学位論文要旨



No 119822
著者(漢字) 川島,尊之
著者(英字)
著者(カナ) カワシマ,タカユキ
標題(和) 聴覚による環境理解過程に関する心理物理学的研究
標題(洋)
報告番号 119822
報告番号 甲19822
学位授与日 2005.03.11
学位種別 課程博士
学位種類 博士(心理学)
学位記番号 博人社第470号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐藤,隆夫
 東京大学 教授 立花,政夫
 東京大学 教授 高野,陽太郎
 東京大学 助教授 横澤,一彦
 中京大学 教授 筧,一彦
内容要旨 要旨を表示する

1.研究の背景(第1章)

 日常的な場面では,私たちの耳に到達する音は,複数の音源からの音が重畳したものであることが多い.このような入力から,それぞれの音源がどこにあり,それが何であるのかを決定することは,計算論的にはなんらかの制約条件がないと一意に解の定まらない不良設定問題である.一方,普段私たちは音源がどこにあり,それが何であるのかをそれほど苦労せず半ば無意識的に知覚しており,聴覚系はこの意味で不良設定問題に解を与えている.

 この聴覚による環境理解過程の顕著な特徴の一つはそれが効率的である点にある.例えば私たちの聴覚系は,数百ミリ秒という比較的短時間のうちに音入力を処理し,音源の定位と識別という困難な問題になんらかの解を与えている.本研究では,こうした聴覚情報処理の効率性について,それがどのように実現されているのか,そしてその限界はどの程度なのかという2つの側面から心理物理学的に研究した.

2.聴覚情報処理の効率はどのように実現されているのか(第2章,第3章)

 一般に並列的な処理は比較的迅速な情報処理が可能であり,聴覚系の高い処理効率は適切な音の特徴を並列的,同時的に検出し,処理することで実現されている可能性が高い.本研究ではこの可能性について,特に音の両耳間時間差の処理に着目して検討した.

 両耳間時間差とは,主に音源の水平方向の位置の違いに応じて左右の耳の間で生じる数百マイクロ秒程度の音の到着時間差のことである.こうした両耳間時間差は,日常的な場面では,音源の定位に加え,音源間の聞きわけ(音源の識別)にも貢献しており,聴覚による環境理解の過程で重要な役割を果たす音響的特徴である.

 両耳間時間差が聴覚系内で並列的に検出されている可能性は,主に人間以外の動物を用いた研究から示唆されており,例えばネコなどの哺乳類については両耳間時間差に選択的な神経細胞の存在やその詳細な性質が多く報告されてきた.一方人間の聴覚系において直接的に並列処理の可能性を検討した研究は皆無ではないが内容的に大きく限られたものである.例えばそうした研究は,これまで1500Hz程度以下の比較的低い周波数帯域における両耳間時間差についてのみを対象としており,結果として低周波数域における並列的な処理過程の存在を示してきた.しかしこれまでに複数の証拠が,およそ1500Hz以下の比較的低い周波数帯域とそれ以上の比較的高い周波数帯域との間で,聴覚系内で両耳間時間差の処理の仕方が異なる可能性を示している.

 本論文の第2章では,定位残効という知覚現象を通して,比較的高い帯域での両耳間時間差(振幅包絡の両耳間時間差)が両耳間時間差に選択的な処理単位(チャネル)を介して並列的に検出されているか否かを検討した.定位残効とは,比較的長い時間ある音を聞いた後では,続けて聞いた別の音源の位置が,先に聞いていた音から遠ざかるように変化して知覚される現象である.定位残効は,音源定位の過程でチャネルによる並列的な処理が行なわれていることを示すとしばしば考えられている.

 一連の実験では,比較的高い周波数帯域にのみエネルギーが存在する振幅変調音に対して被験者を順応させたのち,別の音に対する被験者の頭内音像の定位がどのように変化するかを調整法(実験1),あるいは二肢強制選択(実験2から実験5)により測定した.実験の結果,振幅包絡の両耳間時間差は定位残効に寄与していること,さらに順応は音の変調周波数そのものの周波数の純音には転移しない性質があることなどが明らかになった.これらのことは,高い周波数帯域において,両耳間時間差が並列的なチャネルにより検出されていること,そしてそうした並列処理は変調周波数そのものに相当する信号の両耳間時間差の処理とは独立して行なわれていることを示すと解釈された.低周波数域の両耳間時間差の処理過程についてこれまで知られていたことと合わせると,第2章におけるこうした実験の結果は,高低の周波数帯域間では音から聴覚系末梢で抽出される情報が異なるが,より中枢における両耳間時間差の処理過程は等しいとする仮説を支持する新しい証拠を提供した.

