学位論文要旨



No 119799
著者(漢字) 中村,宗之
著者(英字)
著者(カナ) ナカムラ,ムネユキ
標題(和) 貨幣と労働への所有論的アプローチ
標題(洋)
報告番号 119799
報告番号 甲19799
学位授与日 2005.02.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第190号
研究科 大学院経済学研究科
専攻 経済理論専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小幡,道昭
 東京大学 教授 柴田,徳太郎
 東京大学 教授 丸山,真人
 東京大学 教授 竹野内,真樹
 東京大学 助教授 石原,俊時
内容要旨 要旨を表示する

 K.マルクスの主著『資本論』は資本主義の構造と動態とを理論的に把握することを目的とした、それ自体で完結した性格を持つ著作であり、マルクス自身の他の著作や他の論者の理論、あるいはまた歴史背景等から独立に読まれてよいことは確かである。しかし同時に、それはその書かれた時代背景から派生する要素を色濃く持っていることも否定できない。すなわち『資本論』は、しばしば指摘されるように当時のイギリス資本主義のあり方に強く規定されているし、それだけでなく、マルクスと同時代に生きた社会主義者たちのさまざまな資本主義分析や、あるいは社会改革プランに対抗して書かれたという、さらに重視されるべき側面がそこには存在する。そしてこの側面が、『資本論』の内容に特有の歪み、論理的な無理を生じさせている。

 より具体的に述べると、マルクス自身が編集し出版した『資本論』第1巻を貫く問題意識は、プルードンや他の労働貨幣論をとなえる論者によるいわば「等価交換正義論」に対する反論にあるといえる。貨幣制度の改革や、小生産者による自由な商品交換、すなわち搾取を認めない商品の等価交換というプランによって資本主義に対抗しようとするこれらの論者に対して、マルクスは、商品は貨幣を生み、貨幣は資本を生み、資本は必然的に搾取を生むと答えた。しかしその搾取という不正は、資本蓄積の過程で失業が累積的に拡大し、労働者階級の組織的抵抗が増大するといった要因により、いわば自動崩壊的に消失する。そこでは資本主義に対する倫理的批判は意味をなさず、崩壊に向かう資本主義を客観的に分析することが重要だとされる。これがマルクスの採った資本主義批判の方法であった。

 そしてマルクスにおいては、資本主義の変革という課題は、すべて所有の問題に収斂するものとしてとらえられていた。所得分配を変更するだけではまったく不十分なのであり、生産手段の所有関係を変更することが重視される。『資本論』は、先にも述べたように、資本主義を理論的にそして客観的に把握することを目的としているが、そこには社会経済システムの変革に向けた強い意識が働いている。そしてその意識が、理論に対して特有の歪みを与えているのである。本稿のタイトルにある「所有論的アプローチ」とは、この点に着目し考察することを意味している。

 マルクスの経済学をはじめとする諸理論は、日本にさまざまなかたちで受容されてきた。その中でも宇野弘蔵は、『資本論』における曖昧な箇所や論理的誤りをただすという強い意識のもと、それを論理的に首尾一貫したものに再構成する作業を進めた。その作業は、例えば資本蓄積論における窮乏化法則や、利潤率の傾向的低落といった、マルクスによる資本主義の自動崩壊論的把握を退け、論理的な整合性を高めるかたちでおこなわれてきた。純粋な論理展開に徹すべき経済学が、しばしばイデオロギーにより歪められていると批判し、その歪みを取り除き、科学としての経済学をさらに追究するというのが宇野の基本的な立場であった。このような仕事は必要なものであったし、マルクス理論の研究に対する、そして資本主義の理論的把握に対する寄与は大きかった。

