学位論文要旨



No 119960
著者(漢字) 小澤,亮介
著者(英字)
著者(カナ) オザワ,リョウスケ
標題(和) 振動分光法を用いたイミダゾリウム系イオン液体の液体構造研究
標題(洋) Liquid Structure of Imidazolium-Based Ionic Liquids Studied by Vibrational Spectroscopy
報告番号 119960
報告番号 甲19960
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4689号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 濱口,宏夫
 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 教授 山内,薫
 東京大学 教授 永田,敬
内容要旨 要旨を表示する

[1.序]近年、イオン液体はイオンのみから構成される新しい種類の液体として、基礎、応用の両面から注目を集めている。イオン液体はイオンのみから構成されるため、通常の分子液体とは異なった独自の液体構造が存在する可能性がある。イオン液体の新規な性質、物性を理解する上でも構造化学的研究は重要であるが、その液体構造に関する報告は殆どないのが現状である。

 本研究では、イオン液体を構成する代表的なカチオンであるアルキルメチルイミダゾリウム[Cnmim]+(図1)に関して、ラマンスペクトルの測定を行った。結晶構造解析による構造との比較や、密度汎関数法による振動数計算との比較を行った結果、イオン液体中にはアルキル基の内部回転に由来する複数の[Cnmim]+の異性体が存在することが明らかになった。また、常温イオン液体であるアルキルメチルイミダゾリウムテトラフルオロホウ酸([Cnmim]BF4)について、各回転異性体に帰属される振動バンドの面積強度比を温度の逆数に対してプロットすることで、各異性体間のエンタルピー差の定量的な見積もりを行い、イオン液体の液体構造やイオン液体の物性に対するアルキル鎖の役割について検討した。

[2.実験]イオン液体を構成するカチオンとしてアルキルメチルイミダゾリウム([Cnmim]+;図1参照。nはアルキル鎖の炭素数)を、アニオンとしてテトラフルオロホウ酸イオン(BF4-)、塩化物イオン、臭化物イオンなどを用いた。これらの試料は自身で合成、精製して用いた。ラマンスペクトルの測定は当研究室で製作したアルゴンイオンレーザー(514.5nm)、差分散型のフィルターを備えた分光器、検出器として液体窒素冷却のCCDカメラを用いた装置で行った。密度汎関数法による振動数計算はGaussian98あるいはGaussian03を利用し、カチオン単体のみの構造で構造最適化した後、振動数計算を行った。

[3.結果と考察]

(1)ブチルメチルイミダゾリウム系イオン液体の構造

 当研究室の林によって行われた実験により、イオン液体を構成する代表的なカチオンであるブチルメチルイミダゾリウム([bmim]+)において、塩化ブチルメチルイミダゾリウム([bmim]Cl)の二種の結晶多形が明らかになっている。それぞれの結晶多形において、カチオンのブチル基のコンホメーションが異なる二種の構造が存在する(図2)。ブチル基のコンホメーションは[bmim]ClのCrystal(1)においてはC7-C8、C8-C9がともにtrans(TT)、[bmim]Cl Crystal(2)においてはC7-C8炭素がguache、C8-C9炭素がtrans(GT)であった。図3に、この二つの結晶のラマンスペクトルを常温イオン液体である[bmim]BF4のスペクトルとともに示す。二つの異なるカチオン構造のラマンスペクトルにおける顕著な相違は、[bmim]Cl Crystal(1)で625cm-1、730 cm-1、[bmim]Cl Crystal(2)で500cm-1、603cm-1、701cm-1に現れるバンドである。液体である[bmim]BF4のスペクトルには、これらのバンドが共に現れている。これらの特徴的なラマンバンドの帰属を行うため、ブチル基のコンホメーションがTTおよびGTの[bmim]+に関して、Gaussian98によって構造最適化後、振動数計算を行った。結果を図4に示す。計算結果は実測のラマンスペクトルをよく再現している。[bmim]Cl Crystal(1)の625cm-1、[bmim]Cl Crystal(2)の603cm-1のバンド、およびCrystal(1)の730cm-1のバンドとCrystal(2)の701cm-1のバンドはそれぞれ類似のイミダゾリウム環の振動に帰属される。これらの振動数の違いはC8炭素におけるCH2の横揺れ振動とのカップリングの程度の相違に由来する。また、Crystal(2)に現れる500cm-1のバンドはブチル基の骨格変角振動に対応している。従って、Crystal(1)とCrystal(2)のラマンスペクトルの違いが、結晶内の環境の相違によるものではなく、カチオンの構造の相違すなわちブチル基のコンホメーションの相違によるものであることが結論できる。そして、C7-C8炭素でのコンホメーションは、500〜730cm-1付近のバンドによって区別することができる。結晶でのカチオンには二種類の構造があることが明らかになった現在、イオン液体の液体状態でのカチオンの構造に興味が持たれる。図4にはイオン液体[bmim]BF4のラマンスペクトルも示してあるが、[bmim]BF4のラマンスペクトルでは500〜730cm-1付近のバンドは[bmim]ClのCrystal(1)、Crystal(2)のスペクトルを重ね合わせたものに酷似している。これはイオン液体中ではC8-C9結合のまわりでアルキル鎖のコンホメーションのtrans型とgauche型が混在していることを示唆している。次に、アルキル鎖の長さを変化させた場合のカチオンの構造を検討する。図5に示した図が[Cnmim]BF4(n=3〜10)のラマンスペクトルである。ここでも500〜730cm-1のキーバンドの存在から、n=3〜10においてC7-C8結合まわりの回転異性体がイオン液体中で混在することが分かる。n=2の場合はC9炭素が存在しないため、C7-C8がgauche的なカチオンのバンドのみ現れている。602cm-1(gauche)および625cm-1(trans)のバンドの強度を比べると、アルキル鎖の炭素数が大きくなるにつれ、625cm-1のバンドが相対的に大きくなっており、この結果はアルキル鎖が伸びるにしたがってtrans体の割合が増加することを示唆している。以上の結果により、イオン液体中の[Cnmim]+において、アルキル鎖のコンホメーション異性が一般的な性質であり、アルキル鎖の長さによってそれぞれの異性体の存在比が変化することが明らかになった。

