学位論文要旨



No 119818
著者(漢字) 岩間,一弘
著者(英字)
著者(カナ) イワマ,カズヒロ
標題(和) 民国期上海の新中間層
標題(洋)
報告番号 119818
報告番号 甲19818
学位授与日 2005.03.10
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第541号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 並木,頼寿
 東京大学 教授 村田,雄二郎
 東京大学 助教授 谷垣,真理子
 東京大学 助教授 古澤,誠一郎
 日本大学 教授 高綱,博文
内容要旨 要旨を表示する

1, 課題の設定

 近代の中国においてもっとも多くの俸給生活者たちが活躍した上海では,第一次世界大戦勃発後に輸入代替型の軽工業と中国資本の金融機関が急成長したころまでに,中国資本の工場・銀行・大型商店が増加・成長し,資本家や労働者のほかにも,精神・頭脳労働に従事する俸給生活者が活躍の場を広げた。当時から,学校教育を受けて俸給生活者となる階層が,「中等階級」「中産階級」「中間無産階級」「中間知識階級」などと称されて議論の対象となったが,本論文はそれを「新中間層」と呼んで考察した。これまでの中国の近現代史および都市史研究は,企業経営者や地域エリートとしてのブルジョワジーと,民衆運動の担い手としての労働者に多くの関心を向け,両者の中間に出現していた企業職員たち,すなわち「新中間層」の意識や生活に着眼することがほとんどなかった。それゆえ本論文の第一の課題は,中国最初期の「新中間層」の形成を具体的に描き出し,それを近現代史のなかに位置づけることである。

 新中間層が勃興した両大戦間期の中国都市では,「職業」の分業化・専業化が顕著な趨勢となるなかで,「職業」を通して社会的・道義的な責任を果たすことが改めて求められるようになり,それが「公民」の条件の一つとされた。本稿は,専業化・分業化した個々の職業を通して地域社会全体に貢献しようとする精神,ないしは専門性のある知識・技能と社会的責任を伴う職業をもつ者やその家族への敬意や信用を,「市民的公共」の注目すべき一側面ととらえた。多くの先行研究は民国期から人民共和国初期までの上海史を「市民社会の萌芽と挫折」といえる図式で説明したので,本論文は第二の課題として,新中間層研究の視角から民国期都市の「市民的公共」の特質と展開を明らかにした。

 とくに本論文が着眼したのは,「市民的公共」が同化と排除の論理によって敵と味方を作り出す共同性としての面が強く,それがナショナリズムと親和的であった点である。そして,新中間層がナショナリズムを利用して台頭した点において,近代都市の他の階層(資本家や労働者など)とまったく同じであったことを確認しながらも,新中間層の「市民的公共」がナショナリズムと齟齬をきたす場合もあったことを示した。また中国では1920年前後から,「市民的公共」の精神を基礎とし,職能代表制によって国民的合意を形成しようとする新たな政治動向が生まれたことを指摘した。

2, 各章の概要

 本論文は,民国期の俸給生活者たちが,一方で国民統合の動向と歩調を合わせ,他方で国際的契機の影響をつよく受けながら,自分たちの行動様式や価値観・倫理意識を確立し,さらには「市民的公共」を育んでいく過程を見た。すなわち新中間層の形成過程を,統計(第1章),商業教育(第2章),企業管理(第3章),女性と家庭(第4章),余暇・娯楽(第5章)の五つの観点から具体的に考察した。

 第1章で見たように,中国において,「職員」層の実態を初めて具体的に認識しそれを掌握しようとしたのは,1930年代末の上海の中国共産党であり,41年に共同租界工部局が続いた。中国共産党職員運動委員会の責任者・顧准の主要関心は,生活状況が労働者階級に近い中・下級職員に向けられていたが,他方,工部局の社会調査と生活水準の指標の公示に協力することで生活状況が維持されることを期待する中・上級職員層の一群が存在していた。職員の間に等級とそれに伴う生活水準の格差が生じたのは,第3章で見たように,科学的管理法を導入し始めた中国の機関・企業の組織編成に一因があった。また,戦争とそれに伴うインフレによって,職員と労働者の生活水準の格差は平準化されたが,新中間層が階層としての社会的な地位を失うことはなかった。

