学位論文要旨



No 119918
著者(漢字) 日高,義将
著者(英字)
著者(カナ) ヒダカ,ヨシマサ
標題(和) 有限温度におけるカイラル対称性の回復とメソンスペクトル
標題(洋) Restoration of Chiral Symmetry and Meson Spectra at Finite Temperature
報告番号 119918
報告番号 甲19918
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4647号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 初田,哲男
 東京大学 助教授 筒井,泉
 東京大学 教授 太田,浩一
 東京大学 助教授 浜垣,秀樹
 東京大学 教授 早野,龍五
内容要旨 要旨を表示する

カイラル対称性の破れとその回復についての研究は、ハドロン物理における重要な課題の一つである。高温、高密度状態になるとハドロン相からクォークグルーオンプラズマ相やカラー超伝導相といった様々な相への相転移が起こると考えられている。BNL のRHIC やこれから行われるCERN のLHC の衝突実験でも高温高密度状態が実現されるようになり、相転移の有無を実験的に確かめられるようになってきた。

 相転移より下のハドロン相でもカイラル対称性の部分的回復により真空中とは異るハドロンの振る舞いが観測されると予想される。そのカイラル対称性の回復のパターンについてはいくつかの提案がされている。一つ目はパイ中間子のカイラルパートナーはシグマ中間子であるという従来の標準的なシナリオであり、二つ目はパイ中間子のカイラルパートナーがロー中間子の縦波成分であるというVector Manifestation(VM) と呼ばれるシナリオである。同様にパイ中間子のカイラルパートナーがロー中間子であるというシナリオとしてVector Realization(VR) と呼ばれるものもある。VM シナリオとVR シナリオの違いは、カイラル対称性が回復した時のパイ中間子の崩壊定数の違いである。VM シナリオでは回復した点では崩壊定数がゼロになり、VR シナリオでは有限にとどまる。ここで、SU(2)L × SU(2)R 〓 O(4) のカイラル対称性を持つ場合を例にとる。このSU(2)L × SU(2)R 〓 O(4) 対称性とローレンツ対称性SO(3, 1) の類似を用いると、この2種類の回復のシナリオは3つのパイ中間子と1つのシグマ中間子が4 元ベクトルを形成しパートナーとなる線形シグマ模型的な描像(標準シナリオ) と、3つのパイ中間子と3つのロー中間子(の縦波成分)が電場と磁場の関係となりパートナーを組むhidden local symmetry 模型に基づく描像(VMシナリオまたはVR シナリオ)といえる。カイラル対称性が自発的に破れた真空では、粒子の質量の固有状態はカイラル対称性の既約表現とはなっていない。つまりパイ中間子はこの4元ベクトル成分((2* 2.) 〓 (2*, 2)) と電場成分((3, 1) 〓 (1, 3)) の混合状態と考えられる。カイラル対称性が回復した時、質量の固有状態は対称性の既約表現に属する。したがってパイ中間子は(2, 2*) .(2*, 2) または(3, 1) 〓 (1, 3) のどちらかの表現に戻る。4元ベクトルの表現に戻れば標準シナリオ、電磁場煮対応するの表現に戻ればVM またはVR シナリオが実現する。

 我々は有限温度中でのカイラル対称性の回復の過程でこれらそれぞれのシナリオについてどのような特徴がスペクトルに見られるか研究した。これらを解析するために我々は二つの模型を用いた。標準シナリオについては線形シグマ模型、VM シナリオに対してはHidden local symmetry 模型を用いた。

