学位論文要旨



No 119854
著者(漢字) 服部,千夏
著者(英字)
著者(カナ) ハットリ,チナツ
標題(和) アルツハイマー病発症に関わるBACE1の機能解析と阻害剤の開発
標題(洋)
報告番号 119854
報告番号 甲19854
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第558号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石浦,章一
 東京大学 教授 久保田,俊一郎
 東京大学 助教授 渡辺,雄一郎
 東京大学 助教授 安田,賢二
 東京大学 助教授 上村,慎治
内容要旨 要旨を表示する

I. 背景

 急速な高齢社会を迎えたわが国では、老人人口の激増とともに痴呆疾患が急増している。現在、わが国では65歳以上の痴呆性老人が100万人以上おり、その9割をアルツハイマー病(AD)と脳血管性痴呆症の患者が占める。

 痴呆の医学的研究が進むにつれ、これまでのところ脳血管性障害については、動脈硬化症の治療や高血圧の管理などによって著しい予防効果があげられ、これに伴う痴呆症状も軽減されつつある。これに対してADについては、いまだ有効な治療法が確立されておらず、その発症機構および原因の解明、さらには治療法・予防法の確立に対する社会的要望が強まっている。

 ADは、著明な記銘力障害を中心とした進行性の痴呆を呈する神経変性疾患である。AD脳における特徴的な病理所見は、1)神経細胞外における老人斑の出現、2)神経細胞内における神経原線維変化、3)神経細胞の脱落による大脳萎縮、の3点であり、これらはADの診断基準としても重視されている。

 本研究では、ADに対しての疾患特異性が高く、かつ初期病変である「老人斑の出現」に着目し、老人斑を構成する主要構成成分であるアミロイドβタンパク質(Aβ)の産生が、AD発症の根本的原因と捉え、Aβの産生に関わる主要な酵素であるBACE1(beta-site APP cleaving enzyme 1)の生理的機能について解析し、それに基づいたBACE1阻害剤を検討した。

II. 研究内容

 Aβ は、前駆体タンパク質であるAPP(amyloid precursor protein)から切り出される。このAPPの代謝には、α-、β-、そしてγ-セクレターゼとよばれる3種のプロテアーゼが関与している。通常、脳内では α- および β-セクレターゼが、基質となるAPPをめぐって競合している。正常脳においては、α-セクレターゼによるAPP切断(Aβ 非産生経路)が主要な経路となっているのに対し、AD脳においては β-セクレターゼによるAPP切断経路(Aβ 産生経路)の方へバランスが傾いていると考えられている。

 このことから、α-セクレターゼ活性の賦活促進あるいは β-セクレターゼ活性の阻害、もしくはAβ 産生への最後のステップとなる γ-セクレターゼ活性の阻害が、Aβ 産生を抑制することになり、現在これに基づいたAD治療薬の開発が盛んに行なわれている。

 本研究ではまず、BACE1の作用部位として機能的膜ドメインraftに注目し、BACE1活性を調節する因子としてflotillin-1(FLOT-1)を発見した。また、BACE1の作用部位は分泌経路とエンドサイトーシス経路の2つあり、前者ではST6Gal Iが、後者ではAPPが基質となっていて、BACE1はこの2つの基質に対して独立に作用している可能性が示唆された。

II-1. BACE1相互作用分子の探索

 BACE1によるAPP切断は、細胞膜上のraftとよばれる構造で行なわれるとの報告がある。本研究では、raftを構成する主要タンパク質caveolin-1(CAV-1)、FLOT-1とBACE1との相互作用を検討するため、それら分子間の結合実験を行なった。また、CAV-1とFLOT-1を過剰に発現させることによりBACE1の β-セクレターゼ活性にどのような影響を与えるかを調べた。

 免疫沈降法による結合実験の結果、BACE1はCAV-1とFLOT-1の両タンパク質と結合することが分かった。また、CAV-1とFLOT-1を過剰発現させることにより、β-セクレターゼ活性が抑制される傾向がみられた。

これらのことから、raft構成タンパク質であるCAV-1とFLOT-1は、BACE1と細胞内で相互作用するが、構成タンパク質の過剰発現によりraft構造が変化し、APP代謝が強く影響された結果、β-セクレターゼ活性が抑制されたと考えられる。

II-2. BACE1の作用部位と阻害剤の解析

 BACE1ノックアウトマウスは、ほとんど行動学的な異常が見られないという報告から、AD治療薬の標的分子としてBACE1が一層の注目を集めることになった。

一方、近年、BACE1の生理的基質として糖転移酵素ST6Gal Iが発見され、BACE1ノックアウトマウスにみられる抗体量の異常が糖鎖変化に基づく可能性が報告された。このことは、AD治療薬の標的として、BACE1の働きを抑えすぎると副作用を生ずる可能性を示している。

 本研究では、薬剤による副作用という観点から、薬剤の標的となる分子BACE1の生理的機能を解析することを目的とし、病的基質APPと生理的基質ST6Gal Iに対して、前者に選択性のある阻害剤の開発を目指し、in vitroおよび培養細胞レベルでの有効性を検討した。

 まず、BACE1によるAPPとST6Gal Iの切断の経路について調べるため、エンドサイトーシス阻害剤を用いて、両基質に対するBACE1活性への影響を比較した。また、コレステロール除去剤を用いて、APP切断とraftとの関係を検討した。さらに、BACE1阻害剤KMI-358を用いて、両基質に対するBACE1活性への阻害効果を比較した。

