学位論文要旨



No 119866
著者(漢字) 北條,優
著者(英字)
著者(カナ) ホウジョウ,マサル
標題(和) タカサゴシロアリの兵隊における防衛分泌物質の生合成に関する分子生物学的研究
標題(洋) Molecular biology on the biosynthesis of soldier-defense secretion in the nasute termite Nasutitermes takasagoensis
報告番号 119866
報告番号 甲19866
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第570号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松本,忠夫
 東京大学 教授 嶋田,正和
 東京大学 助教授 伊藤,元己
 茨城大学 助教授 北出,理
 北海道大学 助教授 三浦,徹
内容要旨 要旨を表示する

 真社会性昆虫のコロニー内には複数の世代が共存し,様々なカーストの個体間にコロニーの維持および繁殖における役割分担があるなどの生態的特徴が見られる.代表的な真社会性昆虫であるアリやミツバチなどの社会性膜翅類は完全変態昆虫であるが,シロアリ類は不完全変態昆虫でありある程度成長した子虫がワーカーとして機能している.両系統は様々な形質が社会性として収斂しているが,異なった形質も見られる.真社会性昆虫のカースト分化は,同じ遺伝的基盤を持ちながら違った表現型を示すという表現型多型の典型的な例であり,カースト間で行動も違う.社会行動の制御メカニズムやカースト分化の発生メカニズムは,近年の分子生物学の発展により後胚発生過程における遺伝子発現の差異で生じることが明らかになり始めている.

 シロアリ類のコロニーでは,不妊の「兵隊カースト」による,自分を犠牲にしてまでの天敵や寄生者への攻撃行動が,コロニーを防衛するのに大きく役立っている. そのために,多くのシロアリ種では,兵隊が強力に発達した大顎を用いて,敵を挟んだり,弾き飛ばしたりするといった物理的手段によってコロニーの防衛を行うが,高等なシロアリ(ミゾガシラシロアリ科やシロアリ科など)の兵隊は,形態的,機能的に特殊化した「額腺」を持ち,多種の化学物質を合成し,その混合物を放出して化学的防衛を行う.額腺は兵隊のみに存在し,その腺の形態,分泌物質,そして防衛行動様式はシロアリの系統ごとに大きく異なる.分泌物質の成分としてテルペン類が多く知られており,それらは外敵に対する防衛物質としてだけでなく,コロニーの社会性制御のためのフェロモン物質としても重要であると考えられている.しかし,それらの合成経路に関してはほとんど未解明であり,シロアリの化学的防衛に関する分子生物学的な研究も皆無である.

 化学的防衛を行うシロアリの中でも,最も派生的で多様化したテングシロアリ亜科に属する種の兵隊は,額腺分泌物質の貯蔵嚢が頭部に限定され,前方に分泌物質を噴射するための突出構造(nasus)を持っており,進化的に最も特殊化している.このようなシロアリの兵隊頭部では,分泌物質の中に含まれるタンパク質や分泌物質の生合成に関わる酵素など数多くのタンパク質が必要であり,様々な遺伝子が発現していると考えられる.

 本研究では,化学物質を噴射することでコロニー防衛を行うシロアリの兵隊カーストにおいて額腺分泌物に関わる遺伝子を特定する事に焦点をあてた.そのために兵隊に額腺が顕著に発達し,それらがテルペン類を噴射するテングシロアリ亜科のタカサゴシロアリ(Nasutitermes takasagoensis)を材料に用い,頭部におけるタンパク質およびmRNAの比較を行う方法で,兵隊頭部で特異的に発現する遺伝子の同定を試みた.

 第1章では,貯蔵嚢に含まれるタンパク質など,兵隊頭部に大量に存在するタンパク質を探るために,兵隊およびワーカーの頭部からタンパク質を抽出し,SDS-ポリアクリルアミドゲル電気泳動(SDS-PAGE)により分離,比較を行った.その結果,いくつかの兵隊特異的バンドを検出することができた.その内,最も存在量の多かった約26kDaのバンドを切り出し,プロテインシークエンサーにてN末の部分アミノ酸配列を決定した.得られた30アミノ酸残基の配列をもとにプライマーを設計し,PCRで未知の領域を決定する方法であるRACE法により,このタンパク質をコードする遺伝子のクローニングを行った.その結果,このタンパク質はN末端に20残基の疎水性のシグナルペプチドと思われる配列がついており,幼若ホルモン結合タンパク質など,昆虫の疎水性のリガンドに結合し輸送するタンパク質などと配列の類似性が見られた.また,同定された遺伝子はノーザンハイブリダイゼーションでも兵隊特異的に強く発現していることが認められた.その後,このタンパク質の詳細な存在部位を知るために,兵隊頭部を,脳を除いた額腺を含む頭部背側,脳,食道下神経節を含む頭部腹側,および触角の4つの部位に分け,それぞれから抽出したタンパク質をSDS-PAGEで分離,比較を行った.その結果,目的のタンパク質は額腺を含む頭部背側のみに含まれていることが分かった.また,in situハイブリダイゼーションによりmRNAの局在を調べたところ,額腺分泌物質の貯蔵嚢を形成しているクラス1の腺細胞で構成された一層の分泌上皮でシグナルが検出された.これらの細胞では樹脂性のジテルペンが合成されると考えられている.

