学位論文要旨



No 119853
著者(漢字) 高橋,俊成
著者(英字)
著者(カナ) タカハシ,トシナリ
標題(和) 共鳴ラマン分光法による無傷ミトコンドリア中のチトクロム酸化酵素の構造解析
標題(洋) Structural Chemistry of Cytochrome c Oxidase in Intact Mitochondria with Resonance Raman Spectroscopy
報告番号 119853
報告番号 甲19853
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第557号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石浦,章一
 東京大学 教授 池内,昌彦
 東京大学 助教授 染田,清彦
 東京大学 助教授 安田,賢二
 兵庫県立大学 教授 小倉,尚志
内容要旨 要旨を表示する

 ミトコンドリアでは、酸化的リン酸化によりATPが合成される。それを担うのは電子伝達系であり、いくつかの膜タンパク質複合体からなる。チトクロム酸化酵素(CcO)はミトコンドリア呼吸鎖の末端に位置している膜タンパク質であり、酸素の還元を行うとともに、プロトンのポンプを行っている。生じたプロトン濃度勾配によって形成された電気化学ポテンシャルによってADPよりATPが合成される。CcOは古くより活発に研究がなされてきたが、結晶化は困難で、1995年にはじめてウシおよびバクテリア由来の標品においてX線結晶構造解析がなされた。これにより、分子レベルでのCcOの全体構造が明らかとなった。しかし、プロトンポンプ機構については、いまだ多くの仮説があり議論が続いている。一方、共鳴ラマン分光法は、溶液状態の試料に対しても適応することができ、活性中心の構造変化を選択的かつ鋭敏に検出することができる。特に、寿命の短い分子種の観測には適しており、ヘムa3による酸素還元反応における反応中間体の構造においては他の方法で得られない特徴的な情報を提供してきた。

 しかし、これまでは単離した酵素についての研究がほとんどであった。単離を行うと、ミトコンドリア膜中に存在する場合と違い、膜電位やプロトン濃度勾配が無くなってしまい、これらの要素が酵素の構造や機能に影響を及ぼしている場合、その影響を観測することができない。また、ミトコンドリアにはこの他にも様々な物質が存在しており、それらが酵素の構造に影響を及ぼしているかもしれない。また、精製に用いる可溶化剤などが構造変化を引き起こす恐れがないとは言い切れない。そこで本研究ではそれらのartifactを無くし、本来の環境におけるCcOの構造変化を探るため、無傷のミトコンドリアを共鳴ラマン分光法を用いて測定し、膜中での構造変化を明らかにすることを目指した。共鳴ラマン分光法を用い、波長を適切に選択すると様々なタンパク質が存在しているミトコンドリア内でもCcOのヘムの振動のみを選択的に測定することができる。よって、生体内での環境により近い状態でCcOの構造を追跡することができる。また、励起波長を変えることにより、CcOのみでなく他のタンパク質の分子振動を選択的に観測することも可能であり、ミトコンドリア中の様々な分子に応用していくことができる。

 無傷ミトコンドリアはウシ心筋とブタ心筋より調製し、ミトコンドリアの膜構造が保たれていることは呼吸調節率を測定することにより確かめた。ウシ心筋については、一酸化炭素存在下のミトコンドリアを測定し、Fe-CO結合に関係するバンドを観測することに成功した。これらのバンドは、517 cm-1 , 576 cm-1 , 369 cm-1 に現れ、それぞれ、Fe-COの伸縮振動,Fe-C-Oの変角振動とポルフィリンモードのcombination,Fe-COの変角振動に帰属した。これらの振動数は可溶化CcOの振動数と一致した。Fe-CO結合に関係するバンドはヘムタンパク質において活性中心付近の環境を敏感に反映することが知られており、活性中心のprobeとしてよく利用される。仮に、単離したCcOとヘム周囲の構造に違いがあればこれらの振動数に違いが起こるはずである。しかし、これらの振動数が一致したということは、活性中心付近の環境が単離したものと大きな違いがないことを表している。このようにラマン分光法を用いると多くのタンパク質が存在し、振動が無数に存在するような場合でも、単離することなしに特定の酵素の特定の分子振動のみを検出することができる。また、ブタ心筋についても同様の実験を行い、ウシ心筋と同じ振動数に3つの同位体シフトを起こすバンドが見いだされた。よって、ブタ心筋についても活性中心付近の環境が単離したものと大きな違いがないことが示唆された。ブタ心筋についてウシ心筋と同様の結果が得られたことは、ミトコンドリア研究の対象として適していると考えられる。

