学位論文要旨



No 119905
著者(漢字) 齋藤,孝明
著者(英字)
著者(カナ) サイトウ,タカアキ
標題(和) 1H(d,2He)n反応によるベルの不等式の実験的検証
標題(洋) Experimental Test of Bell's Inequality via the 1H(d,2He)n Reaction
報告番号 119905
報告番号 甲19905
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4634号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 櫻井,博儀
 東京大学 教授 下浦,享
 東京大学 助教授 宮武,宇也
 東京大学 教授 本林,透
 東京大学 助教授 清水,明
内容要旨 要旨を表示する

1935年にアインシュタイン、ローゼン、ポドルスキーの3人(EPR)が、量子力学のいわゆるエンタングルメントに関して根本的な問題提起をしたのは有名である。彼らはある思考実験を考えて、量子力学による自然界の記述は完全ではないと結論づけた。EPRの言う完全な理論とは、全ての「物理的実在」の要素に対応して理論の中にも対応する要素が必ず存在するような理論である。また、2つめ系が十分遠く離れていれば、一方の系に対して行った観測が他方に影響を及ぼすことはないことを仮定した。量子力学では、例え系の物理状態が確定していても、ある物理量の測定結果が原理的に100%の確率では予測できない場合があり、また、2つの系がエンタングルした状態にあれば、一方に対して観測を行えば、その瞬間に離れたところにある他方の系の状態も確定することがある。このような意味で、量子力学は不完全な理論であると結論づけたのである。

 EPRの仮定を満たす完全な理論を「局所実在論」と呼び、量子力学を古典論の立場から再解釈できるような局所実在論を構築しようする試みがなされたことがあった。しかし、そのような局所実在論は、量子力学の予言を完全に再現することは不可能であることが1964年にベルによって示された。2つの系が量子力学的にエンタングルした状態にある場合、ある物理量に関する2つの系の間の相関は、局所実在論では説明し得ないほど強くなることがあることが、不等式の形で証明されたのである。

 ベルの不等式の発見以来、その不等式の検証実験が、エンタングルした2つの光子の偏光状態の相関を測定する方法で数多く行われ、ほとんどの実験が、局所実在論を否定する結果(すなわち、ベルの不等式が破れる)を得ている。しかし、光子以外の系を用いた検証実験は数少なく、特にスピン1/2の粒子系での実験は、1976年のLamehi-RachitiとMittig(LRM)らによる低エネルギー陽子-陽子弾性散乱を用いた実験のみである。LRMは、散乱によって1So状態に組んだ2陽子の偏極の相関を測定してスピン相関関数を導出し、ベルの不等式の破れを99.4%の信頼度で検証している。

 しかし、LRMの実験では陽子のスピンの測定軸の設定に根本的な問題があり、2陽子が必ずしもエンタングルした状態になくても同じ結果を得ることがあると我々は考えている。

 光子を使った実験と異なり、核反応によってエンタングルした粒子対を生成した場合、それぞれの粒子の「波束」の大きさをfmのオーダーにまで小さくすることができる(光子の実験の場合はm程度)。したがって、2粒子の特徴的な「相関長」と、実際に相関を測定するときの2粒子間の距離の比を、光子の場合よりも桁違いに広げることができる。相関長と比べてこれほど遠く2粒子が互いに離れても、スピン状態に関するエンタングルメントが維持されることを実験的に検証することは非常に興味深い。

 また、我々とLRMの実験以外の全ての検証実験は、電磁気相互作用によってエンタングルした粒子対を生成していた。強い相互作用による系に対しても検証実験を行うことは重要である。

 以上の目的で、我々はEd=270MeV1H(d,2He)n反応を用いて、1S0状態に組んだ2陽子のスピン相関の測定を行った。(d,2He)反応とは、標的核に重陽子が入射し、終状態相互作用によって1So状態に組んだ陽子対(2He)が同時に出てくる反応である。この反応では、2陽子の相対エネルギーを小さく保ち、高い純度の1S0状態を維持したまま、実験室系での陽子の運動エネルギーを高くすることができる。こうすることで、陽子の偏極の測定が容易になるという利点がある。高純度の1S0状態の陽子対を生成するという点では、重陽子の角運動量Jπ=1+が残留核の基底状態に完全に移行する12Cg.s.0+(d,2He)12Bg.s.1+や、6Lig.s.1+(d,2He)6Heg.s.0+反応の方が適している。しかし、これらの反応では水素標的の場合よりも有効断面積が1桁以上小さく、また重陽子の破砕反応によるバックグラウンドの陽子イベントが増えるという問題がある。実験を現実的なビームタイムで完遂するには水素標的が最適であった。

