学位論文要旨



No 119828
著者(漢字) 小井田,伸雄
著者(英字)
著者(カナ) コイダ,ノブオ
標題(和) 限界合理性に関する研究 : 非期待効用理論および注意力の限界
標題(洋) Essays on Bounded Rationality : Non-Expected Utility and Limited Attention
報告番号 119828
報告番号 甲19828
学位授与日 2005.03.11
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第192号
研究科 大学院経済学研究科
専攻 企業・市場専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松島,斉
 東京大学 教授 神谷,和也
 東京大学 教授 神取,道宏
 東京大学 教授 松井,彰彦
 東京大学 助教授 柳川,範之
内容要旨 要旨を表示する

 経済理論では、経済主体が合理的だと仮定することが多い。この仮定は、経済理論の発展に大きく寄与してきたが、現実の経済行動が経済理論から導かれる経済行動と矛盾するという問題点も度々指摘されてきた。

 一方、Simon(1959)は、経済理論をより現実に即したものにするために、経済主体の認知的側面を考慮に入れる必要性を説いた。また、Simon(1972)は、経済主体の一見非合理的に見える行動には一定の傾向があることを指摘し、「限定合理性」の概念を提唱した。

 本稿では、Simonの提案を受けて考案された複数の限定合理性モデルに検討を加える。特に、リスクおよび不確実性下の効用理論と注意力の限界の問題に焦点を絞り、それぞれの理論モデルにおける重要な論点について考察を行う。まず、第1章では、本稿で扱う理論モデルについて簡単な説明を行っている。

 次に、第2章「Moderation Premiums」では、双対理論(dual theory)および順序依存の期待効用理論(rank-dependent expected utility theory)に特有なリスク回避の分析を行った。

 リスク下での意思決定を分析する際に、経済学では、期待効用理論の下で分析を進めることが多いが、現実の経済行動において、期待効用理論に矛盾した行動がしばしば見られることが報告されている(Allais(1953)・Ellsberg(1961)等)。

 Yaari(1987)が提案した双対理論やQuiggin(1982)が予想効用理論(anticipated utility theory)として創始した順序依存の期待効用理論は、このような期待効用の欠点を克服することを目的としており、経済モデルの分析にも広く用いられている。

 順序依存の期待効用理論の大きな特徴は、効用関数のほかに(確率)変形関数(transformation function)を用いて選好が表現されることである。変形関数が加法的確率測度を歪めることで、期待効用理論に矛盾する経済行動が説明可能になっているのである。

 第2章では、期待効用理論におけるArrow(1965)やPratt(1964)のリスクプレミアムに対応する概念を、順序依存の期待効用理論において定義している。まず、ある離散確率分布に対して、その確率分布が各結果に割り当てている確率の一部を、新たに定義した1つの結果(穏和な結果と呼ぶ)に移動する操作を考える。

 この操作を緩和(moderation)と呼ぶ。緩和の一例として、評価額が確率分布に従う資産を市場価格で売却するときに生じる変化を挙げることができる。ここで、穏和な結果(この例の市場価格)のベンチマークとして、期待効用に従った場合の緩和の確実性等価を設定する。

 第2章の第1の結果は、順序依存の期待効用理論において、経済主体がベンチマークに確率移動する緩和を常に好むことは、変形関数が凸であることと同値であるということである。つまり、変形関数の凸性は、緩和を用いて特徴付けられることが示される。

 次に、緩和前後で確率分布が無差別になるような穏和な結果の効用とベンチマークの効用の差を確率分布のとり得る最良と最悪の結果の効用の差で割ったものを緩和プレミアム(moderation premium)と呼ぶ。また、変形関数の1階導関数と2階導関数の比をYaari尺度と呼ぶ。

 すると、第2の結果として、微小な緩和に関して、緩和プレミアムは変形関数のYaari尺度によって近似されることが示される。また、第3の結果として、Yaari尺度の大小・緩和プレミアムの大小・緩和に対する選好の強さ・確率分布の確実性等価の大小等についての対応関係が示される。

 Yaari尺度は、順序依存の期待効用理論におけるリスク回避の度合いを表すことがYaari(1986,1987)らによって示されている。従って、第2章の結果は、順序依存の期待効用理論において、Yaari尺度の大小で表されるリスク回避は、緩和と緩和プレミアムによって全て特徴付け可能であることを意味している。

 続いて、第3章「The Law of Iterated Choquet Expectation」では、ショケ期待効用理論において、繰り返し期待値の公式が成立するための必要十分条件を分析している。

