学位論文要旨



No 119823
著者(漢字) 丸谷,和史
著者(英字)
著者(カナ) マルヤ,カズシ
標題(和) 視覚系における初期運動検出機構の役割
標題(洋)
報告番号 119823
報告番号 甲19823
学位授与日 2005.03.11
学位種別 課程博士
学位種類 博士(心理学)
学位記番号 博人社第471号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐藤,隆夫
 東京大学 教授 立花,政夫
 東京大学 助教授 横澤,一彦
 東京大学 教授 長谷川,寿一
 千葉大学 教授 塩入,諭
内容要旨 要旨を表示する

 運動する物体の知覚は複数の処理過程が協調することで成立していると考えられる. これらの処理過程に対する過去の諸研究は, 運動そのものの検出メカニズム, 運動物体の速度, 運動物体の位置といったように, 運動の各側面に対する検討が進められてきた. 結果, 運動そのものの検出メカニズムについては, 予測力の高い, 良いモデルが提唱された(Adelson & Bergen, 1985). また, 運動物体の速度, 及び位置に関しては様々な現象が報告され, それらの現象に対する詳細な検討が盛んに行われている. しかし, これらの結果を俯瞰的に扱い, 運動知覚について総括的な議論を行った研究はほとんど無い. 本論文はこのような視点に立ち, 運動そのもの検出と, その出力に基づくと考えられる運動物体の速度, 位置の知覚の関係について検討を行った.

 運動する物体の位置, 速度と時間は物理的には下式のように記述できる.

X(t)=Xs+∫V(t)dt(1)

V(t)が一定値Vのときは特に

X(t)=Xs+V・t(2)

 これらの式は見方を変えると速度を媒介変数として時間と空間位置が相互に変換可能であることを示している. たとえば, ある時刻におけるある物体の位置は初期位置と速度がわかっていれば初期位置に時間と速度の積を加えることによって得ることができる. このような関係が物理世界において成立することは良く知られている. しかし, 知覚される物体の位置およびその速度に対してこのような変換が可能であるかどうかについて, 具体的な検討を行った例は数少ない. 特に, 異なる属性で定義された刺激間でこのような時間と空間の互換性が成立しているかどうかはほとんどわかっていない. そこで, 本研究では式(1)で示されるような時間と空間の互換性の適用範囲とそれを支えるメカニズムについての検討を行った.

 その検討の中心は「知覚的ずれ現象」という新しい錯視現象についてのものであった. これは, 輝度で定義される縞とその他の属性で定義される縞を同位相, 同速度で提示すると, 本来はそろっているはずの2種の縞の位相がずれて知覚される現象である. 本論文では, 「その他の属性で定義される」運動刺激に運動で定義されたパターンの運動を用いて心理物理実験を行い, この錯視の起源とそれを支えるメカニズムを検討した. 運動で定義されるパターンの運動とは局所的な運動方向の違いによって生じる主観的輪郭線によって構成されるパターンの運動のことである. 例えば, ドットが上方向に運動する領域と下方向に運動する領域をランダムドットパターン上に設けると, 局所的な速度差が生じる領域に主観的輪郭線が生じ, あるパターンが知覚される. さらに, それらの領域を右方向へシフトさせると, 右方向への仮現運動が知覚される. この領域の水平方向への運動を運動で定義されたパターンの運動と呼ぶ(cf. Zanker, 1993)

 その結果は以下のとおりであった. はじめに, 知覚的ずれの性質について, 2つの縞パターンの物理・知覚速度と空間周波数を操作して検討した. 結果, この知覚的ずれは, 縞パターンの物理速度の増大とともに増大するが, パターンのコントラストを操作することによって知覚速度を操作しても系統的な影響はないことが示された. さらに, 知覚的ずれの縞パターンに対する相対的な大きさは一定であり, 位相角としての知覚的ずれの大きさはパターンの空間周波数に依存しないことが示された. また, これらの検討を行う中で, 運動定義運動の知覚速度と輝度定義運動の知覚速度の比較を行った. その結果, 運動定義運動が輝度定義運動よりも大きい知覚速度を持ちうることを示した.