 実験は理化学研究所加速器研究施設で行われた。270MeVの重陽子ビームを液体水素標的に入射し、1H(d,2He)n反応によって生成された陽子対は磁気スペクトロメータSMARTによって運動量分析され、焦点面に設置された陽子偏極度計EPOLによって検出された。図1にEPOLの概念図を示す。EPOLは、入射陽子の軌道を検出するための多線型ドリフトチェンバー(MWDC)、イベントトリガーを生成するためのプラスチックホドスコープ(HOD)、陽子の偏極を分析するための炭素ブロックの標的から構成される。入射した2陽子は炭素ブロックで同時に散乱される。そのときの散乱角の相関を分析することでスピン相関関数C(Φ)を導出することができる。ここで、C(Φ)とは、次のように定義される関数である。2個の陽子それぞれに対して、スピンの測定軸〓(1),〓(2)を定義し、これらの2つのベクトルの間の角度をΦとする。C(Φ)は、「これらの2つの測定軸に関して得られるスピンの符号の積の期待値」として定義される。EPOLでは、これらのスピンの測定軸はハードウェアでは決まっていない。測定によって2陽子の飛跡はイベント毎に記録されるので、測定軸を実験後にソフトウェア上で自由に設定してスピン相関を解析することが可能である。このような手法を用いた実験は、ベルの不等式の検証実験としては初めてである。また、この手法ではLRMの実験に存在したスピンの測定軸の設定の問題を解決することができる。

 EPOLの有効偏極分解能は、スピン相関測定の前に、160MeVの陽子ビームを炭素の1次標的に入射して、θlab=19°におけるp+12C弾性散乱で生成した偏極陽子をEPOLに入射し、炭素ブロックにおける散乱の非対称を測定することで較正した。

 実験で得られたスピン相関関数の結果を図2に示す。ベルの不等式と比較するために、上記のC(Φ)を用いて、S(Φ)≡C(3Φ)-3C(Φ)という関数を導出した。ベルの不等式は、このS(Φ)に対して、|S(Φ)|〓2なる制限を課す。実験結果はΦ=45°においてベルの不等式を2.9σの精度で破っており、量子力学の予言値の曲線に非常に良く一致している。これは、2陽子が巨視的な距離(この実験では約40cm以下)だけ離れてもスピン1重項状態のエンタングルメントが維持されていることを示している。今回の不等式の検証精度(2.9σ)は99.6%の信頼度に相当し、LRMの実験と同程度の精度を達成することができた。

 今回得られた結果から、局所実在論の可能性は、実験精度の範囲で2陽子系の場合についても否定されたことになる。(実験条件が理想的な条件を満たさないため、これにはいくつか仮定が必要である。)

 我々の実験手法では、2陽子のスピンの測定軸の向きが実験装置では決まっていないというユニークな性質がある。測定軸が実験装置で決まっているか否かの違いは、観測によってエンタングルした状態がどのように変化するか、という根本的な問題と関わっている可能性がある。

