学位論文要旨



No 119816
著者(漢字) 河本,和子
著者(英字)
著者(カナ) カワモト,カズコ
標題(和) 第2次世界大戦後のソ連における連邦家族基本法制定過程(1948-1968) : 家族から見たソヴェト民主主義
標題(洋)
報告番号 119816
報告番号 甲19816
学位授与日 2005.03.10
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第188号
研究科 法学政治学研究科
専攻 政治専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 馬場,康雄
 東京大学 教授 塩川,伸明
 東京大学 教授 小森田,秋夫
 東京大学 教授 交告,尚史
 東京大学 教授 森田,磁
内容要旨 要旨を表示する

 本稿は、序章、第1部、第2部、第3部、終章からなる。

 序章では本稿の目的について論じた。それはふたつある。第一に、第2次世界大戦後のソ連において行われた、連邦家族基本法(正式には、婚姻と家族に関する連邦および連邦構成共和国の立法の基本原則)の制定過程を明らかにすることにより、立法過程を基礎付ける「ソヴェト民主主義」がどのような制度として設計され、どのように実行に移されていたか、そこにいかなる限界があったかについて考察する。第二に、家族法の内容および文言を決定する議論から、「ソヴェト民主主義」の前提となるべき社会構造における家族の意味に関して考察する。

 ソヴェト民主主義は、勤労者を引き裂く敵対的利益の存在を許さない。このことは、勤労者の同質化と特権および分業の否定を要請する。但し、ソヴェト民主主義理念は常に同じではなく、スターリン後には一定限度内での利益の多様性が容認された。このような理念的変化と実際の政治過程を突き合わせて理解することが従来の研究を批判的に受け継ぐことに繋がる。

 民主主義が実現されるためには選挙が行われさえすればよいというものではなく、公正な選挙が行われるための制度を生かすことのできる社会が必要となる。家族は、社会の最も基本的な人的関係のひとつとして挙げられる。ある社会における家族の位置づけはアプリオリに決まるわけではなく、政治的な考慮のうえで決定される。ソ連ではこうした考慮の結果、家族の位置が次に述べるように大きく揺れた。もともとソヴェト民主主義からすれば二義的だった家族が、どのように取り込まれたのかという問題が生じる。

 第1部「前提」においては、本稿で扱う連邦家族基本法制定過程の前提となる諸問題について述べる。ソヴェト政権初期には、財産を継承するために存在する家族は私有財産制を廃止すれば意味を持たなくなり、いずれ死滅して、婚姻は完全に私事となり、子供の養育は社会が行うようになると考えられた。こうした考えの下、事実婚に法的効力を認められた。また、財産継承者を特定する意味をもつ嫡出・非嫡出の区別も廃止され、婚姻関係と親子関係は理論的に切り離して考えられることとなった。ところが、社会主義の実現が宣言された1930年代半ば以降、家族は国家および社会の基礎単位であるとして「家族の強化」政策が採られるようになり、第2次大戦中の1944年には家族法が大改正され、離婚手続が複雑化されたほか、登録婚主義が採用された上に婚外子の父親確定制度が廃止された。こうして、婚姻はひとたび締結すれば容易な解消は望めなくなると同時に、婚姻関係と親子関係は結び合わされることとなった。

 戦後のソヴェト社会では、1944年改正のため離婚が難しくなったので、法的に離婚しないまま次の婚姻関係を事実上結ぶという現象が広く見られ、このことが婚外子率を押し上げることとなった。戦争による人口喪失のため、男女比がいびつになったこともこれに拍車をかけた。婚外子は父親との関係で無権利であり、その上、学校でいじめられるなどされた。こうした事態は、一般市民の不満を招き、法改正を求める手紙が多く寄せられることとなった。これらの手紙は、法改正を促す力のひとつとなった。

 一般市民による入力のほかに、連邦家族基本法制定を促したのは、法体系整備の必要であった。家族法は共和国ごとに立法されており、同じ問題に異なる解決がなされている場合もあり、連邦で体系的な法律を定める必要が従来から主張されていた。こうして始められた連邦家族基本法立法過程は、いくつかの時期に分けられる。法案作成に携わったのは、連邦閣僚会議によってアドホックに設置された政府委員会、連邦最高会議の常任委員会のひとつである立法準備委員会、連邦司法省およびその後継機関たる連邦閣僚会議付属法務委員会である。法案作成にあたっては、上記の機関へ専門家が招聘された。

