学位論文要旨



No 119824
著者(漢字) 多和田,雅保
著者(英字)
著者(カナ) タワダ,マサヤス
標題(和) 近世地域の穀物流通と商人の研究
標題(洋)
報告番号 119824
報告番号 甲19824
学位授与日 2005.03.11
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第472号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 吉田,伸之
 東京大学 教授 藤田,覚
 東京大学 助教授 鈴木,淳
 史料編纂所 教授 宮崎,勝美
 東京大学 助教授 谷本,雅之
内容要旨 要旨を表示する

 本論文の目的は、近世の地域社会における穀物流通の構造、および地域社会を構成する都市と農村において活動した商人の存在形態の検討を通じて、近世の地域社会構造の歴史的な特質を解明することである。本論文では地域を論じるにあたって、自然経済の論理と商品・貨幣経済の論理の相剋の様相、都市社会と在地社会の関係、国家権力の特質、の三点を組み込むことを重視した。具体的には地域における豪農商を中心とする商品流通と市場を中心とする商品流通との関係に注目した。また商品としては、前期的資本としての性格を持ったまま地域内部で大量に流通し、地域におけるあらゆる人々の生活を、生産・消費・流通の面から強く規定していた穀物をとりあげた。

 第一部「十七世紀の市と地域」では、北信地方における市と都市の存立構造が十七世紀を通じていかなる変化を遂げ、そこからどのように商品流通が展開したのかを考察した。

 第一章「元禄期における在方市の変質」では周辺を農村に囲まれた在方市である小布施村の市を、第二章「近世前期の都市における市と町の展開」では北信地方最大の都市であった善光寺町の市を検討した。両章から明らかになったのは以下の点である。

 十七世紀の北信地方には多くの市町が点在していた。そこで立てられる市は、市日にあわせて複数の市の間を移動する商人が、市町に立ち並ぶ屋敷の所持主から個々の屋敷前の空間を借りて莚を敷き、その上で商売を行う莚市=前見世を主要な売買の場としていた。屋敷所持者は売買を行う商人から屋敷前の土地の貸与代金を獲得することによって貨幣収入としており、その経営上に占める比重は大きかった。莚市は市町の内部において、市元(市頭)を起点とした順番で設置された。市元の設置権は、十七世紀前半には市町の開発者や代官など、公私にわたる権力を併せ持った者によって掌握されていたが、十七世紀後半になると、屋敷所持者によって構成された共同体である市町の側に移行した。こうして市町の共同体としての地縁的な枠組みはより一層強化されることとなった。ただし莚市=前見世が市元を起点として立てられるという枠組み、および荷物を伴って市の間を移動する商人の便宜にあわせて決められた市日の枠組み自体は存在し続けた。かかる段階から展開するきっかけとなったのは、市町における宿の動きであった。宿の利用者はそれまでの商人に加えて、十七世紀後半には農業生産力の上昇に伴う百姓の小経営確立に促されて、次第に近隣の百姓が多く宿を利用するようになった。市では市日の束縛を受けない百姓が穀物の売却を盛んに行うようになり、特に穀屋の増加を促すこととなった。以上の動きをきっかけとして、延宝期から元禄期にかけて、宿主=屋敷所持者も商品の売買に自ら参加するようになり、次第に市日における莚市=前見世を圧迫するようになっていった。

 なお第一章では、周囲を農村に囲まれた小布施市で、越後方面からもたらされる塩と東方の山間村の百姓からもたらされる薪に加えて、周辺農村から百姓によってもたらされる穀物の量が増加することによって、商取引が活発となったことを解明した。一方第二章では、善光寺町では小布施市と同じ機能は北国街道に沿った北東部の町々に集中し、それ以外に上方から来る木綿商人や三河・松本から来る茶商人との結びつきを深めた問屋が大規模な経営を行うようになっていたことを指摘した。すなわち当該期の善光寺町内部では商品に応じて異なる相手を対象とした複数の売買が分節的に展開を遂げていたのである。

 第二章の補論「宗教都市・善光寺」では、近世善光寺町を宗教都市としてとらえた場合、いかなる構造的特質を持ち、それが人々の生活といかに関わったかについて考察した。

 第二部「十九世紀の穀物商人と領主権力」では、穀物売買を行った商人の動向と領主権力の動向に注目しつつ、十九世紀の北信地方全域において穀物が幅広く移動する様相を追究した。

