学位論文要旨



No 119851
著者(漢字) 佐々木,淳
著者(英字)
著者(カナ) ササキ,ジュン
標題(和) 大学生における自我漏洩感の心理学的研究
標題(洋)
報告番号 119851
報告番号 甲19851
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第555号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 丹野,義彦
 東京大学 教授 繁桝,算男
 東京大学 教授 長谷川,寿一
 東京大学 教授 大築,立志
 東京大学 助教授 酒井,邦嘉
内容要旨 要旨を表示する

 「自我漏洩症状」とは,考えや感情などの内面的情報が,意図しないのに他者に伝わってしまうと感じる心理的症状であり,対人恐怖症や統合失調症によくみられる.この症状は,加害感(他者に不快を与えているという認知)や忌避感(他者から嫌われるという認知)を伴うために心理的苦痛をもたらす.自我漏洩症状は,対人恐怖と統合失調症の精神病理学において重要な位置を占めており,これまで事例記述研究や思弁的な理論は多かったが,実証的な多数例研究は少なかった.自我漏洩症状は,対人恐怖や統合失調症にみられるだけでなく,弱いものであれば,健常者にもみられると考えられる.本研究では,健常者においてみられる弱い自我漏洩症状のことを「自我漏洩感」と呼ぶ.健常者の自我漏洩感についてはこれまでほとんど研究されてこなかった.そこで,本研究では,青年後期にあたる大学生を対象とし,健常者における自我漏洩感について,実証的に検討した.青年後期は対人恐怖症や統合失調症などの好発年齢にあたるため,大学生の自我漏洩感の実態や発生について調べることは,大学生への心理療法を考える上からも重要である.本研究の第一部においては,自我漏洩感を測定する尺度を作成し,大学生に自我漏洩感がみられるかどうかを確かめ,自我漏洩感が発生する状況や体験を記述した.第二部においては,認知行動理論の観点から,自我漏洩感による苦痛がどのようにして発生し維持されるかについて検討した.

 第一部「自我漏洩感の測定と実態」では,3つの研究をおこない,これまでほとんど実証的研究のなかった健常者の自我漏洩感について,その実態を探索的に調査し,自我漏洩感を測定する尺度を作成し,自我漏洩感が発生する状況や体験を記述した.

 研究1では,これまでの対人恐怖や統合失調症の精神病理学研究を参考にして,自我漏洩感尺度を作成した.この尺度の妥当性を確かめるため,各項目について,精神科医12名に対し,統合失調症と社会恐怖症についての診断的重要度の評定を求めたところ,うつ病についての診断的重要度の評定値より有意に高かった.また,大学生313名を対象にこの尺度を実施したところ,多くが自我漏洩感を体験していた.自我漏洩感の体験率は,精神科医の予想する頻度よりも高かった.大学生において自我漏洩感を体験することは決して珍しいわけではないことが明らかになった.

 研究2では,大学生が自我漏洩感を感じる状況を体系的に調べた.予備調査と因子分析の結果にもとづいて,全40項目の自我漏洩感状況尺度を作成した.この尺度は,「苦手な相手」状況,「赤面・動揺」状況,「不潔」状況,「お見通し」状況,「誉められる」状況の5つの下位尺度からなる,大学生279名を対象にこの尺度を実施したところ,信頼性・妥当性は高く,「不潔」状況以外の4つの下位尺度で体験率が60%を越えていた.この研究でも,大学生における自我漏洩感体験は決して珍しいわけではないことが確かめられた.

 研究3では,自我漏洩感の生じる状況について,自分と他者の心理的距離と自我漏洩感の関係を調べた.大学生291名を対象に質問紙調査を行なったところ,自我漏洩感・羞恥感と心理的距離の間には逆U字的関係があることが示された.また,逆U字的関係は「拒否回避欲求」と「自己イメージ損傷度」の2つの要因の積によって予測できることが,階層的重回帰分析によって明らかになった.

 第二部「自我漏洩感における苦痛の発生と維持のメカニズム」においては,4つの研究を行ない,認知行動理論の観点から,自我漏洩感による苦痛がどのようにして発生し維持されるかについて検討した.

