学位論文要旨



No 119871
著者(漢字) 小野,祐樹
著者(英字)
著者(カナ) オノ,ユウキ
標題(和) チオオキサラト配位子を用いた鉄混合原子価錯体における分子磁性のメスバウアー分光研究
標題(洋) Study on the molecular magnetism of thiooxalato-bridged iron mixed valence complexes by means of 57Fe Mossbauer spectroscopy.
報告番号 119871
報告番号 甲19871
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第575号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小島,憲道
 東京大学 教授 下井,守
 東京大学 助教授 錦織,紳一
 東京大学 助教授 松尾,基之
 東京理科大学 理学部教授 山田,康洋
内容要旨 要旨を表示する

1.序

 金属イオンのスピン状態がスピンクロスオーバー領域にある集積型混合原子価錯体では、電荷移動転移とスピンクロスオーバー転移が連動した特異な相転移を起こす可能性を持っており、従来のスピンオーバー現象を超える新現象が期待される。このような観点から、非対称な配位子dithiooxalato(dto) を架橋とする鉄混合原子価錯体(n-C3H7)4N[FeIIFeIII(dto)3]が合成された。この物質の構造は単結晶構造解析から、非対称な配位子dtoを架橋としてFeIIとFeIIIが交互に結合し、2次元蜂の巣構造をとることが分かっている。(n-C3H7)4N[FeIIFeIII(dto)3]はTc = 7 Kの強磁性体であるが、120 K付近でFeのスピン状態が高温相:FeII(S = 2),FeIII(S = 1/2)から低温相:FeII(S = 0),FeIII(S = 5/2)の状態へと変化する電荷移動相転移が起こる(図 1)これはFeIIからFeIIIへと電子が移動しスピン状態が変化するスピンと電荷の連動した新しい型の相転移である。(n-C3H7)4N[FeIIFeIII(dto)3]で発見された新しい型の相転移である電荷移動相転移および強磁性転移の発現機構を解明するため、磁性を中心とした電子物性について、57Fe Mossbauer分光法を中心とした種々の物性測定を行なった。

2.(n-C3H7)4N[FeIIFeIII(dto)3]の電荷移動相転移

 鉄混合原子価錯体におけるMossbauerスペクトルでは、FeII,FeIIIそれぞれのスペクトルが交じり合い帰属が難しい。そのため片方のサイトのみを57Feに置換した錯体を合成し、そのスペクトルを調べた。この錯体では、試料の合成段階において、配位子の連結異性化とエントロピー効果による電子の移動により、合成中にFeIIからFeIIIへの電子移動がおこり、FeIIまたはFeIII片方のみを57Feで完全に置換した錯体のMossbauerスペクトルを得ることが難しいことが判明した。そこで、合成条件を制御することによりFeII、FeIIIそれぞれのMossbauerスペクトルの分離に成功した。FeII,FeIIIのそれぞれのサイトを57Feに置換した別々な化合物(n-C3H7)4N[57FeIIFeIII(dto)3]と(n-C3H7)4N[FeII 57FeIII(dto)3]のMossbauerスペクトルを図2に示す。電荷移動相転移前後においてスペクトルが大きく変化し、鉄イオンの原子価状態が大きく変化していることがわかる。スペクトルの帰属については、強磁性転移温度以下のスペクトルの分裂幅がFeIII(S = 5/2)ではおよそH = 450 kGと典型的な分裂幅を持つこと、非磁性であるFeII (S = 0)では分裂が起きないことからも確認できる。このように混合原子価状態でスペクトルの重なり合う化合物において、57Feをサイト置換することによって価数の異なるサイトの原子価状態を別々に明らかにすることができた。また、磁気整列したスペクトルの解析から、Feスピンは[FeIIFeIII(dto)3]の2次元平面内に配向していることが明らかになった。電荷移動相転移は完全には起らず、約20%の高温相が低温でも残留していることが確認された。

