学位論文要旨



No 119876
著者(漢字) 藤原,宗賢
著者(英字)
著者(カナ) フジワラ,トシカツ
標題(和) サリチリデンアニリン類のクロミズム
標題(洋)
報告番号 119876
報告番号 甲19876
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第580号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 小川,桂一郎
 東京大学 教授 菅原,正
 東京大学 教授 小島,憲道
 東京大学 助教授 尾中,篤
 東京大学 助教授 村田,滋
内容要旨 要旨を表示する

 クロミズムとは物質の色が物理的刺激により可逆的に変化する現象の総称である.物理的刺激が,光ならばフォトクロミズム,温度の変化であればサーモクロミズムという.クロミズムは色変化という現象の面白さのために古くから多くの化学者の興味を引きつけてきた.また,機能性材料への応用の観点からも注目されている.本研究で取り上げたサリチリデンアニリン(SA)類は,サーモクロミズムとフォトクロミズムを示す代表的な化合物群の一つであり,そのクロミズムの発現機構については,古くから多くの研究がおこなわれている.ところが,よく調べてみると,これまでわかったとされていたクロミズムの機構には,再検討する必要のあることがわかってきた.

 SA類のサーモクロミズムとフォトクロミズムについては,1960年代にCohenとSchmidtらが基本的な枠組みを打ち立て,それが今日まで受け入れられている.それによると,SA類のサーモクロミズムはenol体とcis-keto体の互変異性平衡(式(1))の移動に起因する.一方,フォトクロミズムは,光励起されたenol体からtrans-keto体が生成することに起因する(式(2)).また,ある結晶はサーモクロミズムとフォトクロミズムのどちらか一方しか示さず,両クロミズムは排他的であるとした.

 筆者は本論文において,紫外可視吸収スペクトル,拡散反射スペクトル,蛍光スペクトルおよびX線結晶解析の結果にもとづいて,SA類のクロミズムの発現機構について,新たな解釈を提示する.

フォトクロッミックサリチリデンアニリン類のクロミズム(第二章)

 フォトクロミックなSA(1)の粉末(薄黄色)は77 Kに冷却すると,ほぼ無色に変化することを見出した(図1).拡散反射スペクトルを測定したところ[図2(a)],温度の低下にともなって380‐540 nmの領域の反射率の増大が認められた.この反射率の温度変化は観測された色変化に対応している.NaClで希釈した試料のKubelka-Munkスペクトルでは,cis-keto体に帰属される吸収帯(B)(λmax=443 nm)が認められ,その強度が温度の低下とともに減少した[図2(b)].これより,フォトクロミックな1の結晶中には微量のcis-keto体が混在し,これが温度の低下とともに減少することがわかった.この結果から,これまで黄色と信じられてきたenol体は実は無色であることが明らかになった.また,フォトクロミックなSA類は実はサーモクロミックでもあることがわかった.これまで,SA類結晶のサーモクロミズムとフォトクロミズムは排他的であって,ある結晶はどちらか一方しか示さないとされてきたが,そのような排他性は存在しないことが明らかになった.

サリチリデンアニリン類結晶の蛍光サーモクロミズム(第三章)

 これまで,SA類のサーモクロミズムは互変異性平衡(式1)の移動が原因であるとされてきた.ところが,それによっては色変化が説明できない例が当研究室で見出された.3の結晶中では,cis-keto体がenol体よりも多く存在し,温度の低下とともにその割合が増大することがX線結晶解析により明らかにされている. 紫外可視吸収スペクトルではcis-keto体の吸収帯の強度が,温度の低下とともに増大する.このため,温度の低下とともに赤みが増すと予想されるが,実際にはオレンジ色(室温)から黄色(77 K)に変化した.この色変化は,cis-keto体の増加を考えただけでは説明できない.筆者は,この色変化が蛍光強度の温度変化を考えることによって初めて説明できることを見出した.

 3の粉末は黄緑色の蛍光を発し,その強度は温度の低下とともに著しく増大する(図3).蛍光量子収率は室温で0.02,80 Kで0.22であった.したがって,3の粉末が低温で黄色を示すのは,蛍光が吸収の効果を凌駕したためであると考えられる.すなわち,3ではプロトン互変異性平衡の移動は起こっているが,色変化を支配しているのは,平衡の移動ではなく蛍光強度の変化であることがわかった.

 他のサーモクロミックSA類である4と5の色変化も蛍光強度の変化に支配されていることがわかった.

