学位論文要旨



No 119836
著者(漢字) 金,凡性
著者(英字)
著者(カナ) キム,ボムソン
標題(和) 明治・大正期における日本地震学の歴史的展開 : 知識生産システムとしての科学研究とその分析
標題(洋)
報告番号 119836
報告番号 甲19836
学位授与日 2005.03.15
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博工第5943号
研究科 工学系研究科
専攻 先端学際工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 橋本,毅彦
 東京大学 教授 御厨,貴
 東京大学 教授 堀,浩一
 東京大学 教授 藤井,真理子
 東京大学 助教授 元橋,一之
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は,科学活動における世界的な中心部と周辺部というマクロな問題関心を保ちつつも,実際行われた科学の研究活動をその内部からミクロに観察することにより,1880年代から1920年代にかけての日本地震学の展開を検討する歴史研究である.特に,科学技術史及び科学技術論の方法論と分析の枠組みを活用し,知識生産システムとしての科学活動とその歴史的展開を考察する.

 一般的に日本の近代科学の歴史は西欧の科学を追いつく過程として理解されてきたが,地震学は「日本発の科学」として語られてきた点に特徴がある.「世界最初の学会」と「世界最初の教授」を有するこの独特な科学分野は,欧米から輸入できない分野として注目されてきたのである.しかしその一方で,この科学分野は科学研究の水準が十分に成長する前の段階で単に地域特有の自然現象だけを研究する「ローカル・サイエンス」としても位置づけられてきた.つまり,科学研究の周辺部で行なわれる科学活動の一つとして理解されてきたのである.

 筆者は,このような一般的な理解に対して,日本の地震学者が実際に行なっていた研究活動を分析し,それにより彼らが行った研究の性格を明らかにしようとする.地震計,地震研究ネットワーク,データの流れ,解析された情報の流れなどをミクロな視点から分析し,実際に日本の地震学が占めていた位置を把握しようとするのである.本研究において筆者は,科学研究を自然現象がインプットされ科学知識がアウットプットされるシステムとして捉え,そのシステムの形成及び進化過程を説明しようとする.また,このように地震に関する知識が得られる過程を分析する道具としては,スケッチ,地震記録図,グラフ,地図などの視覚的な表現物にも注目する.本論文の序論(第1章)においては,このような問題意識と分析の枠組み及び方法を紹介しこの研究の持つ意味を明確にする.

 「起承転結」の構成を持つ本研究の本論部分(第2章−第5章)では,序論で提起した問題意識に基づき日本地震学の歴史を実証的に検討する.第2章では,日本の地震学が成立した1880年代の前半における歴史的な展開とその意味を考察する.グレゴリ・クランシー(Gregory K. Clancey)が指摘しているように,当初日本の地震学は外国人による,外国人の視点を持つ科学であった.地震学が始まった地域が日本であったとはいえ,当初それは帝国主義時期に行われた,西欧人科学者による研究活動一般を視野に入れなければ理解できないものであったのである.この時期の地震研究を特徴付ける,地殻の運動を自動的に記録する地震計の発明も,以前から西欧の科学者が開発してきた方法に基づいたものであり,日本は彼らに研究の対象を提供するだけであった.ところが,お雇い外国人の研究活動のありさまが均一であったわけではなく,その過程でその後日本人研究者が利用できる研究基盤と手段も生まれてきた.ジョン・ミルン(John Milne)は,他のお雇い外国人研究者たちとは異なり,地震計という新しい観測装置だけにこだわらず,電信や時報,郵便システム,官僚組織など様々な資源を利用し,ネットワーク化された地震研究システムを構築した.クランシーも論じているように,ミルンの研究は日本人・日本政府にある程度依存せざるを得ないものであったのである.この章で筆者は,スケッチ,地震記録図,地図などの視覚的表現物の分析を通じて,このような地震研究の具体像を示す.

 ミルンによって整備された地震研究の方法論とインフラは,その後日本人の手による,日本人のための科学研究を行なう基盤をなした.地震研究のシステムが形成される過程で日本政府・日本人研究者たちはこの分野に参入するようになり,地震研究は日本人による科学分野へと変化していったのである.地震観測は気象台の日常業務となり,地震学と気象学は緊密な関係を結ぶようになった.また,帝国大学には地震学の講義が建築家を育てるための教育課程の一環として導入された.日本人による地震研究は,当初外国人たちが構想していたものとは異なるものであったわけである.一方,このように日本人自らが科学の一分野における研究目的と方法論を提示しようとした努力は,日本地震学の自立性を高める結果につながっていった.また,この過程で日本人地震研究者たちは日本が世界における地震研究の「先進国」であると自負するようにもなっていった.重力測定や地磁気調査のような隣接分野とは異なり,日本の地震学は早くも1890年代の初頭には欧米に対する依存から脱皮しようとする動きを見せ始めたのである(第3章).

