学位論文要旨



No 119793
著者(漢字) 増田,えりか
著者(英字)
著者(カナ) マスダ,エリカ
標題(和) シャムのChim Kong,対中朝貢使節派遣 : トンブリー朝、初期ラタナコーシン朝におけるシャム・中国関係の一断面
標題(洋) Siam's 'Chim Kong' Sending Tributary Missions to China : A Study of the Diplomatic Aspects of Sino-Siamese Relationsduring the Thonburi and Early Rattanakosin Periods(1767-1854)
報告番号 119793
報告番号 甲19793
学位授与日 2005.02.16
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第467号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 桜井,由躬雄
 東京大学 助教授 吉澤,誠一郎
 東京大学 教授 古田,元夫
 東洋文化研究所 教授 中里,成章
 社会科学研究所 教授 末廣,昭
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、1767年のアユタヤ崩壊後から、19世紀半ばの対中国朝貢使節廃止にいたる間のシャム宮廷の対中外交観を、シャムの対中外交の態様を通じて考察したものである。前近代シャムの王権にとって、対中朝貢貿易がもっていた経済的意味については、すでに多くの先行研究がある。しかしながら、これまでその資料はもっぱら漢文資料による中国側の見解に限られ、かつシャムの対中外交はもっぱらジャンク交易による利益のために、中華帝国の世界観の中に自ら包摂されていったものとする単純な議論に終始してきた。このために、シャムの対中外交をシャムの政治史の中に位置づけ、シャムの主体的な選択として意義づける視点に欠けていた。本論は、これまでの中国資料にかたより、また経済的側面だけを重視した研究の欠陥をただすために、これまで利用されることのなかった公開、未公開の大量のシャム、中国双方の資料を比較検討し、相互の理解の錯誤を指摘し、シャム固有の対中認識を解明しようとする。

第1章では、アユタヤ末期の対中交渉の特色について述べる。アユタヤ朝末期のバンプルルアン王朝には、華人または華裔の宮廷官人が多く重用された。しかし、シャム王室にとって華人の臣下は、国際港市アユタヤに多かったさまざまの地域から渡来した外国人の一類にしかすぎず、朝貢をしている中華帝国出自の特権的外人とはみなされなかった。

第2章では、ビルマの侵入によるアユタヤ崩壊後、新しく即位した華人2世のタークシン王(在位1767-1782)期における対中交渉の変化について議論する。アユタヤ朝の解体により、中国シャム間のこれまでの朝貢秩序は解体する。タークシンの襲位と従来の朝貢関係の継承はきわめて困難であった。しかし、タークシンはタイ湾から広州にいたるルートの確保をめざし、このために対中外交折衝を必要とした。この仲介として華人商人層を積極的に利用した。この時期にタークシン側の記録にchim kongという名辞が出現する。chim kongは、漢語の進貢の音をとったものだが、1781年のタイ語国書では、chim kongは中国への臣従儀礼を意味せず、単に中国に使節を派遣するという意でしか用いられていない。タイ語の国書は、基本的に両国を対等とし、中国を一外国とする観念からのみ、記されている。中国側が、傲慢ともいえるこの国書を受納したのは、広東での中国語訳において、華人商人や訳語者により、朝貢秩序に適合するべく、意図的な改変が行われたゆえである。一方、中国の封臣として認証されたにもかかわらず、タークシンはその臣下によって、処刑される。中華帝国の政治的権威は、シャムの王権の正統性にまったく影響を与えていない。タイの対中外交認識は、中華帝国的秩序に対し独立的である。

第3章では、ラーマ1世(1782-1809)期からラーマ2世(1809-1824)期までの、ジャンク交易最盛期の対中外交について議論する。ラーマ1世は自らタークシンの息子であり、正規な後継者をとなのって、中国の承認をうけ、タークシンの対中外交の枠組みを断絶することなく、ラタナコーシン朝の対中外交に接続する。ラタナコーシン朝はタイ湾―南シナ海交易の主宰に成功し、ジャンク交易の最盛期を生み出した。この交易秩序の維持のために、中国側も、簒奪者ラーマ1世の政治的正統性を問うことも、ラーマ1世のタイ語国書の外交的非礼を問題とすることもない。トンブリから初期ラタナコーシン朝までのシャムは中華帝国の世界秩序理念には、まったく無関心であった。ラーマ2世の治世では、タイ語国書の形式は、おそらくは華人宮廷人の影響で、より、公式的で洗練されたスタイルをもつようになったが、シャム側の認識である対中対等関係の基調は変わるところがない。

第4章では、アヘン戦争時期を中心に、ラーマ3世(1824-1851)期におけるシャムの対中外交の変化について考える。シャムは、当時、華人商人などによって比較的、アヘン戦争に関する情報を把握していた。しかし、南京条約によって、広東貿易の独占的な利益が大きく減少している時期においても、ジャンク交易観の基調には大きな変化がなかった。この時期の派遣使節たちは、アヘン戦争の敗北や太平天国の混乱による中華帝国の政治的権威の失墜よりも、祭式、都市景観、手工芸品などその文化的な表現に魅せられ、遣使の帰路に王室のための土産を購入するなどしている。その一方で、タイ国内では、華人によるアヘン販売の盛行や、また華人暴動の問題が生起し、シャムの治安に大きな影響を与え、政府は増大する華人集団への警戒を強めている。