 期待効用理論を経済分析に用いることの利点の一つは、複合くじを単純くじへ還元しても評価が変わらない、という意味での動学的整合性が保証されていることにある。これは、確率論の「繰り返し期待値の公式」―期待値と条件付期待値の期待値が等しい―が成立することを意味する。この性質により、後ろ向き帰納法による均衡導出が正当化されるため、期待効用理論は動学的な経済モデルの分析に広く用いられている。

 一方、前述した期待効用理論の欠点を補うために、Schmeidler(1989)によって、ショケ期待効用理論が提案され、既に広く経済モデルの分析に用いられている。これは、期待効用理論で用いられる確率測度の代わりに、(一般には非加法的な)確率容量を用いたショケ積分で選好を表現するものである。

 ショケ期待効用理論においては、一般に繰り返し期待値の公式が成立しないことが知られている。Yoo(1991)は、ショケ期待効用の下で繰り返し期待値の公式が任意の情報分割に対して成立するための必要十分条件は、確率容量が加法的であり、ベイズ更新規則によって信念が更新されること、すなわち、非加法的確率容量の下では、任意の情報分割に対しては繰り返し期待値の公式が成立しないことを示している。

 第3章の目的は、適当な経済環境を仮定することにより、非加法的な確率容量を用いたショケ期待効用についても繰り返し期待値の公式が成立することを示すことである。ショケ期待効用の値は、各事象から生じる結果の順序に依存している。従って、Yooが分析したように全ての情報分割を認めると、ショケ期待効用の順序依存性を無視した情報分割が除外されないため、非加法的確率容量の下では一般に繰り返し期待値の公式が成立しない。

 一方、本稿では、情報分割と確率容量のクラスを、それぞれ閾値情報分割(threshold information partition)および指数確率容量(exponential probability capacity)に限定することにより、ベイズ更新規則を含む広いクラスの更新規則について繰り返し期待値の公式が成立することを示している。また、閾値情報分割・指数確率容量に類似した概念は、多くの文献で分析されており、本稿で考慮した状況は一般性が高いものである。

 最後に、第4章「Limited Attention and "Extreme" R&D Investments」では、企業の経営者の注意力の限界について分析を行っている。

 経済理論において、経済主体は、複数の経済行動を同時に扱うことができると仮定することが多い。しかし、意思決定を行うべき経済行動の数が非常に多い場合や、各経済行動の計画に多大な認知資源を必要とする場合は、この仮定が現実的でないと考えられる。これが注意力の限界の問題である。

 この問題を分析した文献は多い(Gifford(1992), Fershtman and Kalai(1993), Dow(1991)等)が、共通の結論として、注意力の限界の下では、経済主体は一つの経済活動に焦点を絞る傾向があることを指摘している。

 第4章では、現在と将来の利得間のトレードオフの効果を分析するために、一時的な投資と研究開発投資の2種類の投資を行う意思決定問題の分析を行っている。前者は、生産機械の保守のように、投資を行っている間のみ限界費用を低下させる投資である。後者は、成功確率がポアソン分布に従い、成功すると限界費用が低下し、失敗すると何も起こらないような投資である。

 さらに、先行研究に従って、注意力に限界がある企業(限定注意の企業と呼ぶ)は、一時的な投資と研究開発投資のいずれかのみに投資可能であるのに対して、注意力に限界がない企業(完全注意の企業と呼ぶ)は双方に同時に投資可能であると仮定する。

 この章の第1の結論は、独占市場において、限定注意の企業は、完全注意の企業に比べて、研究開発投資を行うことに対して消極的である一方、研究開発投資を行うことを所与とすると、投資額はより大きいということである。限定注意の企業にとって、研究開発投資を行うことは、一時的な投資を行うことができないという機会費用を発生させるが、投資の決定を下した後は、その機会費用を可能な限り軽減するために、より大きい額の投資を行うのである。

 一方、第2の結論として、市場に潜在的参入企業が存在する場合、限定注意の既存企業は参入を阻止し、完全注意の既存企業は参入を容認するような部分ゲーム完全均衡が存在することを示している。また、多くの場合、既存企業にとって参入を阻止することが望ましいため、仮に企業が(例えば、集権的・分権的な組織の選択により)完全注意と限定注意のいずれかを選択することが可能であるとすると、既存企業は限定注意である方を好むことが示される。すなわち、硬直的な経営組織を参入阻止のためのコミットメントデバイスとすることで、既存企業が利益を得る可能性があるのである。

 以上に示したように、本稿では、限定合理性のモデルについて得られた新しい知見について述べている。今後は、本稿で得られた結果を元に、各理論モデルの性質をより深く分析するとともに、個別の経済モデルへの応用を進めることが期待される。

