学位論文要旨



No 119948
著者(漢字) 中村,篤博
著者(英字)
著者(カナ) ナカムラ,トクヒロ
標題(和) 東アジアから西部北太平洋に輸送される大気粒子状物質に関する研究
標題(洋) A Study on the Atmospheric Particulate Matter Transported from the East Asia to the Western North Pacific
報告番号 119948
報告番号 甲19948
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4677号
研究科 理学系研究科
専攻 地球惑星科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 今須,良一
 東京大学 教授 高橋,正明
 東京大学 助教授 小池,真
 東京大学 助教授 竹川,暢之
 東京大学 教授 植松,光夫
内容要旨 要旨を表示する

 西部北太平洋海域は、経済発展の著しい東アジア地域の風下に位置し、アジア大陸から北太平洋全域へ輸送されるエアロゾルが通過する海域である。その中で日本周辺海域及び、東シナ海は、大陸起源物質の発生源に近くその影響を強く受けている。特に、東シナ海は、日本、中国、韓国といった工業大国に囲まれていることや、大陸から外洋上へ輸送される境界領域であるため、陸上大気から海洋大気への遷移が人為起源エアロゾルや鉱物エアロゾルの化学的性質や輸送機構に大きく反映する重要な海域である。本研究では、2002年9月から2004年3月までに行われた3回の研究航海によって、日本周辺海域、東シナ海、及び、北太平洋外洋域において、大陸から輸送される鉱物粒子や人為起源物質の主な化学成分である窒素化合物、硫酸塩、炭素化合物、さらに海洋生物起源の硫黄化合物であるメタンスルフォン酸について計測を行った。これらの結果をもとに粒子状物質を中心に大陸起源物質や海洋起源物質による海洋大気への影響、大陸から海洋への輸送機構、さらに大気を経由した栄養塩の海洋への供給量について解析を進めた。現在、東アジア地域において窒素酸化物の排出量は、1970年代の約3倍であり、今後この排出量はさらに増加することが予測されているため、東アジアの影響を評価する上で窒素化合物に関する知見は欠かすことができない。大気エアロゾル中の窒素化合物のうち、無機態窒素(硝酸塩やアンモニウム塩)はこれまで多くの測定が行われているが、有機態窒素はこれまで測定例が非常に少ないため、発生源やその後の挙動などがほとんど分かっていない。特に東アジア大陸の影響を受ける地域においては、その測定例がない。本研究では、水溶性有機態窒素の時空間分布や粒径分布を測定し、窒素化合物としての重要性や発生源についての解析を試みた。また、地域によっては有機態窒素を構成する物質として重要であり、組成による起源同定の可能性を持つアミノ酸について、従来のアミノ酸状態別分析法を大気エアロゾル試料に応用し、同様な検討を行った。

 秋季の東シナ海において、産業活動が活発な都市域に匹敵する高濃度の硫酸塩粒子が観測された。このことから、人為起源物質の排出量が増加する冬季から春季だけではなく、秋季においても、東アジアからの汚染大気の影響を強く受けていることが明らかとなった。しかし、硝酸塩粒子は、都市域と比較して低濃度を示した。これは、硫酸塩粒子が主に微小領域に存在していたのに対し、硝酸塩粒子は主に粗大領域に存在していたため、大陸から海洋への輸送過程で硝酸塩粒子が硫酸塩粒子よりも先に大気から除去されたことや、二酸化硫黄ガスや亜硫酸ガスから硫酸塩粒子への転換が進んだためであることが考えられる。

 日本周辺海域及び東シナ海における秋季と春季の観測値を比較すると、元素状炭素粒子と硫酸塩粒子は、日本周辺海域及び東シナ海の秋季、春季ともに有意な相関を持ち、二成分の比には季節による違いが見られなかった。しかし、外洋域においては、二成分間の有意な相関が見られなかった。また、元素状炭素粒子と有機炭素粒子は、日本周辺海域及び東シナ海、外洋域ともに有意な相関を示し、その量比は日本周辺海域及び東シナ海において季節変動は見られなかった。外洋域では、秋季の日本周辺海域及び東シナ海と比較して、濃度は1桁減少したが、有機炭素の占める割合は増加していた。これらのことから、大陸起源物質が長距離輸送される際、化学成分によるエアロゾルの除去過程の違いや、エアロゾル中の化学的特徴が変化していることを確認することができた。

