学位論文要旨



No 119807
著者(漢字) 小針,誠
著者(英字)
著者(カナ) コバリ,マコト
標題(和) 東京・私立小学校における入学志向と入学選抜メカニズムに関する歴史社会学的研究
標題(洋)
報告番号 119807
報告番号 甲19807
学位授与日 2005.03.02
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第105号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 苅谷,剛彦
 東京大学 教授 汐見,稔幸
 東京大学 助教授 廣田,照幸
 東京大学 助教授 恒吉,僚子
 東京大学 教授 秋田,喜代美
内容要旨 要旨を表示する

【序論】

 本研究の目的は、1920年代から1950年代にかけての東京・私立小学校の「入学者」の問題をテーマに、家族の入学志向と学校の入学選抜のメカニズムに注目・考察し、東京において私立小学校が特定の社会階層の間において一定規模で普及した要因を明らかにすることにある。

 これまでの私立小学校に関する歴史研究の動向を振り返ったとき、その多くはそれぞれの小学校で実践されていた児童中心主義の思想による教育理念や教育活動に注目し、それらを教育思想史や実践史の文脈で考究するものであった。その一方で、1980年代以降の歴史社会学や社会史研究の理論や方法の進歩を受けて、私立小学校を含む所謂「新学校」の入学者や在学者の属性に注目し、その多くが都市新中間層であることを計量的に明らかにした研究が登場する。しかし、これら先行研究は、一部の私立小学校が、既に大正期から昭和戦前期に、新一年生の入学希望者に対して入学選抜考査を実施していた事実を看過してきた。つまり、先行研究では、家族の入学志向という観点から入・在学者の必要条件を提示しているものの、入学希望者を〈合格者〉と〈不合格者〉に選り分けた学校側の「選抜」(十分条件)を明らかにしてこなかった。

【本論】

 第1部「私立小学校の入学志向と存廃条件」(第1章〜第4章)においては、近代日本における自立的結社としての私立小学校の誕生とその社会的背景を踏まえたうえで、存続(自己保存)・廃校の分岐点について明らかにした。本研究は私立小学校の多くが中等・高等教育段階の学校を併設していることに注目し、その社会的評価が小学校の入・在学者数に影響を及ぼした史実を例証した。

 第1章では、戦前期における自発的結社としての私立小学校誕生の系譜、私立小学校の入・在学者の出身階層や居住地域などの社会的背景、私立小学校の存続条件を明らかにした。

 東京における自立的結社としての私立小学校の誕生の系譜を辿ると、(1)1890年から1900年代以降に見られた洋学系私塾やミッション系の各種学校の初等教育機関(「小学校」)としての再編、(2)日露戦争前後の帝国主義の影響を受けて誕生した私立小学校、(3)大正新教育運動のもとで誕生した私立小学校の3つの潮流が挙げられる。これらの私立小学校の入・在学者は、主に都市新中間層を出自とし、しかも学校の所在地から比較的近隣地域に居住する子どもたちであった。戦前期の私立学校は脆弱な財政基盤の上に成立しており、併設の中・高等教育機関が私立小学校の存続に特に重要な意味をもっていた。併設上級学校の設置と初等教育段階からの私学一貫校としての制度化は、小学校段階から一貫した教育理念のもとで子どもの教育実践に関わることができるという学校側の教育理念の実現の一方、保護者の教育方針と合致するものでもあり、私立小学校の入学志向を誘発するものであった。