 この「先進性」が科学研究の実践面においても証明できるようになった経緯を理解するためには,大森房吉(1868-1923)が行った研究を考察しなければならない.大森はお雇い外国人たちが作った研究システムの範囲を世界にまで拡大し,それにより,世界各地からの地震データは東京帝国大学の研究室で入手できるようになった.自然現象に関する生のデータを蓄積し,それを解釈して外部に発信する場所を科学研究の中心であるとすれば,まさに大森の研究室は当時の地震研究における中心であったのである.大森は,世界の地震が観測・自動記録できる装置(長周期地震計)のみならず,郵便や電信などを通じて世界各地から伝われたデータを分析し,それに基づいて膨大な分量の論文を発表することができた.彼の論文は英語でも出版され,大森は欧米からも「地震学における世界的な権威者」と呼ばれるように至った.ところで,「日本人」でありながら「世界的な科学者」でもあるという大森のイメージは,当時の日本が切望していたものでもあった.大森の存在は当時の人種的な常識を乗り越えたものであり,それゆえ彼は日本人の科学能力,したがって日本が文明国であることを証明する人物として世界に向けて積極的に宣伝されたのである.日露戦争の勝利によってやっと列強の一員となった日本にとって,「世界的な科学者」の存在は武力のみならず知力においても日本が文明国の一員であることを示す証拠であった(第4章).

 しかし地震学は,その後外部環境の変化に伴い他分野の下位分野として再定義されるようになった.日本の科学水準全般に対して批判的な立場と取っていた物理学者たちは,既に1900年代から大森の権威に挑戦していた.長岡半太郎をはじめとする物理学者たちは,「世界的水準」の研究を意識し,岩石実験に基づいた物理学的な解析,そして当時ドイツなどで行われていた地球内部構造の解明こそが地球物理学者としての地震学者の任務であると考えていた.彼らにとって,単に地震情報を詳細に調べる地震学者の仕事は「ローカル・サイエンス」にすぎなかったのである.現在の観点からすれば,このような物理学者たちの視覚が正しいものとして映るかもしれない.しかし,物理学者たちの挑戦が最初から成功したわけではない.地震に関する知識をめぐる位階関係の変化は,「当然の帰結」ではなく,日本の科学体制における変化と日本物理学の地位向上を媒介として起きたのであった.1910年代以降,特に1920年代初頭から日本において物理学及びドイツ式科学の地位が急上昇し,世界の地震研究において中心的な立場にあった大森の地震学はその過程で「ローカル・サイエンス」として再定義されていった.そしてこのような変化の末,大森以降の地震学者たちはあらためて世界に追いつこうという姿勢を示さざるを得なくなり,一時期は世界に向けて積極的に宣伝された大森の科学は「レベルの低い研究」として見直されたのである(第5章).

 このような実証的な検討を行なった上,結論(第6章)では本論での議論を整理し,その歴史的な意味をも吟味する.まず,筆者は日本地震学の歴史的な経路が所謂「追いつき」とは異なっていることを指摘する.また,筆者は一般的に日本の科学が周辺部に置かれていた時期においても地震研究は中心的な位置を占めていたことも再確認し,その過程において重要であったのは科学装置の開発及び改良,そして研究システムの拡充が果たした役割である点も強調する.そして最後には,このような歴史研究が持つ現在的な意味を検討した後,本研究では取り上げることができなかった課題にも言及しつつ今後の研究方向を提示する.

 本研究は,一地域,一時期における一つの研究システムの進化過程を取り上げているものであり,現在の実践的な課題に直接対応できるものではない.しかし,科学研究において「周辺部」とされている地域が如何にして科学知識生産における中心になれるかということは,決して過去だけの問題ではあるまい.また,日本における科学発展の経緯を理解するためにも,そして今後の発展方向を考えるうえでも,地震学の歴史から分かる研究システムの成長と変化に関する知見は参考になるのであろう.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、科学技術史の方法論と分析の枠組みを活用し、1880年代から1920年代にかけての日本地震学の展開を考察する歴史研究である。地震学を取り上げる理由は、さまざまな科学分野の中でも、地震学が日本の特殊事情のために、世界の中でも大変進んだ分野として登場したことによる。著者である金凡性(キム・ボムソン)君は、韓国籍の留学生として、日本の科学の中でも特に世界的に注目を受けた地震学に関心をもち、その初期の歴史を研究することで、その歴史的な特徴を解明しようとした。本論文においては、特に大森房吉に焦点をあて、彼の地震学研究を一つの知識生産のシステムとして描くとともに、それが世界的研究を見なされ、その後国内の物理学者から批判されていく経緯を分析する。