 しかし、現時点からとらえかえすならば、宇野自身も根本のところでは唯物史観を背景として、自らの経済学原理論や3段階論体系を組み立てていたことが指摘できる。ソビエトなど社会主義体制の成立を受けて、ロシア革命以降を体制移行の過渡期ととらえ、その枠組みの中で経済学の客観的な論理整合性を追究してきたのである。現在このような構図の中で、何事もなかったかのように経済理論研究を、論理的整合性のみを求めるものとして続けることには限界がある。何を明らかにするための理論研究なのかという、規範的問題をも含めた思考の枠組み自体が問い直されなければならない。

 このように本稿の問題意識は、マルクス『資本論』の問題点を他の論者との対抗関係という視点から洗い出しただすこと、そして経済理論が自明の前提としてきた枠組みや規範的問題を問い直すことにある。

 マルクスの貨幣論は、先のプルードンらに対する批判の意味を持つとともに、D. ヒュームらの古典派経済学者による貨幣数量説を批判する意図も含まれている。周知のごとくマルクスは経済分析の中心に労働を置いており、マルクスにとって数量説を認めることは、貨幣(商品貨幣)という理論的にも現実経済においても重要な位置を占めるものについて、その価値を労働で規定できないと述べるのに等しい。そしてマルクスは商品貨幣の価値を、他の商品と同様に労働量により規定し説明するが、そこには明らかな論理的無理が生じている。消費に向かう商品と比較して、貨幣はストック量の比率が大きく、それが貨幣価値に大きく影響する。この点に留意し、第1章ではマルクスの貨幣価値論を再構成するとともに、同時に貨幣数量説に対する批判的検討もおこなった。これまでマルクスとヒュームについて、このような詳細な検討はなされてきていない。

 マルクスは上述のように労働を重視して商品貨幣の価値を考察していたが、他方で労働生産物ではない国家紙幣や不換紙幣については、これもいわば逆に、非常に特異な説明をしている。鋳貨の摩滅から国家紙幣の流通根拠を説くこの方法は、以前からその問題が指摘されている。第2章では、労働生産物ではない貨幣についても、商品貨幣と共通の性質、共通する流通根拠があることを主張した。断片的には同様の視点は提示されてきたが、本稿ではこの部分を詳細に論じた。

 第3章では、マルクス貨幣論と労働貨幣論、そしてリカードウの貨幣論とを比較・検討した後に、マルクスの資本主義批判の中心といえる搾取論を、主に規範的側面から再考した。剰余労働ないし剰余価値の搾取を批判する場合、労働者が生産したものが資本家により不正に奪われているという内容におおよそのところなる。しかしこの主張は、労働者の権利については述べているものの、労働していない者の権利や福祉については何も語っていない。労働が重要な経済問題であることにかわりはないが、現在は労働の内容や、あるいは労働能力を持たないなど、労働という視角からではとらえきれない問題、不平等の問題の比重が増している。搾取論によりすべての経済問題を扱い論じる必要はないが、その限界を明らかにする作業は必要であり、これをおこなった。さらに、『資本論』全体を貫く、労働による価値の形成と、その形成された価値の分配という構図について、問題点を指摘した。

 終章では、プルードンの改革プランに対抗する意味を持つ『資本論』の構造について、あらためて確認し、全体のまとめとした。

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1 概要

 本論文は、40字×36行A4判100ページからなり、目次、序章、三つの章からなる本論、終章、参考文献で構成されている。その基本的課題は、K.マルクスの『資本論』第1巻の前半体系を再検討し、それが当時の社会主義者との論争のために派生した偏椅を正すことで、今日の資本主義を分析の射程におさめ、同時に歴史的・客観的なアプローチをこえ、公正や正義などの価値判断の指針を提示する規範的アプローチに立脚することで、政治経済学本来のすがたを復活させることにある。その概要は次のようにまとめることができる。