 第2部「制定過程」においては、連邦家族基本法制定過程を、国家機関内での作業に即して述べる。1948年暮れから始まり1968年6月に終わった全過程は4つの時期に区分できる。1948年暮れからスターリンが死去する1953年までは、政府委員会が法案作成を担当し、立法準備委員会が法案審査を担当することになっていた。スターリンの死去と共にこの時期の法案作成作業は滞った。スターリン後しばらくは、連邦レベルの体系的な法律制定よりも、個々の論点について対応が図られ、これを連邦司法省が担った。1950年代後半から再び連邦家族基本法制定の動きが見られ、このときには法務委員会が法案作成を任された。法案は連邦閣僚会議に提出されたがそれ以上の段階を経ることはなかった。1961年暮れから、立法準備委員会が法案作成を受け持つこととなった。立法準備委員会による法案作成が終了して、1968年4月に法案は一般市民による討論に付されるために公表された。議論を基に修正案が作成され、連邦最高会議本会議に提出され、1968年6月に成立した。

 第3部「考察」においては、これまで論じてきた連邦家族基本法制定過程において議論が闘わされた家族法上の論点を検討し、それら議論の意味について考察を加えると共に、ソヴェト民主主義が立法過程でどのように作動したか、その限界は何だったかについて検討した。論点は、婚姻関係に関わるものと親子関係に関わるものに大別できる。婚姻については、裁判外の離婚手続を設けるか否かが最も激しく争われた。ここでは婚姻が社会的・公的なものであることを理由に国家が干渉する範囲を広く取ろうとする論者と、婚姻が私事に属する親密な人間関係から生じることを理由に、当事者の意思を尊重する範囲を拡大することを主張する論者が対立した。親子については、婚外子問題が最大の論争点となり、登録婚主義擁護を理由に、婚外子の父親確定要件を絞ろうとする論者と、婚姻関係と親子関係の論理的切断を主張して婚外子の父親確定要件を拡大しようとする論者が対立した。このように、議論は理念を根拠としてなされたため、その主張は家族に画一的対応をもたらすものになりがちであった。もちろん、論者たちは画一的対応でよいと考えられていたわけではなく、多用な現実に対応するために当事者の意思を尊重するという形で、規定に柔軟性をもたせようとした。

 こうして家族は保護を受けつつ一定の自由を与えられ、国家および社会と協力関係に立つイメージを付与される。こうした調和が成り立つのは、家族が有する利益が勤労者の利益と矛盾しないときである。この条件となるのは、勤労者の利益が何かを決める基準か、その決定者が安定的に存在することであり、何によって利益の一体性を図るかという問題はソヴェト民主主義の根幹に関わる。

 ソヴェト民主主義は、治者と被治者の利益の一致を前提にし、被治者の積極的な政治参加を求める。とりわけスターリン後にはこうした直接的参加の重要性が叫ばれていた。連邦家族基本法制定過程においては、連邦各地へ人員を派遣して意見を集めたり、公表前の法案を研究機関に送付して意見を求めたり、一般市民からの投書を検討したりといったことがなされた。また、法案採択直前には、法案は全人民討論に付され、ここで得られた意見のいくつかは修正案に反映された。他方、間接参加も重要である。法案作成に携わった機関は、連邦最高会議によって選出されるか、選出された機関によって設置されたものであり、有権者が連邦最高会議代議員を通して間接的に参加していると観念できる。代議員は常に直接的に法案作成に携わっていたわけではなく、原案作成などは専門家に任せ、原案にコメントを付したり、修正を要求したりすることにより、作業に加わっていた。こうしてみると専門家が議論の実質を支配しているように見えるが、婚外子の父親確定要件という最大の論争点においては、専門家の多数派の意見ではなく、代議員らの意見が通ったことを考えれば、代議員が決して飾りではなかったことが分かる。