 次にミトコンドリア中において、チトクロム酸化酵素と酸素との反応中間体をとらえることを試みた。ウシ心筋においては、シリンジの一方に酸素を飽和させたバッファーを入れ、もう一方のシリンジにCOを結合させたミトコンドリアを入れた。この両者を混合させ、COを590 nmの強いレーザー光を照射させることにより反応を開始させた (Mixed-Flow装置)。この結果、反応開始後0.7 - 2.5 msの領域に酸素化型反応中間体と思われるバンドを観測した。振動数は566 cm-1であり単離したものと比べわずかに低波数に検出された。しかしS/N比が悪く、これがミトコンドリア膜中に存在することによるものか否かは確定できなかった。

 Mixed-Flow装置ではS/N比の向上に膨大な量のミトコンドリアが必要となる。この問題を解決するために、可溶化CcOの反応中間体測定で用いられた酵素反応追跡用人工心肺装置を用いた。これは、サンプルを循環させる装置であり、酸素と反応し酸化型となったサンプルを再び還元し、再度酸素と反応を起こさせることができる。人工心肺装置を用いると、少量しか得られないサンプルであっても、長時間測定することができ、S/N比が飛躍的に改善される。この装置は、可溶化CcOに用いられてきたので、ミトコンドリア用に改良した。この装置を用い、酸素化型、パーフェリル型、フェリル型の反応中間体について、可溶化酵素に対応するバンドを観測した。すなわち、ミトコンドリアにおいて571 cm-1に現れるバンドが18O2により544 cm-1に同位体シフトを示すことから酸素化型反応中間体のFe-O2伸縮振動に帰属した。次に観測される804, 785 cm-1付近のバンドも18O2により、764, 750 cm-1に低波数シフトを起こしたことから、パーフェリル型およびフェリル型のFe=O伸縮振動に由来すると考えられる。

 これらの反応中間体の振動数は可溶化CcOと比較して、大きな違いはない。しかし、酸素化型反応中間体は、バンドの強度は0.4, 0.6, 1.4 msの順に減衰していくものの、1.4 msにおいても観測された。一方、可溶化CcOにおいてはこの領域では酸素化型反応中間体は観測されない。このことから、ミトコンドリア膜中においては、反応中間体の寿命が長い可能性が示唆された。3 msまでの領域まで観測を行ったが、ヒドロキシル型についてはミトコンドリアにおいて観測されていない。よって、これ以降の領域で生成している可能性が高い。高波数領域においては、反応開始後約0.5 msの領域においてν4モードに由来するバンドが1377 cm-1に高波数シフトを起こした。これは、中間体のうち酸素化型の生成によると考えられる。これらの結果より、これまで単離したCcOにおいて議論されてきた反応中間体が、実際のミトコンドリア中でも確かに存在し生理的意義を持つことが明らかとなった。

審査要旨 要旨を表示する

 この論文は、無傷ミトコンドリア膜中における、チトクロム酸化酵素の構造変化を詳細に調べた結果をまとめたものである。

 ミトコンドリアでは、酸化的リン酸化によりATPが合成される。それを担うのは電子伝達系であり、いくつかの膜タンパク質複合体からなる。チトクロム酸化酵素(CcO)はミトコンドリア呼吸鎖の末端に位置している膜タンパク質であり、酸素の還元を行うとともに、プロトンのポンプを行っている。生じたプロトン濃度勾配によって形成された電気化学ポテンシャルによってADPよりATPが合成される。CcOは古くより活発に研究がなされてきたが、結晶化は困難で、1995年にはじめてウシおよびバクテリア由来の標品においてX線結晶構造解析がなされた。これにより、分子レベルでのCcOの全体構造が明らかとなった。しかし、プロトンポンプ機構については、いまだ多くの仮説があり議論が続いている。一方、共鳴ラマン分光法は、溶液状態の試料に対しても適応することができ、活性中心の構造変化を選択的かつ鋭敏に検出することができる。特に、寿命の短い分子種の観測には適しており、ヘムa3による酸素還元反応における反応中間体の構造においては他の方法で得られない特徴的な情報を提供してきた。