 第2章では、併設上級学校の社会的評価とその小学校への影響を、小学校の入・在学者数あるいは小学校卒業後の併設上級学校への継続在学率を指標に考察した。

 明治後期以降、私立中・高等教育機関の社会的評価はそれ以前に比べて向上した。その背景には政府の私学政策の転換、特に教育機会の拡大と外的権威による設置認可(「大学」「専門学校」への昇格や徴兵免除・教員免許などの諸特権・資格の付与)、それに伴う卒業生の社会的処遇の好転によるところが大きい。慶應義塾大学(大学)や日本女子大学校(女専)などの高等教育機関は、就職状況や配偶者の選択行動など卒業生の地位達成が学校の社会的評価と直結した。旧制高校・女学校を併設した成城学園あるいは中等教育機関を併設した暁星学園・東洋英和女学校の社会的評価は、上級学校への「進学校」として確立されることで高まった。それら一連の私立中・高等教育の社会的評価の上昇を受けて、併設の私立小学校においては、入学希望者や小学校卒業生の継続在学者数の増加が見られた。また、入学希望者の増加は一部の私立小学校において入学選抜考査が導入される要因にもなった。

 第3章では、都市新中間層が子どもの小学校入学に当たって私立学校を志向した理由について、矛盾する家族の教育方針(童心主義・学歴主義)を私立小学校の教育実践や学校制度と対応させつつ、明らかにした。

 都市新中間層の保護者の矛盾する教育方針・教育要求とは人格形成における「童心主義」と知識主義としての「学歴主義」である。存続・発展した私立小学校の多くは、これら矛盾する2つの教育方針・教育要求をともに満たすものであった。保護者が学校に求めた「童心主義」とは、私立小学校において導入された大正新教育運動の流れを汲む自由主義・進歩主義的な教育活動によって充足された。また、人格形成のレベルでは、キリスト教による徳育を求めて、ミッション系の私立小学校を志向する家族も存在した。他方、「学歴主義」については、特に1920〜30年代にかけて、上級学校の「入学難」や「受験地獄」が社会問題化するなか、私立学校に入・在学した学生たちは、併設学校相互の連絡関係の制度化によって、上級学校の入試に向けて刻苦勉励の必要もなく、優先的あるいは無試験で併設の上級学校に進学できた。つまり、私立小学校から併設の中・高等教育機関に至る私学一貫校としての制度化は、相反する「個性主義」と「学歴主義」いう都市新中間層の教育目的・教育要求を矛盾なく満たす学校体系であり、社会階層の再生産を志向するうえでも有利な条件であった。

 第4章では、多数の入・在学者を集め存続・発展を可能にした私立小学校と対比して、1930から40年代に廃校・淘汰に追い込まれた私立小学校の背景・要因について、併設上級学校の社会的評価とその小学校への影響を入・在学者数あるいは卒業生の継続進学率から明らかにした。

 淘汰・廃校に至った私立小学校の最大の要因は、入・在学者数の減少に求められるが、その問題の背景には、脆弱な財政基盤に加えて、上級学校の併設がなかった点、あるいは、併設上級学校が「進学校」としての社会的評価を得ていなかったことで、私立小学校卒業生の多くが他校の中等教育機関に流出していったことが挙げられる。このタイプの小学校の中には、保護者の要求する他校の中等学校の進学に向けた受験教育を重視せざるを得ず、その結果、学校設立当初から理念として標榜・実践してきた児童中心主義的な教育実践が中断もしくは大きく変容した。

 第2部「私立小学校の入学選抜考査メカニズム」(第5章〜第8章)では、一部の私立小学校が導入した入学選抜考査の実態について、入学志願者数、入学選抜考査の方法、入学選抜考査の評価や合否の結果などを明らかにした。

 第5章では、私立小学校が入学選抜考査を導入するに至った経緯とその社会的背景について考察した。

 自発的結社としての私立小学校は、設立当初あるいは入学選抜考査導入以前においては、応募先着順もしくは簡単な知能検査・身体検査によって入学者を決めていた。その後、入学定員を大きく上回る多数の入学希望者があった特定の私立小学校では「入学選抜考査」が導入された。私立小学校の入学選抜考査では、幼児に対するメンタルテスト、行動観察、遊戯、リトミック、保護者面接などが考査課題として採用された。この入学選抜考査は、同じ選抜基準で入学を許可された〈合格者〉とそれ以外の〈不合格者〉を選別した点で、ゼロサム(零和)競争であった。

