学位論文要旨



No 119924
著者(漢字) 和田,浩史
著者(英字)
著者(カナ) ワダ,ヒロフミ
標題(和) 非平衡系における一分子ダイナミクスと流体のゆらぎの特性
標題(洋) Dynamics of Single Polymers and Fluctuation Properties of Fluids Far From Equilibrium
報告番号 119924
報告番号 甲19924
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4653号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 和達,三樹
 東京大学 教授 田中,肇
 東京大学 教授 桑島,邦博
 東京大学 教授 土井,正男
 東京大学 助教授 北尾,彰朗
内容要旨 要旨を表示する

 本論文では、いくつかの流体系および孤立高分子が示す非平衡特性について、特に動的な側面に焦点を当てながら、理論・シミュレーションの両面から研究を行った。本論文で扱う流体と高分子に共通する著しい特徴のひとつは、いずれも系内部におけるメソスケールのゆらぎや構造が遅い緩和を示すことにある。このような遅いダイナミクスが特徴付ける系の柔らかさ(ソフトさ)は、系が流動や変形に対して敏感であり、容易に非線形かつ非平衡な領域へと駆動されることを意味する。同時に、これらの系の巨視的な応答はそのメソスケールにおける空間的不均一性と深く結びついている。本研究の目的は、非平衡状態における流体および高分子の非線形応答を、個々の系に内在するゆらぎや構造の変化と結びつけて理解することである。以下に、本論文の主要部を構成する研究対象を列挙する。

 1.定常的なシア流れのもとでの単純液体の速度ゆらぎの相関と輸送の性質の関係、および定常的な濃度勾配とシア流れが共存する二成分溶液のゆらぎの性質。2.強電解質溶液の希薄領域におけるhydrodynamics的記述の定式化とシアに対する非線形輸送特性。3.一分子計測実験から明らかにされた凝縮DNA高分子の非線形弾性特性の理論的解析。

 最後に扱うDNAの凝縮転移は電荷の関与する相転移の一例である。実際、DNAやアクチンフィラメント、たんぱく質を代表例とする帯電した生体分子を含む生理環境下の溶液の多くは、静電相互作用が熱エネルギーをはるかに上回る強結合領域にある。ここでは対イオン間の相関が状態の安定性に決定的な役割を果たす。多価カチオンが誘起するDNAの凝縮転移や同符号コロイド間の引力は、その身近な典型例である。近年、爆発的に進展する一分子研究のさなかで、強結合クーロン系の非平衡ダイナミクスは未だ手付かずの問題といえる。このような観点から、電解質液体および高分子に対する非平衡ダイナミクスの研究は本論文の注目すべき特徴のひとつであることを強調しておく。

 まず第二章では、定常的なシア流にさらされた単純液体のゆらぎと輸送特性について理論的な考察を行った。「単純」とは流体がその内部に特徴的構造を持たないことを示唆するが、それゆえにこの系は非平衡定常状態におけるゆらぎと輸送を調べる格好のモデルとして古くから膨大な研究例がある。なかでも、速度ゆらぎの同時刻相関関数が波数kの4乗に逆比例する長距離相関を示すことは非平衡ゆらぎの代表例とされてきた。さらに、定常シアは粘性係数や圧力にシア率に非解析に依存する補正をもたらすため、非線形領域への久保公式の拡張が容易ではないという事実は古くからの知見である。現在いずれの効果もモード結合理論の観点から整備・理解されているが、ゆらぎと輸送の直接的関連は熱平衡におけるほど明確にはされてこなかった。我々はfluctuating hydrodynamicsにもとづいて定常状態の速度相関を非摂動的に計算し、従来知られていた発散的な長距離相関が十分長距離のスケールではずっと強く減衰することを明らかにした。これは長波長のゆらぎが、その遅い緩和の間に移流による大変形を受け、その結果、熱平衡におけるよりもずっと早く散逸することを意味する。同時に、輸送に最も強く寄与する長波長領域の揺らぎがこのように大変形を受け破壊されることで、異常な粘性補正をもたらされる機構を明らかにした。

 長距離相関のクロスオーバーをもたらす長さスケールは十分巨視的であり、また輸送への非平衡補正が一般に非常に小さいことから、これらの事実の実験による直接的検証は難しい。この点を克服し、実験による直接的検証を可能にするため、さらに定常的な濃度勾配とシア流が共存する二成分溶液のゆらぎの性質を解析した。その結果、濃度勾配によってもたらされる長距離相関は、シアによって長距離のスケールで変形を生じる。そのクロスオーバースケールは現在の散乱実験が容易にカバーする波数領域内である。