図1: 焦点面陽子偏極度計EPOL。

図2: スピン相関関数の測定結果。実線は量子力学の予言値。ベルの不等式では影の部分のみが許容される。各データ点は同じデータセットからスピン測定軸の向きをソフト上で変えて出したものなので、互いに独立ではないことに注意。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、7章からなる。第1章の序文に続き、第2章では実験のセットアップが述べられている。使用した加速器施設、磁気スペクトロメータSMART、偏極度計EPOL、検出器群、種々の実験条件についてその詳細が示されている。第3章では、偏極度計EPOLの較正実験の方法とその結果について述べられており、偏極陽子生成法、実験条件、有効偏極分解能の導出・解析手法および有効偏極分解能の実験値と系統・統計誤差が示されている。第4章では、(d,2He)反応で生成された二つの陽子間のスピン相関を決定する方法とスピン相関関数の導出法が述べられている。第5章では、最終的な測定量であるスピン相関を導出するための解析手順が詳細に述べられている。検出器群のデータ解析を通じて、スピン一重項状態にある2陽子事象を選び出す方法、2陽子に対する検出効率、一重項状態の純度、同時係数率などが定量的に示されている。第6章では、スピン相関関数を導出する新手法と相関関数の実験値が示され、これに基づいた議論が展開されている。スピン相関関数のトリガー依存性と補正量、同時係数に起因するバックグランドが述べられており、統計誤差、系統誤差が評価されている。実験データとベルの不等式間の有意なずれを明らかにし、理想的な実験条件と本実験の条件との比較から、量子力学的にもつれた状態の頑丈さや本実験の評価と特徴を述べている。これら第2章から第6章までの5章が本論文の中心である。最後の第7章では結論が述べられている。この他、付録としてスピン一重項状態の相関関数、スピン三重項状態の相関関数、CHSH不等式の導出、一重項状態に対するスピン歳差の影響が収録されている。

 本論文は、ベルの不等式の検証実験をスピン1/2系について行った研究であり、量子力学の観測問題に関する極めて基礎的な研究である。ベルの不等式の検証実験は、もつれた状態にある光子(スピン1)の偏光状態の相関を測定する方法で行われ、殆どの実験は、局所実在論を否定し、量子力学を支持する結果を得ている。光子をもちいた実験では、(1)スピンの測定軸が事前に決まっていること、(2)原子状態を利用しているため相関長が1m程度あり、2粒子の測定距離との比が大きいこと、といった不完全さが残っている。また、スピン1/2系の実験としては、低エネルギー陽子-陽子弾性散乱を用いてスピン一重項状態から放出される2陽子についての実験がある(LRM実験)。この実験では強い相互作用が関連しているため、(2)の相関長はfmレベルである。しかし、(1)の問題には触れておらず、また(3)スピン一重項状態の純度にも問題がある、と考えられていた。

 本研究では、270MeVの高エネルギー重陽子ビームを用いることで(1)と(3)の問題を解決したことがポイントである。1H(d,2He)反応を起こさせることによりスピン一重項状態の純度を98%レベルまで上げることができる。また、反応で放出された粒子のエネルギーは130MeV程度で超前方に放出されるため、粒子軌道を抑えることが容易であり、また2粒子共通の偏極度計を用いることで量子化軸を任意に選ぶことが可能になる。

 実験は、理化学研究所加速器研究施設で行われた。1H(d,2He)で生成された二つの陽子は、SMARTスペクトロメータで分析し、スペクトロメータの下流に偏極度計EPOLを配置した。EPOLは、散乱体、これを挟むように置かれたMWDC、およびトリガー・粒子識別用のプラスチックホドスコープからなる。トリガーとして、2He状態を選択的に選び出す条件をつくり、効率よくデータが収集された。また、160MeVの陽子と炭素標的とを弾性散乱させることによって得られた偏極2次陽子ビームを用いて、偏極度計EPOLの偏極分解能の較正を行っている。

 実験で得られた2陽子のスピン相関は、量子力学で予想されている相関を示した。またベルの不等式の破れを信頼度99.6%で検証した。この結果から局所実在論の可能性は、強い相互作用においても、またスピン1/2の陽子の場合についても否定されたことになる。また、この研究ではスピンの測定軸の向きが実験装置では決まっていないため、測定軸が装置で決まっているかいないかの違いは、観測によってもつれた状態がどのように変化するか、という根本的な問題と関わっている可能性がある。

 以上のように本研究は、従来の実験の枠を越えた野心的なもので、また量子力学の基礎に関連した教科書レベルの成果が得られており、学術的な価値も十分にある。

 なお、本論文は共同研究であるが、論文提出者が主体となって本実験で用いられたEPOLの設計と建設、検出器群の建設とトリガー条件の決定、実験遂行、及び解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分高いと判断する。

 従って、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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