学位論文要旨



No 119941
著者(漢字) 大野,宗佑
著者(英字)
著者(カナ) オオノ,ソウスケ
標題(和) 衝突蒸気雲内の化学反応に関する研究
標題(洋) An experimental study of chemical reactions in impact vapor clouds
報告番号 119941
報告番号 甲19941
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4670号
研究科 理学系研究科
専攻 地球惑星科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松井,孝典
 東京大学 助教授 杉田,精司
 東北大学 教授 五十嵐,丈二
 東京大学 教授 永原,裕子
 東京大学 教授 杉浦,直治
内容要旨 要旨を表示する

 概要

 衝突蒸気雲の最終生成物は惑星表層環境の進化に大きな影響を与えたと考えられているが、蒸気雲内の反応速度のデータは乏しく、最終組成の推定手法は未だ確立されていない。そこで本研究では、蒸気雲内の反応速度を実験的に推定するための新たな手法として、クエンチ点においては反応速度が化学平衡組成の変化速度と等しいことを利用することを提案した。この手法では、発光分光によりある瞬間における温度・圧力を、QMSによりクエンチ後の組成を測定できれば、それに加え化学平衡と膨張・冷却速度を計算してクエンチ点における反応速度を推定することができる。本研究ではさらに実際に反応速度を推定するため必要な実験システムを新たに構築するとともに、手法の適用例として硫酸カルシウム組成の蒸気雲中の硫黄酸化物の酸化還元反応の反応速度を実際に推定した。

 イントロダクション

 惑星表面に天体が超高速で衝突すると、衝突天体の持つ運動エネルギーが原因で非常に高温高圧の状態が実現される。そのため、惑星や衝突天体の構成物質が蒸発し、衝突蒸気雲が生成する。衝突蒸気雲の最終生成物の化学組成は、K/T生物大量絶滅事件や生命の誕生など惑星表層環境の進化に大きな影響を与えたと考えられている。ところが、その推定手法は未だ確立されておらず、多くの問題が未だ手付かずのままの状態である。

 具体的には、まず衝突速度に上限があるため岩石を蒸発させることが難しいと火薬等の混入が原理的に防げないという理由により、衝突銃の実験による最終組成の測定は困難である。そのため、これまでいくつかある衝突蒸気雲の最終化学組成の実験的研究は、レーザー照射によって模擬衝突蒸気雲を生成させて行われてきた。しかしながら、実際の天体衝突と模擬実験ではスケールに大きな差があるため、天体衝突では冷却が非常に遅くクエンチ点が低温である。この差を埋めるサイズに対するスケーリング則の確立には蒸気雲内の反応速度が必要である。ところが、衝突蒸気雲のクエンチ温度として想定される数百K〜2000Kでは、低温(常温付近)や高温(数千K)と比べて実験が困難なため反応速度の実験データが乏しい。

 そこで本研究では、レーザーを用い発生させた蒸気雲内の反応速度を実験的に推定するための新たな手法を提案する。さらに、実際の測定に必要な実験システムを構築し、手法の適用例として硫酸カルシウム組成の蒸気雲内の硫黄酸化物の反応速度を推定した。

 新しい反応速度測定法の提案

 一般に、発生直後の衝突蒸気雲内は非常に高温・高圧であり、多くの物質が原子に解離した状態で存在している。そこから蒸気雲の冷却とともに低温で安定な分子種が生成する。発生直後の高温・高圧の状態では反応速度は速く、化学平衡が達成されている。ところが、低温・低圧になるにつれて反応が遅くなり、ある点で化学平衡組成の変化についていけなくなる。この現象をクエンチという。ここで重要な点は、化学反応のクエンチ条件においては反応速度と化学平衡組成の変化速度が等しいとみなせるということである。本研究では、この性質を利用してクエンチ条件における反応速度を推定する。

 図1に反応速度推定手法の流れ図を示す。まず、レーザー照射により生成させた蒸気雲を生成させる。そしてその蒸気雲のある瞬間における温度・圧力条件を発光分光測定により推定する。すると、その結果を初期条件として化学平衡計算を行うことにより、断熱膨張する蒸気雲の温度・圧力・化学平衡組成を推定できる。これとクエンチ後の最終化学組成からクエンチ温度・圧力を推定することができる。クエンチ後の組成はQMS(四重極質量分析器)で測定する。ここまででクエンチ温度における化学平衡組成の温度依存性が求まる。さらに蒸気雲の冷却速度を計算すれば化学平衡組成の時間変化率が求まり、これがクエンチ条件においては反応速度と等しいとみなせる。

