学位論文要旨



No 119887
著者(漢字) 吉岡,瑞樹
著者(英字)
著者(カナ) ヨシオカ,タマキ
標題(和) K+→π+γγ崩壊の実験的研究
標題(洋) Experimental Study of the Decay K+→π+γγ
報告番号 119887
報告番号 甲19887
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4616号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 福島,正己
 東京大学 助教授 徳宿,克夫
 東京大学 教授 大塚,孝治
 東京大学 教授 黒田,和明
 東京大学 助教授 宮武,宇也
内容要旨 要旨を表示する

 K+中間子の稀崩壊現象であるK+→π+γγの分岐比測定は低エネルギーQCDの有効場理論であるカイラル摂動理論を検証する上で重要である。K+→π+γγ崩壊から来るπ+の運動量分布は高次の補正の有無によりその終点(227MeV/c)付近の分布を大きく変える。本研究はK+→π+γγ崩壊を終点付近で検出することを目的とし、カイラル摂動理論の高次効果の有無を明らかにしようとするものである。

 K+→π+π0;0→γγ(Kπ2)崩壊は終状態がK+→π+γγ崩壊と同一であり、かつその分岐比は21%と大きく、この崩壊に対して主要なバックグラウンドとなる。Kπ2のπ+は単色運動量(205MeV/c)を持つため、これまでの先行実験はKπ2の運動量ピークにより探索領域を2つに分割した。ブルックヘブン国立研究所(BNL)のE787実験はKπ2の運動量ピークより下の領域でK+→π+γγ崩壊を31事象観測した。Kπ2の運動量ピークより上の領域では未だ観測例がなく上限値のみが与えられている。これらの結果はカイラル摂動理論の高次の補正がない場合と矛盾しないものである。E787実験の増強実験であるE949実験はKπ2の運動量ピークより上の領域でK+→π+γγ崩壊を観測することを目的とするトリガーを設置し、2002年に1.2×1012K+トリガーのデータを収集した。このデータから、カイラル摂動理論の高次の補正が存在すれば事象観測が期待される。本論文ではこのデータの解析結果について報告する。

 E949実験はK+中間子の崩壊を静止系で観測する。Alternating Gradient Synchrotron(AGS)加速器で22GeVまで加速した陽子ビームを白金標的に当て、生成した2次粒子より高純度かつ710MeV/cの単色K+ビームを選択し、E949検出器まで導く。K+ビームはビームライン上にある減速材を通った後、検出器の中心にあるターゲットで静止する。ターゲットは、プラスティック・ファイバーの束で構成されており、時間・エネルギー情報より入射K+中間子とその崩壊生成物の識別を行い、K+中間子がターゲット中で静止したことを保証する。E949検出器は荷電粒子の運動学的変数(運動量・飛程・エネルギー)を冗長性に富んで測定することができ、バックグラウンドに対して高い棄却能力を持っている。K+中間子の崩壊によって生じた荷電粒子は、ターゲットを樽状に覆うドリフト・チェンバーにより運動量が測られ、その周りを覆う積層プラスティック・シンチレータ(レンジ・スタック)中で静止し、飛程とエネルギーが測られる。レンジ・スタックでの波形は500MHzトランジエント・ディジタイザーで記録され、π+→μ+→e+崩壊連鎖を検出することにより、荷電粒子がπ+であることを同定する。E949検出器の全立体角は光子検出器で覆われている。レンジ・スタックを覆うバレル領域にあるサンプリング・カロリメータ(バレル・ベトー・ライナー、バレル・ベトー)で光子の再構成を行う。K+`→π+γγ崩壊の終点付近では運動学により2つの光子のなす角度が小さく、検出器の位置分解能により1つのクラスターとして再構成される(モンテカルロらシミュレーションによるとこの割合はおよそ50%)。本研究では再構成された光子が1つである事象も信号として同定し、アクセプタンスの向上を図った。その他の光子検出器は、他のK+崩壊に伴う光子や偶発的なヒットが同時計測された事象を排除するために用いられる。