 一般に日本の近代科学の歴史は西欧の科学を追いつく過程として理解されてきたが、地震学は「日本発の科学」として語られてきた点に特徴がある。「世界最初の学会」と「世界最初の教授」を有するこの独特な科学分野は、欧米から輸入できない分野として注目されてきた。しかしその一方で、この分野は科学の水準が十分成長する前の段階で地域特有の自然現象だけを研究する「ローカル・サイエンス」としても位置づけられてきた。著者は、地震計、地震研究ネットワーク、生のデータ及び解析された知識の流れなどを分析し、日本の地震学者が実際行なっていた研究活動の性格を具体的に検討する。また、データを加工し知識を生産する過程における重要な道具として、スケッチ、地震記録図、グラフ、地図など視覚的表現物にも注目する。

 著者はまず、日本地震学の成立期である1880年代から検討を始める。当初日本の地震学は外国人によって生み出された。中でも、ジョン・ミルンは、新型の地震計を作り出しただけでなく、これらの地震計を全国に配置した上で、電信や時報、郵便システム、官僚組織など様々な制度や資源を活用した地震データ収集のネットワークを作り上げた。ミルンらのお雇い外国人たちが生み出した地震研究は、その後日本人科学者によって継承されていった。まずは、地震観測は気象台の日常業務となり、地震学と気象学が緊密な関係を結ぶようになる。また帝国大学には、地震学の講義が建築学科の学生に対して教えられるようになった。この過程で、日本人研究者たちは地震研究の目的と方法論を独自に提示しようとし、1890年代初頭から日本の地震学は一つの自立した科学になっていった。それと同時に日本人科学者たちは、日本が地震研究の「先進国」であるという自己認識をもつようになった。

 このような日本の地震学の「先進性」を自認し、研究を遂行した人物が、大森房吉(1868-1923)である。大森は、遠隔地の地震が自動記録できる装置(「大森地震計」)を開発し、日本国内だけでなく、国際的な郵便・電信網を駆使することによって、世界各地の地震データを東京帝国大学の研究室に集中させることを可能にした。大森はそれらデータを分析することで、数多くの論文をアウトプットとして生産し続けた。地震研究において中心的な役割を果たしていた大森は、欧米人からも「地震学の世界的権威」とまで呼ばれるようになった。日露戦争の勝利によって世界列強の一員となった日本にとって、「世界的な科学者」の存在は知力の面でも日本が文明国の一員であることを示す証拠であったのである。

 しかし日本の科学水準全般に対して批判的であった物理学者たちは、この大森の権威に疑問をつきつけた。長岡半太郎と日下部四郎太は、大森の研究を「物理的な基礎づけが欠如している」ことを理由に厳しく批判した。長岡の原子モデルが世界的に評価されたことから、 1910年代以降、特に1920年代初頭から日本における物理学及び長岡の地位が急上昇し、日本の学界における地震学の評価もそれまでとは変化し、地震学は地球物理学の一部として再定義されるようになる。大森自身は1923年の関東大震災の報を受けた直後に亡くなるが、大森以降の地震学者たちはあらためて「世界」に追いつこうとしていくのである。また長岡らによって批判を受けた地震の統計学的な研究は、その後も継承され戦後にも重要な成果が上げられていく。

 以上のような歴史実証的な検討を行なった上、著者はまず所謂「キャッチアップ」という観点だけでは、日本科学の発展経路を十分に説明できないことを指摘する。また著者は、日本科学一般が周辺部に置かれていた時期に地震学が中心的な役割を果たしていたのは、ミルンや大森の地震観測ネットワークにみられるように、様々なハードウェアとソフトウェアが結合した知識生産システムが拡充されたいたためであると考えられる。本研究は、一地域、一時期における一つの研究システムの進化過程を取り上げつつ、科学研究において「周辺部」とされている地域が如何にして科学知識生産の中心として見なされるようになり、またその後中心であることが相対化されていくプロセスを説明したものである。日本や他の国々における科学発展の経緯や特徴を理解するためにも、本研究は一つの示唆を与えてくれるものと思われる。

 よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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