 序章では、『資本論』第1巻の展開をふり返り、それが当時の社会主義者の改革プランに対して、単により優れた代替案を策定するという方向を意図的に避け、むしろこのような素朴な理念的改革プランの方法的限界を批判するところに中心課題がある点が確認される。しかし、それは今日の観点からふり返ってみると、極端な客観主義を生み、たとえば資本主義の窮乏化法則や自動崩壊論という理論上の限界につながる。そして、この限界を克服しようとした宇野弘蔵氏たちの試みも、結果的に見ると、『資本論』以上にいっそう客観主義、科学主義に偏することになったという。しかし、政治経済学に現在求められているのは、『資本論』以降の客観主義的アプローチを見直し、経済理論の背後に斥けられてきた価値判断や理念、さらに代替的な経済社会像を問うことができる方向に研究の流れを転じてゆくことだという。こうした規範の問題は、マルクスの場合、とくに労働と所有の意味を問うときに鮮明に浮かびあがるので、規範的アプローチというかわりに所有論的アプローチという、より限定された呼称が本論文では用いられたとみてよい。

 さて第1章「貨幣の価値規定と数量説批判」では、以上のような問題関心から、金属貨幣を中心にした『資本論』の貨幣論が検討されている。『資本論』では、貨幣素材を金という労働生産物に設定することで、貨幣数量説に対する批判が企図されている。貨幣と商品とはその生産に直接間接に必要とされる労働時間を基準にした価格で売買されるのであり、貨幣数量の増減自体は、価格の基準を動かすものではなく、もっぱら蓄蔵貨幣への流出入というかたちで調整されるとされている。たしかに、金の生産性が上昇する場合には、流通量の増大と諸価格の上昇という現象が同時に現れるのであるが、『資本論』の説明では、それは金価値の下落が諸価格の上昇をまずもたらし、その結果、流通必要量が増大するのだとされている。換言すれば、金生産部門で生産性の上昇がないかぎり、いくら金生産が拡大し、貨幣量が増加しても、それは諸価格を引き上げることにはつながらないことになる。

 『資本論』の説明はかなり複雑であるが、本論文第1章第1節「金属貨幣の価値規定」では、蓄蔵貨幣を重視し、諸商品相互の価値関係と、貨幣価値ないし物価水準とを、ともに投下労働価値説で一貫して説明しようとした、以上のようなマルクスの基本的な立場が、テキストの綿密な分析を通じて確定されている。つづく第2節「貨幣価値の変動とその規制」では、蓄蔵動機に分析が加えられ、新産金の流入があった場合、マルクスが論じたように、簡単にそのすべて蓄蔵貨幣化するとはいえず、諸価格の水準を引き上げるという可能性は一般に排除できないという。すなわち、貨幣量の増大はいったん物価水準を押し上げることになるが、その結果、産金部門が不利になり、その生産量が減少し、摩損・消費分を補充できず、やがて金属貨幣量が縮減することで、「緩やかながら物価は規制される」ことになるのだ、と主張する。『資本論』の貨幣価値の理論は、労働価値説をそのまま現実に投影することで、このような物価の一時的変動を介した調整過程の分析を機械的に捨象した硬直的な論理に陥っているというのである。

 さらに第3節「貨幣数量説とその批判」では、こうした『資本論』における一面的な議論が、マルクス自身の貨幣数量説批判の姿勢によって方向づけられたものだとされ、『経済学批判』にさかのぼり、そこで数量説の代表と目され論駁されたD. ヒュームの貨幣価値論が再評価されている。筆者によれば、ヒュームには数量説的な説明がたしかにあるが、彼自身、蓄蔵貨幣や商品在庫の存在を認識し、「市場にもたらされうる商品の数量」とこれを購買するための貨幣に限定して数量説的な決定関係を論じている節があり、そのかぎりではマルクスと決定的な違いはない。そしてなによりも、ヒュームには「連続的影響説の視点」があり、そこでは新産金の流入があった場合、調整の「中間状態」では、貨幣量の増加が産業刺激効果をもち、実体経済の拡張を惹起し、商品量を増加させることで物価がある程度、引き下げられるという効果があわせて指摘されているという。マルクスは、ヒュームが示唆していたような、貨幣増加が実体経済へ与える影響を切り捨てることで、古典派的数量説を逆立ちしたかたちでそのまま引き継ぐ結果になっていると論じている。