 しかし、これまでは単離した酵素についての研究がほとんどであった。単離を行うと、ミトコンドリア膜中に存在する場合と違い、膜電位やプロトン濃度勾配が無くなってしまい、これらの要素が酵素の構造や機能に影響を及ぼしている場合、その影響を観測することができない。また、ミトコンドリアにはこの他にも様々な物質が存在しており、それらが酵素の構造に影響を及ぼしているかもしれない。また、精製に用いる可溶化剤などが構造変化を引き起こす恐れがないとは言い切れない。そこで本研究ではそれらのartifactを無くし、本来の環境におけるCcOの構造変化を探るため、無傷のミトコンドリアに共鳴ラマン分光法を適用し、膜中での構造変化を明らかにした。

 無傷ミトコンドリアはウシ心筋とブタ心筋より調製し、ミトコンドリアの膜構造が保たれていることは呼吸調節率を測定することにより確かめた。ウシ心筋については、一酸化炭素存在下のミトコンドリアを測定し、Fe-CO結合に関係するバンドを観測することに成功した。これらのバンドは、517 cm-1 , 576 cm-1 , 369 cm-1 に現れ、それぞれ、Fe-COの伸縮振動,Fe-C-Oの変角振動とポルフィリンモードのcombination,Fe-COの変角振動に帰属した。これらの振動数は可溶化CcOの振動数と一致した。Fe-CO結合に関係するバンドはヘムタンパク質において活性中心付近の環境を敏感に反映することが知られており、活性中心のprobeとしてよく利用される。仮に、単離したCcOとヘム周囲の構造に違いがあればこれらの振動数に違いが起こるはずである。しかし、これらの振動数が一致したということは、活性中心付近の環境が単離したものと大きな違いがないことを表している。このようにラマン分光法を用いると多くのタンパク質が存在し、振動が無数に存在するような場合でも、単離することなしに特定の酵素の特定の分子振動のみを検出することができた。

 また、反応中間体に由来するラマンバンドも検出することに成功した。測定には、酵素反応追跡用人工心肺装置を用いた。これは、サンプルを循環させる装置であり、酸素と反応し酸化型となったサンプルを再び還元し、再度酸素と反応を起こさせることができる。人工心肺装置を用いると、少量しか得られないサンプルであっても、長時間測定することができ、S/N比が飛躍的に改善される。この装置は、可溶化CcO用に設計されたものであり、本研究においてミトコンドリア用に改良し、CcOと酸素の反応開始後0.4, 0.6, 1.4 msのスペクトルを得た。そして、酸素化型、パーフェリル型、フェリル型の反応中間体について、可溶化酵素に対応するバンドを観測した。すなわち、ミトコンドリアにおいて571 cm-1に現れるバンドが18O2により544 cm-1に同位体シフトを示すことから酸素化型反応中間体のFe-O2伸縮振動に帰属した。次に観測される804, 785 cm-1付近のバンドも18O2により、それぞれ764, 750 cm-1に低波数シフトを起こしたことから、パーフェリル型およびフェリル型のFe=O伸縮振動に由来すると考えられる。

 これらの反応中間体の振動数は可溶化CcOと比較して、ほぼ同じであることが明らかとなった。しかし、酸素化型反応中間体については、バンドの強度は時間とともに減衰していくものの、1.4 msにおいても観測された。一方、可溶化CcOにおいてはこの時刻では酸素化型反応中間体は観測されない。このことから、ミトコンドリア膜中においては、反応中間体の寿命が長いことが明らかとなった。また、3 msまでの時間領域では、ヒドロキシル型は観測されなかった。よって、これ以降の時間領域で生成している可能性が高い。高波数領域においては、反応開始後約0.5 msの領域においてν4モードに由来するバンドが1377 cm-1に高波数シフトを起こした。これは、中間体のうち酸素化型の生成によると考えられる。これらの結果より、これまで単離したCcOにおいて議論されてきた反応中間体が、実際のミトコンドリア中でも確かに存在し生理的意義を持つことが明らかとなった。

 以上のように本論文は、ミトコンドリア膜中におけるチトクロム酸化酵素の活性部位の構造変化を反応中間体まで含め詳細に検討し、単離状態の酵素の構造と初めて比較したものである。この結果は、ミトコンドリアにおける酸化的リン酸化反応の分子レベルでの解明に大きく貢献した。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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