 硫酸塩粒子と元素状炭素粒子の濃度は、春季が秋季の約半分であったが、春季の硝酸塩粒子は秋季にほぼ匹敵する濃度を示した。秋季に硝酸塩が高くなかったのは、観測期間中の平均気温が秋季は24.0℃、春季は13.6℃と高かったため、硝酸塩粒子の解離が起こり、硝酸ガスとして存在していたためであることが示唆された。

 日本周辺海域及び東シナ海の観測における海洋生物起源のメタンスルフォン酸粒子の時系列変動は、人為起源物質と比較的良い相関を示した。これは、生物活動が活発な沿岸域から、生物起源硫黄化合物が人為起源物質と共に観測海域に輸送されてきたことや、人為起源物質中の窒素酸化物の影響によって、硫化ジメチルからメタンスルフォン酸への生成が促進したことが考えられる。また、生物起源硫酸塩の全硫酸塩(人為起源+生物起源)に占める割合は、秋季は約8%と無視できないが、春季は約0.8%と、小さなものとなっていた。これは、春季の観測期間中、海洋生物活動がまだ活発ではなかったためであり、観測期間以降、初夏にかけてこの寄与が増加することが予測される。

 大気から東シナ海への乾性沈着による窒素化合物(硝酸塩、アンモニウム塩)のフラックスの見積もりから、秋季、春季ともに大気中濃度は、アンモニウム塩粒子の方が高かったが、粒径分布の大きな差異によって乾性沈着フラックスは、硝酸塩粒子の方が高く、硝酸塩による窒素の供給が大きいことがわかった。秋季、春季の観測結果をそれぞれ平均した値から計算した大気からのフラックスは、アンモニウム塩、硝酸塩が、秋季の結果からは、350、600μgNm-2 day-1、春季の結果からは、210、830μgNm-2 day-1であった。秋季、春季のフラックスは、アンモニウム塩、硝酸塩の量に変動が生じているが、これらを合わせて窒素化合物として見ると、季節による大きな違いはなかった。次に、大気から東シナ海へのフラックスを長江からのフラックスと比較を行った。長江から東シナ海に流入する水量と河川水中のアンモニウム塩、硝酸塩の平均濃度から計算した河川から海洋へのフラックスは、それぞれ190、430GgNyr-1で、本研究における秋季と春季の結果を平均して求めた大気からのフラックスはそれぞれ130、330GgNyr-1であった。本研究では、湿性沈着やガス状物質の乾性沈着を考慮していないため、フラックスの最小値を見積もったと考えられるが、大気から東シナ海へのアンモニウム塩、硝酸塩の沈着量が、長江からの流入量に匹敵し、大気が海洋への栄養素の重要な供給経路であることが示唆された。また、この大気からの窒素化合物の供給が、東シナ海における新生産の0.1-9%を担っていると見積った。

 水溶性有機態窒素の日本周辺海域及び東シナ海の秋季、春季、外洋域における平均濃度は、それぞれ54、16、1.7nmol Nm-3であり、外洋域における水溶性有機態窒素濃度は、無機態窒素と同様に、日本周辺海域及び東シナ海と比較して全体的に一桁減少していた。このことから、無機態窒素と同様に、水溶性有機態窒素も陸に主な発生源を持ち、大気から除去されながら輸送されていることが分かった。また、全窒素に対する割合は、日本周辺海域及び東シナ海の秋季、春季、外洋域において、それぞれ平均22%、10%、14%を占め、水溶性有機態窒素が東アジアの影響を受ける海域で窒素化合物として考慮するべきものであることを明らかにした。大気エアロゾル中の人為起源窒素化合物であるアンモニウム塩と水溶性有機態窒素の相関が高かったことから、水溶性有機態窒素の主な発生源は、人為起源であることが考えられる。水溶性有機態窒素の生成機構として、主に微小領域として存在していたため、ガスから生成した二次粒子であることが示唆された。しかし、沿岸域の春季の黄砂時における観測、外洋域における観測では、粒径分布が変化し、水溶性有機態窒素が微小領域、粗大領域の両方に存在していたことから、ガス状有機態窒素の鉱物粒子や海塩粒子への吸着反応により、粗大粒子領域に有機態窒素が生成したことが考えられる。特に、水溶性有機態窒素の黄砂時における粗大粒子の割合の増加は顕著であった。また、東シナ海への乾性沈着によるフラックスに水溶性有機態窒素を考慮に入れることによって窒素化合物の沈着量が12%増加したことから、窒素循環を考える上で水溶性有機態窒素が重要であることを示した。