 第6章では、私立小学校において導入されていた入学選抜考査の課題や評価の特質を〈目に見えない入学選抜考査〉として明らかにし、社会的選抜装置としての入学選抜考査のメカニズムについて理論的・実証的に考究した。

 入学選抜考査課題のなかでもメンタルテストは、先験的な能力である知能を測定すると認識されていたことで、入学準備教育を必要としない〈教育的〉な試験であったこと、および教育測定技術の〈科学性〉ゆえに、各小学校での入学選抜課題として導入された。行動観察、リトミックや遊戯などの課題が入学選抜考査に導入されたのも、文字や数字などのリテラシーに対して無知であることが前提となっていた幼児を評価・選抜するうえで〈教育的〉であるとした認識に因っている。私立小学校に入学するためには、高額な授業料の負担能力以外にも、メンタルテストやリトミック・遊戯など〈目に見えない入学選抜考査〉の選抜基準をクリアする必要があった。〈目に見えない入学選抜考査〉とは、Bernstein,Bによる〈目に見えない教育方法〉の議論に準えたものである。本研究では、成城小学校の事例から、入学選抜考査の導入以降、新中間層出身の子弟が増加し、旧中間層出身の子弟が減少していることを学籍簿の再分析から明らかにし、その要因のひとつとして、この〈目に見えない入学選抜考査〉の導入を挙げた。また、東洋英和女学院小学校の事例から、入学選抜考査における評価と合否決定のメカニズムを明らかにした。入学選抜考査の評価の場面では、課題に対する出来/不出来以上に、関心・意欲・態度など客観的に評価し得ない内容までもが点数化・序列化された。つまり、〈目に見えない入学選抜考査〉は、理念として、子どもの自由な活動を評価しようとする「個人本位アピール」を志向しつつも、実際のところは、客観的な評価に基づいて合否判定をせざるを得ず、そのため子どもへの評価・監視などのコントロールを強化する「発達的コントロール」に陥りやすい側面をもっている。

 第7章では、入学選抜考査の導入を受けた家族の対応を「入学準備教育」から明らかにした。

 入学を志願する家族においては、入学選抜考査に対して「付け焼き刃」的な入学選抜準備が行われていたものの、1930年代以降になると、小学校の入学選抜考査に対応する問題集(過去問集)や家庭教師が登場した。特に問題集はその発行部数からかなりの売れ行きであった。また、一部の幼稚園では、私立小学校の入学選抜考査を直接の目的とした入学準備教育が行われていた。この時期の幼稚園は、Montessori,MやDewey,Jなどの教育思想を受けて、児童中心主義的な保育実践を志向しつつあり、〈目に見えない入学選抜考査〉の準備教育の場でもあった。私立小学校に入学した新中間層の子どもは、他の社会階層の子どもに比べて、家庭環境や幼稚園の通園など、入学準備教育の機会に恵まれていた。

 第8章では、一般の入学選抜考査とは別枠で設けられていた縁故入学制度と当時の私立小学校に対する社会的評価について考察した。

 私立小学校は、入学選抜考査導入の一方で、教職員の子弟・子女、在学や卒業の兄・姉をもつ児童、有力者の紹介のあった者など、いわゆる「縁故」入学枠を設けていた。大正期以降、新教育系の私立小学校は、入・在学者の社会的背景や学校の教育実践の独自性ゆえに、「特殊な私立小学校」と目され、批判的に論じられていった。その背景には、戦間期における階級的な葛藤・闘争が顕在化し、労働争議や小作争議などマルクス主義に支えられた社会主義運動が活発になっていった社会事情が挙げられる。いわば、戦間期とは、児童中心主義教育を絶賛する新中間層の勢力と、これを階級論の視点から批判する勢力とが括抗していった時期として捉えられる。