 本論文の第3章では両耳間時間差の変化の処理過程を検討した.両耳間時間差については,一定の値を持つ両耳間時間差の検出,つまり静止した音源の定位が主に注目されてきた経緯があり,両耳間時間差の変化を処理する過程についてはあまり研究されてきていない.両耳間時間差の変化は日常的には音源の運動を示すことを考えると,両耳間時間差の変化を検出することは,聴覚による環境理解にとって音源の運動の検出などの重要な意味を持つと考えられる.

 本論文の第3章では,聴覚運動残効という知覚現象を通して,両耳間時間差の変化方向が変化方向に選択的なチャネルを介して並列的に検出されているか否かを検討した.聴覚運動残効とは,比較的長時間一定方向に運動する音を聞きつづけた後では,すぐ後に提示される静止音が,先の音とは逆方向に運動して知覚される現象である.聴覚運動残効は,音源の運動が音の運動方向に選択的なチャネルによって検出されていることを示すと考えられてきた.

 実験では,両耳間時間差のみが変化する純音に対して被験者を順応させたのち,静止状態を含む様々な速度で移動する純音の運動方向の知覚がどのように変化するかを二肢強制選択により測定した.2つの実験の結果,両耳間時間差の変化によって聴覚運動残効が生起すること,そしてそれはある程度両耳間時間差に選択的であることが示された.これらのことは,両耳間時間差の変化方向が,変化方向に選択的なチャネルにより並列的に検出されていることを示し,さらにそうした個々のチャネルは限られた範囲の両耳間時間差のみを入力として受け入れていることを示すと解釈された.両耳間時間差の変化方向の検出がこのように並列的に行なわれている可能性は,ラットなどの単一神経細胞について神経科学的に得られていた知見と良く符合している.

 以上のことは,聴覚によって外界を理解する際に重要な役割を果たす両耳間時間差の処理過程において,ある範囲の両耳間時間差や,両耳間時間差の変化方向に選択的なチャネルを介した並列的な処理が行なわれていることを示しており,聴覚による環境理解の優れた効率性が,適切な特徴を並列的に処理することで実現されているという考えを支持している.

3.聴覚情報処理の効率はどの程度か(第4章)

 本論文の第4章では,音源分離知覚の限界を指標として聴覚の処理効率を定量的に測定することを試みた.音源分離知覚の限界とは,同時に提示された複数の音源から被験者が分離して知覚する音源の最大個数を意味する.実験ではおよそ800ミリ秒という比較的短時間の信号(日本語音声単語)について,音源を1つから6つ程度同時に提示したときの分離知覚の限界を測定した.音源分離知覚の限界は,外界で別々に存在する音源の情報を,聴覚系がどの程度分離したまま処理しているかを示し,この点で比較的短時間内の聴覚の処理効率について定量的な指標を与えてくれる.

 これまで音源分離知覚の限界については,複数の音源を同時に提示し,そこにいくつの音源が存在していたかを被験者に数字で回答させる課題(音源数判断課題)から,それがおよそ音源2つ程度である可能性が示唆されていた.しかし,音源数判断課題は音源数知覚の性質を私たちに教えてくれるものの,音源分離知覚の限界を測定する方法としてはいくつかの点で不適切だと考えられた.音源数判断課題では,被験者が重畳信号から個々の音源を分離知覚して数を回答しているという保証が無いこと,さらに音源数判断課題は分離知覚のみならず,分離知覚した音源の数を計数する過程の性質を反映している可能性があることなどがその理由である.

