学位論文要旨



No 119792
著者(漢字) 齋藤,勝
著者(英字)
著者(カナ) サイトウ,マサル
標題(和) 唐代における「農」「牧」関係の諸相
標題(洋)
報告番号 119792
報告番号 甲19792
学位授与日 2005.02.16
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第466号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 平勢,隆郎
 東京大学 教授 小松,久男
 東京大学 助教授 吉澤,誠一郎
 お茶の水女子大学 教授 窪添,慶文
 山梨大学 教授 金子,修一
内容要旨 要旨を表示する

 唐朝は一時的とは言え「大一統」を成し遂げた唯一の「漢民族」を主体とした王朝であり、現在の中国社会においても、国家の枠組みを歴史的に裏付ける重要な「記憶」の一部となっている。よって、唐朝の「大一統」がいかなるものであったか、それが周辺の世界、支配された諸集団にどのような影響を与えていたのかを明らかにすることは極めて重要な意味を持つが、そのためには漢民族と諸民族集団が雑居した唐代の辺境杜会における両者の関係について論じていく必要がある。そして、その際に指標として最も有効と思われるのが、農耕・牧畜という経済形態・生活形態の違いである。これは、これまでもしばしば用いられてきたもので、むしろ古典的と言える指標である。しかし、これまでの研究では、理論の構築が優先され、具体的な像を描くことが欠けてきた観がある。そこで本稿では、唐代辺境における農耕世界と牧畜世界の関係を、土地、牧畜経営、社会、国家などの諸相において具体的に論じていく。

 第一章 牧地と中国王朝-唐代の馬政と牧地について-

 本章では、唐代の馬政を通して、牧地の所在とその中国王朝にとっての意味を論じた。

 唐代の馬政は、安史の乱に前後して様相を一変する。前期の馬政は歴代随一の成功を収めたが、それはおもに西北部に展開した「監牧」によって支えられていた。「監牧」は繁殖・飼養に優れているだけでなく、経済性においても優れた牧馬機関であった。唐後期には、吐蕃の侵寇により、この「監牧」体制が維持できなくなり、閑厩が馬政の中心となったが、繁殖・飼養の面でも経済性の面でも劣る閑厩では、軍馬の供給が滞るだけでなく、財政負担も増大することになった。これを打開するべく、唐朝は内地に新監牧を作ったものの、成果は得られず、市馬に依存せざるをえなかった。このことは、西北部にあった牧地が唐にとっていかに重要であったかを示しているが、宋や明においても、やはり西北部の牧地が維持できなかったために、馬政が停滞している。それは軍事・財政の両面で大きな足枷となっており、西北牧地の確保は全ての中国王朝にとって、その勢力の維持・伸長のために欠くことの出来ない要素であった。

 また、新監牧の設置や旧監牧地の処分をめぐっては、牧地を農地に転用する農民との間に様々な問題が発生している。牧地(農地)は牧畜業・農業の両者にとって重要な資源であり、その帰属・利用をめぐる両業種の対立関係は、たとえば宋代の「廃監租佃」の問題のように、唐代以外の時代にも見られるものであり、両者の関係を考える上で注目しなければならない点である。

 第二章農耕社会と牧畜社会の共存関係-敦煌の牧羊代行業について-

 辺境における農業経済と牧畜経済の交わりについては、これまで交易や牧畜民の農耕化といった牧畜に対する農耕の優位性を前提とした見方が強かったが、敦煌発見のP.3774「丑年(八二一)十二月僧龍蔵与兄析産牒」に見える遊牧民への牧羊委託は、両者が相互依存的に共存した辺境社会の実相を伝えるものである。では、この牧羊委託・代行はどのようにして成立したのか。これが本章の論点である。

 牧羊業は、初期投資を要するものの、大きな収入と安定した成長を見込めるものであった。そのため経済的余力を持つ農民が副業としてこれに参画した。しかし、羊群が大規模化するにつれ、羊群所有者の集落近隣の草地の許容量を超えるようになり、集落から離れた牧地での牧羊が必要となる。そして、そのような遠隔地での牧羊は、副業の域を超えるため、牧羊専従者にこれを任せるしかなかった。ここに牧羊の委託・代行が発生するのである。そしてさらに、羊群の大規模化は舎飼併用による冬場の飼料負担を重くしたため、遊牧民への委託が行われるようになった。一方、遊牧民へは牧羊費として穀物が支払われていたことが確認されている。

 このような牧羊代行業の成立は、農業経済が一定の成長を遂げ、資本が蓄積され、さらに農地の展開により集落周辺の草地が制限されることが前提として必要である。しかし、農耕社会が牧羊を通じて富を増加させ、遊牧社会が牧羊代行を通じて経済活動を多様化させるという、いわば両社会の経済的成熟が、両者の共存によってなされていたことは、辺境社会の実相の一つとして極めて重要である。

