学位論文要旨



No 119831
著者(漢字) 稲川,直樹
著者(英字)
著者(カナ) イナガワ,ナオキ
標題(和) イタリア・ルネサンスの世俗建築における壁積み表現の成立に関する研究
標題(洋)
報告番号 119831
報告番号 甲19831
学位授与日 2005.03.15
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5938号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 加藤,道夫
 東京大学 助教授 藤井,恵介
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、イタリア・ルネサンスにおける世俗建築のファサード形式の成立を、ルスティコ仕上げ(rustico、英語のrustication)に着目して明らかにすることを目的とする。論文の構成は序論と本論の四つの章、結論、参考文献、図版からなる。

 「序論」では、古代建築において未完成表現に過ぎなかったルスティコが、ルネサンスとそれ以後の古典主義建築において、五種類のオーダーに劣らぬ重要な役割を果たしたことを指摘し、その役割の形成過程を論文の軸として位置づけたのち、研究対象の時間・空間的な範囲、史料と方法、既往研究について記述した。

 「第1章 予備的考察」前半の「ルスティコの語義とその変化」では、ルスティコという語の建築記述における変遷をたどることでこの語の持つ曖昧さを明らかにし、本論の記述ではより明快で学術的なブニャート(bugnato、イタリア語で深目地を切った石積みをあらわし、表面の粗滑を問わない)を「粗面ブニャート・滑面ブニャート」として定義した。後半の「古代の組積造工法とブニャート」では中世からルネサンスに至る石積み工法の基礎となった古代工法をウィトルウィウス『建築論』に照らしながら確認し、アルベルティの『建築論』に見られる用語法や分類との比較をとおして、アルベルティによる刷新の意図を指摘した。最後に、古代ローマ建築のなかで粗面ブニャートが集中して見出されるクラウディウス帝期(紀元41-54)の公共建築と、領内外各地のスペクタクル施設(劇場・闘技場)の実例を確認し、ブニャート仕上げの理由を経済的要因、様式的要因から検討した。

 「第2章 中世とプロト・ルネサンス」の前半では、ルネサンスの粗面ブニャートの先例として挙げられることの多い、神聖ローマ皇帝フェデリーコ二世が南イタリアに築かせた城塞や城門・宮殿(十三世紀前半)を建築構成と仕上げの点から分析した。その結果、粗面ブニャートは先行するノルマン王朝期の建設を引き継いで採用されたものが多いのに引き換え、皇帝が新たに築かせた建物では滑面ブニャートや滑面突きつけの石積みが特徴的であり、また純粋幾何学的建築形態や滑面ブニャートに、皇帝の合理的思考の反映と古代ローマやその建造物の記憶の反映が見出せることを指摘した。章の後半ではまず、トスカーナを中心とした中北部イタリアの中世建築に粗面ルスティコが現れた原因のひとつが、古代スペクタクル施設の遺跡からの石材再利用にあったことを明らかにし、ついでフィレンツェのパラッツォ・ヴェッキオの建築家アルノルフォ・ディ・カンビオの建築作品を支配する空間把握や合理的・幾何学的設計が皇帝フェデリーコの建築に由来することを仮説的に指摘した。ついで中世にあって古代ローマの建築技術の復興を試みたガッタポーネとアンジェロ・ダ・オルヴィエートの活動と、フィレンツェにおけるプロト・ルネサンスのパラッツォ形式の形成を確認した。

 本論文の主要部をなす「第3章 初期ルネサンス」では、十五世紀にフィレンツェやシエーナ、ピエンツァ、ウルビーノ、ロンバルディーア、ローマの各地に建てられた主要なパラッツォを抽出して計画の背景から作品構成まで総合的に分析し、粗面ブニャート仕上げのファサードに古典的オーダーを組み込もうとする試みと過程を浮き彫りにした。

 ブルネッレスキは世俗公共建築のファサードに付け柱形式のオーダーを導入したが、私邸のファサードではパラッツォ・ピッティに見られるように粗面ブニャートを提案し、同時に比例の合理化や規則性、反復性といった、近代的な設計と建設の端緒をしるした。邸館のファサードへのオーダーの本格的な導入はアルベルティによる1460年頃のパラッツォ・ルチェッライにおいてであったが、アルベルティは付け柱に平滑ブニャートを重ねることでフィレンツェの都市と建築の伝統に敬意を払うことを忘れなかった。この形式は残りの十五世紀を通じてフィレンツェで不評であったが、このことは複層付け柱形式のファサードが同時期のロンバルディーア諸都市やウルビーノ、ボローニャ、ナポリなどで次々を建てられていったのと鋭い対照を成した。十五世紀フィレンツェのパラッツォの意匠が自家中毒的な再生産を繰り返した理由が政治・文化両面にわたるメディチ家の支配にあったことは、本章の重要な指摘である。ピッティ、ルチェッライ、パッツィ、ストロッツィ、ゴンディ、デイ(現グアダーニ)といった重要なパラッツォの建て主はことごとく、三代にわたるメディチ家当主と政治上あるいは経済上の緊張した関係にあった。したがってこれら有力市民の私邸建設に際してはしばしば、事実上の君主メディチ家による統制あるいは検閲を受け入れるのに近い状況が存在した。加えて、フェレンツェ社会の伝統として「出る杭は打たれる」式のネガティヴな平等意識が根強くあり、これが邸館の意匠から新奇さを控えさせ、中世以来の伝統を汲む様式に向かわせたのも事実である。このような状況の結果として、メディチ家が権力の座にある間は、ブニャートだけによるパラッツォ・メディチ型のファサードが規模や詳細を変えながら建てられ続けたことが明らかにされている。

