学位論文要旨



No 119803
著者(漢字) 姜,泰雄
著者(英字)
著者(カナ) カン,テウン
標題(和) 「日本及日本人」の表象としての戦時下映画
標題(洋)
報告番号 119803
報告番号 甲19803
学位授与日 2005.02.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第537号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 刈間,文俊
 東京大学 教授 杉橋,陽一
 東京大学 教授 浦,雅春
 東京大学 助教授 長木,誠司
 東京大学 助教授 野崎,歓
内容要旨 要旨を表示する

 本稿は、1930年代後半から1945年の敗戦まで製作された日本映画を分析した研究である。従来の研究では、1939年の映画法制定によって統制と検閲の深化、そして、戦時期の物資不足によって製作状況の厳しさなどを取り上げ、この時期において製作された映画から積極的な意味を探ろうとしなかった。本稿は、戦時期の日本映画が物資不足という状況にもかかわらず、映画製作がより大規模化し、新しいジャンルが生まれた事実に基づき、より積極的な意味として、この時期を再考察する必要性を提起し、その分析を行った。言い換えれば、戦時期において創作の自由の制限のみが強調されてきて、戦争が日本映画の表現空間を深化する機会を提供した点は、従来の研究においては欠けている視座であったのである。

 アメリカとの戦争を通じて、アメリカ映画からの影響から離れることを当局や日本主義者によって強いられた日本映画は、日本の伝統文化、芸術、思想、そして、感情などを再発見すると同時に、日本的な映画言語の形式を練磨する機会を持つことになった。そうした戦時期の映画製作と経験の延長線に、1950-60年代の日本映画の黄金期を位置することが出来ると考えられる。

 こうした問題意識を持ち、本稿は5章構成を取り、戦時期の日本映画について詳細な分析を行った。第一章では、なぜ映画が戦時期において重視されたのかを考察した。映画が持つ大衆性と伝播性は、どの国家も利用しようとしたものである。日本もその例外ではなかったが、独特的な日本的な理解、つまり、「思想戦」という概念と結びついた。物理的、武力的な勝利より、「皇道思想」の樹立が優位を占めるという思想的勝利の論理が流布されており、そうした「思想戦の武器」として映画は重視されたのである。ここで重要なことは、単純に国家の政策を宣伝するために製作された映画は、「時局便乗」的な「際物」と貶されたのであって、日本人の生活を芸術的に描写した映画が、たとえば、小津安二郎の『父ありき』のような映画が当局によって薦められたことである。つまり、「日本の姿」を芸術的に描いた映画が重視されたのである。

 第二章では、「日本の姿」を表すための試みを考察した。ここでは、近代的な科学技術の象徴としての映画を製作するための努力と、西欧の表現方式とは異なる差別性を持つ日本的映像表現の追求という二つの試みを取り上げ、この二つの試みが時には相反し、時には合致して、映画の発達を促した側面を、当時の言説分析や、日本映画学校の存在や史料などを通じて追究した。

 「日本の姿」を映画化し、それを見せようとする際、その頂点にある「国体」を映像化する動きがあったのは当然のことであろう。第三章では、「国体」を 「明徴」することを目標として製作された映画「皇道日本」を分析した。「皇道日本」は、記録映画スタイルで、雄大な自然や歴史遺跡、そして、神社などを画面に羅列することを通じて、日本の発展の原動力としての「国体」を強調しようとした映画である。この映画をめぐて、相反する意見が出された。天皇と皇室を扱った映画を作ったとしても、大衆に感動を与えられなかったらいけないので、物語を持つ劇映画として作られるべきであるという意見に対して、劇映画の場合、人間の苦悩や恋愛という世俗的な物語の中に天皇家が入ることになるので、それは世俗から離れた存在として神聖視されている天皇家の尊厳を損なうことになる。だから記録映画のスタイルを固守すべきであるという意見が衝突していた。