 第2章では,商業教育による新中間層の育成が,清末の「商戦」論から1930年代の「国民経済」論に至るまで一貫して,対外的な危機と国家・国民への有益性を理由として推進されたことを確認した。中国都市では日清戦争期から,鄭観応ら開明的知識人が商業を学校で学ぶ必要を唱え始め,第一次世界大戦後から多くの商業学校が新設された。そして,当初は経済理論や外国経済に偏った講義をしていた大学教員も,両大戦間期までには教材の翻訳や中国各地の実情にあった教材の開発を進めた。また,学校で商業を学び卒業後に大組織に雇われて俸給生活者になるという新たな出世の経路が上海でも確立されると,その経歴をたどった人々の間に新しい社会意識が形成された。いうまでもなく,学校教育を通して獲得した専門的な知識や技能は,俸給生活者たちが「市民的公共」を実現するために不可欠の要素となった。商業教育の推進者やおもに商業学校で育成された企業職員たちは,教養主義や社会主義の立場からなされる批難に対して,商業も専門的な知識を必要とする「職業」の一つであり,そうした「職業」を通して地域社会および国民全体に貢献するという「市民的公共」を主張した。

 第3章では,F・W・テイラー(Frederic Winslow Taylor)が提唱し欧米で盛行されていた科学的管理法を,中国の企業経営者たちがどのように適用し,それに対して職員・労働者たちがどのように適応したのかを見た。科学的管理法とは,合理的な事業計画をたてて労力や原材料の浪費を減らす管理方法である。科学的管理法を導入した企業は数多くの職位を設置したので,職員たちは「職員」層という一つの階層意識を強化したのと同時に,「上級職員」「中級職員」「下級(初級)職員」あるいは「小職員」などと細分化された等級観念をもち,等級の異なる職員の間で感情的な軋轢が生じた。両大戦間期都市において「公民」と認められるためには社会的にふさわしい職業につくことが求められたので,「職員」および「上級職員」「中級職員」「下級職員」といった社会的地位が強く認識されたといえる。さらに科学的管理を適用できる範囲は工場などだけではなく私生活までにいたると認識されたため,「科学的」な考え方が家庭・学校・企業から都市の広範な人々に普及し,例えば,「機械」に喩える社会観や売買する時間観,あるいは「計画生活」という考え方がひろく普及した。

 第4章では,多数の主婦(「家庭婦女」「家庭主婦」「家主婦」「主婦」)と,ごく少数の職業婦人(「職業婦女」)から構成された,民国期都市中間層の女性たちを考察した。当時,初級中学校(日本の中学校にあたる)を卒業した女性たちにとって,もっとも一般的な進路は結婚であった。しかも進学や就職をしても,それらを結婚までの過渡的なものと考える女性がいた。それゆえ,職業婦人のことを「花瓶(職場の花)」と呼ぶ蔑称が生まれると,逆に,職業を続けるために結婚をしない女性も登場したが,彼女たちは「老処女(オールドミス)」といわれて同情的に論じられた。また両大戦間期には,女性は家庭で母となることを最優先すべきか,それとも家庭外の職業と両立させるべきかという議論が,『婦女雑誌』などで欧米の学説を紹介しながら活発に展開された。他方で,「社会主義」のイデオロギーを掲げて男女問題を解決しようとする主張が,しだいに有力になりつつあった。以上のような試行錯誤や論争は,都市中間層の女性たちが「市民的公共」の実現を模索した過程であったといえる。なお,中国都市では1930年代までに,新中間層の間で晩婚化が進展していたと考えられる。

