学位論文要旨



No 119844
著者(漢字) 井之上,一平
著者(英字)
著者(カナ) イノウエ,イッペイ
標題(和) オンチップ1細胞培養観察系を用いた後天的に獲得された細胞情報の解析
標題(洋) Direct Measurement of Epigenetic Information in Individual Escherichia coli Cells Using On-chip Single-cell Cultivation System
報告番号 119844
報告番号 甲19844
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第548号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 安田,賢二
 東京大学 教授 里見,大作
 東京大学 教授 石浦,章一
 東京大学 助教授 奥野,誠
 東京大学 助教授 上村,慎治
内容要旨 要旨を表示する

はじめに

 生命の中に保存されている情報が持つ意味を理解することは、生命の持つ特徴の一面を理解する上で非常に重要なことである。生命が持つ遺伝性に着目し、その情報を保持・伝承する構成成分DNAの発見は、一連のゲノム計画として様々な網羅的な遺伝情報マップを人類にもたらすところまでに発展してきた。ゲノムの比較解析によって、進化などの不可逆的な情報変化を理解することが可能となっている。しかし、例えば、個体発生において、細胞は全く同じ遺伝情報を持つにも関わらず、増殖・分化・形態形成を行い、受精卵という単純な状態から様々な器官が組み合わさった個体という複雑な状態へと発展し、その状態で安定化する。あるいは、「カルス状態」等の未分化状態へと可逆に戻っていく。このような過程ではどのようにして情報は細胞間で伝承され、保持され、変化していくのであろうか。

 私は、細胞が持つ生命活動に必要な情報を、(1)遺伝子配列そのものに依存した不可逆に変化するゲノム情報、(2)遺伝子配列そのもの以外に保持された環境や他の細胞との相互作用によって変化し保持される情報、という2種類に分け、前者を"先天的遺伝情報"、後者を"後天的情報"と考えることとした。

 本研究の目的は、上記"先天的遺伝情報"が、どの程度細胞表現を制御しているのか、また、"後天的情報"がどのように細胞内で情報として保持・伝承されていくのかを理解することで、生命の持つ「順応」などの柔軟性、進化の過程で起きたであろう「多様性」の根源を探ることにある。

オンチップ1細胞培養観察系の構築

 細胞の"先天的遺伝情報"の理解、"後天的情報"の獲得などを理解するためには、特定の1細胞に着目し直系子孫の継続的観察、あるいは特定の細胞に特定の刺激を厳密に加える技術が必要となる。これを実現するため、微細加工技術の特長を利用して、1細胞単位で細胞を孤立条件で培養し、各細胞の環境を完全に制御しながら細胞表現変化を経時計測を行うことができるシステム"オンチップ1細胞培養観察系"を開発した。オンチップ1細胞培養観察系の構成は、(1)マイクロチャンバアレイ基板、(2)培養液循環系、(3)光ピンセット、を組み込んだ位相差・蛍光顕微鏡システムである。マイクロチャンバアレイ基板は、容積が数plの微細な構造物(マイクロチャンバ)をガラス基板上にm × nのマトリックス状に構築したものである。このマイクロチャンバに蓋となる半透膜をはりつけ細胞を閉じこめ特定の1細胞を連続培養観察することに成功した。この半透膜を介して新鮮な培地を常時循環させることで一定環境を維持し、特定の化学刺激を特定の期間のみ与えることが可能となっている。また、近赤外レーザー(1064 nm Nd-YAGレーザー)集束光を光学顕微鏡光路に導入して光ピンセットとして用いた。この光ピンセットによって、細胞を非接触に特定の培養マイクロチャンバから別のマイクロチャンバに動かしたり、光を照射し続けることで細胞分裂能や運動能を阻害することで、特定の細胞の世代間比較を可能にした。

 本研究では、以下に述べるように、オンチップ1細胞培養観察系を用いて、大腸菌1細胞の培養結果を従来方の培養結果と比較して問題ないことを明らかにしたうえで、(1)同一細胞から生まれた姉妹細胞の表現型比較解析、(2)細胞内の蛍光蛋白質標識された蛋白質空間局在の連続計測、(3)運動特性変化の実時間計測、(4)培養環境の制御、を行った。