審査要旨 要旨を表示する

 上記の小井田伸雄君が提出した論文一式の内容は、学位論文(課程博士)として充分な水準に達していると同時に、国際的な専門研究におけるオリジナルな学術的成果として非常に高く評価されるべきものである。

 数理的なモデルを扱って分析する標準的な経済学、すなわち価格理論、ゲーム理論、および情報の経済学は、概して、経済主体が理想的に合理的であることを仮定している。すなわち、経済主体は期待効用仮説にしたがって行動すること、最適な行動決定を計算する際に情報処理コストがかからないこと、などを仮定している。合理的個人を仮定することにより、経済学はその理論的整合性と分析の容易さというメリットをえることができたのである。

 しかしながら、Simon(1959)が示すように、合理的個人の仮定は、現実と大きく乖離することがあるため、合理的個人にもとづく分析の妥当性は、場合によっては、疑問視される可能性がある。よって、近年の経済学研究では、非期待効用理論や、情報処理能力の限界といった、「限定された」合理性を明示的に取り扱う研究が評価されるようになってきた。

 小井田君の学位論文は、このような限定された合理性を明示的に扱ったものである。特に、

(1)限定された合理性を明示的に扱うことができるための概念作りとその経済学的意味付け

(2)理論的整合性や分析の容易さをいかに維持できるか

(3)限定された合理性は現実を説明する新しいアプローチを提供できるか

といった、三つの論点を考察している。

 小井田君の論文は、以下の4つの章によって構成される。

第1章:An Introduction to the Non-Expected Utility Theories and Limited Attention

第2章:Moderation Premiums

第3章:The Law of Iterated Choquet Expectations

第4章:Limited Attention and"Extreme"R&D Incentives

 第2章と第3章は、リスクに対する選好および不確実性下の意思決定を扱った内容である。第2章、第3章は、各々論点(1)、論点(2)に関連している。第4章は、経済主体の情報処理の限界を扱った内容であり、論点(3)に関連している。第1章は、第2,3,4章を従来の研究の文脈に位置づけ、限定された合理性についての過去の研究をサーヴェイしている。なかでも、第2章が特に重要な研究成果である。

第2 章の内容と評価

 第2章は、経済主体のリスクに対する選好をいかに評価することができるかを論じた研究である。一般に、経済主体が、リスクのある収益機会(例えば、危険資産の購入)よりも、その収益の期待値と同金額をリスクなく獲得できる機会(例えば、安全資産の購入)の方を好むならば、この経済主体は「リスク回避的」であると定義される。期待効用仮説の場合は、

(i)貨幣所得についての効用関数が凹であることが、リスク回避的であることと同値である

(ii)リスク回避の程度の大小は、絶対的リスク回避度、あるいは Arrow-Pratt Measure と呼ばれる尺度(Pratt(1964)、Arrow(1965))、によって表現できる

(iii)各期待効用関数のもつArrow-Pratt Measure の大小関係は、危険資産の確実性等価が期待収益額からいくら乖離しているかを示す「リスク・プレミアム」の大小関係と同値になっている

といった三つの性質がみたされている。これらの三つの性質のおかげで、期待効用仮説のもとでは、リスクに対する選好を非常に容易に取り扱うことができるのである。

 しかし、期待効用仮説は、経済主体のリスクに対する効用の捉え方を非常に制限している。よって、なぜリスク回避的な効用をもつかを説明する要因の一部分しか扱うことができない。このために、たとえば Allais(1983)のパラドクスにみられるような、実験経済学において頻繁に観察されるリスク回避のパターンを説明することができない。このような期待効用の問題点をふまえて、Yaari(1987)およびQuiggin(1982)は、期待効用とは全くことなる効用関数のクラスをもとにして、リスク選好に対する新しいアプローチを提示したのである。

 Yaari や Quiggin が考察した不確実性下の効用の理論は、Dual Theory(DT)あるいはRank-Dependent Expected Utility Theory(RDEUT)と呼ばれるものである。それは、客観確率を変形関数によって変換させて効用評価に反映させる点において、期待効用の理論とは大きくことなる。彼らが考察する効用関数のクラスでは、実験によって観察された、期待効用では扱えないリスク選好を取り扱うことができるため、より現実に即した分析が潜在的には可能になる。YaariやQuigginによる効用仮説の場合は、期待効用とはことなって、