 そして第5章で見たように,上海では1930年代から,聯誼会などの社会団体が俸給生活者層の組織化を始めた。上海の租界地区が周囲を日本軍に占領されて「孤島」となると,「正当な娯楽」を提唱する聯誼会の娯楽は,個人の知識や道徳を向上させ,俸給生活者層の心を繋いで連帯感を形成し,都市地域社会において「慈善救済」の役割を担い,民族・国家に貢献して「富国」「救国」ないしは「抗日」「革命」に役立てられた。そのため聯誼会には,政党・派閥・階層を越えて多様な企業経営者や職員が集結した。また,聯誼会はしばしば共同租界内とフランス租界内において本拠地を転々と移して活動を継続しており,租界の存在は俸給生活者層が自由に活動し社会的な地位を維持・向上するのに有利に働いたといえる。そして,聯誼会の活動は,重慶国民政府の新生活運動や国民精神総動員運動と歩調を合わせて進められたばかりではなく,共産党の影響力を増大させるためにも利用された。租界が日本軍に占領されても,各聯誼会は傀儡政権下で要職に就いた有力者の庇護を受けて活動を続けた。終戦後には,国民党政権が聯誼会内部に対する干渉を強め,他方で共産党地下党員や左派系活動家も活発に活動したので,聯誼会内部では国民党の社会統制と共産党の大衆運動が衝突することがあった。

 以上の各章で見た俸給生活者たちによる「近代性」の共通体験は,新しい階層意識の形成や「市民的公共」の普及を促したともいえよう。なお本論文では第4章と第5章の補論として,1930年代から50年代の民間企業職員の履歴書・調査書を分析し,俸給生活者の家族生活と余暇活動の実態にせまった。

3, 結論と展望

 上海における新中間層の歴史は,清末・民国初期(19世紀末〜1918年頃)が萌芽期,両大戦間期(18〜37年頃)から戦時・戦後期(37〜49年頃)が形成期,人民共和国初期(49〜66年頃)から文化大革命期(66〜76年頃)が「潜伏」期,脱文革・改革期(76〜92年頃)が再萌芽期,経済成長期(92年頃〜)が再形成期と位置づけられる。各章で考察した民国期における新中間層の形成過程を再検証しながら,終章では,戦時期から現在にいたるまでの新中間層の歴史的な展開を概観しようとした。

審査要旨 要旨を表示する

 岩間一弘氏の提出した「民国期上海の新中間層」と題する学位請求論文は、20世紀の前半、とくに第一次世界大戦後から抗日戦争の時期の上海における新たな社会階層の抬頭に着目し、そうした社会階層の形成に関わる事象を多面的に考察することを通じて、中華民国期の中国における都市社会層に関する歴史的な分析に斬新な視角を切りひらいた刺激的な労作である。

 本論文は、民国期上海にはじめて登場した、学校教育を受けて俸給生活者となるような社会階層を「新中間層」と呼び、彼らが自らの職業を通じて社会的な役割を果そうとする姿勢や動向に着目して、従来の中国近現代史および都市社会史研究においては十分に明らかにされることのなかった視点から、公共的な社会意識と具体的な社会活動の様態を明らかにしようとしている。すなわち、本論文は、従来の先行研究においては、企業経営者や地域エリートとしての資本家・ブルジョワジー、およびその対極にあって民衆運動の担い手として把握される労働者階級に多くの関心が向けられ、この両者の中間に出現していた俸給生活者としての企業職員たち、すなわち「新中間層」の意識や生活に着目することがほとんどなかったことを指摘し、このような「新中間層」の形成を具体的に描き出し、それを近現代史のなかに位置づけることを主要な課題として設定した。

 本論文が着目する「新中間層」は、「職業」を通して社会的・道義的な責任を果たすことが求められるような、民国期に初めて登場してくる新しい社会階層であり、そこからあらたな「公民」の条件が準備されてくることを、本論文はとくに重視している。本論文は、専業化・分業化した個々の職業を通して地域社会全体ないし国家に貢献しようとする精神、ないしは専門性のある知識・技能と社会的責任を伴う職業をもつ者やその家族を社会的に評価するような考え方を、「新中間層」として指摘される社会階層の特徴的な傾向として析出し、そこに「市民的公共」の現れを見ることを提唱する。