 第三章では、希薄領域での電解質溶液の輸送特性について調べた。電解液ではイオンの周辺を反対符号のイオンが取り囲む(いわゆるデバイ遮蔽)現象は周知の事実である。この機構は流体内部に固有の構造をもたらし、デバイ長とデバイ緩和時間(デバイ長と相対拡散係数から決まる時間スケール)がその構造を特徴付ける。古典的電気化学の歴史は古く、とりわけ電気伝導度をはじめとする電解質溶液の輸送現象についてはこれまでに膨大な研究がある。ところが現実系でしばしば重要な、非線形領域での輸送に関する理論的試みは今日に至るまで大変乏しい。我々は最も簡単な系として、二成分の希薄強電解液を取り上げ、そのfluctuating hydrodynamicsによる記述を行った。この枠組みからまず、電解質の溶解にともなう溶液の粘性係数の上昇を表すFalkenhagen-Onsager-Fuossの古典的極限式を整備された形で再導出した。さらにその極限式を任意のシアに対する表式へと拡張し、強いシアの領域で著しいshear-thinningが起こることを見出した。これは各イオンを遮蔽する雰囲気がシアによって大変形を受けることで生じる。ここで明らかにされた効果そのものは実験的にしばしば小さいが、そのメカニズムは希薄(電解)高分子溶液、コロイド溶液を含め、大変一般であると期待される。

 第四章と第五章では、一分子計測実験によって明らかになった、凝縮構造と結合した高分子電解質一分子の特異な力学物性について、異なるアプローチからの理論解析を行った。まず、実験事実を要約する。DNAは溶液中で強く負に帯電した高分子であり、多価カチオンを添加することで凝縮状態へ転移する。光ピンセットを用いてこのDNAの広がりを制御し、張力を測定すると、特筆すべき二種類の力学応答曲線が得られる。凝縮が緩やかである場合には、変位の広い範囲にわたって張力が一定となるプラトー相が出現するのに対し、凝縮が深い場合には、張力が急激な変化を繰り返すStick-release patternが現れる。理想鎖の描像からは想像できないこのような特異な弾性は、系の強い非平衡性と長距離の静電相互作用がもたらす複雑さを顕著に反映している。分子内部の凝縮構造とマクロな力学応答の出現機構を結びつける物理的描像を明らかにするため、以下に述べる二つの理論的考察を行った。

 まず第四章では、相転移の理論と高分子の弾性が動的に結合したGinzburg-Landau型の現象論モデルを提案し、その理論的・数値的解析を行った。モデルでは、鎖に沿って定義されたコイル相と凝縮相の存在比を示す秩序変数r が分子の内部構造を表現する。そして、これの従う有効ポテンシャルおよびダイナミクスが鎖の張力と結合する。一方、鎖の有効長は鎖に沿ったρの分布から動的に決まり、そこから張力が計算される。このモデルに基づくシミュレーションの結果、実際の実験と比較しうるパラメータ領域において、実験結果をほぼ定量的に再現する結果を得た。また、伸張過程における一分子内部の構造変化(コイル・凝縮相の共存と生成消滅の過程)を明らかにするとともに、実験で観測された張力曲線の履歴現象が、有限速度の伸張過程における特異な現象であることを界面ダイナミクスの観点から明らかにした。

 DNAの凝縮転移は静電効果が引き起こすユニークな相転移のひとつであり、四章で展開した現象論に終始しない、豊かで興味深いメカニズムの存在が期待される。静電効果が中心的役割を果たす相転移の大部分は理論的に未解明であるため、ミクロからのアプローチが不可欠である。第五章では対イオンの効果をあらわに取り入れた、高分子のばねビーズモデルにもとづくブラウン動力学シミュレーションを行った。その結果、熱ゆらぎに対して静電相互作用の強さを測る結合定数を大きくするにつれ、力学応答は理想的なsemiflexible polymerのそれから凝縮状態へ転移し、プラトー、そしてのこぎり状のstick-release patternへと遷移する。この傾向は実験結果と見事に対応している。さらに、プラトーおよびstick-releaseの出現は、イオン性凝縮体がそれぞれ液体的および固体的(より正確にはガラス的)であることを示唆していることに注目し、一方向に引き伸ばした棒状の高分子表面に凝縮した対イオンの構造関数を調べた。その結果、プラトー相に対応する結合定数に対しては、対イオンは特徴的な空間構造を示さず、平均として均一な流体相にある。一方、stick-release相に対応する結合定数に対しては、全体として依然液体相にあるにもかかわらず、Wigner結晶状態とみなされる構造のピークを示す。これらの結果に基づき、同符号引力のメカニズムと高分子のマクロな非線形弾性を結びつける次のようなシナリオを提唱した。すなわち、静電結合が十分大きくなければ、高分子の周辺の凝縮対イオンは流体相にあり、対イオンとモノマーは双極子を形成する。その多重極ゆらぎ間の相関が引力をつくり、高分子の凝縮および張力のプラトーの出現に寄与する。一方、静電結合が十分大きいとき、凝縮対イオンは高分子に沿って一次元的なWigner結晶に類似した構造をとり、強く相関しあった液体状態を形成する。これにより短距離で強い引力が上記の長距離のゆらぎを介した引力に重なり、高分子の弾性と競合する結果、高分子は規則的な構造に折れ畳まる。この構造がStick-release応答が出現する原因となる。

