学位論文要旨



No 119843
著者(漢字) 向井,千夏
著者(英字)
著者(カナ) ムカイ,チナツ
標題(和) マウス精子における解糖系と鞭毛運動に関する研究
標題(洋) Studies on glycolysis and flagellar movement in mouse sperm
報告番号 119843
報告番号 甲19843
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第547号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 奥野,誠
 東京大学 助教授 松田,良一
 東京大学 講師 吉田,学
 東京大学 助教授 上村,慎治
 東京大学 助教授 豊島,陽子
内容要旨 要旨を表示する

 精子は、頭部(核)、中片部(ミトコンドリア)、尾部(鞭毛)からなる極度に特殊化した細胞で、一般に鞭毛によって遊泳運動を行う。鞭毛運動に必須となるエネルギーはATPである。ATP産生の経路としては、細胞質における解糖系、ミトコンドリアにおける呼吸系の2つが主なものである。一分子のグルコースを分解したとき、前者が2分子のATP、後者が36分子のATPを産生する。両者の効率の違いや、これまでの生化学的手法による報告から、精子鞭毛運動を支持するATP供給は、ミトコンドリアによるもの、と考えられてきた。

 精子鞭毛は、運動時、基部から先端部まで全体が屈曲する。すなわち、鞭毛全体でATPを利用した滑り運動が起こっている。中片部ミトコンドリアで産生されたATPは鞭毛全体にどのように供給されるのであろうか。哺乳類精子は細長く(マウス 150μm)、単純拡散では相当高濃度のATPがミトコンドリアで産生されなければ、鞭毛先端部への供給は不可能である。ウニ精子などでは、ATPの高エネルギーリン酸結合がクレアチンに転移され、クレアチンリン酸によって鞭毛全体に運搬されることが報告されている(クレアチンシャトル Tombes and Shapiro, 1985)。しかしながら、ほとんどの哺乳類精子において、ウニ精子にみられるようなクレアチンシャトルに関する酵素群が検出されておらず、クレアチンシャトルによるATP供給は成り立ち得ない。では、哺乳類精子はどのようにしてATP供給をおこなっているのだろうか。

 本論文の目的はマウス精子におけるエネルギー代謝について明らかにすることである。代謝経路に関する阻害実験や運動性の解析とATP生産について調べたところ、解糖系こそが鞭毛運動に必要なATP供給を行っていることが明らかとなった。

 まず、ミトコンドリアの呼吸系をCCCP、Antimycin Aで阻害すると、呼吸系での代謝基質である乳酸、ピルビン酸の場合は運動阻害が見られた。一方、解糖系から代謝されるグルコース、フルクトースの場合、運動性は維持された。この結果から、呼吸系を阻害した場合においても解糖系によりエネルギーを獲得し、十分な運動性が維持できることが明らかとなった。また、ATP量についても、呼吸系を阻害した場合においてもグルコース存在下でじゅうぶんなATPを生産していることが明らかとなった。

 解糖系を阻害するために、グルコースのアナログである2-Deoxy-D-glucose(DOG)を用いた。DOGは細胞内にとりこまれ、ヘキソキナーゼによってリン酸化されるが、それ以降先の代謝経路へは進めない糖である。DOGはミトコンドリア活性には影響しないが、ピルビン酸存在化での運動性が著しく阻害された。さらに、DOGを用いた場合のATP量を調べた。すると、ピルビン酸存在下においても、基質を与えていない場合のATP量に等しく、約200 pmol/106spermという結果が得られた。ピルビン酸およびDOG存在下では呼吸系は働いていると考えられるので、このときのATP量は呼吸系による産生量としてとらえることができる。すなわち、一分子のグルコースからのATP産生効率は呼吸系がはるかに高いが、精子の場合、呼吸系によるATP産生量はきわめて低いものと推測される。 また、解糖系の酵素であるグリセルアルデヒド3リン酸デヒドロゲナーゼ(GAPDH)の阻害剤であるヨード酢酸(100μM)を用いたところ、グルコース、ピルビン酸、それぞれの存在下において運動性が著しく阻害された。以上の結果から、鞭毛運動には呼吸系よりもむしろ解糖系が重要な役割を果たしていることが推測された。

 ミトコンドリアは中片部に局在するが、解糖系についての詳細はまだ明らかとなっていない。そこで、市販の抗体を用いて解糖系酵素の局在について調べた。その結果、GAPDHが鞭毛全体に存在すること、ピルビン酸キナーゼが先体と鞭毛主部に存在することが明らかとなった。すなわち、鞭毛全体で解糖系によって生産されたATPが、直接軸糸ダイニンに供給され消費されている、と考えられる。

 マウス精子は受精能を獲得するまで運動を維持しなければならない。その環境は、雌体内の子宮・輸卵管であるが、輸卵管液中の酸素濃度は一般の体液に比べて非常に低いことが報告されている。また、呼吸によって生じる活性酸素によってDNAが損傷されることが広く知られているが、解糖系がATP供給をすることで活性酸素の発生が抑えられる。すなわち、オスのゲノムを無傷のまま卵に運ぶという精子の使命がよりよく達成できると考えられる。これまで、エネルギー供給はミトコンドリア、と認識されてきたが、そうではなく、鞭毛運動のエネルギー供給は解糖系が重要な働きをしていることが明らかとなった。