 これは、従来の上海などを主要な対象とした中国近代の都市社会史研究が、多くの場合に、民国期から人民共和国初期までの都市社会史を、「市民社会の萌芽」とその「挫折」という図式で説明してきたことを批判的に受けとめて、「新中間層」研究という新たな視角から民国期の中国都市社会に「市民的公共」という社会動向を認めることを主張するものである。

 また、本論文は、民国期上海における「市民的公共」がナショナリズムと親和的であった点を指摘するとともに、1920年前後から見られる職能代表制によって国民的合意を形成しようとする新たな政治的動向の基層に、「市民的公共」の意識に裏打ちされた社会的動向があったことを指摘していて、今後の民国史研究に新たな可能性を切りひらいている。

 本論文は、序章、第1章「1940年前後の上海における新中間層の生活状況」、第2章「両大戦間期における商業教育の展開と新中間層形成--国立上海商学院を中心に」、第3章「科学的管理のもとの企業職員--1930年代の商務印書館を中心に」、第4章「両大戦間期における都市中間層の女性像」、第5章「戦時・戦後上海の聯誼会--娯楽に見る新中間層の組織化」、終章「むすびにかえて--現代史のなかの新中間層」、および補論「履歴書に見る企業職員」という構成で組み立てられている。

 第1章では、1930年代末から1940年代初めに、中国共産党職員運動委員会や上海の共同租界工部局によって行われた社会調査資料を分析して、「新中間層」の実態を明らかにしている。第2章では、清末から民国期の商業教育の展開過程を詳細にあとづけて、専門的な職業知識を身につけた企業職員が生みだされてくる社会的な趨勢と、それによって形成される「市民的公共」の意識を分析している。第3章は、欧米の新しい企業経営理論が民国期上海の企業活動に与えた具体的な影響を、とくにテーラーシステムと呼ばれる「科学的管理法」の導入を試みた商務印書館などの事例を具体的に検討することを通じて、明らかにした。

 第4章では、民国期の都市中間層の女性たちを考察し、教育を受けた女性たちの進路を具体的に検討して、家庭婦人としての生き方と職業婦人への志向などについて豊富な事例を紹介し、そのような議論や試行錯誤に、当時の都市中間層の女性たちが「市民的公共」の実現を模索した過程を発見しようとした。第5章は、上海の俸給生活者たちが組織した各種の聯誼会と呼ばれる社会団体をとりあげて、とくに日本との戦争という状況のなかで、欧米諸国の租界が存在していた上海という特殊な条件のもとで、企業職員たちがどのように社会的役割を担い政治的な諸動向との関連のなかで責任を果そうとしたかを考察した。

 以上の各章での分析を通じて、本論文は「新中間層」たる俸給生活者・企業職員たちが、民国期上海を典型的な場として、当該時期の新しい「近代性」の共通体験を有したこと、そしてそのような共通体験から、新しい階層意識の形成がもたらされ、それによって当該時期に特有の「市民的公共」の意識の普及が促されたことを、説得的に論証している。さらに、民国期の「市民的公共」の問題を中華人民共和国期への連続の問題としても議論している点は、今後に展望を開くものとして評価される。

 ただし、審査においては、単純な事実関係のミスがいくつか指摘されたほかに、いくつかの問題点が指摘された。すなわち、第3章の科学的管理をめぐる議論と、第4章の女性像についての分析に連続性が薄いと見られること、日中戦争期の上海の聯誼会に着目した第5章の分析は、社会団体の動向を議論の対象としていて「市民的公共」の意識を重視する本論の主旨と矛盾する可能性があること、上海都市社会がもっていた多面的で混沌とした実態が「市民的公共」の意識を強調することによって、過度に一面的に整理されてしまうきらいがあることなど、である。

 しかしながら、審査委員会は、こうした弱点は本論文の従来の研究史に対する画期的な貢献を否定するものではなく、本論文は博士論文として必要な水準を十分に達成していると判断した。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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