 標準シナリオ的な描像では、パイ中間子とそのカイラルパートナーであるシグマ中間子が重要な役割を演じる。しかしシグマ中間子はパイ中間子に崩壊するためにゼロ温度の真空中では鋭いピークとして現れない。しかし、有限温度中ではシグマ中間子のスペクトルのピークが鋭く現れる可能性が指摘されている。なぜならカイラル対称性が回復するに従ってシグマ中間子とパイ中間子が縮退し、このため対称性が回復する過程でシグマ中間子の質量がパイ中間子の質量の2倍程度になる温度が存在する。その時パイ中間子への崩壊が抑制され、閾値付近におけるシグマ中間子のスペクトルは増大される。我々はこの現象に対して伝播関数のポールの振る舞いを有限温度で線形シグマ模型を用いて解析した。有限温度では単純な摂動展開は破綻しているため高次の項を再総和する必要がある。その再総和の手法として我々はOptimized perturbation theory(OPT) を用いた。ポールの振る舞いを解析することはスペクトルを各ポールからの寄与で分解でき、シグマ中間子のような幅の広い粒子もポールを用いてで同定することができるため有用である。我々はシグマチャンネルにスペクトルに特に影響する3つのポールがあることを発見した。1 つ目はゼロ温度で幅の広いピークを作って観測される、いわゆるシグマ中間子に対応するポール(Pole II) である。またこのPole II の複素共役の点に2 つ目のポール(PoleII*) が存在する。これら2つのポールはS 行列のユニタリー性から必ずペアで現れる。3 つ目はパイ中間子の(仮想的な)束縛状態に対応するポール(Pole I) である。Pole II の実部は、カイラル対称性の回復とともに減少し、そのスケーリングはシグマ凝縮の減少に比例するBrown-Rho スケーリング則を満たす。一方、Pole I に対応する状態は媒質中での誘導放射のために引力が強められ、ある温度よりも上では束縛状態を形成することがわかった。また、この束縛状態が現れる過程で閾値付近のスペクトルの増大が起こる事も示した。高温でカイラル対称性が回復したときにパイ中間子と縮退する状態に対応するはこのポールである。ゼロ温度で幅広いピークを作るポールが高温で対称性が回復したシグマ中間子の状態に対応するポールと異なるのは大変興味深い結果である。つまり低温ではPole II が、高温ではPole I が物理的に観測されるシグマ中間子に対応すると言う事が出来る。この2つの物理的状態が入れ替わる現象はPole II に対応したシグマ中間子の状態とパイ中間子の2粒子状態の準位交差として理解できる。また、ポールが2つあるという事実は、ある温度ではスペクトルに2つのピークが現れることを意味する。したがってこの現象が実験でも観測されるかもしれない。

 さらに我々は1ループレベルを超えた効果を取り入れる計算も行なった。有限温度では熱浴中の粒子との散乱によりあらゆる領域でスペクトルは存在するがこの効果は2ループ以上の計算によってはじめて取り入れられる。特にシグマ中間子から崩壊したパイ中間子が熱浴中の粒子と散乱することによる効果(我々はこの効果をパイ中間子の熱的幅の効果と呼ぶ) はある温度でシグマ中間子のスペクトル関数に見られる鋭いピークを弱めると予想される。この効果を取り入れるために我々はシグマ中間子の自己エネルギーの計算に複素数にしたパイ中間子の質量を用いた。質量を複素数しする事によって有効的にパイ中間子の熱的幅の効果を取り入れることが出来る。この計算よってシグマ中間子のスペクトルの閾値付近の増大は抑えられた。しかしポールが2つあることは変わらず、2つのピークがスペクトルに見られることは変わらないという結果を得た。また、直接的に実験に反映するシグマ中間子の光子への崩壊率の計算を熱的幅の効果を入れて行なった。熱的幅を入れないときに比べて熱的幅を入れた場合は閾値付近のスペクトルの増大は抑えられた。スペクトル関数に見られたもう一つのピークはボーズ分布関数によって高エネルギー側が抑制されるためこの過程では直接見ることが出来なかった。

 我々はもう一方のVM シナリオ的な描像であるHLS 模型を用いた1ループレベルでのスペクトルの解析も行なった。スペクトル関数を計算するのに我々はOPT を用いて1ループレベルのT 2 のオーダーの再総和を行なった。この結果、パイ中間子の崩壊定数とロー中間子の崩壊定数にあたる量が同じ温度でゼロになることを示した。再総和を行なわなけばこの温度は一致しない。またVM の実現は回復した点での崩壊定数の比がa =1 になることを意味する。しかし我々の結果は崩壊定数の比はa =1 にはならずa 〓 2.8 になった(真空中ではa 〓 2)。ロー中間子のスペクトルについては低温では、ピークの位置はそれほど変化せず、主に幅が広がる結果を得た。これは媒質中では誘導放射によりロー中間子が真空の場合より不安定になるためである。高温側では、カイラル対称性の回復に伴いローメソンのスペクトルのピークの位置は低エネルギー側に移動した。さらに臨界温度に近づくと原点の閾値付近のスペクトルの増大も見られた。崩壊定数とロー中間子のスペクトルのピークの低エネルギー側へのシフトはVM シナリオ的な結果だが、崩壊定数の比の振る舞いが異なる。我々の結果はVM とは異なった振る舞いとなった。我々の結果とVM シナリオとの違いはベクタードミナンスからのずれに反映するであろう。