 以上までで温度・圧力条件における蒸気雲内の反応速度が求まる。実際の測定時には、蒸気雲の冷却速度に蒸気雲の質量に対する依存性がある(同じ温度圧力条件でも重い蒸気雲ほど冷却が遅い)ことを利用して、異なる温度・圧力条件での反応速度を推定することができる。

 この手法は、発光分光と質量分析の両方が可能な組成の蒸気雲について適用可能である。発光分光測定により温度・圧力条件を推定するためには、蒸気雲が可視光の発光輝線をもつ原子(Ca、Mg、Si、Naなど)を十分な量含んでいる必要がある。また、蒸気雲内の化学反応のクエンチ点での化学組成を質量分析計を用いたガス分析により決定するためには、蒸気雲が揮発性成分(炭素、窒素、硫黄などの化合物)を含んでいる必要がある。これらの元素は惑星や小天体の構成物質(岩石、氷等)には一般に豊富に含まれている。したがって、本研究の蒸気雲内の反応速度推定手法は、地球惑星科学で重要な諸問題に広く適用可能である。

 実際の測定と解析

 まず、ここまでで述べた反応速度の測定手法で実際に反応速度を推定するため、新たに実験システムを構築した。試料を真空チェンバー内に入れ、YAGパルスレーザーを照射して蒸気雲を生成させる。生成した蒸気雲の発光スペクトルを分光器で測定する。また、蒸気雲が膨張した後の最終的な化学組成はQMSを用いて測定する。全ての実験においてチェンバー内を常に真空に保った。また、レーザー強度は1.6x109W/cm2に固定し、同じ初期温度圧力条件の蒸気雲を生成させた。

 今回は手法の適用例として試料は硫酸カルシウムを用い、蒸気雲内でのSO2からSO3への酸化反応の反応速度を測定した。硫酸カルシウムは可視光の輝線をもつCaを含むため発光分光測定による温度・圧力の推定が容易である。また、硫酸カルシウム組成の蒸気雲は硫黄酸化物を多く含むため、ガス分析によるクエンチ点での化学組成の測定が可能である。さらに、蒸気雲内の硫黄酸化物の酸化還元反応の反応速度はK/T事件においても非常に重要であったと考えられている。

 発光分光測定

 発光分光測定の結果(レーザー照射後80ナノ秒〜180ナノ秒にかけてのスペクトル)を図3に示す。多数確認できる輝線のほとんどがCa原子の発光輝線である。これらの輝線の強度と蒸気雲の温度との間には以下の関係式があることが知られている。

 これを利用して蒸気雲の温度を推定できる。図3の観測例からは、6500±600Kという値が得られた。

 蒸気雲内の圧力はCa+の393.4nmの輝線のシュタルク広がりを利用し推定する。シュタルク広がりの半値幅から蒸気雲内の電子密度が推定できる。一方でサハの熱電離式から蒸気雲内の原子の電離率が推定できるので、電子密度とあわせることにより蒸気雲内の圧力を推定できる。図4の観測例からは圧力は約30000気圧という値が得られた。

 QMSによる最終化学組成の測定

 クエンチ後組成はQMSを用い測定した。図5に結果を示す。ビーム径(蒸気雲サイズに対応する)の増大とともに高温で安定なSO2は減少し、低温で安定なSO3が多く生成した。これは、蒸気雲サイズが大きくなるにつれ冷却速度が遅くなり、クエンチ温度が低下することに対応している。

 反応速度の推定

 以上の実験データ(初期温度圧力と最終化学組成)からそれぞれの実験条件におけるクエンチ条件での反応速度が求まる(反応速度測定法の提案の章を参照)。推定された反応速度を図6に示す。低温になるほど反応速度は大きくなることがわかった。

 結論

 衝突蒸気雲内の反応速度を実験的に推定する手法を新たに提案した。また、その手法に則った実際の反応速度の推定のために必要な実験システムを構築し、硫黄酸化物に適用して蒸気雲内での反応速度を測定した。