 第三章「近世後期の豪農商層と地域的米穀市場」では、十九世紀の北信地方における穀物流通において、飯山藩の年貢籾手形仕法が重要な位置を占めるようになったことを解明した。手形仕法によって、村割を受ける前の手形が北信地方の豪農商層の間で物権化し、手形の転売を通じたネットワークや手形を担保とした金融ネットワークが形成された。こうして北信地方の内部で大量の貨幣流通が促進され、穀物の所有権も貨幣流通の論理に従属しながら交通条件による空間的・時間的制約を飛び越えて移動することとなった。飯山藩は財政を維持するために豪農商層の資金力に依存し、年貢籾と交換されずに越年した場合でも年貢籾手形の効力を保証した。この仕法は村請制の枠組内で運営されたものであって、手形所有者は生産過程を直接掌握できなかった。そのため手形の村割がなされた後に、村が手形所有者に籾を払えなかった場合には、村は経済外強制の論理に基づいて、手形所有者に対して債務関係に陥った。飯山藩の年貢籾手形によって、生産の裏づけのないままに、豪農商層および領主も巻き込んだ貨幣・信用取引が膨れ上がっていくこととなった。

 第四章「近世後期松代藩領の穀物商人」では、十九世紀の松代藩が、領内における穀相場の安定と領民への十分な穀物供給をはかるべく、穀物の流通過程を掌握しようとしていたことを明らかにした。特に安政の開港を画期として穀物の他領への流出が激化し、藩は駄賃稼層や小資本の持ち手による穀物売買も含めて全領にわたる網羅的な把握を行おうとしたが、その意図を貫徹させることは困難であった。このことから当時穀物流通の局面において、人々の利害が複雑になっていた様をうかがうことができる。

 第五章「凶作関係史料にみる穀物商人の動向」では、十九世紀の北信地方において穀物商人が穀物を求めて地域内を広く移動する様相を明らかにした。穀物商人はみずからの屋敷において穀物購入を行うだけではなく、頻繁に行き来して、商人どうしやあるいは地主との間で、互いの店先や庭先において相対取引を活発に行った。彼らは出先の宿などを利用して、情報収集や商取引を行い続けた。このような活動は前金を支払う方式を利用して行われていたのであり、彼らの移動には直接穀物の移動は伴っていなかった。このようにして大量の穀物が地域内を移動することができたのである。

 第三部「十九世紀の穀物流通と地域」では、第二部でみた近世後期の穀物商人の活動を、小布施村と善光寺町という具体的な場にそくして検討した。

 第六章「近世後期における穀物商人の経営と地域」では、小布施村で穀物商売を行っていた小山家に焦点を当てて個別経営の分析をした。十九世紀の小布施村に多くみられた穀屋は、十七世紀以来の市の内外において展開した宿の系譜を引き、貨幣所有および売買相手との関係所有に基づく大規模経営を行っていた。在地社会の人々は、米穀・大豆・稗など生計維持のために必要なあらゆる穀物について、穀屋を通じて不足分を購買していた。ただし穀屋による穀物売買は、穀物の需給関係のみならず、穀屋らが組み込まれていた貨幣流通ネットワークからも規定を受けていた。こうして十九世紀には貨幣流通の論理に強く規定されつつ、地域の内部において莫大な量の穀物が流通し、地域における大多数の人々が、穀物の購入あるいは貨幣の貸借を通じて、穀屋を中心とする豪農商層による貨幣流通の論理に組み込まれていった。

 第七章「近世善光寺町の家作形態と民衆世界」では、善光寺町の西町を対象として、十九世紀の個別町における屋敷割と家作と生業の相互関連を検討した。その結果、西町北半部では古着商が軒を並べて、参詣客を相手に売買を行っていたこと、一方南半部では地借層と店借層が多く居住し、雑多な小商人的経営および手工業的小経営の混住がみられたことが明らかとなった。また西町北半部には経営規模の大きな穀屋も複数存在し、西町をこえた範囲の都市住民の穀物消費を支えていたと論じた。