【結論】

 以上を踏まえて、本研究の総括と学問的意義を議論した。

 戦前から戦後期にかけて、淘汰された小学校と存続した小学校とを対比したとき、上級学校の進学実績こそが私立小学校の存続を可能にした。しかし、小学校段階で早期選抜した新中間層出身の子どもが無試験で併設上級学校に進学できる私立学校の制度は、従来の立身出世モデル(競争移動)とは異なる、「庇護移動」(sponsored mobility)を可能にした。また、私立小学校の入学選抜考査を媒体として、私立小学校のカリキュラムや教育内容や教育方法、入学選抜考査の課題・評価、入学した児童の獲得した諸能力との三者関係を対応させたときに、私立小学校は、〈目に見えない入学選抜考査〉を通じて、各小学校で実践していた「目に見えない教育方法」に対応できる幼児を予め選別し、入学後の教育活動や学校運営にふさわしい能力を獲得している子どものみを合格・入学させていたと考えられる。他方、私立小学校に入学を志向する家族は、子どもに入学選抜考査に合格できる能力を獲得させるべく、志望する私立小学校の入学選抜課題に合わせた家庭教育、あるいは、小学校の入学選抜考査を目的とした問題集(過去問集)や家庭教師を利用してまで入学準備教育に励むことになった。こうした家族の教育戦略は、忌避の対象となった公立小学校に対しては「学校を自覚的に使いこなす家族」であったが、入学を希望する私立小学校に対しては「学校の教育方針に従属する家族」の姿そのものであった。

審査要旨 要旨を表示する

 戦前期の日本社会において、私立小学校を利用したのは、いかなる社会層だったのか。そこにはどのような動機があり、また、学校側は、どのように受験者を選抜し、学校としての生き残りを図ったのか。本論文は、1920年代から1950年代の東京における私立学校への入学という問題を、慶応、日本女子大学校、成城、暁星、東洋英和の5校を対象に、教育の歴史社会学の視点から解明することを通じて、教育における選抜研究と学歴社会研究に寄与しようとするものである。

 本論文は、問題の設定を行った序論、本論にあたる8つの章、結論の各章によって構成される。序論では、戦前期の私立小学校の変遷を簡潔にたどったあと、本研究が解明すべき研究課題として、私立小学校が都市新中間層によって利用されるようになった実態と理由の解明、私立小学校の存廃と入学者の志向との関係の解明、私立小学校が実施した入学者選抜のメカニズムの解明といった問いを提出し、それらの研究課題に応えることが、既存の教育研究にどのような新たな知見を付け加えることになるのかを検討する。

 続いて、本論第一部に当たる1章から4章においては、私立小学校の入学者の社会的背景を統計資料によって明らかにするとともに、学校の生き残り戦略として、中等教育・高等教育機会との接続関係が重要であったことが示される。その中で最も特筆すべき知見は、併設の中等学校や高等教育機関をもつことによって、私立小学校が、児童中心主義教育と学歴上昇アスピレーションという、相矛盾する可能性のある都市新中間層の教育要求を両立させることができた点の解明である。

 第一部の知見をふまえ、本論第二部を構成する5章から8章では、私立小学校の入学者選抜考査についての分析が行われる。そこでは、入学者選抜が必要となった社会背景の分析、入学者選抜において、学力試験によらない、B.Bernsteinのいう類別と枠組みが共に弱い「目に見えない」入学考査が行われていること、こうした選抜方式への準備を都市新中間層の家族がどのような教育戦略のもとで採用したのか、その結果、どういう児童が合格していったのかが解明され、新中間層の文化との親和性が明らかとなる。

 これらの実証分析の結果をもとに、結論の章では、選抜研究、学歴社会研究における本研究の学問的意義として、上級学校との接続関係を持つ私立小学校が、戦前期において新中間層の庇護移動を可能にする社会移動のチャンネルとして機能したこと、そのことが児童中心主義の教育を可能にしていたことが指摘される。

 以上のように、本論文は、これまで実証研究がほとんど皆無であった、戦前期における私立小学校の入学者選抜のメカニズムと社会階層との関係を解明した点で、今後の教育研究に重要な貢献をなすものと考えられる。このような点から、博士(教育学)の学位論文として十分な水準に達しているものと認められる。

UTokyo Repositoryリンク