 我々の研究はカイラル対称性の回復の過程におけるシナリオの違いによってメソンのスペクトルにどのような特徴が見られるかなるか調べたものであり、現実がどちらのシナリオになるべきかはこの解析からはわからない。それを解析するためには両方のシナリオを内包する模型を構築し解析する必要があるがこれは今後の課題である。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は6章から成り、第1章で緒言と研究の背景が述べられた後、第2章では、有限温度における場の量子論、特に遅延グリーン関数のスペクトル構造に関する一般的概説が与えられている。第4章と第5章は、本論文の核心部分で、カイラル対称性に関する、線形シグマ模型、およびベクトル型表現模型、を用いた有限温度でのスカラー中間子、及びベクトル中間子の有限温度スペクトル関数が計算され、そのカイラル相転移点付近での振舞いについての考察がなされている。第6章では、結果のまとめと今後の展望が、また補章A-Dでは、有限温度における最適化摂動法に基づいたループ計算の詳細が与えられている。

 有限温度におけるカイラル対称性の動的破れとその回復は、アメリカのブルックヘブン国立研究所の相対論的重イオン衝突加速器(RHIC)で進行中のクォーク・グルオン・プラズマ探索と関連して大きな注目を浴びている。特に、カイラル対称性が回復した時に、特徴的に現れる実験的シグナルについて、これまでさまざまな理論的予想が行われてきた。なかでも、カイラル対称性が動的に破れた状態で特徴的にあらわれるシグマ中間子が、南部-ゴールドストーン粒子であるパイ中間子と有限温度で近似的に縮退し、シグマ中間子のスペクトル関数が閾値付近で異常に増大する現象、およびベクトル粒子であるロー中間子がパイ中間子と縮退する現象がこれまで提案されてきた。

 本論文の第4章では、まずシグマ中間子の閾値異常の問題をより理論的に深く考察する目的で、相転移点付近の有効理論として線形シグマ模型を採用し、シグマ中間子の有限温度遅延グリーン関数の複素エネルギー平面での構造を調べている。有限温度では、単純なループ展開が破綻する事が知られているので、これを回避するために、本論文では有限温度での最適化摂動法が採用されている。この解析から、シグマ中間子のスペクトル関数に主として寄与する2つの極があることが示された。そのうちの一つは、温度ゼロでの幅の広いシグマ中間子を記述するもので、有限温度では複素エネルギー平面の実軸から遠ざかるように移動する。もう一つの極は、仮想的なパイ中間子束縛状態に対応するもので、温度ゼロでは非物理的なリーマン面上の極であるが、温度の上昇とともに媒質中の誘導放射のために引力が増大し、真の束縛状態に移行していく。高温でのカイラル対称性の回復相でパイ中間子と縮退するのはこの後者の極であり、相転移点付近でのスペクトルの閾値増大を引き起こすのもこの極であることが明らかになった。本論文では、改良摂動法の最低次ではとりいれられていない高次項の評価を行い、パイ中間子が媒質効果で幅をもつ事まで考慮すると、閾値付近のスペクトル増大はパイ中間子の幅程度に広がった分布になる可能性を指摘した。しかし、低エネルギーでのボーズ分布関数の振る舞いを反映して、シグマ中間子の2光子崩壊においては、閾値付近の増大が実験的に観測できる可能性があることも指摘している。

 さらに、本論文の第5章では、ベクトル中間子の有限温度でのスペクトル関数とカイラル対称性の関係を調べるため、隠れた局所対称性の概念に基づいてゲージ粒子としてロー中間子を導入するアプローチを採用し、そこで予想されている相転移点でのベクトル型表現の実現について考察している。線形シグマ模型の場合と同じく、最適化摂動法を用いて有限温度のロー中間子の遅延グリーン関数を解析し、パイ中間子とロー中間子の崩壊定数が同じ転移温度で消えることを示した。また、ロー中間子のスペクトルは、シグマ中間子の場合と同様、臨界点近傍で閾値異常を示す事を明らかにした。しかしながら、上記崩壊定数の比が、ベクトル型表現から予想される値と大きく異なることも示された。

 本論文では、カイラル対称性の有限温度での回復とそれにともなうスペクトル異常について、2つの異なる模型(4章で考察された線形表現に基づく模型と、5章で考察されたベクトル型表現に基づく模型)を採用して、中間子スペクトルの詳細な計算とその物理的解釈が行えわれている。これまでの研究から更に踏み込んだ深い考察がなされている事、今後両模型を統一したアプローチを行う場合の出発点となる理論的枠組みを与えている事などは意義深い。

 なお、本論文の主要部である第4章と第5章の内容は、大谷宗久、西川哲夫、森松治との共同研究であるが、論文提出者が主体となって理論的解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 以上の観点から、申請者に博士(理学)の学位を授与できると認める。

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