 これらの結果から,このタンパク質は額腺細胞で合成されるテルペン類に結合し,細胞外のリザーバーへ分泌され,貯蔵されている可能性が高いといえる.またこれは,テングシロアリ亜科における額腺分泌物質に含まれるタンパク質の初めての報告である.

 第2章では,テルペン類の生合成に関わる酵素などで,微量に存在しているためにタンパク質レベルでは検出できないような分子を同定するために,兵隊およびワーカーの頭部からRNAを抽出し,それをもとにcDNAを合成し,異なる組織間での遺伝子発現の差異を検出する方法であるディファレンシャルディスプレイ法(DD法)を用いて,兵隊頭部で特異的に発現する遺伝子のスクリーニングを行った.20プライマーセットでPCRを行い,兵隊とワーカーで電気泳動パターンを比較した結果,兵隊の全バンド数(2,558本)のうち約7%(177本)のバンドが兵隊特異的であり,大顎型兵隊を持つシロアリの結果(オオシロアリでは約1%)よりも大きい値であった.この結果は再現性も確認されたものである.その後,切り出し可能な兵隊特異的バンドからDNA断片を抽出し,サブクローニングし塩基配列の決定を行ったところ,21候補の配列を得る事ができた.それらについて定量的RT-PCRによりDD法の擬陽性の確認を行ったところ,8候補のみで明確な差が認められた.その内の1候補は,エクジステロイドや幼若ホルモンの合成と関連のある3β-ヒドロキシステロイド脱水素酵素と相同性のあるものであったが,それ以外は既知のタンパク質との相同性が認められないものであった.

 このように額腺型兵隊を持つタカサゴシロアリが,大顎型兵隊を持つシロアリに比べて兵隊特異的に発現する遺伝子が多かったことから,化学的防衛を行うシロアリの兵隊は,ワーカーと比べて,形態のみならず遺伝子発現レベルでも特殊化していることが示された.またこのようなシロアリには,物理的防衛のみを行うシロアリと違い,額腺といった兵隊のみで特殊化された器官を持っているために,そこに含まれる物質やその生合成に関わるより多くの遺伝子が発現していることも示唆された.部分配列が決定できた多くの遺伝子の候補で相同性が見られなかったのは,その遺伝子が今まで知られていない新規の遺伝子の可能性もあるが,DD法で得られた領域がタンパク質の非翻訳領域であるために検索されなかった可能性が高い.

 第3章では,DD法で得られた兵隊特異的に発現する遺伝子候補のうち,定量的RT-PCRで最も差が大きかった候補について,RACE法により遺伝子の全長配列の決定を行った.結果として,2種類の選択的スプライシングによって得られた転写産物と考えられる配列を得ることができた.さらに,この両転写産物の共通配列部分を用いてプローブを作製し,ノーザンハイブリダイゼーションを行った結果,兵隊頭部のみで2本のバンドを得ることができた.この遺伝子がコードするタンパク質は,一部の動物や多くの植物に見られるゲラニルゲラニル2燐酸合成酵素(GGPPS)と高い相同性が得られた.植物ではGGPPSは,ジテルペンの直接的な前駆物質であるゲラニルゲラニル2燐酸(GGPP)を合成する機能を果たす.タカサゴシロアリと同属の兵隊の額腺分泌物質は約9割がジテルペンであり,兵隊の頭部のほとんどが分泌物質の貯蔵嚢で占められていることから,この酵素は防衛物質であるジテルペンの合成に関わっている可能性が非常に高い.しかし,動物ではジテルペン合成に関わるGGPPSの報告はなく,合成されたGGPPは細胞増殖や分化,細胞骨格形成などに重要なプレニル化タンパク質を合成するのに用いられている.

 本研究では,タンパク質とmRNAといった2つのアプローチを用い,タカサゴシロアリの主要な額腺分泌物質であるテルペン類の結合タンパク質やその生合成経路で使用される酵素を同定することができた.これらのアプローチは,化学的防衛を行うシロアリの防衛物質の生合成に関わる様々な種類の遺伝子を検出するのに,非常に有用な手段であったといえる.

 植物は防衛物質として様々なテルペン類を合成する事が知られており,それに関する様々な遺伝子が同定され,生合成経路も明らかにされている.しかし動物においては,キクイムシが集合フェロモンの成分として,モノテルペンを合成しているという報告があるのみで,防衛物質としてのテルペン合成の報告はない.本研究では,額腺分泌物に関わる分子生物学的な研究により,シロアリ自身がテルペン類を合成しているという情況証拠を得る事ができた.

 化学的防衛を行う高等なシロアリでは,植物同様にテルペン類を防衛物質として利用するために,その生合成経路を獲得してきたと考えられる.本研究で得られた遺伝子は,高等なシロアリのみで,化学的防衛行動の獲得と共に進化してきたものであると考えられるが,祖先的なシロアリでは一次代謝に用いられている可能性が高い.これらの遺伝子のシロアリ系統内での分子系統解析を行うことにより,シロアリの化学的防衛行動の進化について考察できるであろう.またシロアリの額腺は,社会性特異的に獲得されてきた器官であり,カースト分化獲得の進化といった,昆虫における社会性の進化についての考察に貢献することができるであろう.

