学位論文要旨



No 119969
著者(漢字) 髙屋,智久
著者(英字)
著者(カナ) タカヤ,トモヒサ
標題(和) フェムト秒時間分解近赤外吸収分光装置の開発と溶液および微粒子系の光電子移動反応機構の研究
標題(洋) Development of a Femtosecond Time-Resolved Near-Infrared Absorption Spectrometer and Its Application to Photoinduced Electron Transfer in Solutions and Microparticles
報告番号 119969
報告番号 甲19969
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4698号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 濱口,宏夫
 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 教授 山内,薫
 東京大学 教授 高塚,和夫
内容要旨 要旨を表示する

 光電子移動過程は,光触媒反応や光合成を含む多くの光反応における素過程である.分子内において起こる光電子移動反応の時間スケールはフェムト秒〜ピコ秒であり,このような超高速現象を理解するには,新しい超高速時間分解分光手法の開発が不可欠となる.

 近赤外領域の光は物質による散乱が小さいため,試料の形状として液体・溶液・固体・粉末を問わず,さまざまな系でフェムト秒時間分解吸収スペクトルを測定することができる.また,多くの分子は基底状態において近赤外領域に電子吸収を示さないため,光励起後の吸収測定において基底状態の分布数の減少に伴う信号が現れない.したがって,光励起された分子の吸収スペクトルを正確に測定できる.

 本研究では,850-1600nmの波長領域でフェムト秒時間分解吸収スペクトルを一度に測定可能な装置を製作し,高い検出感度を達成した.この装置を9,9'-ビアントリルの分子内光電子移動反応および二酸化チタン(IV)ナノ微粒子の電荷担体の移動過程に適用し,その機構に関する新しい知見を得ることをめざした.以下にその内容を述べる.

(1) フェムト秒時間分解近赤外吸収分光装置の開発

 ポンプ・プローブ法を用いたフェムト秒時間分解近赤外吸収分光装置を製作した.装置のブロック図を図1に示す.再生増幅器により増幅されたTi:sapphireレーザーの出力(785nm,120fs,1kHz,500mW)を2つに分割した.一方を1mm厚のBBO結晶により第二高調波(393nm)に変換して励起光とした.残る一方を3.5mm厚のサファイア板に集光し,波長850-1600nmの広帯域にわたって十分な強度をもつプローブ光を発生させた.試料を透過したプローブ光を分光器で分散させ,InGaAsフォトダイオードアレイ(256素子)で検出した.プローブ光強度の時間変動を補正するために,プローブ光の一部を分けとり,同様に波長分散させマルチチャンネル検出した.プローブ光の発生および検出に関する上述のような工夫により,吸光度変化として10-4程度の微小な信号を検出することが可能になった.時間分解能は約300fs以下と見積もられた.

(2) 9,9'-ビアントリルの分子内光電子移動反応の観測

 9,9'-ビアントリル(BA,図2)の分子内光電子移動反応は,溶液中における光電子移動反応素過程のプロトタイプである.BAは2つのアントラセン環から成り,環を含む平面は基底状態において互いに垂直である.この分子が極性溶媒中において紫外光で励起されると,一方の環が励起された状態(LE状態)に遷移し,時間とともに,分子内で電荷分離した状態(CT状態)へ遷移する.BAの分子内光電子移動の機構として,溶媒和によるCT状態の安定化や,分子中央のC-C結合に関するねじれによる環どうしの相互作用の増大が提唱されている.その機構を解明することは,光化学反応の理解に不可欠である.

 そこで,アセトニトリルに溶解したBAのフェムト秒時間分解近赤外過渡吸収スペクトルを測定し,LE状態およびCT状態からの特徴的な吸収バンドを同時に観測することに成功した.得られた近赤外過渡吸収スペクトルを図3に示す.光励起直後において,波長1020nmを中心とするアントラセン類に特有の吸収バンド(LEバンド)が観測された.LEバンドは時間とともに減衰し,光励起後3ps以降には非常に幅広い吸収バンド(CTバンド)が900-1500nmの波長域全体で観測された.

