学位論文要旨



No 119908
著者(漢字) 高木,康多
著者(英字)
著者(カナ) タカギ,ヤスマサ
標題(和) Ge(001)表面のSTMによる局所構造変化過程の研究
標題(洋) Local modification of surface structure on Ge(001) by STM
報告番号 119908
報告番号 甲19908
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4637号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 長谷川,修司
 東京大学 助教授 福谷,克之
 東京大学 助教授 杉野,修
 東京大学 助教授 福山,寛
 東京大学 助教授 常行,真司
内容要旨 要旨を表示する

 近年のナノテクノロジーの発達により,固体表面における分子・原子レベルでの制御や物性の解明が可能となった。そして固体表面は今後の新しい科学・技術の展開の場として広く認識されている。固体表面は固体内部の構造と異なった原子配置をとり,また基板温度や吸着物質などで様々な構造をとることから多くの研究者の興味を集め,様々な構造解析手法を用いて解析が進められてきた。その解析手法の中で特に走査トンネル顕微鏡(STM)はその解像度の高さから表面分析の手法として広く使われている。そして近年ではSTM は探針が表面を走査し測定するという特徴から高い精度を持つ表面修飾の手法の装置としても研究が行われている。例えばSTM の探針から表面吸着分子にトンネル電流が流れることによる分子の脱離や,STM の探針の影響によっておこる構造変化などがこれまでに報告されている。

 本研究ではGe(001) 清浄表面のSTM 測定時のバイアス電圧による表面構造の変化を研究した。Ge はSi と同じIV 族に属し有名な半導体表面のひとつであるSi(001)表面と同様の構造を持つ。これまでの低電子回折やSTM の実験結果から基板温度80 K 以下のGe(001) 清浄表面では基底状態としてc(4×2)構造をとることが知られてきた。しかし本研究によってSTM による測定では基板温度80 K 以下においてバイアス電圧Vb を0.8 V 以上にして表面を走査することにより表面構造がc(4×2)構造からp(2×2)構造に変化することが明らかになった。さらにそのp(2×2)構造になった表面もバイアス電圧を−0.7 V 以下にして走査することにより再びc(4×2)構造に戻すことができる。またバイアス電圧が−0.5V≦Vb≦0.5V の範囲では表面構造は変化せずバイアス電圧を変更する前の構造を保つ。このようにGe(001) 表面の構造はバイアス電圧に対しヒステリシスを持って変化することが明らかになった。

 これらの構造変化はSTM の探針から表面へかかる電場と探針−表面間を流れるトンネル電流により起こると考えられる。c(4×2)構造とp(2×2)構造の違いはダイマー列間のバックリング方向の位相が異なるだけであり,この両構造のエネルギー差は小さい。第一原理計算によると外場がない場合にはp(2×2)構造よりもc(4×2)構造のエネルギーの方が低いことがわかっている。しかし表面に探針から電場が加えられると表面構造のエネルギーは変化し,表面に正バイアス電圧がかかっている場合にはエネルギーの大小が逆転しp(2×2)構造が基底状態になり,逆に負バイアス電圧がかかっている場合にはc(4×2)構造が基底状態になる。ただしこのふたつの構造間には80K 以下の低温での熱エネルギーよりも大きいエネルギー障壁がある。この障壁のために表面構造はバイアス電圧に対してヒステリシスを持って変化する。このような表面に探針からの電場がかかった状態で探針から表面へのトンネル電流が流れると,トンネル電子が表面原子と非弾性散乱を起こしふたつの構造間にあるエネルギー障壁を越えるエネルギーが格子に加わる。このことにより正のバイアス電圧がかかっている場合にはp(2×2)構造になり,表面に負のバイアス電圧がかかっている場合にはc(4×2)構造になることができる。このような機構によりSTM の走査時のバイアス電圧によって表面構造が変化すると考えられる。