第5章では、進貢に代表されるシャムの対中交易システムが大きく変更するラーマ4世(1851-1868)期について叙述する。ラーマ4世は1851年の即位に際し、南京条約後のジャンク交易の衰退にもかかわらず、前代と同じくchim kong使節を清朝に送り、また同様に中国側の儀礼に大きな関心を寄せている。しかし、太平天国の混乱により使節派遣が困難になったこと、また1855年のボウリング条約(英-シャム通商条約)の締結により、シャムの対外関係の重心は、急速に欧米諸国に移行していった。中国の朝貢システムへの参入によって、交易利益を得た時代は終焉を迎えた。これと同時にchim kongのもった意義、とくにその政治的側面は、シャムの歴史的記憶の中から忘れ去られていった。

 以上によって、初期ラタナコーシン王朝の対中外交観が、具体的なイメージをもって明らかになった。国際情勢を熟知し、開明的専制君主であったラーマ4世でさえ、その治世当初には、守旧的とされるラーマ3世と同じくchim kongに疑義を感じなかった。シャム中心主義の政治観念は、中華帝国の国際秩序観念についてまったく無関心であった。ラーマ4世もその例外ではない。シャム側にとっては、両国は常に対等の外交関係にあるとみなされ、進貢を意味したchim kongも、便宜的な儀礼として理解されていたのである。中国側もこのシャムの対中外交観を認識していたにもかかわらず、これを許容してきた。アユタヤ末期以来、100年にわたって、この許容が維持されたのは、第一には、仲介する華人商人や広東の訳語者による国書の書き換えの結果であり、第二には、シャム側諸使節のおどろくほどに素朴な、中国式儀礼や都市への手放しの評価である。ラーマ4世は、chim kongの廃止の理由として、chim kongは朝貢の意であり、独立国家としては恥ずべきことと表明している。しかし、chim kongという語のもつ政治性にまったく無関心であり、これを屈従とは理解しなかったシャム前代の王たちには、chim kongは恥ずべきこととは考えられていなかったのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論は、18世紀後半より19世紀半ばにいたる、シャム(タイ)王国の対中国外交姿勢について考察したものである。タイは、欧米の植民地にならなかった唯一の東南アジアの国家である。独立の維持は、そのすぐれた国際的開放性、巧みな外交手腕、いち早い近代国家形成など、ラーマ4世以来の王室の独特な現実的な政策展開に帰せられることが多い。その国際的開放性は、17世紀の「交易の時代」以降、アユタヤ、トンブリ、ラタナコーシン三王朝が、対外交易をその王権の経済的基礎としたことに帰因する。18世紀後半以降、王室の対外交易の中心は中国とのジャンク交易に移行する。シャムはこの時期から19世紀半ばまで、中華帝国の朝貢圏の中でのきわめて重要な一国であり続けた。朝貢国家としてのシャムが、このシステムの中から多大な経済的利益を受けたことは、多くの先行研究が述べるところである。しかし、従来の研究は、年代記中の記述など、わずかな漢文資料に依拠するのみであった。この結果、シャム王室が意識的主体的に、その経済的利益のために中華帝国の秩序に内包されたことのみが強調された。

 本論は、著者によって発掘された多数の未公刊資料を含む、未利用のタイ語文献、中国語文献の膨大な収集とその精密な分析によって、シャム側の対中交易観を整理しなおし、シャムの巧緻といわれる外交手腕が実は、中華秩序の政治性に対するシャム王室の「無関心」に帰因することをみいだし、シャムには中華帝国朝貢圏に参加した意識がなく、したがって自らの外交を従属外交とはみなしていなかったことを論証した。

 豊富な資料に依拠した巧みな論証作業は無数に存在する。なかでも、第1章における、トンブリ朝のタークシンが在シャム湾華人集団を利用し、あるいはその集団の利益のために、アユタヤ期の対中関係を継承しようとして、さかんに遣使を繰り返す過程、また、その志向にもかかわらず、タークシンのタイ語国書は、両国を対等関係ととらえ、朝貢関係の中では不遜としかいいようのない言辞が用いられていること、さらにそれが中国語国書の中では、きわめて従属的な修辞に置き換えられていることなどの発見、さらに、開明的とされ、朝貢という対中従属外交を放擲し、自由貿易を展開した最初の国王とされるラーマ4世も、即位の当初においては、前代と同じく、朝貢使節を派遣してなんの疑義ももたなかったことの指摘は、著者以前にはこれまでまったく試みられなかった方法の結果である。

 以上のように、本論の価値はなによりも、タイ語と中国語の膨大な第一次資料を分析比較する方法の多用である。この方法がもたらす豊富な生産性は、今後、タイ史、東南アジア史の新しい展開を生み出す。さらに、意識的あるいは無意識的な「無関心」さを基調とする前近代タイ外交の特質の指摘である。これは両国のナショナリズム的な史観からは到達しようもなく、また合理的な政治論からでは、経済性志向としてしか評価されえなかった地平である。以上の方法と論点から、これまで平面的にしか捉えられなかった朝貢外交論に、それぞれの地域性の観点を加え、大きく立体的に発展させた論といえよう。

 本論は全文英語で執筆されたものであり、その結果、表現にやや不十分な点があり、また膨大な資料の分析にとらわれた結果、論理がまま不透明になるという若干の問題があるが、これは十分に修正可能である。本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位を授与するにふさわしい水準に達していると判断する。

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