学位論文要旨



No 119837
著者(漢字) 宋,浣範
著者(英字)
著者(カナ) ソン,ワンボム
標題(和) 日本律令国家と百済王氏
標題(洋)
報告番号 119837
報告番号 甲19837
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第475号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐藤,信
 東京大学 教授 五味,文彦
 東京大学 助教授 早乙女,雅博
 東京大学 助教授 六反田,豊
 史料編纂所 教授 石上,英一
内容要旨 要旨を表示する

 本研究は、日本の律令国家の形成とともに史上に登場する百済王氏という氏族の検討を通じて、七世紀末の律令国家の成立から、八世紀以降の展開・発展・転換の様相をたどりつつ、東アジア世界からみた日本の律令国家の本質を探ることを目的とした。本論の構成と主な内容は次のようである。

 まず第一部「日本律令国家の成立と百済王氏」では、これまでの百済王氏の成立に関する大部分の研究が、日本側の視点に立っていることに対して、百済復興軍および百済からの移住民の立場から検討することの有効性を提起するとともに、百済王氏成立の前史としての「百済王」の存在に注目し、百済の国内事情と倭政権の外交政策という複合的な観点から、百済王氏成立の歴史的背景を検討した。こうした検討により、七世紀の「百済王」から八世紀以降の「百済王氏」への変化像がより説得的に理解することができた。第一章「七世紀の倭国と百済−百済王子豊璋の動向を中心に−」では、百済王子豊璋の動向を通じて、七世紀における倭国と百済との関係を再検討した。この検討は、百済滅亡とともに豊璋が百済王子から百済王に変わる時点での前史を明らかにすることにもなった。さらにこれは、豊璋の来倭時期とその背景はもちろん、豊璋帰国前後の東アジア情勢の説明とも関連する。今までの倭国からの一面的な視点とは異なり、百済復興軍とのかかわりからの検討を試みたことに意義があると考える。第二章「白村江の戦いと倭−東アジア新体制の再編と関連して−」では、百済滅亡から始まる百済復興戦争とその後の展開に注目した。百済王子の帰還とともに、倭国からは国力を傾けるほどの百済救援軍が送られるが、白村江での敗戦とともに百済からは多くの移住民が亡命してくる。その中心には百済王善光があった。いまだ建設途上の日本律令国家は、百済王善光を日本の国家システムのもとにいかに包摂していったのであろうか。その過程を天智・天武・持統朝の「百済王」表記から探ってみた。さらに白村江の戦い以後の新しい東アジア世界秩序についても注目した。第三章「百済王氏の成立と日本律令国家」では、第一部の結論として、百済王氏の成立について検討した。百済王氏の成立については、従来の一国史観から脱却し、東アジア的視座に立って考察する必要があることを提示し、そうした考察を通して従来の「小帝国主義」論からは見えて来ない百済王氏成立の背景と意義を指摘し、日本の律令国家の成立との密接な関係についても論じることができた。附論「金石文「甲午年銘法隆寺金銅観音造像記銅版」からみる百済王氏」では、今まで注目されなかった金石文「甲午年銘法隆寺金銅観音造像記銅版」を素材に、百済王氏の存在について検討した。百済王氏の祖善光の死を哀悼する僧侶たち、すなわち善光の子供たちの思いは、編纂史料のみから百済王氏の問題を考えてきた従来の方法論に、新しい切り口を提供することができただろう。

 第二部「日本律令国家の展開と百済王氏」では、奈良時代の百済王氏について、今までの研究が指摘するような一面的な律令官人化にとどまらない、百済王氏の姿をとらえようとするものであった。百済王敬福は、東大寺大仏の鍍金に必要な黄金の献上者として名高いが、百済王氏集団の居住地を摂津国百済郡から河内国交野郡へ遷したことでも知られている。八世紀中葉のこの時期に、百済王氏が集団移住と集団居住をしていることの意味を探ることにより、集団としての「百済王氏」が律令国家にとって果たした役割を検討した。第一章「奈良時代の百済王氏」では、八世紀の百済王氏について概観した。今までの研究は単純に百済王氏の律令官人化という脈絡から接近していたが、八世紀の律令国家において百済王氏は、日本律令国家の外向きの理念(蕃国新羅を率いる「東夷の小帝国」)を維持するのに必要な理論的な根拠であり実態として扱われ、重要な存在意義をもっていた。聖武天皇期と淳仁天皇期における百済王氏の活躍は、こうした認識を通して初めて理解されるのであるだろう。第二章「渡来系遺民の改賜姓記事からみた百済王氏」では、律令国家の機軸となる氏族制という視点から、改賜姓に着目して百済王氏の特徴を探る。百済王氏と同様の氏族的性格をもちながら、改賜姓に関して異なる実態を見せる高句麗系氏族との比較を通じて、律令国家の氏族における百済王氏の特殊性について改めて検討した。