3.(n-CnH2n+1)4N[FeIIFeIII(dto)3]における圧力下の電荷移動相転移と強磁性の挙動

(n-CnH2n+1)4N[FeIIFeIII(dto)3]において、陽イオン(n-CnH2n+1)4N+は、[FeFe(dto)3]-∞で構成される2次元ネットワーク面同士の層間に、4本あるアルキル鎖のうち1本を蜂の巣格子に伸ばす形で存在している。2次元の層と層の間隔を広げる目的で、この炭素数をn = 3 〜 6に増やすと強磁性相転移温度が7 〜 25 Kまで上昇する傾向がみられた。(n-CnH2n+1)4N[FeIIFeIII(dto)3] (n = 3 〜 6)におけるMossbauerスペクトルを図3に表わした。n = 3,4では200 Kから77 Kの間でスペクトルが大きく変化していることから電荷移動相転移が起こっており、低温相のスピン状態が強磁性相転移を起こす。この場合、FeIIの低スピン状態が非磁性であるため、転移温度は低い。n = 3,4で見られる強磁性相互作用はFeIII (S = 5/2) - dto - FeII (S = 0) - dto - FeIII (S = 5/2) を介した非常に弱い超交換相互作用ではなく、FeIIとFeIII間の電荷移動相互作用が寄与しているものと考えられる。即ち2次元平面内の電子の非局在化が強磁性整列を促している。一方、電荷移動相転移が起こさないn = 5,6では、n = 3,4の高温相に対応するスピン状態が強磁性相転移を起こすために19 K,25 Kと高い転移温度をもつ。この強磁性相互作用としてはFeIIとFeIIIの間に働く電荷移動相互作用のみならず、FeIIIのt2g軌道にあるupスピンがFeIIのupスピン間にはたらくポテンシャル交換による強磁性相互作用が働いているものと考えられる。n = 4では7 Kと13 Kに強磁性転移温度が観測された。Mossbauerスペクトルの温度変化から、これは電荷移動相転移のあとも残留した高温相が13 Kで強磁性転移を示し、7 Kで低温相が転移するという二相共存状態をとっている事が明らかになった。

4.(n-C3H7)4N[FeIIFeIII(dto)3]における高圧力下の電荷移動相転移の挙動

 図3 (a)に圧力下での電荷移動相転移温度と強磁性転移温度の関係図を示す。(n-C3H7)4N[FeIIFeIII(dto)3]では電荷移動相転移のヒステリシスの幅が圧力に比例し、高温側へシフトすることが観測された。またこの時、強磁性転移温度は変化をしない。この電荷移動相転移のシフトが1.0 GPa以上でも圧力に比例すると仮定すると、室温において1.5 ~ 2.2 GPa付近で電荷移動相転移が起こり、それ以上の圧力下では室温において低温相(LTP)が安定化すると考えられる。そこで放射光を用いた高圧下核前方散乱(NFS)実験により圧力による電荷移動相転移の挙動を調べた。放射光を用いることにより少量のサンプルに高圧力をかけ鉄のスピン状態を明らかにすることが出来る。

図3 (b)に圧力を変化させた核前方散乱(NFS)スペクトルを示す。常圧(0 GPa)から3 GPaに加圧することによりスペクトルの波形が大きく変化しており、鉄のスピン状態が大きく変化していることから、室温での圧力誘起電荷移動相転移が観測されたことを示唆している。

5.Monotiooxalato錯体の物性

配位子におけるSの電子雲の広がりは金属間相互作用に重要な影響を与える。そこで新規物質であるmonothiooxalato錯体(n-CnH2n+1)4N[FeIIFeIII(dto)3]を合成し、その物性を調べた。その結果、これらの錯体はネール温度がn = 3では38 K、 n = 4では41 Kのフェリ磁性体であった。Mossbauerスペクトルにおける四極子分裂の大きさから、dithiooxalato錯体と比較して非常に大きな構造的歪みをもっている。

図 1 (n-C3H7)4N[FeIIFeIII(dto)3]における電荷移動相転移の機構

図2 57Fe置換した(n-C3H7)4N[FeIIFeIII(dto)3]のMossbauerスペクトル

図3 (n-CnH2n+1)4N[FeIIFeIII(dto)3] (n = 3 〜 6)のMossbauerスペクトル

図4.(a) (n-C3H7)4N[FeIIFeIII(dto)3]における電荷移動相転移温度と強磁性転移温度の圧力変化図 TCT↑,TCT↓:電荷移動相転移のヒステリシスの上限、下限,TC: 強磁性転移温度 ; (b) (n-C3H7)4N[FeIIFeIII(dto)3]の高圧下NFSスペクトル

審査要旨 要旨を表示する

 金属イオンのスピン状態がスピンクロスオーバー領域にある集積型混合原子価錯体では、電荷移動転移とスピンクロスオーバー転移が連動した特異な相転移を起こす可能性を持っており、従来のスピンクロスオーバー現象を超える新現象が期待される。近年、このような観点から非対称な配位子であるdithiooxalato (dto)を架橋とする鉄混合原子価錯体 (n-C3H7)4N[FeIIFeIII(dto)3]が合成され、この物質において、スピンと電荷が連動して発現する電荷移動相転移と呼ばれる新しい型の相転移が発見された。この電荷移動相転移は孤立した金属錯体で起こる通常のスピンクロスオーバー転移とは異なり、2サイト間を介した高スピン−低スピン転移といえる。さらに低温の7KではFeIIが非磁性であるにもかかわらず約10-ÅはなれたFeIII(S = 5/2)スピン同士が強磁性的に整列するが、この強磁性発現にはFeII−FeIII間の電荷移動相互作用が大きく関わっているものと考えられ、注目されてきた。