この結果、STGal I切断は分泌経路において起こるのに対し、APP切断はエンドサイトーシス経路において起こることが確認された。また、この切断経路の違いにより、AD治療薬としてのBACE1阻害剤について、病的基質APPに対して選択的に阻害効果をもつ化合物の開発が可能であることが示唆された。

審査要旨 要旨を表示する

 急速な高齢社会を迎えたわが国では、老人人口の激増とともに痴呆疾患が急増している。現在、わが国では65歳以上の痴呆性老人が100万人以上おり、その9割をアルツハイマー病(AD)と脳血管性痴呆症の患者が占める。

 痴呆の医学的研究が進むにつれ、これまでのところ脳血管性障害については、動脈硬化症の治療や高血圧の管理などによって著しい予防効果があげられ、これに伴う痴呆症状も軽減されつつある。これに対してADについては、いまだ有効な治療法が確立されておらず、その発症機構および原因の解明、さらには治療法・予防法の確立に対する社会的要望が強まっている。

 ADは、著明な記銘力障害を中心とした進行性の痴呆を呈する神経変性疾患である。AD脳における特徴的な病理所見は、1)神経細胞外における老人斑の出現、2)神経細胞内における神経原線維変化、3)神経細胞の脱落による大脳萎縮、の3点であり、これらはADの診断基準としても重視されている。

 本研究では、ADに対しての疾患特異性が高く、かつ初期病変である「老人斑の出現」に着目し、老人斑を構成する主要構成成分であるアミロイド βタンパク質(Aβ)の産生が、AD発症の根本的原因と捉え、Aβの産生に関わる主要な酵素であるBACE1(beta-site APP cleaving enzyme 1)の生理的機能について解析し、それに基づいたBACE1阻害剤を検討した。

 Aβ は、前駆体タンパク質であるAPP(amyloid precursor protein)から切り出される。このAPPの代謝には、α-、β-、そして γ-セクレターゼとよばれる3種のプロテアーゼが関与している。通常、脳内では α- および β-セクレターゼが、基質となるAPPをめぐって競合している。正常脳においては、α-セクレターゼによるAPP切断(Aβ 非産生経路)が主要な経路となっているのに対し、AD脳においては β-セクレターゼによるAPP切断経路(Aβ 産生経路)の方へバランスが傾いていると考えられている。

 このことから、α-セクレターゼ活性の賦活促進あるいは β-セクレターゼ活性の阻害、もしくはAβ 産生への最後のステップとなる γ-セクレターゼ活性の阻害が、Aβ 産生を抑制することになり、現在これに基づいたAD治療薬の開発が盛んに行なわれている。

 本研究ではまず、BACE1の作用部位として機能的膜ドメインraftに注目し、BACE1活性を調節する因子としてflotillin-1(FLOT-1)を発見した。また、BACE1の作用部位は分泌経路とエンドサイトーシス経路の2つあり、前者ではST6Gal Iが、後者ではAPPが基質となっていて、BACE1はこの2つの基質に対して独立に作用している可能性が示唆された。

 BACE1によるAPP切断は、細胞膜上のraftとよばれる構造で行なわれるとの報告がある。本研究では、raftを構成する主要タンパク質caveolin-1(CAV-1)、FLOT-1とBACE1との相互作用を検討するため、それら分子間の結合実験を行なった。また、CAV-1とFLOT-1を過剰に発現させることによりBACE1の β-セクレターゼ活性にどのような影響を与えるかを調べた。

 免疫沈降法による結合実験の結果、BACE1はCAV-1とFLOT-1の両タンパク質と結合することが分かった。また、CAV-1とFLOT-1を過剰発現させることにより、β-セクレターゼ活性が抑制される傾向がみられた。

 これらのことから、raft構成タンパク質であるCAV-1とFLOT-1は、BACE1と細胞内で相互作用するが、構成タンパク質の過剰発現によりraft構造が変化し、APP代謝が強く影響された結果、β-セクレターゼ活性が抑制されたと考えられる。

 BACE1ノックアウトマウスは、ほとんど行動学的な異常が見られないという報告から、AD治療薬の標的分子としてBACE1が一層の注目を集めることになった。

 一方、近年、BACE1の生理的基質として糖転移酵素ST6Gal Iが発見され、BACE1ノックアウトマウスにみられる抗体量の異常が糖鎖変化に基づく可能性が報告された。このことは、AD治療薬の標的として、BACE1の働きを抑えすぎると副作用を生ずる可能性を示している。

 本研究では、薬剤による副作用という観点から、薬剤の標的となる分子BACE1の生理的機能を解析することを目的とし、病的基質APPと生理的基質ST6Gal Iに対して、前者に選択性のある阻害剤の開発を目指し、in vitroおよび培養細胞レベルでの有効性を検討した。

 まず、BACE1によるAPPとST6Gal Iの切断の経路について調べるため、エンドサイトーシス阻害剤を用いて、両基質に対するBACE1活性への影響を比較した。また、コレステロール除去剤を用いて、APP切断とraftとの関係を検討した。さらに、BACE1阻害剤KMI-358を用いて、両基質に対するBACE1活性への阻害効果を比較した。この結果、ST6Gal I切断は分泌経路において起こるのに対し、APP切断はエンドサイトーシス経路において起こることが確認された。また、AD治療薬としてのBACE1阻害剤はいろいろな方向から研究が行われているが、本研究で明らかになったこの切断経路の違いにより、病的基質APPに対して選択的に阻害効果をもつ化合物の開発が可能であることが示唆された。以上、本研究はアルツハイマー病に関わるBACE1の生理機能を明らかにし、治療の可能性にまで言及した点が評価できる。従って、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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