 こうした直接的・間接的参加には限界もあった。直接的参加について言えば、一般市民からの入力が受け入れられるか否かは、政策担当者の判断にかかっているため、何がルートに乗り、何が乗らないかが明確とは言えず、予測可能性を欠くことになる。間接的参加についていえば、代議員選出にあたり、候補者を一人に絞るのが共産党であったことが問題視されてきた。ソヴェト民主主義が前提する利益の一体性を貫こうとすれば、公けに議席を争うよりは水面下の調整の方が好まれたと考えられるとはいえ、候補者一本化調整は、選挙の形骸化を招き、ソヴェト民主主義にかえって傷をつけることになった。また、直接的参加と間接的参加をどのように組み合わせ、どの場面でどちらを優先するのかといった点について、議論が詰められておらず、人民と代議機関の意思が予定調和的に一致することにされていた。この結果、何が勤労者の利益なのかを判断するのが究極的には誰なのかという問題が解けないまま残されることとなった。

 終章では第3部までの総括を行い、残された課題を探った。残されたのは、当事者の意思が家族に関わる問題を越えてどこまで容認されたのかという点と、この時点ではそれなりに機能していたソヴェト民主主義が1990年代に入ってあっさり放棄されたのは、何故どのようにしてであったかという点である。いずれも、ソヴェト民主主義の理論的内容がどのように変遷したかに関わる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、第2次世界大戦後ソ連における「婚姻と家族に関する連邦および連邦構成共和国の立法の基本原則」(以下、連邦家族基本法という)の制定過程を非公刊一次資料に基づいて克明に跡づけたものである。

 この作業には2つの狙いが込められている。その第1は、立法過程の具体的様相を詳しく追い、そのことを通して、立法過程を基礎づける「ソヴェト民主主義」がどのような制度として設計され、どのように実行に移されていたか、そこにいかなる限界があったかについて考察することである。より具体的には、草案の準備過程および制定過程における各種の担当機関の活動実態と相互関係、またそこにおける専門家(特に法学者)、最高会議代議員、一般大衆、政治指導部といった各種アクターの役割の詳細にわたる解明が本論文の大きな部分を占めている。

 第2の狙いは、連邦家族基本法をめぐる議論の検討を通して、ソヴェト社会において家族がどのように位置づけられていたかを考察し、国家と家族の関わりという角度からソヴェト型政治システムの特徴を探ることである。ソ連における国家と家族の関係を、すべてが特異なイデオロギーから流出したものと捉えたり、逆にイデオロギーは単なる建前に過ぎず現実の社会関係には何の影響ももたなかったと考えるといった両極の先入観を排し、現実の家族法討論において登場した具体的争点の整理を通じて、この問題をより着実な検討の土俵に載せることが大きな課題とされる。

 本論文は、序章、第1部「前提」、第2部「制定過程」、第3部「考察」、終章、の各部分からなる。

 序章では、本論文の目的が論じられた後、「ソヴェト民主主義」という、今日では取り上げること自体の意味が疑われやすい主題を再検討することの意義が論じられている。旧ソ連および東欧諸国で社会主義が放棄された後、欧米諸国に現に存在する政治経済体制がそのままで正当化されるという安易な受けとめ方が一部に広まったが、リベラル・デモクラシーが社会主義的民主主義との対抗関係の中で鍛えられてきたことを想起するなら、前者の深化のためにも、後者の存在を単純に忘れ去ってしまうのではなく、その内実が具体的にどのようなものだったかを再検討することに今日的意義があると筆者は主張する。

 第1部「前提」は2つの章からなる。第1章「家族と家族法を取り巻く状況」においては、連邦家族基本法制定過程を理解する前提として、従前の家族立法および戦後の家族状況について述べられている。ソヴェト政権初期においては、財産を継承するために存在する家族は私有財産制を廃止すれば意味を失って、いずれは死滅し、婚姻は完全に私事となり、子供の養育は社会が行なうようになると考えられていた。こうした考えのもと、事実婚に法的効力が認められ、嫡出・非嫡出の区別は財産継承者を特定するものとしての意味を失い、婚姻関係と親子関係は法的に切り離された。ところが、社会主義の実現が宣言された1930年代半ば以降、家族は国家および社会の基礎単位であるとされ、「家族の死滅」に代わって「家族の強化」政策が採られるようになった。第2次大戦中の1944年には、離婚手続きが複雑化されたほか、登録婚主義が採用された上に、婚外子の父親確定制度が廃止された。こうして、婚姻はひとたび締結されれば容易な解消は望めなくなると同時に、婚姻関係と親子関係は再び結びつけられることとなった。戦後のソヴェト社会では、1944年改正によって離婚が難しくなったため、法的に離婚しないまま次の婚姻関係を事実上結ぶという現象が広く見られ、このことが婚外子率を押し上げた。戦争による男子人口急減のため人口の性比がいびつになったことも、これに拍車をかけた。婚外子は父親との関係で無権利であり、その上、学校でいじめられたりすることも少なくなかった。こうした事態は一般市民の不満を招き、法改正を求める手紙が当局のもとに多数寄せられた。