ニトロサリチリデンアニリン類結晶のプロトン互変異性(第四章)

 SA類は孤立分子としては,enol体がcis-keto体よりもはるかに安定であり,結晶中においても通常は,平衡はenol体に片寄っている.しかし,分子間に水素結合が存在する場合には,それによってcis-keto体が安定化されるために,平衡はcis-keto体に片寄る.これに対して,筆者はニトロ置換体6の結晶中では,分子間水素結合が存在しないにもかかわらず,cis-keto体とenol体がほぼ同程度の割合で存在していることを見出した.そこで,今回,7-9についてX線結晶解析を行ったところ,いずれにおいても,分子間水素結合が存在しないにもかかわらずcis-keto体が約30%も存在することがわかった.すなわち,これらのニトロ置換体の結晶においてもcis-keto体が著しく安定化されていることがわかった.また,結晶内に平衡が存在するにもかかわらず,enol体とcis-keto体の存在割合は温度を変えてもほとんど変化を示さなかった.これは温度の変化にともなって分子間相互作用が変化するために,enol体とcis-keto体の相対的安定性が変化するためであると考えられる.

 紫外可視吸収スペクトルから,DMSO溶液中においてもenol体とcis-keto体が混在していることがわかった.微結晶粉末のKubelka-Munkスペクトルを測定したところ,DMSO溶液のスペクトルとよく似た形状のスペクトルが得られた.このことは,これらの化合物の結晶中における互変異性平衡は,DMSO中と同じような状態にあることを示しており,結晶の中はDMSO溶液中と同じように極性の大きい環境であると考えることができる.このような極性の大きい結晶中では,双極イオン構造の寄与の大きなcis-keto体が,結晶中の静電相互作用により安定化されることがわかった.

溶液中でのサリチリデンアニリン類のサーモクロミズム(第五章)

 SA類はこれまでサーモクロミズムは示さないとされていた.これに対して,筆者は修士課程でSA(1)は飽和炭化水素溶媒溶液中,低温でサーモクロミズムを示すことを見出した.すなわち,1の飽和炭化水素溶媒の紫外可視吸収スペクトルは,室温ではenol体に由来する吸収だけを示すのに対して,低温ではcis-keto体に由来する吸収を可視部に示した.このことは,プロトン互変異性平衡[式(1)]が低温でcis-keto体に片寄ったことを示している.このcis-keto体の安定化は,低温で会合体が形成されることに起因すると考えられる.

 筆者は,本研究において,いくつかのモデル化合物(10-15)を合成して,それらの温度変化紫外可視吸収スペクトルを比較することにより,会合体が図3のような,cis-keto体が結ばれた二量体であると推定した.この二量体では,N-Ph結合の捻れたcis-keto体が逆向きに向かい合い,分子間水素結合を形成している.2つの分子のベンゼン環は,面と縁とが向かい合う形をとっている.このため,3位にtert-ブチル基のような大きな置換基があると,それが向かいのベンゼン環とぶつかるので,二量体が形成されない(化合物10,11).また, N-Ph結合のねじれが制限され,分子全体が平面となっている化合物(14)では,隣接するベンゼン環どうしがぶつかってしまうために,二量体は形成できないと考えられる.この予想通り,10,11,14においてはcis-keto体が観測されなかった.したがって,低温での会合体の構造は図3のような分子間水素結合により結ばれた二量体になっていると考えられる.また,二量体を形成すると,孤立分子と比較してenol体とcis-keto体のエネルギー差が減少することが量子力学計算からわかった.しかしながら,二量体形成だけではenol体とcis-keto体のエネルギー差が逆転するまでには至らない.エネルギー差が逆転するほどcis-keto体が安定化するには,二量体がさらに集まり,より高次の会合体を形成する必要があると考えられる.

図 1 フォトクロミックなSA(1)の室温,77 Kの色

図2. (a) サリチリデンアニリン(1)の温度変化拡散反射スペクトル. (b) 1(NaCl希釈0.1 wt %)のKubelka-Munk関数の温度変化.

図3 3の結晶膜の吸収スペクトル(実線),蛍光スペクトル(点線)

図3 会合体の推定構造

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は,クロミズム(可逆的な色変化)を示す代表的な有機化合物群の一つであるサリチリデンアニリン(SA)類について,そのクロミズムの機構を解明したものである.全体は6章からなり,第1章では導入説明,第2〜4章では結晶のサーモクロミズム,第5章では溶液のサーモクロミズムについて述べられ,第6章が結論となっている.

 第1章では,SA類のサーモクロミズム(温度変化に伴う可逆的色変化)およびフォトクロミズム(光による可逆的色変化)について,これまでに知られている事実を簡潔にまとめるとともに,その機構についての従来の説明を紹介している.そのうえで,従来受け入れられてきた説明が適用できない場合のあることを示し,本論文が一連の現象を統一的に説明する新しい考え方を提供するものであることを述べている.SA類のクロミズムは100年以上にわたって多くの研究が行われてきたテーマであり,本章はそれに対して独自の発想にもとづいく新しい切り口を提示するものとなっている.