 全アミノ酸(遊離態+結合態)は、水溶性有機態窒素に対して日本周辺海域及び東シナ海の秋季、春季、外洋域でそれぞれ平均約4.0%、7.6%、9.7%であり、人為起源物質の影響の最も大きかった秋季にその割合は小さくなった。また、その組成比の差異から発生源同定の可能性を見出した。

 今後の課題として、窒素化合物の湿性沈着やガス成分の乾性沈着によるフラックスを考慮することが必要である。また、本研究で測定することができなかった不溶性有機態窒素は分解後、生物が利用することができる可能性があることや、窒素化合物全体の大気中での挙動や海洋への沈着量を把握するためには、水溶性有機態窒素と合わせて測定することが必要である。さらに、東アジア大陸から放出される水溶性有機態窒素の特徴や大気化学への影響、生態系への影響を考慮する上で、本研究で同定することができなかった約90%以上の水溶性有機態窒素の組成を同定することや、今後の東アジアにおける水溶性有機態窒素の発生量変化やその動態を把握することは急務であると考えられる。また、より長期間、広範囲での観測によってエアロゾル成分の組成や濃度変動や地理的分布の把握、大気物質輸送機構の更なる解明につながることが期待される。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は全4章からなる。第1章は序章であり、研究の背景と本研究の位置づけが述べられている。第2章には観測と分析の手法が記述されている。第3章には大気粒子状物質(エアロゾル)の観測結果のうち、イオン成分の粒径による違い、季節による違い、海域による違いなどが示され、それらの解釈が大陸からの輸送経路や気象場の違いとともに議論されている。最後の第4章では水溶性有機態窒素、および、アミノ酸に関する観測結果が示され、無機態窒素との比較が定量的になされている。それをもとに東アジア地域における窒素循環に関する考察がなされ、同研究分野の新たな展開の方向性が示されている。

 大気環境の悪化が懸念される東アジア地域において、人為起源の窒素酸化物の影響把握のためには、無機態と有機体を合わせた全窒素量の測定の必要がある。このうち有機体窒素については、その重要性が指摘され続けていながら、測定の技術的困難さなどからこれまでほとんど研究実績がない。本研究は、この有機体窒素を東アジア近海において初めて観測し、この地域における窒素循環に関わる議論をこれまでよりも総合的に展開したものである。また、有機態窒素を構成するアミノ酸について、従来の状態別分析法を大気エアロゾル試料に適用する方法が、汚染質の発生源を同定する手法としての可能性を持つものであることを示したものである。

 以下、具体的に得られた知見や、それらの意義について記す。

 本研究では、2002年9月から2004年3月までに行われた3回の研究航海によって、日本周辺海域、東シナ海、及び、北太平洋外洋域において、大陸から輸送される鉱物粒子や人為起源物質の主な化学成分である窒素化合物、硫酸塩、炭素化合物、さらに海洋生物起源の硫黄化合物であるメタンスルフォン酸について計測を行ったものである。

 秋季の東シナ海において、産業活動が活発な都市域に匹敵する高濃度の硫酸塩粒子が観測された。このことから、人為起源物質の排出量が増加する冬季から春季だけではなく、秋季においても、東アジアからの汚染大気の影響を強く受けていることを明らかにした。一方、硝酸塩粒子は、都市域と比較して低濃度を示していた。これは、硫酸塩粒子が主に微小領域に存在していたのに対し、硝酸塩粒子は主に粗大領域に存在していたため、大陸から海洋への輸送過程でより速く大気から除去されていたことや、硫酸塩粒子は輸送過程の間にガス状物質から新に生成されていたためであろうと解釈されている。