 第2章「立法過程の担い手たち」では、連邦家族基本法立法過程の主要な担い手がどのような存在だったかが説明されている。すなわち、(1)連邦閣僚会議によってアドホックに設置された政府委員会、(2)連邦司法省およびその後継機関たる連邦閣僚会議付属法務委員会、(3)連邦最高会議の常任委員会の一つである立法準備委員会、(4)法学の研究機関、(5)共産党、という5種類のアクターが個別に解説され、末尾ではそれらの相互関係が論じられている。

 第2部「制定過程」は、連邦家族基本法制定過程を、国家機関内での作業に即して詳しく跡づけており、時間の順序に沿って第3章から第7章までに分けられている。まず第3章「政府委員会、1948-1952」では、1947年の憲法改正で家族法の基本法制定が連邦管轄となり(それまで家族法は共和国ごとの立法に委ねられており、連邦レヴェルの基本法は存在しなかった)、これによって連邦家族基本法制定が課題となった直後の1948年における作業開始から、スターリンが死去した1953年までの時期が取り上げられている。この時期には、政府委員会が法案作成を担当し、立法準備委員会が法案審査を担当することになっていた。しかし、この作業はスターリンの死とともに一旦滞り、法案が最高会議本会議に送付されることもなかった。

 第4章「見直しと個別法制定の試み、1953-1956年ごろ」においては、スターリンの死去からフルシチョフによるスターリン批判演説の行なわれた第20回共産党大会ごろまでの時期が取り扱われている。この時期には、連邦家族基本法作成作業が滞る中で、体系的な法律制定よりも、個々の論点への対応によって家族法の改正がなされた。この時期の作業の中心を担ったのは連邦司法省であった。その過程で、婚外子問題、離婚手続き問題など、後に繰り返し取り上げられる争点の多くが提出された。

 第5章「法務委員会、1957-1961」では、スターリン批判後の言論活性化の最初の局面が分析の対象となっている。一旦滞っていた連邦家族基本法作成作業がこの時期に再開され、今度は法務委員会が法案作成の任に当たった。いくつかの草案が作成され、1959年10月には一つの案が連邦閣僚会議に提出されたが、この案はしばらく閣僚会議のもとにとどまり、それ以上の段階に進むことはなかった。

 第6章「立法準備委員会、1961-1968」では、立法準備委員会が法案作成を受け持ち、一般市民による討論に付されるために法案が公表されるところまで漕ぎ着けた時期が扱われている。立法準備委員会による法案作成作業は1963年頃にはほぼ完了に近づいていたが、1964年に予定された法案公表はなされず、作業は再び滞った。ここには、同年10月におけるフルシチョフ第1書記解任という事情が関係しているものと見られる。ともあれ、大幅に遅れた法案公表はようやく1968年4月に実現した。

 第7章「法案の採択」では、4月の法案公表によって始まった全人民討論およびそれをうけた6月の連邦最高会議本会議における最終的な修正と成立の過程が分析されている。従来、単なる形式にとどまると評されてきた全人民討論および最高会議本会議における討論が実際にはどのような内容をもつものであったかが、多数の投書および議事内容の分析を通して詳細に論じられ、それをうけた正式採択時の分析をもって第2部が閉じられている。以上の第2部では、法案作成過程の詳細な紹介が主要内容となっており、そこで提出された多数の論点の分析は次の第3部の課題となっている。