 本論文は、スピンクロスオーバー領域に位置する鉄混合原子価錯体 (n-CnH2n+1)4N [FeIIFeIII(dto)3](n = 3 - 6)を合成し、その結晶構造を解明し、メスバウアー分光法を重要な手段として磁性を中心とした電子物性について系統的な研究を行うことにより、この系において発現する電荷移動相転移、および超交換相互作用では説明できない強磁性の発現機構を解明したものである。また、放射光を用いた高圧力下でのスピン状態の解明や、新しいオキサラト錯体として新規物質であるmonothiooxalato(mto)を架橋とする鉄混合原子価錯体(n-C3H7)4N[FeIIFeIII(mto)3]の合成方法および磁性について解析を行い、この系における研究領域を広げている。本論文は8章で構成されている。

 第1章では、本研究における背景として、関連分野における重要性と位置付について述べている。

 第2章では、(n-CnH2n+1)4N[FeIIFeIII(dto)3] (n = 3 - 6)および(n-CnH2n+1)4N[FeIIFeIII(mto)3] (n = 3,4)の合成方法について記述している。特にmto配位子を用いた錯体は、試料の安定性が低いことから合成の報告がほとんどないが、申請者は合成に成功し、物性測定を行なっている。

第3章では、(n-C3H7)4N[CoIIFeIII(dto)3]の詳細なX線構造解析の結果を報告している。X線構造解析の結果、(n-C3H7)4N[CoIIFeIII(dto)3]は、非対称な配位子dtoを架橋としてCoIIとFeIIIが交互に結合した2次元蜂の巣構造[CoIIFeIII(dto)3]∞を形成し、この2次元層はカチオン層(n-C3H7)4N+をはさんで交互に積層した構造をもつことを初めて明らかにした。(n-C3H7)4N[CoIIFeIII(dto)3]の構造解析に成功したことから、類似の(n-C3H7)4N[FeIIFeIII(dto)3]においても同様の構造を持つことが粉末X線回折との比較により明らかになった。

 第4章では、 (n-CnH2n+1)4N[FeIIFeIII(dto)3] (n = 3 - 6)の磁性およびメスバウアー分光法によるスピン状態の解析を行っている。(n-C3H7)4N[FeIIFeIII(dto)3]において、鉄混合原子価錯体におけるメスバウアースペクトルでは、FeII,FeIIIそれぞれのスペクトルが交じり合い帰属が難しい。そのため片方のサイトのみを57Feに置換した錯体を合成し、そのスペクトルを調べている。この錯体では、試料の合成段階において、配位子の連結異性化とエントロピー効果による電子の移動により、合成中にFeIIからFeIIIへの電子移動がおこることを見出し、さらに合成条件を制御することにより57Feをサイト置換することによって価数の異なるサイトの原子価状態を別々に明らかにすることに成功している。

 (n-CnH2n+1)4N[FeIIFeIII(dto)3] (n = 3 〜 6)のメスバウアースペクトルにおいて、n = 3,4では200 Kから77 Kの間でスペクトルが大きく変化していることから電荷移動相転移が起こっており、低温相のスピン状態が強磁性相転移を起こすことを明らかにしている。また、n = 3,4で見られる強磁性相互作用はFeIII (S = 5/2) - dto - FeII (S = 0) - dto - FeIII (S = 5/2) を介した非常に弱い超交換相互作用ではなく、FeIIとFeIII間の電荷移動相互作用が寄与しているものと結論づけている。一方、電荷移動相転移が起こさないn = 5,6では、n = 3,4の高温相に対応するスピン状態が強磁性相転移を起こすために19 K,25 Kと高い転移温度をもつが、この強磁性相互作用としてはFeIIとFeIIIの間に働く電荷移動相互作用のみならず、FeIIIのt2g軌道にあるupスピンがFeIIのupスピン間にはたらくポテンシャル交換による強磁性相互作用が働いているものと結論づけている。また、磁気整列したスペクトルの解析から、Feスピンは[FeIIFeIII(dto)3]の2次元平面内に配向していることを明らかにしている。