 研究4では,自我漏洩感による苦痛がどのような態度から生じるかについて検討した.まず,Salkovskis(1985)の強迫観念の認知モデルを参考にして,自我漏洩感の認知モデルを作成した.このモデルによると,自我漏洩感は一定の状況に出会うことによってだれでも生じるものであるが,その際,「特有な態度」を持っている人は自我漏洩感にネガティブな意味付けをしてしまうので,苦痛を感じてしまう.特有な態度とは,臨床研究などを参考にして,賞賛獲得傾向・拒否回避傾向・加害感・秘密主義傾向・猜疑心の6つを候補として選んだ.このモデルの妥当性を検討するため,研究4-1では,大学生212名を対象とした横断的調査をおこなった.5つの態度を独立変数とし,5つの状況(「赤面・動揺」状況,「苦手な相手」状況,「誉められる」状況,「不潔」状況,「お見通し」状況)における自我漏洩感の苦痛度を従属変数とした重回帰分析を行なった.その結果,各状況において,それぞれ異なる態度が苦痛度を予測していたが,「加害感」という態度は5つの状況すべての苦痛度を予測した.

 研究4-2では,大学生247名を対象とした縦断調査を行なった.第一回調査において,上述の5つの態度を持つ人が,「赤面・動揺」状況と「苦手な相手」状況を体験することで,自我漏洩感の苦痛度が強まるかについて,階層的重回帰分析を用いて検討した.その結果,「赤面・動揺」状況と態度の交互作用が有意であった.つまり,一定の態度を持つ人が「赤面・動揺」状況を体験することで,二週間後の第二回調査において,自我漏洩感の苦痛度が強まることがわかった.つまり,「赤面・動揺」状況については,前述の自我漏洩感の認知モデルが支持された.これに対し,「苦手な相手」状況については,状況の主効果だけが有意であり,態度と状況の交互作用は有意ではなかった.つまり,「苦手な相手」状況を体験することは,態度に関係なく,自我漏洩感の苦痛度を強めており,前述の認知モデルは支持されなかった.自我漏洩感をもたらす状況によって,苦痛をもたらすメカニズムは異なると考えられた.

 研究5では,自我漏洩感の苦痛をもたらす加害感について検討した.大学生220名を対象に質問紙調査を行なった結果,大学生における加害感の頻度は高いことが明らかになった.また,加害感と忌避感の相関は非常に高かった.

 研究6では,自我漏洩感の苦痛に対する対処行動について探索的に調べた.予備的面接の結果,自我漏洩感に苦痛を感じた場合に,人は何らかの対処方略を行なっていることが明らかとなり,この結果にもとづいて,自我漏洩感対処方略尺度を作成した.この尺度は,原因追求,自白,気晴らし,回避,怒り,あきらめ,切り替え,接近というの8つの下位尺度からなっている.大学生313名を対象とした質問紙調査をおこなったところ,各下位尺度の信頼性はおおむね良好であり,妥当性に関しても良好であることが確かめられた.

 研究7では,自我漏洩感の苦痛がなぜ維持されるのかについて,対処方略という観点からモデル化した.自我漏洩感の苦痛維持の認知モデルをFigureに示す.自我漏洩感の苦痛((1))を感じたとき,ネガティブな対処方略((2))を取ると,逆に症状が維持・増強((3))する可能性がある.それに対し,ポジティブな対処方略((4))をとった場合には,自我漏洩感の苦痛が鎮静化((5))する可能性がある.この対処方略モデルを検討するために,大学生112名を対象とした縦断調査をおこなった.第一回調査の自我漏洩感対処方略尺度の8つの下位尺度を独立変数とし,2週間後の第二回調査の自我漏洩感の苦痛度を従属変数とする重回帰分析をおこなった.その結果,「気晴らし」の対処法が苦痛度の減少を予測した.「気晴らし」の対処法は自我漏洩感の苦痛を鎮静化させることが明らかになった.これに対し,「怒り」や「原因追及」の対処法は,苦痛度の増加を予測し,これらの対処法は自我漏洩感の苦痛を維持・増強すると考えられた.これらの結果は,前述の対処方略モデルを支持するものである.このモデルにもとづけば,自我漏洩感の苦痛度を緩和する心理療法の技法を開発できる可能性がある.

Figure 自我漏洩感の苦痛維持の認知モデル

審査要旨 要旨を表示する

 「自我漏洩症状」とは,考えや感情などの内面的情報が,意図しないのに他者に伝わってしまうと感じる心理的症状であり,対人恐怖症や統合失調症によくみられる.この症状は,加害感(他者に不快を与えているという認知)や忌避感(他者から嫌われるという認知)を伴うために心理的苦痛をもたらす.自我漏洩症状に関する研究は,思弁的な精神病理学研究が多く,実証的な多数例研究は少なかった.自我漏洩症状は,病理群にみられるだけでなく,弱いものであれば,健常者にもみられる.これを本研究では「自我漏洩感」と呼ぶ.本研究は、大学生の自我漏洩感について実証的に研究したものである.青年後期は精神疾患の好発年齢にあたるため,自我漏洩感について調べることは、大学生への心理的援助を考える上からも意義深い.本研究は7つの研究からなるが、大きく二部に分けられる.第一部は、自我漏洩感の測定尺度を開発し,大学生における実態を調べたものである.第二部では、自我漏洩感による苦痛の発生メカニズム及び苦痛の維持プロセスについて明らかにしたものである.