大腸菌の1細胞培養

 細胞情報の性質を明らかにするために大腸菌をモデル生物として用いた。

 モデル生物として大腸菌を用いた理由は以下の2点である。

(1) 細胞分裂によりクローンを生み出す分化しない細胞であり、母細胞を細胞分裂させることで同じ遺伝情報を持つ2つの姉妹細胞を得ることができる

(2) 全ゲノム配列が解読されており遺伝子操作可能であるため、各実験に適した細胞を人為的に作り出せる

 オンチップ1細胞培養観察系の特徴を理解するため、大腸菌の1細胞培養計測を行った。

(1) オンチップ1細胞培養観察系を用いて培養された細胞は、従来法で培養された細胞と同じ培養結果を示すか?すなわち、両培養条件で違いは無いか?

(2) オンチップ1細胞培養観察系を用いて、従来法では得ることのできなかった知見を得ることができるか

を検討した。

 オンチップ1細胞培養系で培養された大腸菌JM109の細胞周期平均±標準偏差は88±37分(n = 202)であった。他方、試験管培養された細胞周期平均±標準偏差は84±17分(n = 6)であった。1細胞培養における細胞周期平均と試験管培養における細胞周期平均の間には有意な差がみられなかった(p = 0.05)。1細胞培養における細胞周期と試験管培養における細胞周期が同じであったことから、オンチップ1細胞培養観察系と従来の培養方法とは同じ環境であると考えられた。そして、1細胞培養系での観察結果は、従来の培養法で得られた結果と同様であり、1細胞計測が特殊な条件下での特殊な結果ではないことが確認できた。また、オンチップ1細胞計測では、着目した1細胞を直接計測し続けることができるため、細胞分裂直後の細胞長さ(初期長さ、平均値3 μm、n = 202)や細胞分裂直前の細胞長さ(終長さ、平均値6 μm、n = 202)を計測でき、初期長さと終長さの相関係数(0.5)も初めて計算できた。1細胞培養することで初期長さ分布・終長さ分布、初期長さと終長さの相関関係という従来法では得ることのできなかった知見を得ることができた。

姉妹細胞の相同性比較

 次に、遺伝情報が細胞表現をどの程度決定しているのかを調べるために、同じ環境で培養され同じゲノム・同じ過去の履歴を持つ2匹の姉妹大腸菌の細胞周期を比較計測した。具体的には、オンチップ1細胞培養観察系を用いてマイクロチャンバ内に孤立化され、1細胞培養された大腸菌JM109を培養し続け、細胞分裂によって生まれた遺伝情報および後天的情報が同一な各姉妹細胞における細胞周期の違いを比較計測した。

 姉妹細胞における細胞周期差が細胞周期平均の10 %以内の組は全体の32 %しか存在せず、細胞周期差が細胞周期平均より離れている細胞の組も全体の4 %存在した。また、等分裂により生まれた姉妹細胞における細胞周期差分布と不等分裂により生まれた姉妹細胞における細胞周期差分布は同じ傾向を示した。

 以上の結果から、同じ遺伝情報を持つ細胞組のうち、細胞周期の違いが各平均値の10 %以内であった細胞組は、全細胞組中の40 %にも満たないことが分かった。すなわち、同じゲノムと同じ過去の履歴を持つ2つの細胞を同じ培養条件で培養した場合でも、2つの細胞の細胞周期には違いが現れる事が確認された。また、等分裂により生まれ、細胞体積に差を持たない姉妹細胞の間にも細胞周期の違いが計測された。このことは、先天的遺伝情報が細胞状態を完全に制御しているのではなく、むしろ細胞の表現は、細胞自体が持つ大きな「ゆらぎ」あるいは「環境からの影響」を受け易いことが強く示唆された。

細胞運動と細胞内タンパク質ダイナミクスの同時計測

 遺伝情報がどの程度細胞の表現に影響を与えるか調べた後に、環境との相互作用により細胞にどのように後天的に情報が獲得され、保持された情報が変化するかを理解するための実験を行った。具体的には、環境変化による大腸菌の運動能変化とアスパラギン酸(以下Asp)受容体タンパク質Tarの状態変化を同時に計測し、運動能とTar状態の相関を、オンチップ1細胞培養技術を用いて世代間比較と組み合わせ連続観察した。