 第5章では、(n-CnH2n+1)4N[FeIIFeIII(dto)3] (n = 3,5) において、高圧力下核前方散乱(NFS)メスバウアー分光測定を行い、電荷移動相転移の圧力依存性を調べている。圧力を変化させた核前方散乱(NFS)スペクトルの解析から、常圧(0 GPa)から3 GPaに加圧することによりスペクトルの波形が大きく変化しており、室温において圧力誘起電荷移動相転移が実現しているものと結論づけている。さらに本来電荷移動相転移の生じない化合物である(n-C5H11)4N[FeIIFeIII(dto)3]においても、0.5 GPa以上の圧力下では電荷移動相転移が生じ、3GPaで圧力誘起電荷移動相転移と見られるスピン状態の変化を観測している。

 第6章では、(n-CnH2n+1)4N[FeIIFeIII(mto)3] (n = 3,4)の合成とその分子磁性についてまとめられている。配位子におけるSの電子雲の広がりは金属間相互作用に重要な影響を与える。そこで新規物質である (n-CnH2n+1)4N[FeIIFeIII(mto)3](mto = monothiooxalato)を合成し、その物性を調べている。その結果、これらの錯体はネール温度がn = 3では38 K、 n = 4では41 Kのフェリ磁性体であることを明らかにしている。

 第7章では、X線吸収微細構造(EXAFS)により、試料中における鉄原子の電子状態および局所構造を明らかにしている。(n-CnH2n+1)4N[FeIIFeIII(dto)3]においては相転移前後の構造変化を調べた結果、XANES測定によるとFe核におけるスピン状態は大きく変化しているにも関わらず、EXAFS測定からは構造変化が極めて小さいことを報告している。この結果は、電荷移動相転移点で格子振動に由来するエントロピー変化が極めて小さいという比熱測定の結果と良く一致している。即ち、比熱の測定結果では、電荷移動相転移点で観測されたエントロピーは9.20JK-1mol-1 であり、そのうち低温相と高温相のスピンエントロピーの差は、4.25JK-1mol-1で約半分を占めている。したがって格子振動からくるエントロピーは典型的なスピンクロスオーバー錯体にくらべて非常に小さく、電荷移動相転移はスピンエントロピーを駆動力とする相転移であると結論している。

 第8章では、第3章から第7章にわたる種々の実験結果に基づいて、(n-CnH2n+1)4N [FeIIFeIII(dto)3](n = 3 - 6)における電荷移動相転移および強磁性の発現機構を明らかにしている。電荷移動相転移の発現機構に関しては次のように結論づけている。即ち、n = 3,4では、常圧下T = 0 Kの条件下で低温相の自由エネルギーが高温相よりも低いために、有限温度で高温相エネルギーと低温相エネルギーの交差が起こり、電荷移動相転移は有限温度で観測される。さらに圧力をかけると、圧力に比例して低温相の自由エネルギーが低くなるために電荷移動相転移が高温で観測される。一方n = 5,6では、常圧下では低温相の自由エネルギーが高温相よりも高いために高温相の自由エネルギーと低温相の自由エネルギーの交差が起きず電荷移動相転移が観測されない。静水圧をかけると圧力に比例して低温相の自由エネルギーが低くなるために、有限温度で高温相の自由エネルギーと交差し、圧力誘起電荷移動相転移が観測されると説明している。次に強磁性の発現機構については、次のように結論づけている。即ち、n = 3 ,4で見られる強磁性相互作用はFeIII (S = 5/2) - dto - FeII (S = 0) - dto - FeIII (S = 5/2) を介した超交換相互作用ではなく、FeIIとFeIII間の電荷移動相互作用が寄与しているものであり、電荷移動相転移が起こらないn = 5,6では、n = 3,4の高温相に対応するスピン状態が強磁性相転移を示すため、強磁性相互作用はFeIIとFeIIIの間に働く電荷移動相互作用および軌道の直交性に基づく直接交換相互作用に基づくものと結論づけている。

 以上のように、本論文は、スピンクロスオーバー領域に位置する鉄混合原子価錯体 (n-CnH2n+1)4N[FeIIFeIII(dto)3](n = 3 - 6)を合成し、その結晶構造を解明し、磁性を中心とした電子物性についてメスバウアー分光法を主要な手段として系統的な研究を行うことにより、この系において発現する電荷移動相転移、および超交換相互作用では説明できない強磁性の発現機構を解明したものであり、分子磁性をはじめとする関連分野への貢献は多大なものがある。なお、本論文中の研究は、総ての章にわたって論文提出者が主体となって行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断できる。

 よって、本論文は博士(学術)の学位申請論文として合格と認められる。

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