学位論文要旨



No 119888
著者(漢字) 相川,恒
著者(英字)
著者(カナ) アイカワ,ヒサシ
標題(和) 量子ドットにおけるコヒーレント伝導
標題(洋) Coherent Transport through a Quantum Dot
報告番号 119888
報告番号 甲19888
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4617号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 岡本,徹
 東京大学 教授 藤森,淳
 東京大学 教授 樽茶,清悟
 東京大学 助教授 福山,寛
 東京大学 助教授 長谷川,修司
内容要旨 要旨を表示する

 半導体量子ドットは閉じ込めによる離散エネルギー準位の形成と電気的な孤立に伴う帯電効果によってクーロン振動などの多様な伝導特性を示すことが知られており、現在までにも数多くの研究が行なわれている。本研究はその中でも特に、半導体量子ドットを電子が量子コヒーレンスを保って透過する現象を実験的に調べたものである。コヒーレントな伝導現象においては量子ドットと電極などの周辺系を一つの複合系と見なすような取り扱いが必要になってくる。本研究の目的は、このようなコヒーレンスが介在する複合系において新しい現象を見出すとともに、量子ドット内の電子状態に関してもより深い理解を得ることである。このための考え方の一つとして、現象を一電子効果と多電子効果とに大別する。

 一電子効果は量子ドットを散乱体と見なしたポテンシャル問題として捉えることができる。本研究ではFano効果を切り口にしてこの問題を掘り下げた。Fano効果は離散エネルギー準位と連続準位との干渉によって起きる現象で、量子ドット系でもその発現が予想されている。本研究では、量子ドットがAharonov-Bohm(AB)干渉計に埋め込まれた系(図1(a))、T結合型の量子ドット(図1(b))、多準位伝導下での単一量子ドットの電気伝導測定においてFano効果の観測を試みた。これによって、以前までのAB干渉効果とは別の切り口から量子ドットの透過振幅と位相シフトの情報が得られることが期待される。

 まずAB干渉計の一方の経路のみに量子ドットを埋め込んだ構造の試料をGaAs/AlGaAs二次元電子系から作製し、電気伝導測定を極低温(数十mK)で行なった。この系の特徴の一つに様々なパラメタの高い制御性が挙げられる。これを利用して連続準位の伝導のon/offすることで、連続準位の伝導がある場合に量子ドットの共鳴ピーク形状が大きく歪むことを観測した(図2)。Fano共鳴の特徴的なピーク形状の解析から、これがFano効果の発現を観測していることが明らかになった。

 Fano効果には特徴的な共鳴ピーク形状が現われるが、これが外部磁場の変化に対して周期的に変化することを確認した(図3)。これは連続準位と離散準位が空間的に分離されているというAB干渉計に原因がある。ピーク形状の周期的な変化はAB振動の周期と一致しており、これはAB効果を通じたFano干渉の位相の制御であるといえる。また、干渉の位相制御は連続準位のフェルミ波数を静電的に制御した場合でも実現可能であることを実証した。またこれらのデータの詳細な解析から、Fano共鳴のピーク形状を表すパラメタqが複素数であるべきことを明らかにした。これは連続準位と離散準位の空間分離のために、磁場の印加によって時間反転対称性が破られたことに対応する結果だと考えられる。静電的な位相制御については、Fano効果が位相のパリティを検出する極めて強力な手段であることに依存する部分が大きい。ただし、AB干渉計はそれ自体が共鳴器として働くために、AB干渉計に埋め込まれた状態での量子ドット本来の位相シフトの議論は、Fano線型だけでなくモデルによる解析が必要である。

 そこでAB干渉計よりも更に簡便な干渉実験がT結合型量子ドットで可能な点に着目し、次にこの系での実験を行なった。ここでは量子ドットは細線の横に接続しており、反射成分がFano干渉に寄与するはずで、実験的にもこれを確認した(図4)。この系はAB干渉計よりも簡略な構造をしているので、簡単なモデルによって干渉効果に対する測定温度の影響を調べることを試みた。測定温度の上昇は、位相の平均化と量子デコヒーレンスの増大によって干渉効果を減衰させることが一般的に知られているが、この系でも高温度側でのFano効果の消失を確認した。モデル解析の結果、Fano効果の消失には量子デコヒーレンスだけではなく量子ドットをT結合にしている細線部分での平均化の効果が大きく効いていることが明らかになった。ただし、系のサイズ自体はAB干渉計よりも小さいので、先ほどの実験に比べるとその影響も小さいことを確認した。