(iv)確率変形関数が凹であることが、リスク回避であることと同値になる

(v)リスク回避の程度の大小は、小井田論文にてYaari Measureと呼ばれる尺度によって表現することができる

といった二つの性質がみたされる。Yaari Measureは、効用関数の形状をベースにした、期待効用におけるArrow-Pratt Measureの定義を、確率変形関数の形状をベースにしたものに置き換えることによって定義されている。上の二つの性質(iv)、(v)は、各々丁度期待効用における性質 (i)、(ii) に対応している。よって、Yaariや Quigginによる効用仮説は、期待効用仮説と「双対関係」にあるといえる。

 しかしながら、Yaariや Quiggin、およびそれ以降の研究において、期待効用仮説における性質(iii)に相当する性質、すなわち、Yaari Measureの大小関係と同値になるようなプレミアム概念の存在、を提示するにはいたっていない。したがって、Yaari Measureという、一見したところArrow-Pratt Measureと同じように扱いやすいと思われる、リスク回避の程度を示す尺度は、経済学的な意味づけを提供するなんらかのプレミアム概念との対応関係をあきらかにされないまま、今日に至っている。このことは、DTやRDEUTといった非期待効用の理論が、現実を記述する潜在能力の高さにもかかわらず、経済への応用分析にあまりいかされていないことの最大の原因のひとつであると考えられる。

 以上の問題点を踏まえ、小井田君の学位論文の第2章の目的は、Yaari Measureを説明するためのプレミアム概念を考案して、YaariやQuigginによる非期待効用の理論を完成させることにある。小井田君のプレミアム概念とは、以下のようなものである。経済主体が、「成功」と「失敗」という二つの帰結を確率的にともなう危険資産を一単位保有している。ある一定確率で、帰結が確定する前に、この危険資産を売却することができる。その際に、売却価格は確定しているとし、その値は、「成功」時の収益と「失敗」時の収益の間に位置するある「moderate」な値であるとする。経済主体が危険回避的ならば、この経済主体が売却してもいいと思う最低価格は、危険資産の収益の期待値よりも厳密に低くなっている。小井田君のプレミアムは、この最低価格と収益の期待値とがいくら乖離しているかを基礎にして定義され、これをModeration Premiumと名づけた。

 期待効用におけるリスク・プレミアムの定義の際には、各収益の発生確率はそのままで、危険資産の購入量を変化させて、不確実な収益の範囲を変化させている。これに対して、Moderation Premiumの定義の際には、不確実な収益の範囲はそのままで、危険資産の売却確率を変化させて、各収益の発生確率を変化させている。このように、二つのプレミアム概念は、根本的にことなる視点にもとづくものである。

 小井田君は、YaariやQuigginによる効用仮説における第3の性質として、(vi)Yaari Measureの大小関係は、Moderation Premiumの大小関係と同値になっているが成立することを、第2章の中心的な定理として証明したのである。この小井田君の研究成果によって、YaariやQuigginによる非期待効用仮説において、期待効用の場合では説明できなかったリスク選好の在り方を評価するための、実践的な分析道具が確立されたと解釈できる。この業績は、当該分野における第一級の内容である。まだ専門誌の掲載は確定していないが、いずれ広く研究者のあいだでその重要性が知れわたるべきである。

第3章の内容と評価

 第3章は、第2章同様、非期待効用についての研究である。第2章とはことなって、第3章は、客観確率があらかじめ与えられていない、主観的な不確実性状況を考察している。

 伝統的には、Savage(1954)によって、不確実性を主観確率として評価して期待効用にしたがうとする「主観的期待効用」仮説が仮定されてきた。しかし、主観的期待効用仮説は、Ellsberg(1961)のパラドクスが指摘するように、実験経済学における観察結果とは矛盾するという欠点をもっている。そこで、Schmeidler(1989)は、「ショケ期待効用」と呼ばれる、加法性をみたさない確率容量によるショケ積分によって効用を定義する考え方を提示し、広く受け入れられるようになった。

 しかしながら、ショケ期待効用仮説は、期待値と条件付期待値の期待値とが常に一致することを意味する「繰り返し期待値の公式」を一般にはみたさないことが知られている(Yoo(1991))。よって、ショケ期待効用仮説は、時間を通じて意思決定をする動学的な状況を分析するには、動学的整合性がたもたれなくなるために、一般的には不向きであることになる。そこで、小井田君は、情報分割構造や非加法的確率容量のクラスを適切に限定した場合には、そのクラスの範囲内では、繰り返し期待値の公式が成立する可能性があるのではないか、と考えたのである。

 この小井田君の問題意識はオリジナルなものである。ショケ期待効用という、主観的非期待効用のなかで最も注目される仮説が、動学分析に適用困難であることが、今日の経済学研究の進展に大きな妨げになっている。このような現状において、小井田君の問題意識は、至極的を射たものであって、高く評価されるべきである。