 第三章 辺境支配と民族集団-唐の河曲支配と康待賓の乱-

 本章では、河曲という地域と六州胡という民族集団を分析の中心に据え、辺境における唐朝の異民族支配とそれが辺境社会に及ぼした影響について論じた。

 六州胡はソグド系の人々によって構成され、牧畜を主な生業としていた集団である。彼らは牧羊の代行や畜産品の売買などを通じ、農耕社会との間に交換経済も成立させていた。

 開元八年(七二〇)、河曲でこの六州胡を中心とした諸民族の反乱(康待賓の乱)が発生したが、その原因は、彼らが「賦役に苦しんだ」ことによる。六州胡などの内附異民族への賦役に関する唐朝の規定は『唐六典』巻三に見える「内附者規定」に残されているが、そこでは内附二世の「百姓化」が規定されている。この「百姓化」は「農耕民化」を指すものと考えられる。内附した遊牧民の農耕民化は、すでに貞観期の突厥降戸をめぐる処置のなかで決められた方針でもあったが、その実行性にはなお疑問が残る。ただ開元期の河曲では、農耕民化が進められていたことを示す史料が見られる。一方、六州胡などの民族集団は遊牧生活を維持していたから、この農耕民化は彼らの生活を破壊するものであり、そこに反乱を起こした原因があったものと考えられる。

 また、康待賓の乱が六州胡というソグド系の人々によらて諸民族を糾合して起こされた反乱であったことは、安史の乱の先駆けをなすものとしても注目され、ソグド系の人々が諸民族を結合させるのに果たした役割の大きさを示している。

 第四章 農耕国家と遊牧国家の経済関係の相互化

-唐・回鶻間の絹馬交易について-

 本章では、農耕国家と遊牧国家の相互的な関係として、唐・回鶻間の絹馬交易を論じた。

 これまで、安史の乱後に活発化した唐・回鶻間の絹馬交易については、回鶻の「力」を背景とした強要との見方が強かった。それは、乾元・大暦期の絹馬交易に関する諸史料と白居易の「陰山道」によって作られた見方だが、前者には回鶻を揶揄する意図が強く、後者には当時の為政者を非難するための意図が見え、これら史料を字義通りに受け取ることは出来ない。一方、馬政に目を向けると、安史の乱後、監牧を失ったことで、唐朝では馬の自給が出来ず、市馬に頼らざるをえなくなっていたことがわかる。このことから、回鶻との絹馬交易には、唐朝の需要を満たす面が多分にあったことがわかる。そしてその交易に際しては、取引額をめぐる交渉がさかんに行われており、その実際の交渉経過を追うと、唐の購入馬数が、他の国家支出を計上したのちに拠出可能な絹の額に応じて決められていたことがわかる。っまり、唐・回鶻間の絹馬交易は、両者の経済を双方向的に結ぶ関係だったのである。これほど密接な経済関係は、それ以前には見えないものであり、この時期の回鶻社会の変容を「征服王朝」の萌芽と見るならば、このような農耕世界と牧畜世界の経済的結合の成立は、「征服王朝」の性質や形成を考える上で大きな意味を持つものである。

 以上の考察を通じ、まず明らかになったことは、唐代の北部辺境社会における農耕社会と牧畜社会との経済面での共存関係の存在である。しかし、それは唐朝の支配が強化され、農耕化が図られることで崩壊し、両者の対立が生まれることになった。このような唐朝の支配策は、現在の中国でも「大一統」の一つの理想とされている貞観期の異民族支配政策の中にすでに現れているものである。一方、農耕世界と牧畜世界の共存関係は、唐の後期に、回鶻との絹馬交易という形で現れており、このような共存関係がやがて牧畜世界の大変容をもたらしたことは注目に値する。農耕世界と牧畜世界の関係はしばしば対立の構図をもって描かれるが、歴史をより包括的に捉えるならば、両世界・両経済の共存関係の面にも評価が加えられるべきであろう。

審査要旨 要旨を表示する

 中華帝国の領域をどのように認識するかは、現実の支配と理念のすりあわせを求められる微妙な議論をはらんでいる。古来よく知られているのは、漢族の居住域を中心に文化の華さく「中国」を設定し、その外を「外国」として区別して、「中国」から「外国」に徳が及ぶと説明する考えである。これとは別に、「外国」の一部に属国を設定し、それを統治域に組み込む考えがある。

 後者の場合、一般に漢族が中心であることを前提とする「中国」の中に、漢族だけでなく異民族を包み込む議論を内包するものとなる。その議論は、いわゆる征服王朝が漢族を含む複数の民族を統治する体制として、歴史的に遡っていくことができる。論文提出者は、この問題意識を唐代に遡り、当時の中国の中に居住する異民族の動静を、丹念に検討した。

 白居易の「陰山道」と元〓の「陰山道」を比較し、前者について通常語られている意義とは別に、両者に共通して、回鶻への非難の強まりの前に、本来追求されるべき為政者たちの責任が隠蔽されてしまうことへの危惧がある、という意識の存在を抽出したことは、審査委員の関心をひき、高く評価された。

 論文提出者は、この白居易「陰山道」、およびこれとともに唐と回鶻の絹馬交易の性格を考える上での基本的な史料とされてきた『旧唐書』迴〓伝などに見える「乾元・大暦の交易に関する史料」が、いずれも特異な意図をもって記され、そのまま事実としては用いがたいものであることを問題にし、さらに、唐と回鶻の交易の拡大には監牧体制の崩壊という唐の馬政の変化が大きく関わり、その交易が唐財政の影響下になされたことを論じた。

 富裕化による回鶻社会の変化を「征服王朝」の萌芽と見るならば、その回鶻と唐とが双方向的依存関係で結ばれ、絹馬交易が回鶻社会の変化をもたらす一因となったこと、そして、それが唐朝の馬政や財政と結びついていたことは、あらためて注意を喚起する必要がある。こうした広い問題意識から検討を進め、かつ細部においても緻密な考証をこころがけた業績として、評価することができる。

 以上から、本審査委員会は、本提出論文をもって、博士(文学)の学位を授与するに値するものとの判断をくだした。

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