 十五世紀の後半に輩出した人文主義教皇の政治・外交政策によりローマ教皇とその宮廷はしだいに富を蓄えて、地方君主に代わるパトロンとしての地位を確かなものにしていく。ローマの上層社会には古代様式に対する反発がなく、また中世から十五世紀をとおしてフィレンツェで緊密に組織されたような連帯的な都市社会構造を欠いていたため、都市や建築の新しい試みに対し寛容、というより放任的であった。オーダーを採りいれたファサードの試みは、1460年代以来このような教会国家内のウルビーノやローマに場所を移して展開された。ウィトルウィウス研究とその『建築書』出版を支援したリアーリオ枢機卿が建てたパラッツォ・カンチェッレリーアは、このような研究の成果と見ることができる。

 「第4章 ローマの盛期ルネサンス」では、ミラーノから移ってきたブラマンテがアントーニオ・ダ・サンガッロとの相互交流を経てフィレンツェの伝統を吸収し、その後設計したパラッツォ・カプリーニとパラッツォ・デイ・トリブナーリによって、十五世紀後半のフィレンツェとローマにおける建設と研究の基盤のうえに、決定的な類型を確立したことを示した。それが粗面ブニャートの上にオーダーを載せるという、二項対立を主題にした形式であった。

 「結論」では、第1章から第4章までを概観したうえで、ブニャートとオーダーの組み合わせによるファサード形式を四種類に分類し、パラッツォ・カプリーニ型の統合的構成の成立過程を再構成したうえで、このファサード形式が当時優れたものとして受け入れられた背景として、この形式が、中世の残滓を纏っていた都市国家フィレンツェの文化に対し古代ローマの栄光を再生した教皇庁のローマが完全に優位に立ったことの象徴として見られたことを仮説的に指摘した。

 最後に、参考文献約500のリストと図版資料約600を添付した。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、イタリア・ルネサンスにおける世俗建築のファサード形式の成立を、ルスティコ仕上げ(rustico、英語のrustication)に着目して明らかにすることを目的とする。論文の構成は序論と本論の四つの章、結論、参考文献、図版からなる。

 「序論」では、古代建築において未完成表現に過ぎなかったルスティコが、ルネサンスとそれ以後の古典主義建築において、五種類のオーダーに劣らぬ重要な役割を果たしたことを指摘し、その役割の形成過程を論文の軸として位置づけたのち、研究対象の時間・空間的な範囲、史料と方法、既往研究について記述した。

 「第1章 予備的考察」前半の「ルスティコの語義とその変化」ではます、ルスティコという語の建築記述における変遷をイタリア語、フランス語、英語にたどることで現代語におけるこの語の持つ曖昧さを明らかにし、これを考慮して以下の本論ではブニャート(bugnato、イタリア語で目地を見せる石積みをあらわし、表面の粗滑を問わない)を「粗面ブニャート・滑面ブニャート」などとして採用した。後半の「古代の組積造工法とブニャート」ではまず中世からルネサンスに至る石積み工法の基礎となった古代工法をウィトルウィウス『建築論』に照らしながら確認し、アルベルティの『建築論』に見られる用語法や分類との比較をとおして、アルベルティによる刷新の意図を指摘した。最後に、古代ローマ建築のなかで粗面ブニャートが集中して見出されるクラウディウス帝期(紀元41-54)の公共建築と、領内外各地のスペクタクル施設(劇場・闘技場)の実例を確認し、これらブニャート仕上げの理由を経済的要因、様式的要因から検討した。

 「第2章 中世とプロト・ルネサンス」の前半では、ルネサンスの粗面ブニャートの先例として挙げられることの多い、神聖ローマ皇帝フェデリーコ二世が南イタリアに築かせた城塞や城門・宮殿(十三世紀前半)を建築構成と仕上げの点から分析した。その結果、粗面ブニャートは先行するノルマン王朝期の建設を引き継いで採用されたものが多いのに引き換え、皇帝が新たに築かせた建物では滑面ブニャートや滑面突きつけの石積みが特徴的であり、また純粋幾何学的建築形態や滑面ブニャートに、皇帝の合理的思考の反映と古代ローマやその建造物の記憶の反映が見出せることを指摘した。章の後半ではまず、トスカーナを中心とした中北部イタリアの中世建築に粗面ルスティコが現れた原因のひとつが、古代スペクタクル施設の遺跡からの石材再利用にあったことを明らかにし、ついでフィレンツェのパラッツォ・ヴェッキオの建築家アルノルフォ・ディ・カンビオの建築作品を支配する空間把握や合理的・幾何学的設計が皇帝フェデリーコの建築に由来することを仮説的に指摘した。ついでアルノルフォに続いて古代の建築技術や仕上げの復興を試みたアンジェロ・ダ・オルヴィエートとガッタポーネの活動と、フィレンツェにおける、ブニャート仕上げを含む階層構成によるパラッツォ・ファサード形式の形成を確認した。