 また本研究ではSTM の走査による表面構造の変化以外に探針を固定しバイアス電圧をパルス的に変化させることによる構造変化も調べた。構造が変化しないバイアス電圧の範囲(−0.5V≦Vb ≦0.5V)で表面を観察し,その走査の途中で探針を固定しバイアス電圧をパルス的に構造が変化する範囲(Vb≦−0.7 V,Vb≧0.8V)に変えることにより表面構造を変化させ,その後バイアス電圧を構造が変化しない範囲に(−0.5 V≦Vb≦0.5 V)に戻してから探針の走査を再開し構造変化後の表面を観察する。この方法で構造を変化させた場合,トンネル電流が表面に流れる位置は探針を固定しパルスを加えた点だけになり構造変化範囲とトンネル電流の関係がよくわかるようになる。

 c(4×2)構造の領域にバイアス電圧Vb≧0.8V の正電圧パルスを加えた場合,表面のダイマーのバックリングが変化し表面構造はp(2×2)構造になる。その時にダイマー列が十分に長い場合にはダイマーの変化はパルスを加えたひとつのダイマー列のみで起こり,しかもその変化はダイマー列方向にのみ遠くまで伝わる。その結果,ダイマー列1 本が変化した一次元的なp(2×2)領域ができる。一方,p(2×2)構造の領域にVb≦−0.7 V の負電圧パルスを加えると表面構造はc(4×2)構造になる。しかしこの時の負電圧のパルスによるダイマーの変化はダイマー列平行方向および垂直の両方向に広がるがその範囲は狭く表面には局所的なc(4×2)領域ができる。

 ダイマー列内でのc(4×2)構造とp(2×2)構造の境界にはバックリングが同じ方向を向いたダイマーの組ができる。この構造をkink と呼ぶ。kink は他のc(4×2)構造やp(2×2)構造の部分に比べエネルギー的に不安定でありトンネル電子によって簡単にそのダイマーのバックリング方向を変化させダイマー列内を移動する。Ge(001) 表面の構造変化はダイマー列内でのkink の生成と移動により起こると考えられる。したがって,表面に加えた電圧パルスによって起こるkink の移動について調べることにより,上記のような正負の電圧パルスによって変化する領域が異なる理由が理解できる。

 パルス位置とkink が移動する範囲の位置関係を調べるとバイアス電圧が大きくなるほど電圧パルスの影響範囲が広くなることがわかった。また正電圧パルスの場合では影響範囲はダイマー列平行方向と垂直方向で異方性があり,パルス電圧Vb=0.7 V の場合にはダイマー列垂直方向には10nm 程度の範囲にしか影響が広がらないが,ダイマー列平行方向には100nm 以上離れたところのkink も変化させることができる。一方,負電圧パルスの場合では,その影響範囲は正電圧パルスに比べ狭く,ダイマー列平行方向,垂直方向で正電圧パルスほど大きい異方性は見られなかった。

 これらの電圧パルスに対するkink の影響範囲の差異はGe(001)表面の表面電子構造が反映されている。正電圧パルスでは探針から表面のπ*バンドに電子が注入され,負電圧パルスでは探針から表面のπバンドにホールが注入されていると考えられる。これらふたつの電圧パルスで表面の構造変化が起こる範囲が異なるのはキャリアーの表面方向に対する移動度がπおよびπ*バンド内で異なることに関係する。正電圧パルスにより探針から電子が注入されるπ*バンドはダイマー列平行方向に分散が大きく逆に垂直方向には分散が少ない,よって探針から注入された電子はダイマー列平行方向へ移動しやすい。またπ*バンドはGe のバルクのバンドギャップ内に存在しているため,探針から注入された電子がバルク内部へ拡散する割合が少なく表面バンドを長時間移動でき,その結果,パルスを加えた位置から遠い位置まで変化が伝わる。一方,負電圧パルスによりホールが注入されるπバンドは分散がπ*バンドよりも小さく,さらにバルクのバンドとの重なりも大きいため探針から注入されたホールはバルクへすぐに拡散する,よってダイマーの変化はパルス位置近傍でしか起こらない。このような理由から正電圧パルスの影響範囲は広範囲におよびしかも方位に対して異方性を持つ,その一方で,負電圧パルスの影響範囲はパルス位置近傍の局所的な範囲にしか伝わらないことが理解できる。