審査要旨 要旨を表示する

 精子は雄の遺伝情報を雌の遺伝情報を持つ卵へ運ぶ使命を持つ、極端に分化した、そして一般に活発な遊泳運動をする細胞である。この目的のために、遺伝情報を凝縮した頭部、ミトコンドリアを含む中片部、そして運動器官である鞭毛からなる構造を持っている。鞭毛運動は精子を遊泳させるのに欠くことのできない装置であるが、その運動のためには二つの大きな要素が必要である。一つは鞭毛の運動形成機構であり、いかにして鞭毛独特の屈曲運動を形成するかということである。これに関する研究は、運動タンパク質であるダイニンの研究をはじめとして、比較的多くの研究が行われている。もう一つの要素はその運動を維持するためのエネルギー供給機構である。この問題に関しては前者より研究歴はむしろ古く、精子中片部のミトコンドリアで産生されたATPが鞭毛に供給されるとされてきた。この際の問題点は細い鞭毛中をATPが拡散で運搬されることの困難さである。しかし筋肉と同様なクレアチンリン酸を介した補給系(クレアチンリン酸シャトル)がウニ精子などで明らかにされて、この問題も解決されたと考えられてきた。しかし近年になって、哺乳類精子においてはクレアチンリン酸シャトルを支えるクレアチンキナーゼの働きが低いことが示された。またマウス精子鞭毛はウニなどより3倍程度も長く、拡散による供給は困難である。それ故に鞭毛全体へのATP供給については依然として問題が残されていたといえる。本論文において、向井氏は鞭毛運動に必須なATPはミトコンドリアにおける呼吸系ではなく、鞭毛全体に存在する解糖系によって主に供給されていること多角的な研究によって明らかにした。

 本論分においては、まず解糖系を構成する酵素のうち、グリセリアルデヒド3-リン酸デヒドロゲナーゼ(GAPDH)とピルベートキナーゼ(PK)に対する抗体を用い、蛍光抗体法によってそれらの局在を検討している。その結果GAPDH、PK共に鞭毛全長にわたって存在することを示した。特にPKに関してはミトコンドリアの存在下では鞭毛主部が染色され、界面活性剤でミトコンドリアを除去処理した後は鞭毛全体が染色されることから、鞭毛軸糸もしくはそのアクセサリーファイバーである外側粗大線維に局在することが明らかになった。またSDS電気泳動法によって、鞭毛の骨格構造に結合していることも示した。

 哺乳類では精液や雌生殖器官液などに果糖、ブドウ糖などが含まれていることが知られている。そこで次に本論文ではこれらエネルギー代謝基質の有無と運動性の関連について調べている。その結果これらの基質が細胞外に存在することで、細胞内ATP量は一定に保たれ、また鞭毛も高い鞭毛打頻度(およそ20Hz)を維持すること、一方、基質が無い状態では、数分以内に鞭毛打頻度は減少し(およそ1Hz)、ATP量も減少していることから、鞭毛打頻度とATP量に密接な可能性があることを明らかにした。

 続いて阻害剤による実験によって、解糖系と呼吸系の、鞭毛運動に対する関与を検討している。まず、呼吸系をCCCPなどにより阻害しても細胞外にブドウ糖がある場合には活発な運動性が維持され、細胞内のATP量も阻害剤を加えない状態と同様に高レベルに保たれていた。一方、ピルビン酸を加えた場合では運動性は急激に低下し、ATP量も低下していた。このことは解糖系がATP供給で重要な役割を果たしていることを示唆している。しかし呼吸系が阻害されたために解糖系がそれを補完している可能性がぬぐいきれない。そこで次に解糖系をヨード酢酸やデオキシグルコースによって阻害する実験が行われた。その結果、これらの阻害剤存在下では、たとえピルビン酸存在下であっても運動性は低く、細胞内ATP量も少なかった。これらの結果は、解糖系で産生されるATPがマウス精子の鞭毛運動を支えていることを強く支持している。

 これらの実験結果から、ミトコンドリアで産生されるATPは大部分がミトコンドリアもしくはそれが存在する鞭毛中片部に留まって鞭毛主部には供給されておらず、鞭毛全体に存在する解糖系によって鞭毛運動に必要なATPが供給されているという仮説を向井氏は立てた。そして、これを実証するために、以下のような実験も行っている。哺乳類精子は細胞外代謝基質の無い溶液中でも鞭毛運動をある程度持続させるが、これは細胞内にあらかじめ若干の代謝基質を蓄えてているためであろうと予想される。そこで長時間のインキュベーーションで内在性代謝基質を枯渇させ、そこに細胞外部から代謝基質を加えた。すると、ブドウ糖を加えてもピルビン酸を加えてもほぼ同量のATP産生が観察されたが、ブドウ糖を加えた場合のほうが鞭毛の振動数が高く、活発な運動を示した。この事実は等量のATPといっても鞭毛運動への使われ方に差があることを示しており、ミトコンドリアと鞭毛主部が区画化されており、鞭毛主部は解糖系によって独自にATPを獲得していると考えると都合が良い。

 向井千夏氏が提出した本論文は、以上述べたように、解糖系が哺乳類精子鞭毛運動維持のためのエネルギー供給の主役であるということを様々な角度から実験的に検証し、従来から常識的に予想されていた説を覆した、きわめて意義深い研究成果がまとめられたものである。したがって本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定した。

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