥の版図拡大に大きく寄与した。諸首長相互の結びつきの相対的な強さについては,まず,庫頭の燕都への従属性が認められる。次代,侘鉢可汗と摂図・歩離可汗の関係については,任命関係以外に親疎の程度は不明である。燕都~菴羅の治世にかけてみられた西部-中央-東部の構造は,摂図の治世以降,中央と東部の一体性が強まることで変化し,鉄勒を管轄下におく北部領域の存在が史料上際だってくる。思摩の所部であった「磧北」も,鉄勒と接する北部領域にあって,彼が鉄勒対策を担っていた可能性が指摘できる。雍虞閭政権崩壊後の鉄勒は,一部は染干・隋に,一部は西部領域に服属したものの,間もなく独自の大可汗を擁して独立政権を樹立し,7世紀初頭に至って,旧突厥領は西部領域・鉄勒独立政権・染干傀儡政権の三極構造に移行する。なお,摂図の治世にみられる西部・北部・中央-東部の構造は,6世紀末の泥利可汗(達漫)・思摩・雍虞閭の可汗鼎立状況の生じる基盤となった可能性がある。その後,射匱可汗が強大化すると鉄勒独立政権は可汗位を辞退し,ここではじめて突厥旧領は二極化する。この時期は「西突厥」という語の存在が史料上明確になる時期と,ほぼ,一致する。従って,現代人が「西突厥」という語を使う際,当時の漢土の住民の観念に従うことを前提条件とすることはいうまでもないが,射匱可汗政権より前の西部領域にこの語を適用することは避けるべきである。

 ここで,視点を変えて,可汗の資格(とくに母系)に着目する。突厥においては,大可汗の母系の貴賎が重視された。歴代大可汗の母系については,達漫の母,「中国人」向氏,咄〓の母,吐谷渾の婆施氏,登利可汗の母,暾欲谷の娘である婆匐(『旧唐書』「突厥伝上」が記す,黙棘連即位時に可賀敦だった暾欲谷の娘は婆匐である可能性が高い)の三例が指摘できる。うち,婆匐が阿史徳氏出身の可能性がある以外,確実に系譜を辿れるのは婆施氏のみである。吐谷渾の母系は「貴」たる血統の一つであった。そこで,突厥と吐谷渾の関係を通観すると以下のようになる。燕都による吐谷渾攻撃の後,闕達設による攻撃という特例を除けば,突厥と吐谷渾はおよそ平和的関係を維持していた。吐谷渾は婚姻関係を通じて突厥可汗の外戚となったり突厥の高官として活躍したのみならず,とくに達漫治下の西部領域では「国人」層においても尊重される存在だった可能性が高い。このように突厥と吐谷渾の特別な関係が浮き彫りとなる一方で,可汗の母族としての阿史徳史については確証が得られず,阿史徳氏自体,突厥前半期には全く史料に見いだせず,621年の記事が初出であるので,可汗の母族として阿史徳氏を過大評価すべきではない。なお,侘鉢可汗が吐谷渾の使者を斉の使者の上位においたというエピソードは,突厥が吐谷渾を軽視・重視していた両様の可能性がある。また,貞観年間初頭に公孫武達と戦った「突厥」は咄〓の政権であった可能性がかなり高く,その「突厥」の吐谷渾進入の目的は吐谷渾との連携だった可能性が高いが,「突厥」が咄〓の政権であるとするなら,その可能性が更に高まる。可汗の母系問題に付随して,暾欲谷(トニュクク)・阿史徳元珍同一人物説についてふれると,阿史徳元珍が697年に阿波達干であったことを証明する確実な史料は存在せず,反証の一つは崩れるものの,両人が同一人物である確証もない。

 突厥勃興直前の東半ユーラシアで優勢だった鮮卑系諸族の血統は,突厥・隋唐の君主家に導入され,突厥・唐で鮮卑の血をひく君主が輩出されている。また,鉄勒諸部は突厥三極構造の一翼を担っていた。突厥の中に脈流をみいだすことのできる鮮卑・鉄勒,および突厥の三要素は漢土における沙陀政権の成立へと集約されていくのではないかとの課題・展望が提示できる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、古代中央ユーラシア東部に成立した突厥の歴史をおもに漢文史料を用いて再検討している。一般に、史書を参照する場合には、古くまとめられた史書をより重視する。それは、古くまとめられた史書の方が、新しくまとめられたものよりも、より古い材料を提供するはずだという、もっとも蓋然性の高い予測に基づく判断があるからである。

 ところが、厳密に言うならば、古くまとめられた史書の材料が、新しくまとめられた史書のものよりも、常に古いと断言できるわけではない。いまある記述からは不明なだけで、実のところ新しくまとめられた史書において初めて採用された記事がないと断言できるわけではないからである。その意味からすれば、仮に事実の検討を進めた結果として、上記の判断に疑義が生じる場合には、あらためて新しくまとめられた史書の材料と古くまとめられた史書の材料を想定復原しながら、比較検討する作業も必要になる。

 本提出論文は、その作業を地道にすすめたものである。

 可能性は可能性としていくつかを併記しつつ、その複数の可能性の並立状況から帰納される結論が可能性の高さを考慮したものとして提示される。例えば、突厥の君主、可汗の系譜の復原をはかって、この手法を用いた結果、ある二人の人物の関係が通説の兄弟と違っていとこどうしである可能性が高いとされる。これにより、従来の説において、その二人の人物のうち一方とその父との関係を正しく考証した結果と、その結果に齟齬する別の記録との間に資料解釋上の難点があった点が解決できる。こうした考証には、その方法の正しさと手堅さが認められる。

 従来の確かでない推論を批判的に検討して得られた結論は、通説とは明らかに異なるものになった。通説では583年に突厥は東西に二分したとされている。この通説と分裂に関する諸説に対し、本論文は、内乱が収拾する7世紀初頭までの突厥情勢を,従来低く位置づけられていた人物をも権力者として位置づけながら、三者の分権化の過程としてまとめなおすことになった。

 この結論は、上記のような手堅い考証を基礎にまとめられたものだとはいえ、また、すでに知られた碑文資料を参照したものであるとはいえ、論者によっては、今後新たに発見されるであろう突厥碑文やトルファン新出漢文文書などによるさらなる検討の必要性を強く求めることが予想される。また、論文提出者が進めた考証の手法は、類似の検討が関連する史書等においてもなされることで、より確かな結論としての地位を得るであろう。この点、今後のさらなる研究の展開が期待されるところである。

 以上から、本審査委員会は、提出論文をもって、博士(文学)の学位を授与するに値するものとの判断をくだした。

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