 これらのことを考慮するとバイアス電圧パルスの正負によって変化する構造範囲が異なることも理解できる。電圧パルスによるkink の移動範囲はその電圧パルスの影響範囲と一致すると考えられる。正電圧パルスの場合,探針から表面に注入された電子はπ*バンドに入りダイマー列平行方向には多く流れ,逆にダイマー列垂直方向には流れない。よって構造変化は探針直下の電子が注入されたダイマーでしか起こらない,しかし正電圧パルスは影響範囲が広いため探針直下で生成したkink は遠くまで移動し,その結果,正電圧パルスではダイマー列1 本が変化した一次元的なp(2×2)領域ができる。一方,負電圧パルスの場合は探針から表面に注入されたホールはπバンドに入り,ダイマー列平行方向,垂直方向へ伝わる,よってkink はトンネル電流を注入したダイマー列以外にもできる。しかしその影響範囲は狭いためkink はパルス位置付近にとどまる,よって負電圧パルスでは局所的なc(4×2)領域ができると考えられる。

fig.1 Ge(001)清浄表面のSTM像(T=80K)

(a)Vb=-2.0V (b)Vb=1.2V

(c)バイアス電圧と表面構造の関係

fig.2 バイアス電圧パルスによる表面構造変化

(a)V=0.9Vのパルスにより形成された一次元的なp(2×2)構造

(b)V=-0.8Vのパルスにより形成された局所的なc(4×2)構造

fig.3 kinkの(a)STM(Vb=-0.4V)と(b)模式図

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、走査トンネル顕微鏡(STM)の探針からの刺激によってゲルマニウム結晶表面上で引き起こされる原子配列構造の特徴的な変化を見出し、そのメカニズムを解明するとともに、原子スケールで制御性よく構造操作を実現した実験研究である。これらの研究成果は、シリコン結晶表面で論争を呼んでいる同様の構造変化に対して新たな知見を与えるとともに、原子配列構造の人為的操作の可能性を示し、構造物性の新しい局面を切り開く貴重な研究となっている。

 本論文は7つの章から構成されている。第1章では本研究の背景と関連するこれまでの研究を概観し、その中から生まれた問題意識および本研究の目的が述べられている。第2章では、本研究の実験手法と試料について述べられている。第3章以下で本研究の結果および考察が述べられている。まず第3章では、STM走査中に見出された表面構造の変化、および、そのバイアス電圧に対する履歴特性の発見が述べられている。第4章では、バイアス電圧をパルス状に印加したときに誘起される構造変化の観察を詳述している。第5章では、本研究で見出された構造変化とゲルマニウム結晶表面の電子状態との関連を明らかにしている。第6章では、同様の現象が観察されて盛んに論争されているシリコン結晶表面との比較を行い、シリコン結晶では不明確だった点を明らかにしている。第7章において本論文で明らかにされた結果、その意義、および今後の研究の展望をまとめている。

 STMの発明以来、それによる表面原子配列の詳細な観察・解析が可能となった。さらに、STMは観察手段としてだけでなく、原子配列構造を人為的に操作するツールとしても使用されるようになった。とくに、STM探針近傍に集中する強力な電場、およびトンネル電流による素励起などによって、構造変化を誘起したり、準安定構造を作りだせることがわかってきた。本研究で使用された試料 Ge(001)結晶表面では、c(4×2)構造と呼ばれる原子配列が基底状態であり、原子配列のわずかに異なるp(2×2)構造が準安定構造と考えられてきた。本研究では、この2つの構造がSTM探針の刺激によって一方から他方に遷移すること、しかも、それぞれの状態が(80K以下の低温で)安定に保持されることを見出した。さらに、その構造変化の過程での原子の動きをパルス・バイアス電圧印加法によって詳細に解明した。本研究は、再現性のよい良く規定された試料表面の作成技術およびSTM実験技術の向上によるところがおおきく、そのような最先端の実験技術を駆使して行われた。