 こうした「皇道日本」をめぐる問題は、真珠湾奇襲の一周年を記念して製作された「ハワイ・マレー沖海戦」と関わるものであった。真珠湾奇襲の持つ歴史的な象徴性と、すでに 「軍神」として崇拝されている奇襲に参加した兵士を劇映画にすることは、それらの持つ尊厳性を損なうことにつながるからである。しかし、この映画は劇映画として従来の興行記録を乗り越える大衆性の獲得とともに、評論家からも成功作という評価が下された。ここで問題は、この映画には、劇映画としてどのようなナラティヴが取り入れられ、真珠湾奇襲の持つ歴史的尊厳性を守ることとともに、大衆性を獲得できたかということである。それを分析したのが、第四章である。カバン一つを重くて持てない農村の子供が、訓練を通じて飛行機操縦士になり、真珠湾奇襲に成功するという、成長映画的なナラティブから、絶えなく強調される精神的な訓練の重視、そして、母物と天皇制の関連性を分析した。また、戦後ゴジラシリーズを作った円谷英二が再現した真珠湾攻撃のシーンは、特殊撮影という最先端の技術の駆使とともに、限りなく記録映画に近づけようとした試みとして、この歴史的な事件の尊厳性を守ろうとしたと見なすことが出来る。特殊撮影による真珠湾奇襲のシーンは、「内地」以外においても感動を呼び起こしたが、訓練や母を思う行為などは「外地」では受容されにくい限界を持っていたことも指摘することができる。

 第五章では、アジアの他者を念頭にいれ製作された日本映画を考察した。日本の支配地の膨張とともに、日本映画もその観客の範囲が、中国や東南アジアまで広がった。彼らに見せる「日本の姿」としての日本映画はいかなるものであるべきか。日本支配下の様々な民族の人々に感銘を与えるためには、もはや日本的なものを固執してはならなく、「駆逐」したはずのアメリカ映画の「普遍性」を学ぼうとする、つまり、アメリカ映画を倣おうとする主張が出されることになる。こうした言説の下に製作された「合作映画」においては、日本や日本人は物語の中心ではなく、建設に邁進する葛藤構図を超越した真理や科学を体現する存在として描かれることになる。ナショナリズムの拡張がもたらす自己矛盾を指摘することで本稿は締めくくられている。

 本論文の意義としては、まだ未解明の部分が多いと指摘されている戦時下日本の文化状況の解明に寄与することと、戦時下映画の見直しによって戦時下文化に関する言説の多様化への貢献、そして、戦後の映画との関連性を明らかにすることが挙げられる。本論文において、韓国映画を主要な研究対象としては取り上げないが、韓国人研究者として本研究が戦前の韓国映画研究にも役に立つと考えられる。それは、戦前の日本映画・文化を研究するということが、戦前の(すなわち日本統治下の)韓国映画・文化を研究することと同義でありうるからである。韓国(当時の朝鮮)は近代化と共に、映画の始まりも日本の植民地時代に経験したが(「映画」という言葉も共有している)、従来の韓国映画研究は日本映画の影響を否定するばかりであって、戦前についての研究が立ち遅れている状況である。本研究は、こうした韓国映画史の間隙を埋めるという意味でも、意義あるものであると思われる。

 また、戦時期に関する統制や受動的な叙述は、戦後においてもつながる。GHQ時代においても、GHQにより統制され検閲されたことに、証言や研究が集中されているが、本稿の研究と延長線上で考えれば、戦時期において表現しようとした「日本的なるもの」が、GHQ時代においてはどのように変化したのか、あるいは、どのように受け継がれていたのかという戦後との関連性の究明を今後の課題にしたい。

審査要旨 要旨を表示する

 姜泰雄氏の博士学位請求論文『「日本及日本人」の表象としての戦時下映画』は、1930年代後半から1945年までの日本映画を対象に、戦時下の「思想戦の武器」として映画がどのように準備され、形成されていったのかを、当時の映画と映画をめぐる言説を詳細に分析することで解明した労作である。これまで映画統制や検閲など創作への制限から語られることが多かったこの時期を、日本映画の表現空間の深化を提供した場として捉えなおし、戦時下の文化状況の言説の多様化を目指すとともに、韓国の映画研究者として、戦前の韓国映画研究の多様化をも将来の視野に入れた意欲的な論考となっている。

 本論文の独自性は、第一に当時の映画雑誌等の一次資料を丹念にあたり、現在見ることのできる当時の映画の多くを検討し、もっとも特徴的な言説と作品に絞り込んで、自らの論を展開した論考の手堅さである。アカデミックなフィルターを堅持する意思の強さが感じられる。また日本的映像表現の探求として、顔や家屋の表現とライティング等との関連を考察しただけでなく、戦時下の映画教育という新たなテーマを掘り起こし、そのカリキュラムを検討の対象とした目配りの良さも、映画研究としての幅を広げたものとなっている。