 T結合型量子ドットにおいても量子ドットは外部の細線と繋がっているので、これでも量子ドット本来の位相を測定する系としては完全ではない。そこて、外部干渉計を使わない干渉実験を考案した。それは量子ドット自身を干渉計にしてしまい、Fano効果からその情報を抜き出すというものである。この情報は量子ドットの波動関数に直結したものであり、コヒーレント伝導による干渉実験を通して量子ドットを理解するという、研究全体の目的に最も近いものである。このような干渉計が実現するためには、強結合準位という量子ドットの離散エネルギー準位のうち電極と特に強く結合した準位の存在が重要だと考えられる。これによって、ある実験条件においては強結合準位が連続準位としての役割を果たして、外部干渉系のない単一量子ドットの電気伝導においてもFano効果が観測されることが期待できる。

 実験では幾つかの点から強結合準位の存在を確認した。まず、ある測定条件では量子ドットの伝導度がクーロン振動に比べてはるかにゆっくりとしたバックグラウンドを持つ事が分かった。また、量子ドットを有限バイアス下で測定した伝導度にも、通常のクーロン振動にみられるクーロンダイアモンドとは別の大きな構造を見いだした。この構造は零バアイス伝導度のゆっくりとしたバックグラウンドと連動して現われるものである。また、個々のクーロン振動ピークに着目すると、全てFano効果に見られる特徴的な共鳴ピーク形状へと変化してしまっているのが分かった。これらはいずれも強結合準位とそれ以外の準位が同時に量子ドットを通過できる多準位伝導状態において期待されるFano効果の特徴である(図5)。

 Fano共鳴のピーク形状をよくみると、パラメタqの符号がバックグラウンドの振動の山と谷の部分で入れ替わっていることが分かった。qの符号は常に正か負のどちらかのパリティに固定されているものだとこれまでは過去の実験事実から思われてきた。しかし、符号が一定であることは本来直感と反する事実であり、同位相の問題として長年にわたって謎とされてきたものである。これに対する一つの解答が強結合準位の存在であると理論的に予言されていたが、この実験結果は理論の予想と良く一致するものであった。したがって、この実験によって同位相の問題に対する実験的な解答が得られたと考えられる。

 さて、もう一方の多電子現象としては様々なものが考えられるが、ここではスピン散乱に関連する現象に的を絞った。量子ドットの電子数が奇数の場合、量子ドット上には必ず1/2以上の孤立スピンが発生し、伝導電子との間にスピン散乱が生じる。このスピン散乱によって量子ドットのスピンと伝導電子のスピンが絡み合いを起こし、その結果、量子デコヒーレンスが生じるものと予想されている(図6)。

 これを確かめるために、AB干渉効果の干渉振幅をもってコヒーレンスの指標とし、スピン反転の有無による干渉振幅を定量的に比較する実験を試みた。測定試料は量子ドットが組み込まれたAB干渉計である。現実の試料では理論的に考察されているよりも複雑な相互作用が存在するので、これを排除してできるだけ理想的な実験状況にするために量子ドットをスピンペアと呼ばれる特別な状態において実験を行なった。ここから確かにスピン反転過程が存在し得る場合とそうでない場合とでコヒーレンスに定量的な差が出ることを明らかにした(図7)。

 量子ドットと伝導電子とのスピン散乱は十分低温では近藤状態の形成に繋がる。これは,まさに量子ドットと周辺系との相互作用による多体効果である。まず前述の実験と同様にAB振動の振幅からコヒーレンスの定量性を調べた。その結果、近藤状態の発達が不十分な場合には、スピン反転によるデコヒーレンス過程が非ユニタリ極限の近藤状態と共存していることを明らかにした。しかし、AB振動を示す成分に関しては、近藤状態での特異な位相シフトに由来するFano効果と近藤効果の共存状態が理想的な形で実現していることを見いだした(図8)。これは二端子測定という実験状況を考えると一見不自然な結果であり、これはABリングに張り付いた特別なモードが発生している可能性を示唆している。

図1. (a)量子ドットがAharonov-Bohm(AB)リングに埋め込まれた系、(b)T結合型の量子ドットの模式図。黒塗りの部分を伝導電子が通過する。

図2. 量子ドット・ABリング複合系に現われるFano効果。

量子ドットのみのゲート電圧Vgに対する伝導度Gは通常のクーロン振動だが(下)、量子ドットと参照経路を同時に透過させるとFano効果が発現する(上)。

図3. 磁場によるFano干渉の制御。位相差を逆転させると(Δθ=π)非対称形状が逆転する。

図4. T結合型量子ドットの伝導度に見られるFano効果。

図5. 多準位伝導下における単一量子ドットにみられるFano効果。(a)沢山のFano線型のクーロン振動ピークが強結合準位によるバックグラウンドの上にのっている。(b)有限バアイス下での測定にも強結合準位によるVgに対する大きな