 第3部「考察」は2つの章に分かれており、第2部の議論からの結論を導いている。先ず第8章「法案内容をめぐる論争とその意味」では、論点を、(1)連邦管轄と共和国管轄の関係、(2)婚姻に関わるもの、(3)親子関係に関わるものと分け、それぞれおよびその相互関係が論じられている。婚姻については、裁判外の離婚手続きを設けるか否かが最大の争点であり、そこでは、婚姻が社会的・公的なものであることを理由に国家が干渉する範囲を広くとろうとする論者と、婚姻が私事に属する親密な人間関係から生じることを理由に当事者の意思が尊重される範囲の拡大を主張する論者が対立した。親子関係については、婚外子の父親確定問題が最大の論点となり、登録婚主義擁護を理由に婚外子の父親確定要件を狭く絞ろうとする論者と、婚姻関係と親子関係の論理的切断を主張して婚外子の父親確定要件を拡大しようとする論者が対立した。これらの議論は理念的な根拠に基づいて提出されたためにややもすれば画一化する傾向をもったが、他面では、多様な現実に対応するために当事者意思の尊重も唱えられた。そこには、ソヴェト社会における利益の調和という原則と、その調和の範囲内で許容される当事者意思の尊重とがどのようにして両立するかという根本問題が伏在していた。

 第9章「ソヴェト民主主義のもとでの政策形成・決定過程」では、こうした議論の内容および過程を踏まえて、「ソヴェト民主主義」の現実的メカニズムの特徴が論じられている。もともと「ソヴェト民主主義」は被治者の積極的な政治参加を前提していたし、特にスターリン死後には直接参加の重要性が叫ばれた。連邦家族基本法制定過程においては、各地へ人員を派遣して意見を集めたり、公表前の法案を研究機関に送付して意見を求めたり、一般市民からの投書を検討したりといったことがなされ、更に採択直前の時期には法案が公表されて全人民討論に付された。こうして集められた市民からの声は、法案作成者たちによって検討の対象として実際に取り上げられており、そのいくつかは修正案に反映されたから、市民からの入力が完全に実質を欠くものだったとはいえないが、どれがどのように取り入れられるかには不透明なものが残った。他方、間接参加の経路としては、最高会議によって設置された機関や代議員自身の活動を挙げることができる。代議員は常に直接に法案作成に携わっていたわけではなく、むしろ原案作成は専門家に任せ、原案にコメントを付したり、修正を要求したりするという形での関与が主だった。このことは専門家の役割の大きさを意味するが、婚外子の父親確定要件という最大の論争点において、専門家の多数意見ではなく、代議員らの意見が通ったことに示されるように、代議員は決して単なる飾りではなかった。このように、直接・間接両面にわたる参加があったとはいえ、そのいずれについても限界があり、また直接参加と間接参加の関係についても十分議論が詰められていなかった。何が勤労者の利益なのかの最終判断は、事実上は共産党指導部に委ねられていたが、そのことの明示的正当化はなされなかった。こうして「ソヴェト民主主義」は全面的な虚構ではなかったが、限界をもってもいたということが、具体的な制度およびその作動様式の検討の中から明らかにされている。

 このように第3部自身が既に結論に近い性格をもっているが、終章においては、本論の内容を簡潔に要約して再確認した上で、残された課題が論じられている。特に重要なのは、(1)家族法という事例においては当事者の意思が尊重される領域がそれなりに広かったが、このことは他の事例を含めて考えたときにどの程度の一般性をもつか、(2)本論文の対象時期においてはそれなりに機能していたかにみえる「ソヴェト民主主義」が後にあっさりと放棄されるに至るのはどのようにしてかという2点である。いずれも「ソヴェト民主主義」の理論的内容がどのように変遷したかに関わり、今後の大きな研究課題をなすことが指摘されて、本論文は閉じられている。

 本論文の長所としては、以下の点が挙げられる。

 先ず何よりも、連邦家族基本法という一つの事例に即して、ソ連における法律の作成過程を非公刊一次資料に基づいて克明に明らかにした点である。従来のソ連政治史研究においては、ある法律案が起草され、それが様々な関係者による検討作業の中で手を加えられ、そして最終的に採択されるに至る全過程を具体的事例に即して跡づけるという作業は、ほとんど全くといってよいほどなされてこなかった。それは、立法過程に関わる内部資料がかつては利用できなかったという資料的限界によるところが大きいが、それが唯一の理由ではない。ソ連型の政治システムにおいては法律というものはさしたる重要性をもつものではないという漠然たる思いこみ、またその作成における国民や専門家からの入力も実質的な意味をもたず、すべてが最高政治指導部から流出するのではないかという一般的通念が、立法過程の解明という課題の設定自体を妨げていたのである。筆者はそうした予断を排し、内部資料に即してソ連の立法過程の実態を丁寧に跡づけているが、これは内外においてほとんど前例のない、きわめて先駆的な業績である。