図3 発光スペクトル観測例

図4 線幅観測例

図5 クエンチ後組成

図6 反応速度

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、地球や惑星の起源と進化にとって最も重要な素過程である、天体衝突に伴って発生する衝突蒸気雲の物理と化学について研究したものである。衝突蒸気雲の最終生成物は惑星表層環境の起源と進化に大きな影響を与えたと考えられているが、その推定手法は未だ確立されていない。実際の天体衝突と模擬実験ではスケールに大きな差がある。そのため、実際の天体衝突による蒸気雲では反応のクエンチ点が低温であるのに対し、実験室レベルの蒸気雲では高温になる。この差を埋めるサイズに対するスケーリング則の確立には蒸気雲内の反応速度が必要である。ところが、衝突蒸気雲のクエンチ温度として想定される数百K〜2000Kでは、低温(常温付近)や高温(数千K)と比べて実験が困難なため反応速度の実験データが乏しい。そこで本研究では、蒸気雲内の反応速度を実験的に推定するための新たな手法を提案するとともに、実際の測定に必要な実験システムを構築し、手法の適用例として硫酸カルシウム組成の蒸気雲内の硫黄酸化物の反応速度を推定した。これは、世界で初めての試みであり新しい学問分野の開拓にもつながり,博士論文として評価できる。

 本論文は5章からなる。

 第一章はイントロダクションであり、衝突蒸気雲内の化学反応とその測定手法を確立することの重要性について紹介している。

 第二章では新たな反応速度測定法の原理と枠組みの提案を行っている。一般に、発生直後の衝突蒸気雲内は非常に高温・高圧であり、反応速度は速く、化学平衡が達成されている。ところが、低温・低圧になるにつれて反応が遅くなり、ある点で化学平衡組成の変化についていけなくなる。この現象をクエンチという。クエンチ条件では反応速度と化学平衡組成の変化速度が等しいとみなせる。本研究では、この性質を利用してクエンチ条件における反応速度を推定する。

 まず、はじめにレーザー照射により生成させた蒸気雲の温度・圧力条件を発光分光測定により推定する。その結果を初期条件として化学平衡計算を行うことにより、断熱膨張する蒸気雲の温度・圧力・化学平衡組成を推定する。これとクエンチ後の最終化学組成からクエンチ温度・圧力を推定する。クエンチ後の組成はQMS(四重極質量分析器)で測定する。ここまででクエンチ温度における化学平衡組成の温度依存性を求める。さらに蒸気雲の冷却速度を計算すれば化学平衡組成の時間変化率が求まり、これがクエンチ条件においては反応速度と等しいとみなせる。この手法は、論文提出者のアイデアによるもので高く評価できる。

 第三章では二章で提案された測定法に基づき、反応速度の実際の測定と解析を行っている。試料を真空チェンバー内に入れ、レーザーを照射して蒸気雲を生成させる。生成した蒸気雲の発光スペクトルを分光器で測定する。多数観測できた輝線のほとんどがCa原子の発光輝線である。これらの輝線の強度と蒸気雲の温度との間の関係式を利用して蒸気雲の温度を推定する。今回は、6500±600Kという値を得ている。一方、蒸気雲内の圧力はCa+393.4nmの輝線のシュタルク広がりを利用し測定している。観測された輝線の半値幅から圧力は綿30000気圧という値を得ている。

 また、蒸気雲の最終的な化学組成はQMSを用いて測定している。ビーム径(蒸気雲サイズに対応する)の増大とともに低温で安定なSO3が多く生成することを確認している。これは蒸気雲内の硫黄酸化物の酸化還元反応のクエンチ温度の低下に対応している。

 以上の実験データ(初期温度圧力と最終化学組成)からそれぞれの実験条件におけるクエンチ条件での反応速度が求まる。求まった反応速度は低温になるほど大きくなる。また、既存の気相反応速度のデータと比較して非常に大きい。まだ誤差が大きいなどの問題があるが、衝突蒸気雲の温度圧力条件を求める試みはこれが世界で初めてであり評価できる。

 第四章では、本研究の手法の適用に関する議論をしている。発光分光とQMSによるガス分析を組み合わせる本研究の手法は、惑星科学上の多くの問題で必要な蒸気雲組成における反応速度推定に適用できる。具体的には、硫黄酸化物の酸化還元反応の反応速度のK/T事件における重要性について議論している。測定された反応速度は非常に大きく、K/Tサイズの衝突蒸気雲内の硫黄酸化物は三酸化硫黄が支配的であることを示唆する。

 第五章では結論を述べている。本研究では衝突蒸気雲内の反応速度を実験的に推定する手法を新たに提案したこと、また、その手法に必要な実験システムを構築し、硫黄酸化物に適用して蒸気雲内での反応速度を測定したことを述べている。

 なお、本論文第三章は、杉田精司、門野敏彦、長谷川直、五十嵐丈二との共同研究であるが、論文提出者が主体となって企画、実験、解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 以上から、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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