 パターンの物理速度に知覚的ずれの大きさが依存することは, 知覚的ずれがパターンの物理速度の関数であることを示している. この関数は以下の2つの形のいずれかである事が想定される.

Λ=(〓LDM(V)-〓MDM(V))・t(2)

ただし〓X(V)はXで定義された運動の知覚速度を示す

または

Λ=V・(fLDM(t)-fMDM(t))(3)

ただしfX(t)はXで定義された運動の処理時間を示す

 ここで, 前者の式は知覚的ずれが2種の属性で定義された刺激間に生じる知覚速度差の時間積分によって得られること意味する. 一方で, 後者の式は2種の属性で定義された刺激の処理時間差が運動によって媒介されて空間ずれとして知覚されることを意味する. こうち, 前者の可能性は知覚速度を操作しても知覚的ずれの大きさに系統的な影響が得られなかったこと, 本実験で用いた実験状況で知覚速度を測定すると運動定義運動が輝度定義運動よりも大きい知覚速度をもつことの2つから否定される.

 従って, これらの結果に基づけば, 知覚的ずれの起源が2種の異なる属性で定義された運動刺激の処理時間差であるという仮説が正しいと考えられる. そこで, 本論文ではさらに, 処理時間差仮説について具体的な検討をおこなった. もしも, この仮説が正しいとすれば, 知覚的ずれは2種の縞間の物理的な空間ずれ及び時間ずれの双方で打ち消すことができ, さらにそのようにして測定された知覚的ずれの時間次元での推定値は一定となることが予想される. 2種の運動刺激のシフト時刻に時間ずれを導入して知覚的ずれを測定した実験の結果, 結果はこれらの予測に沿ったものとなった. 物理的なシフト時刻のずれ(物理的な時間ずれ)は知覚的ずれを相殺した. この結果を前の実験結果と合わせると, 知覚的ずれは空間・時間のいずれによっても相殺されることになる. さらに, 物理的な時間ずれによる打ち消しから推定された知覚的ずれの値(時間的推定値)に物理速度を乗じると, 物理的な空間ずれによる打ち消しから推定された知覚的ずれの値(空間的推定値)の値とほぼ一致した.

 すなわち, 以上の実験結果は, 知覚的ずれは2種の異なる属性で定義された運動刺激の刺激処理上で生じた時間ずれが, パターンの速度を媒介として空間ずれに変換されて知覚される現象であることを示している. また特に, 時間次元と空間次元での知覚的ずれの推定値の対応は, 視覚系のある段階において, 時間と空間の間に量的な可換性があることを示している.