 今回収集されたデータから期待される信号事象は少数統計であるため、バックグラウンドのメカニズムを理解し、バックグラウンド・レベルを信号事象の感度より十分低く抑えることが重要となる。本研究ではバックグラウンドをそのメカニズムにより分類し、「二股分割法(Bifurcation Method)」によりバックグラウンド・レベルを評価した。この方法では、評価しようとしているバックグラウンドに対して高い排除効率を持つ独立した2つの選択条件を用意する。一方の選択条件により「排除されない」事象を集めることにより、高統計のバックグラウンド・サンプルを実データを用いて作ることができ、他方の排除効率を精度良く求めらることができる。探索領域におけるバックグラウンド・レベルは選択条件の独立性を仮定して、その掛け合わせにより推測することができる。この方法の利点は、実データを用いてバックグラウンド予測ができることにあり、これによりモンテカルロ・シミュレーション中では考慮されていない稀なバックグラウンド事象やデータ収集中のハードウェアの問題に起因するバックグラウンド事象を正しく見積もることができる。二股分割法において重要な点は、2つの選択条件が独立であるという前提である。

探索領域の外側でのバックグラウンドの分布は、二股分割法で用いた選択条件を緩めていくことにより特徴付けられる(バックグラウンド関数)。バックグラウンド関数の予測と探索領域の外側で実際に観測された事象数を比較することにより選択条件の独立性が確認される。

 Kπ2バックグラウンドを例にとると、Kπ2崩壊の運動量・飛程・エネルギーは単色の値をとるため信号と区別する良い変数である。また、運動学により2つの光子のなす角度はK+→π+γγ崩壊とKπ2崩壊では異なる。これらの選択条件を用い、二股分割法によりバックグラウンド・レベルは0.017土0.006事象と算出された。荷電粒子の運動学的変数と光子に関する変数の各々についてバックグラウンド関数を作り、その独立性が確認された。

 この他に、Kπ2崩壊中のπ0から来る低エネルギー光子が荷電粒子にオーバーラップする事象(オーバーラッピング・フォトン・バックグラウンド)、光子を伴ったμ+への崩壊事象(ミュオン・バックグラウンド:K+→μ+νγ、K+→π0μ+ν)がバックグラウンドとなり得る。オーバーラッピング・フォトン・バックグラウンドに対しては、荷電粒子の運動学的変数とレンジ・スタック中でのdE/dxが選択条件として用いられ、バックグラウンド・レベルは0.065土0.065事象と算出された。ミュオン・バックグラウンドにおいては、荷電粒子の運動学的変数と、トランジエント・ディジタイザーの波形解析による変数が用いられ、バッググラウンド・レベルは0.090±0.020事象と算出された。K+中間子の崩壊によるバックグラウンドの他に、入射ビームに起因したバックグラウンドが考えられる;K+中間子がターゲット中で静止する前に崩壊する事象(シングル・ビーム・バックグラウンド)や検出器中でのK+中間子の計測時間と崩壊生成物の計測時間が2つの入射粒子により別々に作られる事象(ダブル・ビーム・バックグラウンド)などが挙げられる。これらのバックグラウンドに対しては、ターゲットやビームライン中での計測時間情報が用いられ、シングル・ビーム・バックグラウンドに対しては0.025圭0.014事象、ダブル・ビーム・バックグラウンドに対しては上限値0.006(90%C.L.)事集のバックグラウンド・レベルを得た。以上、5つのバックグラウンドに対して探索領域における全バックグラウンドの合計は0.197士0.070事象と見積もられた。

 全バックグラウンドが十分低く抑えられたことが確認された後、信号の探索が行われた。全選択条件をデータに課した後、探索領域に残った事象を信号と同定する。今回収集したより、探索領域に事象は観測されなかった(図1参照)。各選択条件のアクセプタンスはバックグラウンド予測と同様に実データを用いて求められ、モンテカルロ・シミュレーションはトリガーアクセプタンスなど他に手段が無いものにのみ用いた。全選択条件のアクセプタンスは1.550±0.034×10-4と算出された。K+中間子のターゲット中での静止効率はk+→π+γγトリガー中のKπ2事象を用いて測定され、0.7541±0.0242と算出された。以上の計算結果と探索領域の0事象の変わりに2.44事象を用いて、π+の運動量領域213MeV/c以上でのK+→π+γγ崩壊分岐比に対する上限値

Bγ(K+→π+γγ,Pπ+>213MeV/c)<9.08×10-9(90%C.L.)