 大腸菌AW539/pTarGFPに特定の濃度のAspによる化学刺激を時間的に制御して与えTar局在の変化とタンブリング頻度の変化を1細胞計測した結果、Tar-GFPが細胞極へ局在している大腸菌に対して1 mM Asp刺激を与え80分経過したところでTar局在が消失する現象を、その過程を含めてはじめて観察することができた。Tar局在の消失直後、化学刺激を止め、Tar局在の回復過程を観察した。そして化学刺激停止後250分(3世代)かけて徐々に再度形成する素過程も初めて経時計測することができた。各Tar局在状態における運動特性も調べた。Tar局在を持つ細胞に対して10 μM Asp刺激を4分間与えたところ、タンブリング頻度は10 μM Aspを加える直前の70 %までに減少した。しかし、Tar局在が消失したその子孫細胞に対して10 μM Asp刺激を4分間与えたところ、タンブリング頻度は加える直前の90 %までにしか減少しなかった。さらにTar局在が回復した細胞に対して10 μM Asp刺激を4分間与えたところ、加える直前のタンブリング頻度の70 %まで減少した。

 以上の結果から、大腸菌において環境変化によりTar局在状態が変化し、そのTar局在回復過程は、3世代をまたがって継続的に回復してゆくことが観察された。すなわちTar局在回復過程において、環境との相互作用により獲得された細胞膜上でのタンパク質の局在情報として世代間に伝承していくことが直接可視化され、かつ、Tar局在状態の違いを反映して細胞のAspへの応答が変化することが観察された。

まとめ

 同じ遺伝情報を持つ姉妹細胞組のうち、細胞周期と終長さの違いが各平均値の10 %以内であった細胞組は、全細胞組中の40 %にも満たないという結果は、遺伝情報のみで全ての細胞表現が決定されているわけではなく、遺伝情報以外の要因によって細胞表現が大きく変化する可能性があること、すなわち先天的遺伝のみでは、細胞の表現は決定できないことが強く示唆された。

 環境変化によって生じたTar局在変化というタンパク質の細胞膜への空間配置情報変化が子孫細胞に伝承され、継続的にその情報が変化し続けることで、徐々に化学刺激への応答性などの表現に影響を与えるという結果は、後天的情報の保持・変化ダイナミクスの一例を初めて可視化できたという点で重要であると考えている。このことは、タンパク質の細胞膜上の空間配置情報などのゲノムと直接関係無い構成要素を後天的に獲得され数世代に渡って子孫細胞の表現に影響を与えうる情報として扱うことのできる可能性を示唆している。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、微細加工技術を生物学研究に応用することで、従来存在していなかった一連の1細胞レベルセロミクス計測のための要素技術を開発した研究に関して報告したものである。本論文では、一般の細胞が外部環境の変化に対して応答し適応や分化などの独特の現象を起こすとき、この変化がゲノム情報だけで説明できるものではなく、むしろ後天的な外部環境との相互作用の履歴を反映するものであることに着目し、細胞間での情報のやりとりを、従来の生物学的アプローチではなく、構成的に精製した細胞を組み合わせて培養し計測することで、1細胞が蓄える後天的情報の解明を目指している。