審査要旨 要旨を表示する

 高等シロアリの兵隊では,形態的,機能的に特殊化した額腺を保有し,天敵が忌避する物質を放出して化学的防衛を行う。このような分泌物質の成分としてテルペン類が多く知られており,それらは外敵に対する防衛物質としてだけでなく,コロニーの社会性制御のためのフェロモン物質としても重要であると考えられている。しかし,それらの生合成の経路に関してはほとんど未解明であり,シロアリの化学的防衛に関する分子生物学的な研究も皆無である。

 そこで、本論文では,テングシロアリ亜科・タカサゴシロアリの兵隊カーストにおける額腺分泌物に関わった遺伝子を特定する事に焦点をあて、頭部におけるタンパク質およびmRNAを調べ,兵隊頭部で特異的に発現する遺伝子の同定を試みている。本論文は3章から構成されている。

 第1章では,額腺の貯蔵嚢に含まれるタンパク質を詳しく調べるために,兵隊およびワーカーの頭部からタンパク質を抽出し,SDS-PAGE法により分離,比較を行っている。いくつかの兵隊特異的バンドを検出していて、その内,最も存在量の多かった約26kDaのバンドを切り出し,プロテインシークエンサーにてN末の部分アミノ酸配列を決定している。さらに、RACE法により,このタンパク質をコードする遺伝子のクローニングを行っている。その結果,このタンパク質はN末端に20残基の疎水性のシグナルペプチドと思われる配列がついており,幼若ホルモン結合タンパク質など,昆虫の疎水性のリガンドに結合し輸送するタンパク質などと配列の類似性が見られた。また,同定された遺伝子はノーザンハイブリダイゼーションでも兵隊特異的に強く発現していることを認めている。さらに,兵隊頭部を,額腺を含む頭部背側,脳,食道下神経節を含む頭部腹側,および触角の4つの部位に分け,それぞれから抽出したタンパク質をSDS-PAGEで分離,比較を行っている。その結果,目的のタンパク質は額腺を含む頭部背側のみに含まれていることを明らかにしている。また,in situハイブリダイゼーションによりmRNAの局在を調べ,額腺分泌物質の貯蔵嚢を形成しているクラス1の腺細胞で構成された一層の分泌上皮でシグナルを検出していて、これらの細胞で樹脂性のジテルペンが合成されていると考察している。

 第2章では,兵隊およびワーカーの頭部からRNAを抽出し,それをもとにcDNAを合成し,ディファレンシャルディスプレイ法(DD法)を用いて,兵隊頭部で特異的に発現する遺伝子のスクリーニングを行っている。20プライマーセットでPCRを行い、兵隊とワーカーで電気泳動パターンを比較した結果,兵隊の全バンド数のうち約7%のバンドが兵隊特異的であり,大顎型の兵隊を持つオオシロアリでの結果(約1%)よりも大きい値であった。その後,切り出し可能な兵隊特異的バンドからDNA断片を抽出し,サブクローニングし塩基配列の決定を行い,21候補の配列を得ている。それらについて定量的RT-PCRによりDD法の擬陽性の確認を行い,8候補のみで明確な差が認められている。額腺型兵隊を持つタカサゴシロアリが,大顎型兵隊を持つオオシロアリに比べて兵隊特異的に発現する遺伝子が多かったことから,化学的防衛を行うタカサゴシロアリの兵隊は,ワーカーと比べて,形態のみならず遺伝子発現レベルでも特殊化していると考察している。

 第3章では,DD法で得られた兵隊特異的に発現する遺伝子候補のうち,定量的RT-PCRで最も差が大きかった候補について,RACE法により遺伝子の全長配列の決定を行っている。結果として,2種類の選択的スプライシングによって得られた転写産物と考えられる配列を得ている。さらに,この両転写産物の共通配列部分を用いてプローブを作製し,ノーザンハイブリダイゼーションを行い,兵隊頭部のみで2本のバンドを得ている。この遺伝子がコードするタンパク質は,一部の動物や多くの植物に見られるゲラニルゲラニル2燐酸合成酵素(GGPPS)と高い相同性を得ている。動物ではジテルペン合成に関わるGGPPSの報告は今までになく,合成されたGGPPは細胞増殖や分化,細胞骨格形成などに重要なプレニル化タンパク質を合成するのに用いられているので、重要な発見である。

 植物においては防衛物質として様々なテルペン類を合成する事が知られており,それに関する様々な遺伝子が同定され,生合成経路も明らかにされている。しかし動物においては,キクイムシが集合フェロモンの成分として,モノテルペンを合成しているという報告があるのみで,防衛物質としてのテルペン合成の報告は今までなく、本論文での,額腺分泌物に関わる分子生物学的な研究により,シロアリ自身がテルペン類を合成しているという証拠を得る事ができ、重要な発見である。

 したがって、博士(学術)の学位を授与できると認める。

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