を得た。これはカイラル摂動理論の高次補正の予言値6.10×10-9と矛盾しない結果となった。

図1:(左)全選択条件を課した後の荷電粒子の飛程・エネルギー分布。探索領域は図中の箱で示されている。エネルギー110MeVに固まっている事象は排除されずに生き残ったKπ2事象。(右)モンテカルロ・シミュレーションによるK+→π+γγ事象。

審査要旨 要旨を表示する

米国ブルックヘブン国立研究所のE949実験では、AGS陽子加速器から得られる710 MeV/c のK+ビームを検出器中心の標的中で静止させ、その周りを隙間なく取り囲んだ荷電粒子・ガンマ線検出器を用いてK+の稀崩壊過程を検出する。本論文の実験では、特にK+ → π+γγ崩壊過程を同定して、その分岐比とπ中間子のスペクトラムから、低エネルギーでのQCD有効場理論であるカイラル摂動理論を検証する。先行実験E787からπ中間子の高エネルギー領域でのデータ採取効率を改善し、データ採取量を大幅に増加して、摂動の高次項からの寄与が大きく、その値が現象論的パラメータの値によらない運動量領域(p > 213 MeV/c)において測定を行った。

本論文は全6章からなる。第1章では、実験の目的を述べ、カイラル摂動理論による理論計算を概観する。また先行するE787実験が、カイラル摂動理論の予測するπ+中間子の特異な運動量スペクトラムを確認したことを述べる。第2章ではE949実験が使用するK+ビームの性質と、それを作り出すビームライン要素について記述し、主要な検出器要素である標的・ドリフトチェンバー・レンジスタック・光子検出器について説明する。本実験では、二股分割法(bifurcation method)によるデータ解析を可能にするべく、検出器に十分な冗長性(redundancy)を持たせた設計を行っている。これによって、競合する背景雑音過程(background process)を効果的に排除して、極めて稀な崩壊過程を同定することが可能になった。また、著者の開発したPLD素子を用いた電子回路を使用することで、K+ → π+γγ過程をオンラインで選択する複雑なトリガーが可能になった。

第3章では、K中間子の静止点・荷電粒子軌跡・光子クラスターの再構成を行い、粒子種の弁別や運動学的パラメータを決定するデータ解析の方法について述べている。また、考え得る背景雑音過程とその排除の方法について考察する。分岐比の極めて小さい崩壊過程に対する背景雑音過程からの寄与を評価する為には、互いに独立な一組のカットを選び、一方の条件(の反転)によって背景雑音事象を同定し、そのデータサンプルを用いて他方のカット効率を評価する二股分割法が有効であることが説明される。また、正しい統計的解釈を行うために、カット条件の決定と事象選択を全く独立させる盲目解析(blind analysis)を行う旨が述べられる。第4章では、Kπ2崩壊・Kμ2崩壊・光子重畳などからの寄与を二股分割法によって評価し、その信頼度の基準となるカット条件の独立性を検証する。カイラル摂動理論の高次項から期待されるK+ → π+γγ事象数1.6に対して、背景雑音過程からの寄与の合計は0.197 ± 0.07事象であると判定された。

第5章では、盲目条件を解き、結果としてK+ → π+γγの選択条件を満たす事象が存在しなかったことを伝える。検出器アクセプタンスなどの評価を加え、π中間子運動量が213 MeV/c を超える領域でのK+ → π+γγ崩壊分岐比の上限が9.08 × 10−9(90% CL)であるとの結果を得た。第6章でこれらを纏めて報告し、結果は高次項を含めたカイラル摂動理論の予測値(6.1 × 10−9)と矛盾はしないが、高次項の存在を積極的に検証するには到らなかった旨を結論している。

本実験の結果は、高次項の存在を検証するという当初の目的は達成できなかったが、得られた崩壊分岐比の上限値は従来の値から7.6倍の改善となった。また、十分なデータが採取できれば、本論文の検出器と解析法を用いて、実験目的が達せられることを明らかに示すことが出来た。申請者は、E949実験の建設・運用・データ解析において主要な貢献をなし、本論文の主要部分であるK+ → π+γγ崩壊分岐比の測定に関しては、そのデータ解析の全てを担当した。申請者の解析がグループの結果として出版公表されることになっており、その貢献は顕著である。

以上をもって、吉岡瑞樹君に博士(理学)の学位を授与できると認める。

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