 プルードンなどの社会改革プランでは、金属貨幣による貨幣価値の独占を解体し、無価値な紙券で流通手段としての貨幣機能を担わせることができると主張されてきた。これに対してマルクスは、独自の価値形態論を展開し、商品流通が存在すれば、そこから金属貨幣が不可避的に発生せざるえない点を解き明かし、理念的改革プランに潜む理性主義的限界を批判した。しかしながらそのために、金属貨幣の価値に関して労働価値説を一方的に当てはめようとした結果、貨幣量の増減が物価の変動を一時的に生みだし、それが金生産や一般商品の生産の増減を介して再調整される動的な過程分析を軽視し、事実上、貨幣が経済実体には影響を及ぼさないと見る古典派経済学の貨幣ヴェール観に近い方向に傾斜せしめた、およそ以上のように本論文第1 章の基本的含意は読みとれる。

 『資本論』の貨幣論は、このような金属貨幣を基礎としながら、さらに独自の「信用貨幣と不換紙幣」の理論を展開している。第2章はこの点の検討を試みたものである。第1節では「『資本論』における不換紙幣と信用貨幣」では、マルクスが金貨幣を基礎としながら、(1)鋳貨論において摩滅鋳貨の考察を通じて、流通手段としての機能に限れば、貨幣の素材価値が問われなくなり、これに国家による強制通用力が付与されれば、国家紙幣も貨幣として機能しうる点、また(2)支払手段として貨幣の機能から信用貨幣の可能性を導き、とくに資本主義的な信用制度の発展とともに、金属貨幣が中央銀行の準備として集中されるようになれば、銀行券流通も一般化しうる点、が事実上明確にされている。

 第2節「強制通用力の問題」では、今日の不換銀行券に関して、これを強制通用力に力点をおいて理解する大内力氏などの議論を批判し、むしろ貨幣価値の安定やそれを支える中央銀行の行動のほうが一般的流通の基礎になっていると述べ、信用貨幣的性格と経済主体による貨幣選択という経済内的な論理を重視すべきだという。第3節「貨幣とリスク」では、この貨幣選択の問題が理論的に再検討される。マルクスは金属貨幣の価値は比較的安定していると考えているが、そこにも変動の危険は潜むのであり、信用貨幣や国家紙幣だけが貨幣価値や流通力の面で劣るというわけではない点が指摘され、その点で経済主体の行動で取捨される貨幣のあり方は原理的にも多様性を示すと考えるべきだというのである。

 マルクスは19世紀の社会改革プランの提唱者たちが、理想的な紙券を模索した点を強く批判するあまり、金属貨幣が商品経済に本来的であり、紙券は部分的・補足的で、しかも強制通用力のような経済外的な作用ではじめて流通するという主張に偏したきらいがある。しかし『資本論』には、経済主体の行動に則して、信用貨幣の流通可能性を捉えてゆく理論も併存しており、むしろこの側面にこそ、今日の不換銀行券の一般化をも経済内的な論理で捉える可能性は秘められている。だが、金属貨幣を本来の貨幣であるとする基本的立場によってこの可能性は封じられ、現代の貨幣に対する原理的な解明を困難にしている、というのが第2 章の趣旨といってよいであろう。

 第3章「労働価値説と資本主義批判をめぐって」では、貨幣を媒介とした交換の背後で進む労働生産物の社会的な分配の問題が検討されている。第1節「『労働貨幣』とマルクス貨幣論」では、19世紀の社会改革プランで提唱された労働貨幣が、(1)価格変動を通じた社会的再生産の事後的な調整という商品経済的な原理の特性を見のがしている点で、市場としても「うまく機能しない」という観点から批判されているだけではなく、(2)等しい労働の生産物の交換を通じて不公正な交換を廃絶できるという「流通の領域にとどまる改革」では、労働力商品がその価値どおり売買される結果、搾取関係が生じるという「資本主義の問題点を解消できない」というかたちで、より根本的に批判されている点が明らかにされる。