 本論文の後半では, 前半で示された時間と空間の可換性を支えるメカニズムについての検討を行った. ここで, 本論文の前半で, 位相角単位で記述された知覚的ずれの大きさはパターンの空間周波数に依存しないことに注目した. これは, 知覚的ずれが何らかの周波数次元における情報に基づいた処理によって知覚されていることを示している. この周波数次元における情報に基づく処理として最も有力なものは, 視覚系の比較的初期に存在すると想定されるFourier型の運動検出器である. もしも, 時間と空間の可換性がFourier型の運動検出器によって支えられているならば, Fourier型の運動検出器の働きを阻害することによって, 本論文の前半部で示された時間次元と空間次元での知覚的ずれの推定値の対応が消失するはずである. 本論文の後半では以上に述べたような仮説を立て, 時間と空間の可換性を支えるメカニズムがFourier型の運動検出器であるかどうかについて検討を行った. 本論文では, はじめに運動定義運動に対して逆転運動錯視, MF縞錯視が生起することを確かめて, 運動定義運動に対するFourier型の運動検出器が存在することを確認した. 続いて, その働きが輝度定義運動と同様に, ISIの導入によって阻害されることを確かめた. これらの知見に基づいて, ISI導入が知覚的ずれにもたらす影響について検討を行った. その結果, ISIの導入によって, 知覚的ずれは減少・反転し, 大きなISIの導入下ではISIが無い条件では見られたパターンの空間周波数の変化に対する大きさの不変性が消失することを示した. さらに, 時間・空間の両次元における知覚的ずれの推定値の対応についてもISIの導入により消失するという結果から, ISIの導入時には時間と空間の可換性が崩壊することを示した. これらの実験の結果は, 視覚系の比較的初期の段階において時間・空間の可換性がFourier型の運動検出器によって支えられていることを示している. これらの結果は, これまで「(Fourier型の)運動検出器」と呼ばれてきた時空間で傾いた受容野を持つ検出器の知覚への寄与について, 再考を促す結果であるといえる. 本研究で示した時間と空間の可換性は, 知覚処理のある段階では時間と空間が一つの次元量として表象されている可能性を示している. これが正しいとすると, この次元量はより高次の過程で我々の知覚する時間・空間に分離される必要がある. Fourier型の運動検出器は比較的初期の過程で時空間の分離を支えている可能性がある. 本論文の議論は, これまで初期的な運動検出器と呼ばれてきた検出器が単なる運動の検出器を越えて, 物理次元における時空間とは必ずしも対応しない知覚される(であろう)時空間を構築するという, より基本的な役割を視覚系の中で果たしている可能性を示したといえる.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は,運動そのものの検出と, その出力に基づくと考えられる運動物体の速度, 位置の知覚の関係について検討したものであり,全7章から構成されている.

 本論文では,特に,輝度で定義される縞と局所的な運動で定義される縞を同位相, 同速度で提示すると,本来はそろっているはずの2種の縞の位相がずれて知覚される「知覚的ずれ現象」という新しい錯視現象に着目し,ずれの大きさを切り口として,運動自体の検出,運動対象の速度,位置の知覚の関係の解明をめざしている.

 第1章では運動知覚研究の歴史と現状を概観するとともに,本論文のテーマである運動対象の瞬間的な位置の知覚が,これまでどのように扱われてきたかを論じ,本論文の研究目的を明確化している.

 第2章では,本論文で着目している「知覚的ずれ錯視」についてその基本的な現象記述を行っている.この現象の由来の検討を通じて,運動に関する諸属性間の関係,とりわけ運動対象の位置の知覚の特性を明確にすることが本論文の議論の中心であり, 本章は全体的な問題提起ともなっている.

 第3章と第4章では知覚的ずれの起源に関し,具体的な検討を行っている. 第3章では,異なる属性間における知覚速度差に注目し,運動定義運動が輝度定義運動よりも大きな知覚速度を持つことを示すとともに,物理的速度を一定に保ったまま知覚速度を変化させた際の知覚的ずれについて検討を行い,知覚的ずれが知覚速度の差によっては説明され得ないことを示している. 引き続き,第4章ではもう一つの可能性として, 異なる属性で定義された刺激に対する処理時間の差に注目し, 実験により,処理時間差によって知覚的ずれが良く説明できることを明らかにしている.さらに,初期視覚系において, 時間と空間の互換性が存在し,それがフーリエ型の運動検出器に媒介されていることをも明らかにしている.

 第5章および第6章では,フーリエ型運動検出器の働きを阻害する手続きをとったときの知覚的ずれ現象を実験的に検討することにより,この現象,さらには初期視覚における時間,空間の互換性がフーリエ型運動検出器によって媒介されていることを,より詳細に示すことに成功している.さらに,そうした互換性と,初期視覚のある段階において,時間と空間が一つの次元の量として表象されていることとの関係に言及し,論じている.

 本研究は,これまであまり注目されていなかった運動中の対象の位置の知覚という,運動視研究にとって不可欠な側面に関して新たな知見を加えると共に,初期視覚における時間と空間の互換性という新たな視点の存在を明らかにした.今後,さらに詳細な検討を続けられなければならない点も見受けられるが,運動視研究に対する貢献は大きい.以上の点から,本審査委員会は,本論文が博士(心理学)の学位に値するとの結論に達した.

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