 本論文の第1章では、本研究に至った背景と上記目的を、ゲノム科学の発展の歴史を踏まえて述べている。また、本論文の構成について総説している、

 第2章では、本研究全般で用いられたマイクロ加工技術について、その技術の位置付けと、本研究で用いられた手法の詳細な説明がなされている。特に、本研究において論文提出者が新たに開発し確立した「オンチップ1細胞培養観察系」について、その作成技術の開発、この性能について詳解している。細胞の"先天的遺伝情報"の理解、"後天的情報"の獲得などを理解するためには、特定の1細胞に着目し直系子孫の継続的観察、あるいは特定の細胞に特定の刺激を厳密に加える技術が必要となるが、これを実現するため、微細加工技術の特長を利用して、1細胞単位で細胞を孤立条件で培養し、各細胞の環境を完全に制御しながら細胞表現変化を経時計測を行うことができるシステムとして構築したのが、「オンチップ1細胞培養観察系」である。オンチップ1細胞培養観察系の構成は、(1)マイクロチャンバアレイ基板、(2)培養液循環系、(3)光ピンセット、を組み込んだ位相差・蛍光顕微鏡システムである。マイクロチャンバアレイ基板は、容積が数plの微細な構造物(マイクロチャンバ)をガラス基板上にm × nのマトリックス状に構築したものである。このマイクロチャンバに蓋となる半透膜をはりつけ細胞を閉じこめ特定の1細胞を連続培養観察することに成功した。この半透膜を介して新鮮な培地を常時循環させることで一定環境を維持し、特定の化学刺激を特定の期間のみ与えることが可能となっているため、従来、困難であった培養中の刺激に対する応答を特定の細胞について連続して計測することが可能となった。また、近赤外レーザー(1064 nm Nd-YAGレーザー)集束光を光学顕微鏡光路に導入して光ピンセットとして用いた。この光ピンセットによって、細胞を非接触に特定の培養マイクロチャンバから別のマイクロチャンバに動かしたり、光を照射し続けることで細胞分裂能や運動能を阻害することで、特定の細胞の世代間比較を可能にした。

 第3章では、第2章で述べた「オンチップ1細胞培養システム」について、それを実際に大腸菌1細胞培養に用い、このシステムで培養した大腸菌の振る舞いが、分散培養で培養した細胞の振る舞いに対して大きな違いが無かったことを確認したことを報告している。具体的には、オンチップ1細胞培養観察系で培養された大腸菌JM109の細胞周期平均±標準偏差は88±37分(n = 202)であり、他方、試験管培養された細胞周期平均±標準偏差は84±17分(n = 6)であった。1細胞培養における細胞周期平均と試験管培養における細胞周期平均の間には有意な差がみられなかった(p = 0.05)。1細胞培養における細胞周期と試験管培養における細胞周期が同じであったことから、オンチップ1細胞培養観察系と従来の培養方法とは同じ環境であると考えられた。そして、1細胞培養系での観察結果は、従来の培養法で得られた結果と同様であり、1細胞計測が特殊な条件下での特殊な結果ではないことが確認できた。また、オンチップ1細胞計測では、着目した1細胞を直接計測し続けることができるため、細胞分裂直後の細胞長さ(初期長さ、平均値3・m、n = 202)や細胞分裂直前の細胞長さ(終長さ、平均値6・m、n = 202)を計測でき、初期長さと終長さの相関係数(0.5)も初めて計算できた。1細胞培養することで初期長さ分布・終長さ分布、初期長さと終長さの相関関係という従来法では得ることのできなかった知見を得ることができた。この実験結果を踏まえて、考察において、本技術の細胞培養技術としての妥当性、その技術の持つ課題について議論しており、結果として下記4章以降の実験で、本システムを利用することは問題ないことを結論している。

 第4章では、「オンチップ1細胞培養観察系」を用いて、大腸菌姉妹細胞の成長・細胞周期の相同性比較を行った研究について述べている。具体的には、遺伝情報が細胞表現をどの程度決定しているのかを調べるために、同じ環境で培養され同じゲノム・同じ過去の履歴を持つ2匹の姉妹大腸菌の細胞周期を比較計測した。すなわち、オンチップ1細胞培養観察系のマイクロチャンバ内に孤立化され、1細胞培養された大腸菌JM109を培養し続け、細胞分裂によって生まれた遺伝情報および後天的情報が同一な各姉妹細胞における細胞周期の違いを比較計測した。結果は、姉妹細胞における細胞周期差が細胞周期平均の10 %以内の組は全体の32 %しか存在せず、細胞周期差が細胞周期平均より離れている細胞の組も全体の4 %存在した。また、等分裂により生まれた姉妹細胞における細胞周期差分布と不等分裂により生まれた姉妹細胞における細胞周期差分布は同じ傾向を示した。このことから、同じ遺伝情報を持つ細胞組のうち、細胞周期の違いが各平均値の10 %以内であった細胞組は、全細胞組中の40 %にも満たないことが分かった。すなわち、同じゲノムと同じ過去の履歴を持つ2つの細胞を同じ培養条件で培養した場合でも、2つの細胞の細胞周期には違いが現れる事が確認された。また、等分裂により生まれ、細胞体積に差を持たない姉妹細胞の間にも細胞周期の違いが計測された。このことは、先天的遺伝情報が細胞状態を完全に制御しているのではなく、むしろ細胞の表現は、細胞自体が持つ大きな「ゆらぎ」あるいは「環境からの影響」を受け易いことが強く示唆された。