 元素状炭素粒子と硫酸塩粒子、および、元素状炭素粒子と有機炭素粒子の観測結果の比較からは、大陸起源物質が長距離輸送される際、化学成分によるエアロゾルの除去過程に違いがあることや、エアロゾル中の化学的特徴が変化していることを、これまでの研究以上に定量的に示しており、その意義は大きいと評価される。

 硫酸塩粒子と元素状炭素粒子の濃度の関係については、春季が秋季の約半分であったが、硝酸塩粒子については、春季は秋季にほぼ匹敵する濃度を示していた。この解釈について、硝酸塩粒子の乖離反応の温度依存性を指摘し、その証拠となる解析結果を示したことは、これまでにない新たな研究成果であるといえる。

 大気から東シナ海への乾性沈着による窒素化合物(硝酸塩、アンモニウム塩)のフラックスの見積もりでは、物質の大気中濃度の大小と乾性沈着量が必ずしも対応しておらず、粒子の大きさに依存した沈降速度の評価が重要であることを示した。その上で、これまで東シナ海への窒素化合物の供給源として最も重要とされてきた長江からの流入量と大気からのフラックスの比較を行い、大気から東シナ海へ運ばれるアンモニウム塩、硝酸塩の量が、長江からの流入量に匹敵し、大気が海洋への栄養素の重要な供給経路であることを示唆された。これは、今後の海洋生物活動を考える上で、大気輸送の重要性をあらためて示すものであると言える。

 水溶性有機態窒素の日本周辺海域及び東シナ海の秋季、春季、外洋域において初めて測定した。その結果は、外洋域における水溶性有機態窒素濃度は日本周辺海域及び東シナ海と比較して全体的に一桁少ないというものであり、有機態窒素の振る舞いが、無機態窒素のそれとほぼ同じであり、水溶性有機態窒素も陸に主な発生源を持ち、大気から除去されながら輸送されていることを示すものである。また、全窒素に対する割合は、地域、季節により平均10〜22%といった値であることを示した。これらの結果は、水溶性有機態窒素が東アジアの大陸の影響を受ける海域で窒素化合物としての重要性なものであることを示すものであり、その意義は大きい。

 水溶性有機態窒素の起源については、エアロゾル中の人為起源窒素化合物であるアンモニウム塩と水溶性有機態窒素の相関が高かったことから、水溶性有機態窒素の主な発生源は、人為起源であることが示唆されている。また、黄砂現象時には、水溶性有機態窒素が微小、粗大の両粒径領域に存在していたことから、ガス状有機態窒素の鉱物粒子や海塩粒子への吸着反応により、粗大粒子領域に有機態窒素が生成した可能性も示されている。窒素循環を考える上で水溶性有機態窒素が重要であることを示した結果である。

 有機態窒素の重要な構成要素であるアミノ酸について、全アミノ酸(遊離態+結合態)の水溶性有機態窒素に対する存在比率が解析された。その結果、日本周辺海域及び東シナ海の秋季、春季、外洋域でそれぞれ平均約4.0%、7.6%、9.7%という値であり、人為起源物質の影響の最も大きかった秋季にその割合は小さいという結果であった。同時に、汚染質の発生源により、気塊中のアミノ酸比率が異なることから、観測された大気中アミノ酸組成比から、それらの発生源を同定することの可能性を示しており、大気環境研究におけるアミノ酸分析の新たな展開の方向性を示すものとして、その意義を評価することができる。

 以上のように、本研究は東アジア地域における大気環境、特に窒素化合物の循環に関して新たな知見をもたらしたものであり、その意義は高いと評価できる。

 なお、本論文第2章に示された観測、および、それらの解析結果である第3章、第4章の一部は、植松光夫氏、松本潔氏、成田祥氏、服部裕史氏、小川浩史氏、Maripi Dileep Kumar氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析および解析を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できるものと認める。

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