 電荷による相転移と強い非平衡性が競合する系のダイナミクスに注目した研究はこれまで報告例がなく、本研究の意義は実験結果の再現にとどまらずさらに深い理論展開の端緒を切り拓くものである。

 以上の研究結果は、伝統的な非平衡の基礎過程に関する知見を深めるとともに、物理学との境界領域における興味深い物質および現象の理解に寄与している。特に電解質に見られる電荷の関与する不均一構造のダイナミクスと非線形応答の性質は、未知の側面が多く、今後の魅力的な研究対象となることが期待される。本研究は今後の発展を含め、このような展開に重要な役割を果たすと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文が扱う流体と高分子は、いずれも系内部におけるメソスケールのゆらぎや構造が遅い緩和を示すという特徴を持っている。このような遅いダイナミックスがもたらす系の「柔らかさ(ソフトさ)」は、系が流動や変形に対して敏感であり、容易に非線形・非平衡領域での現象が見出されることを可能にする。本論文では、非平衡状態における流体および高分子の非線形応答を、理論・シミュレーションの両面から研究した。

 本論文は6章からなる。第1章はイントロダクションであり、非平衡系の特徴、非平衡定常状態の流体、電解質溶液での輸送、単一高分子の非線形弾性、に関する基本的事項がまとめられている。そして、論文全体の構成がまとめられている。

 第2章では、定常的なシア(ずれ)流での単純液体のゆらぎと輸送特性が考察されている。揺らぎを入れた流体力学(Fluctuating hydrodynamics)を用いて、定常状態の速度相関を計算し、充分長いスケールでは長距離相関が強く減衰することを示した。また、定常的な濃度勾配とシア流が共存する二成分溶液のゆらぎを解析し、濃度勾配による長距離相関はシアによって、長距離のスケールで変形されることを示した。

 第3章では、電解質溶液の希薄領域での輸送特性が調べられている。2成分希薄強電解液をFluctuating hydrodynamics (揺動を入れた流体力学)により記述し、電解質溶解に伴う溶液の粘性係数の増加を表すFalkenhagen-Onsager-Fuossの古典的極限式を再導出した。そして、その極限式を任意のシアに対する表式に拡張し、強いシア領域での著しい変形を指摘した。これは、各イオンを遮蔽する雰囲気がシアによって大変形をうけることで生じる。

 第4章と第5章では、高分子電解質一分子の力学物性についての解析が行われている。まず、第4章では、Ginzburg-Landau型の現象論モデルを提案し、高分子鎖の張力曲線が最近の実験結果をほぼ定量的に再現されることを示した。凝縮が弱い場合のプラトー相(変化の広い範囲にわたって張力が一定)の出現、凝縮が強い場合のstick-release pattern(張力が急激な変化を繰り返す) の出現などである。伸張過程における一分子内部の構造変化を明らかにするとともに、張力曲線の履歴現象が有限速度の伸張過程における特異な現象であることを示した。第5章では、対イオンの効果を取り入れた、バネ-ビーズ高分子模型にもとづくブラウン動力学シミュレーションを行った。その結果、静電相互作用の強さを大きくするにつれ、力学応答がsemi-flexible 状態、凝縮状態、プラトー相、のこぎり状のstick-release pattern 、と順次遷移することが示された。プラトー、stick-release pattern の出現は、イオン凝縮体がそれぞれ液体的および固体的(より正確にはガラス的)構造であることを示唆している。これらの原因として、同符号間引力のメカニズムと高分子のマクロな非線形弾性を結びつけるシナリオが提唱されている。最近、このような描像がしばしば発表されているが、まだ議論すべき問題も多く、今後の研究のさらなる発展が望まれる。第6章は、まとめと将来への展望が述べられている。

 以上のように、理論解析とシミュレーションを用いて、定常的シア流での速度ゆらぎ相関と輸送、強電解質溶液の流体力学的記述と非線形輸送特性、高分子一分子の非線形弾性特性、を考察し、ソフト物質科学や非線形非平衡科学に対する新しい知見をもたらした。

 なお、本論文第2章前半部分は佐々真一、第4章の一部、第5章は村山能宏,佐野雅己、との共同研究であるが、論文提出者が主体となって数値計算及び解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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