 第2節「剰余価値論の検討」では、マルクスの搾取論をめぐる議論が近年の欧米における研究を含め、解説されている。マルクス自身は労働力がその価値どおりに売買されるならば、商品経済のルールに基づいて資本のもとに剰余価値が形成される関係を示したが、これを搾取とよぶかぎり、そこにはなんらかの意味でそれを不正な分配であるとみなす観点が存在するはずだと、論文筆者はいう。そして、初期の『共産党宣言』や晩年の『ゴータ綱領批判』に視野をひろげれば、マルクスの搾取「批判」は、やはり「労働全収権に近似しており」、労働に基づく所有という「自己所有権を基礎にしている」のであり、社会主義における分配に関しても、当面労働に基づく分配という「応労原則」を主にし、社会的な必要に応じた再分配という「必要原則」を従におく立場に依拠しているという。

 第3節「マルクスの資本主義批判」では、以上の観点から再度『資本論』の価値論を吟味し、等価交換の侵犯ではなくその順守が剰余価値を資本にもたらすという命題が貫かれている点を確認したのち、この前提となる労働のみが価値を形成するという想定が再検討される。再生産が純生産物を生みだされるという関係(産出が投入を上回るという意味で「生産的」であるとよばれる関係)が成立するならば、労働力だけではなく、実はどの商品を尺度にとっても、投下した以上の剰余が生じるという関係は表示可能であり、したがってどの商品も搾取されているとみなされる、という最近の議論が紹介され、マルクスが展開した労働価値説に基づく搾取論の相対化の必要性が示唆されている。

 総じて第3章では、等価交換をもって搾取の廃絶を考える当時の社会改革プランに対して、マルクスの搾取論がリカード的な投下労働価値説をもって理論的に批判する方向を強く指向した結果、政治経済学のとって重要な意味をもつ規範的な観点に対する本格的な考察をかえって閉ざすという副作用の存在に反省を加える意味をもとう。労働のみが価値の源泉であり、労働生産物は本来労働者のものであるといった観念を無媒介に一般化することは、今日福祉国家のもとで重要性をもつようになった再分配の問題などに対して、結果的に硬直的な立場をとることにつながるおそれがあるというのである。

 終章では、マルクスのプルードン批判を検討するかたちで、本論における如上の基本的主張が概括されている。

2 評価

以上のような内容を有する本論文の意義を述べれば、つぎのようになる。

1.第1に評価されるべき点は、マルクスの経済理論の底流には、プルードンを中心とした社会改革プランに対する批判が一貫して流れており、それが『資本論』第1 巻の前半部分の展開に深刻な偏倚を及ぼしている点を明確にしたことである。こうした視点から一貫してマルクスの貨幣と労働に関する議論を追うことで、『資本論』に課された時代的制約を意識的に克服し、今日の資本主義の分析にも妥当するような資本主義の原理像の再構築に射程をのばそうとした点は、いわゆる純粋資本主義による原理論の限界を克服する試みとして評価できる。

2.第2に指摘すべきは、従来の原理論がとってきた歴史的・客観的なアプローチに加えて、論文筆者が所有論的アプローチとよぶ、社会的な価値判断に枠組みを与える規範的な視角をマルクスの議論の再注入しようとした点である。こうした観点は、近年欧米におけるマルクス研究のなかで一つの傾向をなすものであるが、こうした観点を従来の経済原論の体系的展開のうちに埋め込む途が独自に模索されている。これはむろん、物価変動や労働分配を合理的に解決する一般的な政策手段をつくりだすという直接的な有用性をもつものではないが、経済現象の背後に存在する利害の対立を明確にし、利害内容とその判断の基準としての規範性を経済理論のなかに明確にする意義をもつ。本論文は、なぜ20世紀のマルクス経済学がこうした規範性を喪失したのか、を検討し、その根因の一端をマルクスが唯物史観として明確にしたような、社会改革プラン批判の特殊なスタイルに求めている。こうした論証状況が課した時代的制約を、今日的な視点から捉え返すことで、歴史的・客観的アプローチへの純化を科学的方法と考えてきた研究の難点を、貨幣論、搾取論の領域で実際に克服しよう試みた点は評価できる。