 第2章では,フォトクロミックなSA類結晶がサーモクロミズムを示し,それがエノール体とケト体との間のプロトン互変異性平衡の移動に起因することが述べられている.従来,SA類結晶のフォトクロミズムとサーモクロミズムは排他的であって,ある結晶は両クロミズムのどちらか一方しか示さないとされてきたが,本章はそのような排他性は存在せず,フォトクロミックな結晶もサーモクロミックであることを,温度変化拡散反射スペクトル測定にもとづいて明確に示した.それとともに,すべてのSA類結晶はサーモクロミックであり,プロトン互変異性平衡はSA類結晶中ではつねに存在することが明らかになった.また,これまで黄色であると信じられていたエノール体はじつは無色であり,フォトクロミックなSA類の淡黄色はcis-ケト体によるものであることも示された.本章は,SA類のクロミズムについての従来の定説を覆し,現象の正しい理解をもたらしたものといえよう.

 第3章では,これまでによく知られているSA類結晶のサーモクロミズムは,従来のようにプロトン互変異性平衡の移動に伴う光吸収の変化だけを考えたのでは説明できず,蛍光を考慮することによって初めて矛盾なく説明できることを述べている.従来,SA類結晶のサーモクロミズムは,プロトン互変異性平衡の移動に伴う光吸収の変化によるものとされていた.ところが,実際に観測される色変化が光吸収の変化と明らかに矛盾する場合のあることを見いだした.拡散反射スペクトルと蛍光量子収率の温度変化から,SA類結晶のサーモクロミズムは,従来サーモクロミックとされていた結晶では,光吸収ではなく蛍光に支配されていることが明らかになった.一方,フォトクロミックなSA類結晶では,蛍光が弱く,その色変化は光吸収に支配されているが示された.この結果は,SA類結晶のサーモクロミズムに関する従来の定説の誤りを正し,現象の本質を明らかにしたものといえる.

 第4章では,ニトロ置換体結晶のプロトン互変異性について述べられている.SA類は一般に孤立分子としてはエノール体がcis-ケト体よりもはるかに安定で,結晶中においても平衡は通常エノール体に片寄っている.しかし,分子間に水素結合が存在する場合には,それによってcis-ケト体が安定化されるため平衡はcis-ケト体に片寄る.これに対して,ニトロ置換体の結晶では,分子間水素結合がなくてもcis-ケト体が著しく安定化されていることをX線結晶解析によって明らかにした.興味深いことに,エノール体とcis-ケト体の間に互変異性平衡が存在するにもかかわらず,その存在比が温度変化を示さないことがわかり,その原因は,温度の低下とともに分子間相互作用が増大し,両異性体の相対的安定性が変化することにあると論じられている.さらに,cis-ケト体の安定性は分子の置かれている環境により変化し,分子がたんに集まるだけでも安定化されるとの考え方を示している.この考え方は,ニトロサリチリデンアニリン類結晶に限らず,他のSA類の結晶あるいは溶液中低温でcis-ケト体が安定化される現象にも適用できるものであり,プロトン互変異性を理解するための一般的な指針になりうるものである.

 第5章では,溶液中のSA類のサーモクロミズムについて述べられている.従来,SA類は溶液中ではサーモクロミズムを示さないとされてきたが,飽和炭化水素溶媒中では一般にサーモクロミズムを示すことが本章によって明らかになった.すなわち,飽和炭化水素溶媒中では,互変異性平衡が,室温ではほぼ無色のエノール体に片寄っているのに対して,77 Kでは着色体であるcis-ケト体に片寄ることを紫外可視吸収スペクトルから見出している.すなわち,温度の低下によって互変異性平衡の逆転が起こっている.これは,低温で会合体が形成され,そのなかでcis-ケト体が安定化されたものであるものと解釈された.いくつかのモデル化合物の温度変化紫外可視吸収スペクトルを比較することにより,会合体はcis-ケト体2分子が分子間水素結合によって結ばれた二量体であると推定している.本章は,SA類のサーモクロミズムに関する従来の定説を覆しただけでなく,プロトン互変異性平衡の逆転という一般的な課題に迫ろうとしている点からも注目に値する.

 以上のように,本論文は,サリチリデンアニリン類のクロミズムについて,従来見過ごされていた新しい現象を発見し,それにもとづいてクロミズムの機構を統一的に理解する新しい枠組みを与えたものとして,高く評価できる.

 なお,本論文中の第2〜5章の一部は,原田潤氏および小川桂一郎氏との共同研究であるが,論文提出者が主体となって研究を行ったもので,論文提出者の寄与が十分てあると判断する.

 よって,本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる.

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