 本研究の成果は大きく分けて四つある。

(1) 構造変化およびそのヒステリシスの発見:

 基底状態であるc(4×2)構造表面を試料バイアス電圧Vが0.7 V 以下の電圧でSTM走査すると何の変化も起きないが、Vを0.8V以上にすると p(2×2)構造に変化した。そのp(2×2)構造表面を Vが-0.6V以上の電圧で走査すると、安定にこの構造が保持されるが、Vを-0.7V以下で走査するとc(4×2)構造にもどった。つまり、Vが -0.6Vから0.7Vの間では、バイアス電圧の履歴によってどちらかの構造が安定に観察されるが、その電圧範囲を超えると一方の構造のみ(負バイアス電圧ではc(4×2)構造、正バイアス電圧ではp(2×2)構造)しか観察されない。このように、この構造変化の現象はバイアス電圧に対してヒステリシスを持つことを見出した。

(2)構造変化のメカニズムのモデルの提案

 上述の構造変化の原因として、STM探針から印加されている電場とトンネル電流の両者が考えられる。c(4×2)構造とp(2×2)構造の原子配列の特徴から、負電位のSTM探針から強力な電場が印加されている場合には、エネルギーの大小関係が逆転し、p(2×2)の方がc(4×2)構造より安定になると考えられる。また、両者の間の構造遷移のためには観察温度80Kの熱エネルギーでは超えられないエネルギー障壁が存在するが、トンネル電子の非弾性散乱過程によってエネルギーを格子系に与えられてその障壁を乗り越えることによって構造変化が引き起こされると考えられる。このモデルは理論計算による定量的な評価が必要だが、実験結果から考えられるもっともらしいモデルといえる。

(3)パルス電圧による構造変化の誘起の発見

 V>0.8Vの電圧パルスで誘起されるc(4×2)→p(2×2)の構造変化は、1本のダイマー列のみで起こり、p(2×2)の領域がダイマー列に沿って100nm程度まで伸びる。一方、V<-0.7Vの電圧パルスで引き起こされるp(2×2)→c(4×2)の構造変化は、探針位置を中心に等方的に数nmの範囲でしか起こらないことがわかった。また、2つの構造の間にはkinkと呼ばれるエネルギー的に不安定な位相欠陥が生じ、それがダイマー列に沿って移動して構造変化が引き起こされていることが明らかとなった。そのkinkは、電圧およびバイアス極性に依存して特徴的な動きをすることも見出した。

(4)表面電子状態と構造変化との関連の解明

 上述のkinkの動きと表面電子バンドを考え合わせると、観察された構造変化のメカニズムは下記のように考えられる。正電圧パルスでは、探針からGe(001)表面の空状態であるπ*バンドに電子が注入されるが、そのバンドはダイマー列方向には分散が大きく垂直方向にはほとんど分散が無い極めて異方的なバンドであるため、注入された電子はダイマー列に沿って流れ、kinkのところで非弾性散乱してエネルギーを格子系に渡し、その結果kinkが移動して構造変化が進行する。負電圧パルスでは、占有状態であるπバンドにホールが注入されて同じように構造変化を誘起するが、そのバンドは異方性が小さく、バルクの価電子帯と重なっているため容易にバルク状態に散乱されてしまい、そのために等方的でかつ極めて小さな領域しか構造変化を誘起できないと考えられる。

 以上のように、論文提出者は、STM探針の刺激によって誘起される原子配列構造の変化を見出し、実験条件を工夫することによって、その妥当なメカニズムを提唱した。このような原子レベルの構造変化を解明した研究は、今までの構造物性には無い新しい局面を切り開いたもので、その独創性が認められたため、博士(理学)の学位論文として十分の内容をもつものと認定し、審査員全員で合格と判定した。なお、本論文は、共同研究者らとの共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験の遂行や結果の解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

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