 そこで,ある音源をプローブとして単独提示し,そのプローブが重畳信号に含まれているか否かを二肢強制選択により回答させる課題(マッチング課題)を用いて音源分離知覚の限界を測定した.マッチング課題では,先に音源数判断課題について挙げた問題は存在しない.実験の結果,被験者は4つから6つ程度の音源が同時に存在するとき,そのうちの少なくとも3つ程度を分離し,知覚していることが示された.言い換えるならばこの結果は,聴覚による認知過程において聴覚系は少なくとも50%(6つの音源があるとき3つ程度を分離しているため)から75%(4つの音源があるとき3つ程度を分離しているため)程度の効率で音源情報を処理,伝達していることを示している.

 これまで音源分離知覚の限界を測定する妥当な方法が無く,さらにその限界は音源数判断課題から暗黙的に2つ程度であると推測されてきたことを考えると,本研究は音源分離知覚の限界を指標として聴覚系の処理効率を定量的に測定する方法を新たに確立したとともに,聴覚系の処理効率が従来考えられてきたよりも優れていることを示したということができる.

4.まとめ(第5章)

 本研究では聴覚による環境理解過程の優れた処理効率について,それがどのように実現されているのか,そして処理効率の限界はどの程度なのかという点を検討した.

 第2章では比較的高い周波数帯域における振幅包絡の両耳間時間差が,両耳間時間差に選択的なチャネルにより並列的に処理されていること,第3章では両耳間時間差の変化方向が,変化方向に選択的なチャネルにより並列的に処理されていることを新たに示した.これらは聴覚による環境理解の優れた効率性が,環境理解の上で重要な特徴を並列的,同時的に処理することで実現されている可能性を示す結果である.

 第4章では音源分離知覚の限界を新しい方法で測定し,その限界値は音源が4つから6つ程度のときには3つ程度であるという結果を得た.これにより本研究は,聴覚系の処理効率を定量的に測定する方法を新たに確立したとともに,聴覚系の処理効率が従来考えられてきたよりも優れていることを示したということができる.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は,音源の位置の知覚,運動する音源の運動方向の知覚,複数音源の分離知覚の処理限界という3つの側面から人間の聴覚系の特性を実験的に検討し,聴覚情報処理の効率という観点から論じたものであり,全5章から構成されている.

 第1章では,上記の諸側面に関する聴覚情報処理研究の歴史と現状を概観すると共に,処理の効率に関して論じ,以下の各章で取り上げる諸現象と,並列的な処理単位(チャネル)の関係について論じている.

 第2章では,定位残効という知覚現象に着目し,比較的高い周波数域では,振幅包絡の両耳間時間差が定位残効を引き起こすという新しい知見を見いだすと共に,振幅包絡の両耳間時間差に対して選択的なチャネルが存在することをも明らかにしている.低周波数域の両耳間時間差に関する従来の知見と合わせると,本章の実験結果は,周波数帯域により末梢で抽出される情報は異なるが,中枢における処理過程はほぼ等価であることを示している.

 第3章では両耳間時間差の変化の知覚,つまり運動する音源の運動方向の知覚に着目し,変化方向に選択的なチャネルによる並列的な検出の可能性を検討している.実験の結果,両耳間時間差の変化によって聴覚運動残効が生起すること,さらに,その残効がある程度両耳間時間差に選択的であることから,両耳間時間差の変化方向が,変化方向に選択的なチャネルにより並列的に検出されていることが明らかになった.

 第4章では,同時に提示された複数の音源から被験者が分離して知覚できる最大の音源数,つまり,音源分離知覚の限界を定量的に測定することを通じて,聴覚系の処理効率を検討している.従来の研究では,分離知覚の上限は2つ程度と考えられていたが,新たな測定手法を考案し,実験を実施した結果,3つ程度の音源を分離,知覚できることが明らかになった.こうした実験から,聴覚系の処理効率を定量的に測定する方法を新たに確立するとともに,聴覚系の処理効率が従来考えられてきたよりも高いものであることを明らかしている.

 第5章では,上記の実験結果を総括的に概観し,聴覚情報処理における並列的な情報処理と処理効率の関係について論じている.

 本論文は,処理の効率という観点から聴覚情報処理における並列的なメカニズムの必要性を理論的に論じると共に,そうしたものの実在を実験的に示すことに成功している.実験的に不備な点,今後,さらに厳密な検討が必用な点も見受けられるが,聴覚研究における重要な知見を見いだし,新たな視点を提案している点で高く評価することができる.以上の点から,本審査委員会は,本論文が博士(心理学)の学位に値するとの結論に達した.

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