 本論文の主要部をなす「第3章 初期ルネサンス」では、十五世紀にナポリやフィレンツェ、シエーナ、ピエンツァ、ウルビーノ、ロンバルディーア、ローマの各地に建てられた主要なパラッツォを抽出して、計画の背景から作品構成までを、過去二十年間に大きな発展をみせたこの分野の既往研究をもとに総合的に分析し、ブニャート仕上げのファサードの様式化と、これにオーダーを組み込もうとする運動とその過程を浮き彫りにした。

 ブルネッレスキは世俗公共建築のファサードに付け柱形式のオーダーを導入したが、私邸のファサードではパラッツォ・ピッティに見られるように粗面ブニャートを提案し、同時に比例の合理化や規則性、反復性といった、近代的な設計と建設の端緒をしるした。邸館のファサードへのオーダーの本格的な導入はアルベルティによるパラッツォ・ルチェッライにおいてであったが、アルベルティは付け柱の格子に滑面ブニャートを重ね合わせることでフィレンツェの都市と建築の伝統に敬意を払うことを忘れなかった。この形式は残りの十五世紀を通じてフィレンツェで不評であったが、このことは複層付け柱形式のファサードが同時期のロンバルディーア諸都市やウルビーノ、ボローニャなどで次々を建てられていったのと鋭い対照を成した。十五世紀フィレンツェのパラッツォの意匠が自家中毒的な再生産を繰り返した大きな理由は、政治・文化両面にわたるメディチ家の支配にあった。ピッティ、ルチェッライ、パッツィ、ストロッツィ、ゴンディ、デイ(現グアダーニ)といった重要なパラッツォの建て主はことごとく、三代にわたるメディチ家当主と政治上あるいは経済上の緊張した関係にあった。その結果これら有力市民の私邸建設に際してはしばしば、事実上の君主メディチ家による統制あるいは検閲を受け入れるのに近い状況が存在した。加えて、郷土贔屓やフェレンツェ社会の伝統である「出る杭は打たれる」式のネガティヴな平等意識が根強くあり、これが邸館の意匠から新奇さを控えさせ、中世以来の伝統を汲む様式に向かわせたのも事実である。このような状況の結果として、メディチ家が権力の座にある間は、ブニャートだけによるパラッツォ・メディチ型のファサードが規模や趣向を変えながら建てられ続けたことが明らかにされている。

 十五世紀の後半に輩出した人文主義教皇の政治・外交政策によりローマ教皇とその宮廷はしだいに富を蓄えて、地方君主に代わるパトロンとしての地位を確かなものにしていく。ローマの上層社会には古代様式に対する反発がなく、また中世から十五世紀をとおしてフィレンツェで緊密に組織されたような連帯的な都市社会構造を欠いていたため、都市や建築の新しい試みに対し寛容、というより放任的であった。ファサードにオーダーを採りいれる試みは、1460年代以来ローマや教会国家内のウルビーノに場所を移して展開された。ウィトルウィウス研究とその『建築書』出版を支援したリアーリオ枢機卿が建てたパラッツォ・デッラ・カンチェッレリーアは、滑面ブニャートと古典オーダーを三層構成のなかにかつてなく緊密に統合しており、このような研究の成果と見ることができる。

「第4章 ローマの盛期ルネサンス」では、ミラーノから移ってきたブラマンテが、古代と十五世紀のローマ建築に対する知識と、アントーニオ・ダ・サンガッロとの相互交流を経て吸収したフィレンツェの伝統を踏まえてその後設計した、パラッツォ・カプリーニとパラッツォ・デイ・トリブナーリによって、決定的な類型を確立したことを示した。それは粗面ブニャートの上にオーダーを載せるという、二項対立を主題にした形式であり、パラッツォ・ルチェッライの重合の型式に取って代った。

 「結論」では、第1章から第4章までを概観したうえで、ブニャートとオーダーの組み合わせによるファサード形式を四種類に分類し、パラッツォ・カプリーニ型の統合的構成の成立過程を再構成したうえで、このファサード形式が当時優れたものとして広く受け入れられた背景として、この形式が、中世の残滓を纏っていた都市国家フィレンツェの政治や文化に対し、古代ローマの継承と再生を印象付ける教皇庁のローマが完全に優位に立ったことの象徴として見られたことを仮説的に指摘した。

このように緻密に論証を展開する本研究は西洋建築史研究の成果として極めて有益なものであり、これら分野の発展に資するところが大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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