 第三部「日本律令国家の転換と百済王氏」では、平安時代以降の百済王氏の展開について検討する。百済王氏は、平安初期までは文献上にその活動を頻繁に窺うことができるが、仁明天皇期を境目にして、朝廷と地方行政の両面でその姿が見えにくくなる。一方でこの変化が起こる九世紀の半ばは、律令国家の転換期とも言われる時期にあたる。百済王氏の変化は、こうした律令国家の転換とも大いに関わりがあると考えられるのであり、この点について検討することは、日本律令国家の特性を探ることにおいて、大いに注目する必要があるという結論に至った。第一章「桓武天皇と百済王氏」では、桓武天皇期の百済王氏について検討する。従来の研究は、桓武天皇と百済王氏の血縁関係のみに注目する傾向が強かった。本研究では、百済王氏を旧百済系氏族の代表的存在として位置付け、さらに桓武天皇の母である高野新笠の系譜を裏付ける役割を果たした存在であると評価した。また桓武朝は、百済王氏と関係が深かった天智朝の政策を継承する意識を持っていた点にも注意を喚起した。第二章「日本律令国家の転換と百済王氏の終焉」では、これまであまり注目されてこなかった九世紀半ばの嵯峨・仁明朝以降の百済王氏の存在形態について検討を行った。さらに、百済王氏の氏族としてのあり方の転換が、九世紀半ばの律令国家の転換とも関係することを検証した。

 最後に結論「律令国家における百済王氏の存在意義」では、百済王氏を通じてみる日本律令国家論、また日本律令国家内での百済王氏の存在を通じて、日本律令国家と百済王氏の両面から、互いの存在意義を検討できることを指摘した。

 附論として、「正倉院所蔵『華厳経論帙内貼文書』(所謂新羅村落文書)について」(初出は『東京大学日本史学研究室紀要』七、二〇〇三年三月)を加えた。正倉院文書に残る新羅関係文書に注目し、その伝来過程の復元を通じて、日本列島と半島との古代の文化交流の一端を探ることを目的とした論考である。基礎的な研究史の整理と展望を述べたものだが、本稿では、本文書が七世紀における半島からの文物流入の実態をうかがわせる史料である可能性を指摘し、百済王氏にとどまらない、七世紀段階における文化交流のさまざまな側面の一つであることを明らかにした。

審査要旨 要旨を表示する

 宋 洗範順氏の論文『日本律令国家と百済王氏』は、六六〇年の百済滅亡と六六三年の白村江の敗戦の後にも日本において百済王氏として存続した旧百済王族について、その存在形態と変質過程とを再検討することを通して、日本古代国家の対外意識を東アジア的視点から客観的にとらえ直そうとした研究成果である。

 研究の特徴は、百済王と百済滅亡後に渡来した「百済遺民」の側の視点から、古代日本における百済王氏のあり方を位置づけ直そうとした研究姿勢にある。そして、日本古代国家が「小中華帝国」意識を内外に誇示するため百済王氏を必要としたという石母田正氏が示した見方を、意識上の問題ではなく、東アジアの国際関係や百済・日本の両国関係から客観的に見直そうとした点、そして七世紀から九世紀までの長期間にわたって、百済王氏のあり方とその変質・「終焉」への道程全体を見通した点などに新鮮さがみられる。その上で、七世紀には天智朝に百済王として遺民とともに難波に「安置」された段階から持統朝に百済王が姓として氏族名称化していったこと、八世紀には律令官人化しつつも難波から河内国交野郡への集団移住に百済系諸氏族代表者としての百済王氏の特質が見られること、九世紀はじめに百済王氏の女性たちが天皇後宮に進出したが、その後日本の対外的孤立外交策を受けて「内なる蕃国」としての百済王氏は「終焉」を迎えたことなど、新しい見解を提示したところは研究成果として評価し得る。

 大臣まで出すことのなかった百済王氏の古代貴族社会における位置づけについて、「優遇」との図式的評価を避けつつ客観的に論旨補強することがなお望まれるものの、古代日本の対外意識を象徴する百済王氏について、百済側のそして東アジア的な視点から新鮮な見方を提供している点で、本論文は今後の研究に益する研究成果ということができよう。

 よって、本論文は博士(文学)の学位を授与するのにふさわしい論文であると判断する。

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