3.第3に、理論の内容としてみた場合、マルクスの金属貨幣中心説を相対化し、むしろ信用貨幣の可能性を拡張することで、貨幣の多様性を原理的に明確にしようとした点は一定の意義をもつ。このような試みはこれまでなかったわけではないが、本論文はこの契機を経済主体による貨幣保有の動機を中心にして捉え、金属貨幣も貨幣価値の保持という意味では限界をもち、そこに他の資産的商品とともに信用貨幣もその手段として含まれる余地のある点が示唆されている。これもまた近年の傾向といえばいえるが、金属貨幣を本来の貨幣とみなし、不換銀行券を資本主義の原理像から著しく乖離したものと位置づける、従来の考え方の是正が独自に図られている。マルクスの貨幣論の構造に則し、金属貨幣を基礎にしながら、紙券流通に関して、摩滅鋳貨と強制通用力を強調する国家紙幣と、支払手段を起点に中央銀行券にいたる信用貨幣という2つの流れを明確に区別した点は、通説といえば通説であるが、不換銀行券と金属貨幣との連続面を理解するに理論的捷径を拓くものと評価できよう。

4.第4に、原理論における剰余価値の理論を今日的な視座から再検討した点にも一定の意義を認めることができよう。自己所有権的な観点が今日の福祉国家的な再配分を批判する立場に通底するという問題は、つとに欧米の研究のなかで着目されてきたところではあるが、本論文はマルクスの労働価値説にもとづく搾取論が、『資本論』の著された当時の歴史的な文脈のうちに理解されるべきものである点を明確にすることで、それが批判対象と切り離されて無前提に絶対視することの限界を示している。そして、この搾取論を理論的に支えるために、どのような負荷がマルクスの価値論全体にかかっているかを考量し、生産への貢献度を加味したかたちで、分配論としての価値論を見なおす必要性までふみこんで論じた点は、その賛否は別として注目してよい。

 しかし、本論文にも、以下のような全体としての限界、疑問とすべき論点をなお多くかかえている。

1.第1に指摘しておかなければならないのは、本論を構成する3章の関連における不明確さである。本論文は、これら3章を通じて、マルクスが19世紀の社会主義者の改革プランを批判することに急なあまり、『資本論』の貨幣論と剰余価値論を貫く特異な偏倚が生じており、これが今日の資本主義を理論的に考察するうえで根本的な障害になっている点を示そうとしているのであるが、一読するかぎり、三つの章はそれぞれ独立した問題を扱っているような印象を与える。短い序章や終章が付されているものの、これらも全体を貫くモティーフを正面から明確に論じたものとなっていない。各章を丹念に読めば、所々区々、社会改革プランに対する批判が、『資本論』第1巻前半体系における数量説批判、金属貨幣本来説、価値源泉としての労働観と搾取批判、を結びつける一本のラインを読み取れなくもないが、それは示唆されているにとどまり、まとまった論述として提示されているとは言いがたい。本論文で展開されている理論内容は、それぞれに工夫はあるにせよ、基本的にこれまでなんらかのかたちで論じられてきた議論の紹介・拡張であり、本論文の積極的意義はこうした個々の理論を総合することで、『資本論』第1 巻前半体系の今日的な意義を甦生させるところにある以上、各章の関連について、さらに明示的に論じることが求められる。