 第八章「善光寺町における商品流通の変質と都市問題」では、米穀流通と都市の内部構造との関連性を追究した。十九世紀の善光寺町では、岩石町を中心とした一帯に穀問屋が集中していた。そこでは善光寺町全域に散在する穀屋が、他所から日々到来して商品をおろす荷主から相対買を行っていた。この段階の「市場」は、このように品目に応じて常設された問屋場を基本的な構成要素としており、それら様々な商品の問屋場が町域内に散在した複合形態を善光寺町全体で総称したものだといえる。しかし天保期、善光寺町の周辺に北国街道に沿って町場が延長しはじめ、新たに商売を営む者が増加した。彼らは自ら出買や居買を行い、問屋場を介さない独自の商品の仕入れを行った。そのため中心部への穀物流入が滞り、地借や店借層の流出がみられ、善光寺町が衰退を始めた。このことは借地経営あるいは店借経営に大きく依存する大家層の経営を直撃し、大規模な争論が発生した。善光寺町の側では、商品の入荷を円滑に進めるため、問屋場や入穀改会所の機能強化を主張した。しかしもはやそれだけでは商品を引き付ける条件としては不十分だった。この段階に至ると、個々の商人による貨幣所有、もしくは在方との関係所有の強化こそがより重要となっていたのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、近世の北信地方(長野県北部)を対象として、穀物の流通とこれを担った商人及びその仲間、さらには流通の場としての都市と農村における社会構造を分析するなかで、近世の地域社会の構造的特質を考察しようとするものである。

 はじめに序章において、本論文の問題関心と分析視角についてていねいにふれたあと、本論部分は8つの章と1つの補論が3部に分けて構成され、最後に終章で総括が行われる。

 第1部「17世紀の市と地域」は2つの章と補論からなる。1章では、在方市の例として谷街道に沿う小布施(現、小布施町)をとりあげ、元禄期の二つの争論を検討しながら、市場の構造、市見世の様相、さらには「内売買」(市場外における店舗内取引)を行う宿と市の相剋状況などを解明する。2章は、北信最大の都市であった善光寺町における市の基本構造とその変容過程を寛永から元禄期にかけて詳細に追究する。

 第2部「19世紀の穀物商人と領主権力」は3つの章からなり、近世後期における飯山藩・松代藩領における穀物取引とその担い手について詳細に検討する。まず3章では、飯山藩における年貢籾手形仕法という特徴的なシステムを復原的に考察し、豪農商による手形の物権化と米穀取引の動向を明らかにする。4章は、松代藩領における穀物の流通構造を、穀物商人仲間の動向と藩権力の政策との関連のなかで検討する。また5章では、松代藩領における弘化2年の凶作関係史料を紹介し、穀物商人の活動と藩の対応を見る。

 第3部「19世紀の穀物流通と地域」は、主題を地域社会論に移し、3つの章から構成する。6章では、筆者が新たに発見した小布施村小山家文書の分析を通して、当該地域の穀物商人の個別経営と、穀物売買を介しての地域との関係構造、さらには小山家も所属する穀屋仲間の性格などを多面的に解明する。7章は、善光寺西町の家作と住民構成を空間と社会の両面から復原し、西町に展開する市との関わりにも言及する。8章では善光寺町における米穀流通の実態分析を中心に、同町の市場と問屋をめぐる社会構造の変容を追う。

 最後に終章では、本論文全体の論点を市と地域の問題を中心にまとめ、北信における商品・貨幣流通や地域社会論をめぐる新たな論点を提示する。

 本論文は、新たな史料の発掘を基礎とする精緻な分析と、こうして得られた実証の成果から帰納的に抽出された骨太の論理構成を備える高いレベルの達成といえる。17世紀と19世紀を中心に、北信の広大かつ複雑な所領構成と社会構造を持つ対象に真正面から取り組み、穀物という近世社会におけるもっとも基本的な商品・貢租の流通構造の解明を切り口として、地域社会の具体像を鮮明に描き出した点は特筆される。その中で、特に穀物商人とその仲間の性格、また市場と問屋との相剋状況、年貢籾手形の発見と特質の解明などは極めて注目すべき重要な成果である。

 本論文では、史料の制約もあって18世紀における動向への言及が見られず、また部・章の構成にやや難点があるが、上記のような顕著な成果に鑑みて、本審査委員会は本論文が博士(文学)に十分値するとの結論を得た。

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