図6. (a)電子数が奇数(2n+1)のクーロン谷では量子ドットがネットスピンを持つ。(b)スピンを持つ量子ドットを伝導電子が通過するときに起きるスピン反転の模式図。

図7. (a)スピンペアのクーロン振動ピーク対に対してAB振動を測定した結果。(b)(a)の図をまとめたもので、ゲート電圧Vgに対するAB振動の強度をプロ

図8. (a)近藤効果によって2本の破線の内側で伝導度が大きくなったクーロン振動。(b)AB振動成分はFano-近藤効果に期待される伝導度形状とその磁場依存性を示している。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は8章からなる。第1章は序論であり、本研究に関連した基礎的事項および過去の研究について論文提出者の見解を交えて説明が行われている。そして、量子ドット系のFano効果(3章、4章、5章)と量子ドットスピンに絡む多体効果(6章、7章)に関する研究目的が明瞭に述べられている。

 第2章は、実験手法に関して、Aharonov-Bohm(AB)リングに量子ドットを埋め込んだ試料の作製方法および電気伝導測定のセットアップの説明が行われている。

 第3章は、AB干渉計の一方の経路のみに量子ドットを埋め込んだ系におけるFano効果の実験結果とそれに対する考察が述べられている。量子ドットを含まない経路の伝導をonにすることで、量子ドットの共鳴ピーク形状がFano効果により大きく歪むことが観測された。Fano効果による構造は、温度の上昇やバイアス電圧の増加によって消失するが、このことはFano効果の出現におけるコヒーレンスの重要性を示すものである。また、ABリングを貫く磁束や制御ゲート電圧によってFano干渉の人為的な制御が初めて実現された。解析においてはFanoの非対称パラメーターqが複素数に拡張されている。

 第4章は、T結合量子ドットを持つ量子細線のFano効果の実験結果とそれに対する考察が述べられている。量子ドットと細線との結合を1点のみに限定したこの系では、ABリングの場合よりも解析が容易になる。モデル解析に基づき、温度上昇にともなうFano効果の消失について、連結経路における電子の波数がぼけて干渉性を失った結果として説明が行われている。

 第5章は、単一量子ドットにおけるFano効果の実験結果とそれに対する考察が述べられている。この実験では、外部干渉回路のないFano効果が観測された。同じような現象は以前にも報告されていたが、本研究では中西らが提唱した理論を検証するための系統的な測定が行われた。結果は、クーロン振動を作る弱結合準位を経由した伝導と、リードに広がった強結合準位を経由したコトンネリングによる伝導とのFano干渉を考慮した中西らの理論を裏付けるものであった。

 第6章は、スピン反転によるデコヒーレンス過程の検証に対する実験結果と考察が述べられている。まず、クーロン振動のピーク間隔、高さの解析から、等しい軌道状態に対応するスピンペアピークが探し出された。そのスピンペアピークの近傍においてAB振動の測定を行い、スピンペアピークに挟まれた領域においては外側の領域よりもAB振幅が減少することが観測され、スピン反転によるデコヒーレンスによって説明された。

 第7章は、Fano-近藤効果という新しい現象の観測をめざした実験結果とそれに対する考察が述べられている。まず、ユニタリ極限に至っていない近藤状態にある量子ドットとABリングの複合系に対してAB振動の振幅の解析を行い、量子ドットでのスピン反転によるデコヒーレンス過程が近藤状態と共存し得ることを見出した。また、近藤谷の中央付近で、Fano-近藤効果から予想されるAB位相のπ/2プラトーに近い振る舞いを観測した。

 第8章では、第3章〜第7章の研究に関する総括が行われている。

 以上のように本論文では、量子ドットを透過する電子のコヒーレンスおよび量子ドット内の電子状態に関して、新しく重要な知見が数多く得られた。試料作成および数多くのパラメーターを制御して行われた電気伝導測定は、いずれも高度な技術を要するものである。また、実験結果に対する解析も様々な視点から高い水準で行われており、論文提出者の力量が博士に適うものと判断できる。

 なお,本論文は小林研介氏、勝本信吾氏、家泰弘氏、佐野徹之氏との共同研究であるが、試料作成および電気伝導測定は論文提出者が全て行い、また5章、6章、7章については研究計画の立案、実験結果の解析・考察も論文提出者が主体となって行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 しがたって、審査委員全員一致で、博士(理学)の学位を授与できると認める。

以上

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