2.第2に問題となるのは、従来の見解に対する批判と自己のオリジナルな論点とが必ずしも明確に区別されて記述されていない点である。本論文では、近年における非マルクス的な経済学や欧米のマルクス学派を含め、関連するさまざまな研究が脚注のかたちで挿入されている。その数は多くても、随意の追加的補足説明にとどまるものであり、必ずしも、本論の基本テーマに関して、なにがこれまで解明されてきており、なにが残された問題であり、筆者がどのような解答を与えたのか、を示すものにはなっていない。また、各章内部の節構成も明確な理論的なつながりをもつものとはなっておらず、理論的な論文として基本的に疑問に思われる構成が目につく。たとえば、第1章第2節と第3節では、新産金の流入が一時的に物価を引き上げるという関係が想定され、その理由自体が明確でないうえに、つぎにこの物価上昇に対して、金生産の縮小と一般商品生産の拡大という二通りの変化を通じて、緩やかな規制がはたらくという主張されている。しかしこの2つの調整過程は、異なる節で別々に説かれてるに止まっており、いずれを基本的なものと考えるのか、理論的に明確にする必要ある。

3.第3に問題となるのは、本論文の理論的側面での展開不足である。マルクスの理論が今日の複雑な経済現象にそのまま妥当しないからといって、本来理論的に考察すべき問題に、具体的な現象の既述をあまた織り交ぜて現実に近似させて見せても、理論的な研究として評価することはできない。たとえば、第2章第1節をみると、そこでは『資本論』の紙券流通の2つの契機、すなわち国家紙幣と信用貨幣とが併存している点が示されるのであるが、この両者はどう関連づけるべきか、理論的な考察を論文筆者は自ら試みることなく、第2節で管理通貨制下の現実に移り、そこでの強制通用力説の限界を指摘して、これによって信用貨幣的側面が重視されるべき点を示唆するかたちになっている。つづく第3節の前半は、貨幣保有のもたらすメリット・デメリットを中心に、なかば抽象的な想定のもとで金属貨幣と信用貨幣との間の取捨選択という理論的な考察がなされるが、それも論理的に詰められることなく、第3節の後半では再びさまざまな論者による多様な貨幣現象の論評を紹介するかたちで終わっている。社会改革プラン批判に由来する『資本論』の理論的偏倚を明確にするというねらいが、本来理論的に問題を設定し解決すべきところで、学説史的な諸説の批判・論評や多様な今日的現象の記述・紹介にそらせる結果となっており、理論的研究論文としては不満が残る。

4.第4に指摘しておくべきは、批判対象とされているマルクス自身の解釈に対する疑問である。たとえば、第3章ではマルクスの搾取論には当然搾取はなんらかの意味で「不正」だという判断がともなっていたはずだ、というのであるが、この点は、『資本論』自身の論述に根拠づけられたものとはなっていない。『資本論』に特徴的な議論は、本論文筆者も認めるように、搾取を一般的に人間社会のあるべき理念から不正だときめつける当時の社会改革論者のイデオロギー性を批判するところにある。マルクスも搾取理論に規範的な観点を込めているという点を示すため、さまざまな論者のマルクス解釈を引き合いにだし、そこでマルクスの主張が、搾取は不正だという言説の論拠とされてきた以上、マルクス自身にも搾取を不正だと考えていた面があるはずだ、というのであるが、このようないわば疫学的な推定だけでは理論的な説得力を欠く。19世紀の社会主義者に比べて、『資本論』の展開が規範的な批判を禁欲する傾向にあったという特徴はそれとして認めたうえで、そこに込められたマルクスのねらいが、今日の状況のもとで有効化かどうか、あらためて批判的に検討し独自に判断すべきである。『資本論』の搾取論も労働に基づく自己所有論にたって「不正」を批判しているはずだ、という無理な推定をして、しかもそこに潜む個人主義は、自由主義的主張が攻勢に転じた今日では、規範理論として限界をもつと断じるのでは、二重に的はずれな議論になろう。マルクスがなにを主張したのかという問題と、その主張内容が正しいかどうかという問題とは、はっきり特別すべきだという基本的認識に立脚してきた、批判的研究の意義が再確認されるべきある。

 以上のような難点は残されているが、本論文は博士(経済学)の学位を授与するに足る研究成果を含むと審査員会は判断した。

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