 第5章では、同様に、オンチップ1細胞培養観察系を用いて、遺伝情報がどの程度細胞の表現に影響を与えるか調べた後に、環境との相互作用により細胞にどのように後天的に情報が獲得され、保持された情報が変化するかを理解するための実験を行った。具体的には、環境変化による大腸菌の運動能変化とアスパラギン酸(以下Asp)受容体タンパク質Tarの状態変化を同時に計測し、運動能とTar状態の相関を、オンチップ1細胞培養技術を用いて世代間比較と組み合わせ連続観察した。大腸菌AW539/pTarGFPに特定の濃度のAspによる化学刺激を時間的に制御して与えTar局在の変化とタンブリング頻度の変化を1細胞計測した結果、Tar-GFPが細胞極へ局在している大腸菌に対して1 mM Asp刺激を与え80分経過したところでTar局在が消失する現象を、その過程を含めてはじめて観察することができた。Tar局在の消失直後、化学刺激を止め、Tar局在の回復過程を観察した。そして化学刺激停止後250分(3世代)かけて徐々に再度形成する素過程も初めて経時計測することができた。各Tar局在状態における運動特性も調べた。Tar局在を持つ細胞に対して10・M Asp刺激を4分間与えたところ、タンブリング頻度は10・M Aspを加える直前の70 %までに減少した。しかし、Tar局在が消失したその子孫細胞に対して10・M Asp刺激を4分間与えたところ、タンブリング頻度は加える直前の90 %までにしか減少しなかった。さらにTar局在が回復した細胞に対して10・M Asp刺激を4分間与えたところ、加える直前のタンブリング頻度の70 %まで減少した。以上の結果から、大腸菌において環境変化によりTar局在状態が変化し、そのTar局在回復過程は、3世代をまたがって継続的に回復してゆくことが観察された。すなわちTar局在回復過程において、環境との相互作用により獲得された細胞膜上でのタンパク質の局在情報として世代間に伝承していくことが直接可視化され、かつ、Tar局在状態の違いを反映して細胞のAspへの応答が変化することが観察された。

 第6章では、総合考察として、上記「オンチップ1細胞培養観察系」を用いて得られた大腸菌1細胞の培養観察結果に基づいて、同じ遺伝情報を持つ姉妹細胞組のうち、細胞周期と終長さの違いが各平均値の10 %以内であった細胞組は、全細胞組中の40 %にも満たないという結果は、遺伝情報のみで全ての細胞表現が決定されているわけではなく、遺伝情報以外の要因によって細胞表現が大きく変化する可能性があること、すなわち先天的遺伝のみでは、細胞の表現は決定できないことを初めて実際に可視化できたことがまとめられている。また、環境変化によって生じたTar局在変化というタンパク質の細胞膜への空間配置情報変化が子孫細胞に伝承され、継続的にその情報が変化し続けることで、徐々に化学刺激への応答性などの表現に影響を与えるという結果は、後天的情報の保持・変化ダイナミクスの一例を初めて可視化できたという点で重要であると考えている。このことは、タンパク質の細胞膜上の空間配置情報などのゲノムと直接関係無い構成要素を後天的に獲得され数世代に渡って子孫細胞の表現に影響を与えうる情報として扱うことのできる可能性を示唆していることが述べられている。

 いずれの技術も半導体微細加工で利用されてきた技術を独自の研究によってバイオ用に最適化し、1細胞単位でスクリーニングすることに初めて成功したものである。また、観察した大腸菌1細胞の世代間にまたがる振る舞いの伝承機構の観察は、新たな生物学の研究手法を提案するものであり、このこと自体が、その研究水準の高さを示すものと考えられる。

 したがって本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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