 小井田君は、閾値情報分割構造であること、および指数確率容量であること、の二つの限定条件をみたすクラスのみを考察対象とすれば、ショケ期待効用仮説は「繰り返し期待値の公式」をみたすことができることを証明した。分析したい動学的な経済問題がこのクラスの範囲内におさまるならば、動学的整合性を失うことなく、ショケ期待効用仮説を適用できることになる。

 小井田君の示したこれらの限定条件は、しかしながら、かなり制約の強いものであるという印象を否めない。よって、ショケ期待効用仮説のもつ動学的非整合性の欠点が払底できたとはいいきれない。しかし、私は、小井田君の示した限定条件の範囲内でも、経済問題への意義ある応用の可能性は大いにあると考えており、今後の研究の進展に期待したいと思う。

第4章の内容と評価

 第4章は、経営者の情報処理能力に限界がある状況を考察している。第4章は、修士論文を手直しして、完成度の高いものに仕上げた論文であり、前の章に比べて、応用研究としての色合いの強い内容である。

 一人の経営者が複数の仕事を一度に抱え込むと、一部の仕事にしかきめこまかな意思決定をおこなえない、いわゆる「注意力の限界」が生じる可能性がある。このような注意力の限界がある場合とそうでない場合とでは、企業間競争のあり方はことなったものになると想定される。このような注意力の限界という限定された情報処理能力が産業組織のあり方に影響を与えるという見解は、すでにFershtman and Kalai(1993)などによって、よく知られている。

 小井田君は、第4章にて、注意力の限界という経営者能力の限界を明示的に扱うことによって導かれる、参入阻止行動についての新しい説明の仕方を、以下のように示した。企業が決定する仕事には、一時的なコストダウンの効果をもたらす「短期的決定」と、研究開発投資に代表される「長期的決定」の2種類がある。もしこの2つの仕事を一人の経営者がおこなうならば、注意力の限界ゆえに、どちらか一方しか合理的な決定をすることができない。一方、事業部を分けるなどして、これらの仕事を別々の経済主体に受け持たせるならば、注意力の限界の制約をうけることなく、どちらの仕事についても合理的決定が可能である。

 第4章における最初の定理は、注意力の限界の制約を受ける前者のケースは、そうでない後者のケースに比べて、研究開発投資(長期的決定)を全くしないという判断をしやすい一方、研究開発投資に注意力を集中させる判断をした際には、むしろより過剰に投資することを証明した。この定理をもとにして、小井田君は、潜在的なライバル企業が存在する状況下において、以下のような興味深い戦略的行動パターンを説明した。すなわち、注意力の限界の制約を受けるケースの方が、そうでないケースよりも、過剰な研究開発投資にコミットできることによって、参入阻止をより効果的に実行できる、ということである。よって、事業部を分けることをせずに、複数業務を一箇所に統合した方が、参入圧力に対抗しやすい、という仮説が、理論的に支持されるのである。

 今後の課題は、この仮説が現実をよりよく説明するものであることを、具体的な事例をあげて、それを詳細に検討して、実証することである。この実証分析がうまくいけば、第4章の内容は、価値ある研究業績として、重要な専門誌に掲載可能であろう。今後の研究成果に期待したい。

全体の評価とまとめ

 以上、小井田君の学位論文は、限定された合理性という、経済学理論研究の最も本質的な問題に果敢にチャレンジした内容である。そして、第一級の研究成果を、三つの論点において生み出すことができた。このことは、非常に高く評価されるべきである。

 小井田君の直面した問題は、専門性が特に強く、難易度も非常に高い。そのため、小井田君は、論文の本質をいかにわかりやすく簡潔に表現するか、に多くの時間を割く必要があった。その結果、最終的な学位論文の完成度は、私の知る過去の学位取得者と比べて、とりわけ高いものになった。当該分野をよく知らない研究者にもよく理解できるほどの水準に達している。

 小井田君は、研究者としての高い能力ゆえに、将来には重要なポストでの活躍が期待される。学位論文のPresentationの仕方について苦労し、それを克服したことは、今後の小井田君にとって大きな財産となるだろう。4 人の副査も、異口同音に、論文の質の高さ、テーマの重要性、分析の方向性の適切さ、Presentationが上手であること、をとても高く評価した。

 以上により、審査委員は、全員一致で、本論文を博士(経済学)の学位授与に値するものであると判断した。

主査:松島斉(文責)

副査:神谷和也

神取道宏

松井彰彦

柳川範之

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