 本論文は、五章によって構成される。第一章「「思想戦の武器」としての映画」では、戦時体制の構築と映画統制の進展を概略し、皇道思想の樹立を目的とする「思想戦の武器」として、映画が位置づけられた経緯を論述する。映画は国家政策の遂行に組み込まれたが、それは物理的、武力的な勝利よりも、思想的勝利を優位に置くものであったため、時局を描いた宣伝的な要素の強い作品が際物として非難され、「日本の姿」を芸術的に描くことが、映画人だけでなく当局によっても求められた。情報局賞を受賞した小津安二郎の『父ありき』を例としたこの分析は、戦時下の映画をめぐる言説の多様性を示す上で、ひとつの成果となっていよう。

 では、どのような「日本の姿」が求められ、映像として表象されねばならなかったのか。日本の科学によって裏打ちされた日本映画文化の自主独立を、「映画以後のもの」とした追及した経緯が、第二章「「映画以後のもの」としても戦時下映画」で検討される。科学技術の象徴とされた映画が、先行する欧米の水準を獲得するための努力と、欧米とは異なる日本的表現を追及する模索の挟間で、互いに関連しながら展開していった状況が論述される。映画の技術面や映画学校の教育などに光を当てた考察は、審査委員から評価されたが、「日本の姿」を扱うには当時の言説を映画関連に絞りすぎた嫌いがあるとの指摘も出された。

 第三章「記録映画における国体の表現」では、思想戦として映画を活用する流れの頂点として、国体の明徴を目的とした『皇道日本』を巡る言説を分析する。神聖さを強調すべく、自然や史跡、神社の映像の羅列によって象徴化された同作は、天皇の尊厳を保持しえても、大衆を戦争に動員する「思想戦の武器」としては機能し得なかった。人間的葛藤を描き、大衆を感動させながら、なおかつ日本の優位性の尊厳を保持するという課題が、『皇道日本』をめぐる論争によって明確になったとする指摘は、「思想戦の武器」としての映画の転機として説得力をもつ。

 この課題が作品によって解決される過程を分析したのが、第四章「思想戦の勝利としての劇映画『ハワイ・マレー沖海戦』」である。第三章で提示された課題は、人間的な葛藤を農村の少年の予科練での成長物語として描くことで観客に対する教育へと転化して解決し、さらに最先端の特撮を駆使して真珠湾攻撃を再現することで、その記録性によって歴史的尊厳を確保したとする。この分析は、本論文の白眉ともいうべきものだが、作品の各シークエンスの詳細な検討と、製作から宣伝、配給、観客の反応まで視野に入れた論述が、高く評価された。戦時下の映画からは父が排除され、その多くは「母物」と言いうるもので、家族国家観とも関連するという論考は、戦時下の言説の多様性として評価されたが、「母性天皇」像として論じるにはさらなる論拠の補強が必要との指摘がなされた。

 第五章「拡張された「帝国日本」における映画製作」では、大東亜共栄圏としてアジアの多様な他者を内包したことにより、駆逐すべきアメリカ映画の「普遍性」の獲得が新たな課題となった状況が、論述される。恋愛等の葛藤を現地の人間に限定し、日本人を指導者として超越した存在とすることで日本の独自性が希薄化する矛盾が指摘される。ナショナリズムの拡張がもたらす自己矛盾の問題は、論述として説得力をもつが、各占領地の実情をより厳密に検討し、論を補強する必要性も指摘された。

 「思想戦の武器」としての映画に着目し、ファシズムと映画の関係を当時の言説と映画作品自体から再検討して、その多様性を明らかにしようとした本論文の論考は、その所期の目的を十分に達成しており、今後の日韓両国の映画研究に新たな可能性を示す興味深い指摘も随所に見られるなど、今後のさらなる発展を期待させるものである。全体の論旨もきわめて明確であるが、論旨の一貫性を求めるあまり、一部に筆の走りや論拠の補強が必要な箇所も散見された。しかし、それらは瑕疵にすぎず、本論文の成果を損なうものではないという点で、審査委員の意見は一致を見た。

 したがって、本審査委員会は全員一致で、姜泰雄氏の提出論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定した。

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