(2)回転異性体間のエネルギー差

 602cm-1と625cm-1のバンドはそれぞれC7-C8軸まわりの回転異性体に帰属される。これらのラマンバンドの温度依存性を示したのが図6である。gauche体とtrans体のバンドの強度比の対数を温度の逆数(1/RT)に対してプロットした場合、このプロットの傾きはC7-C8軸回りのtrans体、gauche体の間のエンタルピー差に対応する。それぞれのイオン液体におけるC7-C8軸回りのtrans体、gauche体間のエンタルピー差をまとめたものが表1である。[C10mim]BF4といったアルキル鎖の長さが長いものに関しては、エンタルピー差は実験誤差に対して有意に大きくなっている。[Cnmim]BF4はn=10の時には結晶化するものの、n=3,4,5,6,8の時には結晶化せずにガラス転移を起こすことが知られている。表1から明らかなように、[C10mim]BF4ではコンホマー間のエンタルピー差が小さい結果、複数のコンホマーが存在することで結晶化を阻害し、ガラス転移が起こりやすいという性質に結びついていると考えられる。[C10mim]BF4を除いて実測のエンタルピー差がアルキル鎖の長さによって変化することから、このエンタルピー差はカチオン単独の回転異性体間のエンタルピー差に対応するとは考えにくく、アニオンや他のカチオンとの集団的な相互作用(液体中での部分構造)が反映されていることが示唆される。部分構造のモデルとして結晶中での構造に類似の構造が考えられる。

 これらの実験結果から、イオン液体中にはアルキル鎖の内部回転に由来する回転異性体が複数存在すること、また、その異性体間のエンタルピー差のアルキル鎖依存性が明らかになった。その結果として、イオン液体がイオンから構成されているため、従来の分子液体とは異なる部分構造を持つ可能性が示唆された。

図1 [Cnmim]+の構造式

図2 ブチル基のコンホメーション

図3 [bmim]Cl Crystal(1)、Crystal(2)、[bmim]BF4のラマ

図4 [bmim]Clのラマンスペクトル(実線)と、計算による対応するコンホメーションでの[bmim]+のラマンスペクトル(棒)

図5 [Cnmim]BF4のラマンスペクトル(図中左の数字はアルキル鎖の長さn)

図6 [bmim]BF4のラマンスペクトルの温度依存性

 表1 [Cnmim]BF4のコンホマー間(C7-C8軸)のエンタルピー差(gauche-trans)

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、近年、新規な液体として多方面から関心を集めているイオン液体(ionic liquids)に関して、構造化学的観点から行った研究を主題としており、全五章から構成されている。

 第一章では、導入としてイオン液体の構造研究の現状を紹介するとともに、イオン液体の液体構造研究の必要性が主張されている。また、本論文の全体の構成が大まかに説明されている。

 第二章では、イオン液体の合成法、精製法が述べられている。また、イオン液体中の不純物の存在が紫外可視吸収スペクトルや蛍光スペクトルによって確認できることが示されている。

 第三章では、アルキルイミダゾリウム系イオン液体の振動スペクトルが実験、計算の両面から解析されており、アルキル鎖のコンホメーションがラマンスペクトルによって簡便に区別できることが示されている。この結果に基づき、イオン液体の液体状態には、アルキル鎖のコンホメーションはトランス体とゴーシュ体が混在していることが明らかにされた。

 第四章では、第三章での振動スペクトルの帰属に基づき、アルキルイミダゾリウム系イオン液体のラマンスペクトルの測定によって回転異性体間のエンタルピー差が報告されている。イオン液体中で回転異性体間のエンタルピー差は約0.1kcal/mol程度であり、この値がアルキル鎖の長さによって異なることが示された。得られたエンタルピー差に関する考察から、イオン液体中には局所的な秩序を含む部分構造が存在することが示唆されている。

 第五章では、終章として本論文全体の総括が述べられている。

 本論文では振動分光法を用いてアルキルイミダゾリウム系イオン液体の構造研究が行われている。その結果、提出者はラマンスペクトルがイオン液体の構造研究、とりわけ回転異性体の同定に関して非常に有効であることを示した。また、提出者はイオン液体が従来の分子液体とは異なり、部分構造を持つ液体であることを示唆しているが、このような知見は、イオン液体の液体構造に関して極めて本質的な描像を与えている。これらの業績は独創性に富み、実験の精密さおよび解析の適切さなどの面を含め、極めて高く評価される。

 本論文第3章の一部はChemistry Letters誌に公表済み(林賢、濱口宏夫との共著)であるが、論文提出者が中心となって実験および解析を行なっており、その寄与が十分であるので、学位論文の一部とすることに何ら問題はないと判断する。

 以上の理由から、論文提出者小澤亮介に博士(理学)の学位を授与することが適当であると認める。

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