 第2に、こうした立法過程の解明作業に基づいて、ソ連特有の「民主主義」がどこまで実質的であり、どのような限界があったかを明らかにすることが試みられている。ソ連の政治体制に関する従来の議論は、ややもすれば大上段に振りかぶった本質論に傾きがちだったが、本論文はむしろ、具体的な政策過程の個別的な特徴から政治体制の問題に迫ろうとしている。特に、従来の研究が出力としての政策およびその履行に焦点を合わせがちだったのに対し、むしろ入力面に目を向け、各種の入力がどのような局面において、どの限度内で有効たり得たかの検討がなされていることは、ソヴェト政治史研究の新しいアプローチとして評価される。

 第3に、ある社会における家族の位置、国家と家族の関わり、そこにおける政治の関与といった論点は、近年、政治学一般においても重要度を高めているが、ソ連型の社会においては、特異なイデオロギーおよび国家体制をもつだけに、そこにどのような特徴があったのか、伝統的社会や自由民主主義国家との異同はどのようなものかなどといった論点がとりわけ大きな重要性をもつ。このこと自体は従来からも認識され、一定の研究蓄積があるが、その多くは実証的基礎が薄弱で、印象論を大きく出るものではなかった。本論文は、その域を突破し、家族基本法をめぐる議論という素材をもとに、国家によって規制すべきだと考えられた領域と個人の選択を尊重すべきだとされた領域の関係についての論争の具体的な分析を行なっている。この分析は、国家・社会関係という重要な論点に迫るための着実な基礎を築くものという意味をもつ。

 他面、本論文にもいくつかの短所があることを指摘しないわけにはいかない。

 先ず、本論文における立法過程の記述は非常に丹念であるが、その代わりに、政治史的観点からの分析がやや乏しいうらみがある。ソヴェト型政治体制の特質についての考察はある程度なされているが、それもやや抽象的なレヴェルにとどまっている観がある。そのことと関連して、ソヴェト史におけるフルシチョフ期の位置づけについて、断片的に触れられてはいるものの、時代像そのものの全般的考察は欠けている。また、最終的裁可の権限を保持していたはずの共産党指導部が滅多に登場しないのは、家族法という論点が党指導部によって相対的に軽視されていたためなのか、それとも何か別の事情によるのかといった点が十分明らかにされていない点は読者に欲求不満を残す。もっとも、これは資料的限界からやむをえない面もあり、根拠不十分な憶測を避けて手堅い実証的歴史研究に徹しようとしたことの別の表現ともいいうる。

 また、本論文のうち家族法についての議論は民法学の領域にも接する面があるが、立法過程における具体的論点をめぐる論者の発言を主要な素材としているため、その背景にあるソヴェト家族法の理論的枠組みについての説明が必ずしも十分ではなく、民法学の観点からみたときに議論がかみ合いにくいものになっている。もっとも、そうした不満が生じるのも、多くの政治学者が敬遠しがちな法学的議論に敢えて立ち入るという冒険をおかしたことの副産物というべきであり、政治学の論文としては特に大きな欠陥とはいえない。

 更に、本論文における原資料の丁寧な紹介は歴史研究の基礎的作業としてきわめて高い価値を有するが、反面、あまりにも資料に密着した議論が長大であるために、読んでいてしばしば議論を追うのが困難になり、またどの部分が論旨にとって特に重要なのかがつかみにくい作品になっている。論旨にとって重要な個所を強調する一方で、必ずしも不可欠でない部分はより簡略な記述にとどめるなど、文章にメリハリをつける工夫をした方が、読みやすい論文になったと思われる。

 このような問題点があるとはいえ、それは本論文の価値を大きく損ねるものではない。全体として、本論文は、その筆者が自立した研究者としての高度の研究能力を有することを示すものであることはもとより、ロシア・旧ソ連政治史ひいては政治学一般にとっても刺激的な問題を提起し、学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文と認めることができる。以上から、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。

UTokyo Repositoryリンク