 第一部の研究1では,これまでの精神病理学研究を参考に,自我漏洩感尺度を作成した.精神科医に対し統合失調症と社会恐怖症についての診断的重要度の評定を求め,この尺度の妥当性を確かめた.また,大学生を対象にこの尺度を実施したところ,多くが自我漏洩感を体験していた.大学生における自我漏洩感の研究の重要性が確認された.

 研究2では,自我漏洩感を感じる状況を体系的に調べた.予備調査と因子分析の結果にもとづいて,5つの下位尺度からなる自我漏洩感状況尺度を作成した.信頼性・妥当性は高く,4つの下位尺度で体験率が60%を越えていた.ここでも,多くの大学生が自我漏洩感を体験していることが確かめられた.

 研究3では,自我漏洩感の生じる状況について,自分と他者の心理的距離と自我漏洩感の関係を調べた.その結果、自我漏洩感・羞恥感と心理的距離の間には逆U字的関係があることが示された.また,逆U字的関係は「拒否回避欲求」と「自己イメージ損傷度」の2つの要因の積によって予測できることが明らかになった.

 第二部の研究4では,自我漏洩感による苦痛がどのような態度から生じるかについて検討した.自我漏洩感は一定の状況に出会うことによってだれでも生じるものであるが,その際,「特有な態度」を持っている人は自我漏洩感にネガティブな意味付けをしてしまうので,苦痛を感じてしまうと予測された.こうしたモデルの妥当性を検討するため,研究4-1では横断的調査をおこなった.臨床研究などを参考にして選んだ5つの態度を独立変数とし,研究2で得られた5つの状況における自我漏洩感の苦痛度を従属変数とした重回帰分析を行なった.その結果,各状況において,それぞれ異なる態度が苦痛度を予測していたが,「加害感」という態度は5つの状況すべての苦痛度を予測した.また、研究4-2では縦断調査を行なった.上述の態度を持つ人が,「赤面・動揺」状況と「苦手な相手」状況を体験することで,自我漏洩感の苦痛度が強まるかについて,階層的重回帰分析を用いて検討した.その結果,一定の態度を持つ人が「赤面・動揺」状況を体験することで,自我漏洩感の苦痛度が強まることがわかった.これに対し,「苦手な相手」状況については,「苦手な相手」状況を体験することは,態度に関係なく,自我漏洩感の苦痛度を強めていた.自我漏洩感をもたらす状況によって,苦痛をもたらすメカニズムは異なることが明らかになった.

 研究5では,自我漏洩感の苦痛をもたらす加害感について検討した.その結果,大学生における加害感の頻度は高く、また,加害感と忌避感の相関は非常に高いことが明らかになった.

 研究6では,自我漏洩感の苦痛に対する対処行動について検討し、8つの下位尺度からなる自我漏洩感対処方略尺度を作成した.各下位尺度の信頼性はおおむね良好であり,妥当性に関しても良好であることが確かめられた.

 研究7では,自我漏洩感の苦痛がなぜ維持されるのかについて,対処方略という観点から調べた.縦断調査をおこない,第一調査の自我漏洩感対処方略尺度の8つの下位尺度を独立変数とし,2週間後の第二調査の自我漏洩感の苦痛度を従属変数とする重回帰分析をおこなった.その結果,「気晴らし」の対処方略は自我漏洩感の苦痛を鎮静化させることが明らかになった.これに対し,「怒り」などの対処方略は,これらの対処法は自我漏洩感の苦痛を維持・増強していた.

 以上の研究は全て倫理的配慮のもとに行われていることが確認された.

 本研究においては特に次の3点が高く評価された.

1)臨床的に重要な概念とされてきた自我漏洩感について、体験頻度・発生状況・対処行動など包括的に測定でき、かつ信頼性と妥当性の高い尺度を新たに開発したこと.大学生の自我漏洩感の頻度を明らかにし,健常者における自我漏洩感の実証的研究の基盤を確立したこと.

2)従来行なわれてきた横断調査の枠を超えて縦断調査を積極的に取り入れ,自我漏洩感がどのように苦痛な体験となるのか,どのように苦痛が持続するかについて,因果にふみこんで記述することができたこと.

3)こうした実証研究を積み上げることによって、自我漏洩感の苦痛度を下げる治療や早期介入に役立つ確実な情報を提供したこと.

 これらの成果により,本論文は博士(学術)の学位に値するものであると審査員全員が判定した.

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