 次に,互いに重なり合っているLEバンドとCTバンドの振る舞いを区別するため,吸収異方性の測定を行った.吸収異方性rは次式で定義され,さらに基底状態および励起状態の吸収を与える遷移双極子のなす角θと関連づけられる.

r≡A‖-A⊥/A‖+2A⊥=1/5(3cos2θ-1) (1)

 LEおよびCTバンドの吸収異方性はそれぞれrLE=-0.2,rCT=0.4であった.励起光の吸収を与える遷移双極子はアントラセン環の短軸に平行である(図2).(1)により,近赤外域にLEおよびCTバンドを与える遷移双極子の方向はそれぞれ環の長軸および短軸に平行であることが分かった.

 過渡吸収スペクトルおよび吸収異方性の測定結果から,LEバンドとCTバンドを一意に分離することができた.LE状態およびCT状態の吸光度をそれぞれALE,ACTとすると,観測された吸光度変化Aobsおよび吸収異方性robsは次のように表される.

Aobs(t)=ALE(t)+ACT(t)

robs(t)=(Aobs)(t))-1(rLEALE)(t)+rCTACT(t)) (2)

 (2)を用いてスペクトルを分離した結果を図4に示す.LEバンドが時間とともに減衰するのに対し,CTバンドの上昇が見られる.光励起直後においてLEバンドと異なる成分が現れていることから,溶液中において溶媒分子との相互作用のために,BAのもつ2つの環は常に等価でない環境に置かれていることが示唆された.この段階において,電荷分離した状態の寄与がわずかながら存在すると考えられる.光励起後0psと3psにおいてCT成分の形状が異なっているが,この変化は生成したCT状態が安定化する過程を反映していると考えられる.

 (3) ビアントリル誘導体の分子内光電子移動反応において対称性の破れが及ぼす効果の検討

 時間分解近赤外吸収分光により,BAのLE状態とCT状態が同時に観測された.次に,BAのもつアントラセン環に置換基を対称または非対称に導入し,分子内光電子移動反応過程に分子の対称性がどのように関わるかを検討した.測定したBA誘導体は,無置換のBA,および10-シアノ置換体,10,10'-ジシアノ置換体,一方のアントラセン環をカルバゾール環に置換した誘導体の4種である.

 光励起直後に,4種のBA誘導体のそれぞれについて,アントラセン類に特有の吸収バンドが観測された.したがって,すべての誘導体がまずLE状態に遷移することが分かった.これは励起直後において環どうしの相互作用がほとんどないことを示唆している.励起後3psにおける吸収スペクトルは,誘導体の対称性によって顕著な違いがみられた.BAのスペクトルに現れたCTバンドが対称置換体にのみ観測されたことから,このバンドが電荷共鳴に由来すると考えた.したがって,対称なBAにおいて,CT状態が電荷共鳴によって安定化されていることが示唆された.

 (4) 二酸化チタン(IV)微粒子中に生成した電荷担体のダイナミクスの研究

 二酸化チタン(IV)(TiO2)微粒子に紫外光を照射すると,電子・正孔対が生成し,それぞれ物質内部を移動する.とくに表面へと移動した電荷担体は,表面における光触媒反応にあずかることになる.微粒子中において,光によって生成した電荷担体のダイナミクスを明らかにすることは,半導体の光物理および光触媒反応の両面から重要な意味を持つ.微粒子からなる試料は,可視光を強く散乱するために,可視域で直接吸収を観測することは容易ではない.これまで用いられてきた拡散反射法では,試料中において多重の拡散反射が起こるため,サブピコ秒の時間分解能を実現することが困難であった.

 本研究では,近赤外域で吸収分光を行うことで,300fs以下の時間分解能で直接吸収測定が可能となり,電荷担体のダイナミクスに関する新たな情報が得られた.TiO2光触媒の時間分解近赤外過渡吸収スペクトルを図5に示す.光励起直後に,波長に対して右下がりの形状を持ったスペクトルが,波長900-1500nmにわたり観測された.光励起後0.6ps以降では全観測域で平坦なスペクトルが得られた.電荷を定常的に注入した実験の報告と比較し,本実験で観測された信号は主に電子に由来すると結論した.図6に示す減衰曲線から,速いスペクトル形の変化の時定数は約0.2psと見積もられた.この減衰は主に電子のトラップ過程を反映していると考えられる.

 TiO2に白金を担持すると,触媒活性が増加することが知られている.そこで,白金の担持により電子の挙動がどのように変わるかを調べた.得られたスペクトル形はTiO2と同様であったが,吸収の時間依存性(図7)について,白金を担持すると時定数約2psの減衰成分が新たに現れた.この減衰は電子がTiO2から白金へ移動する過程に対応していると考えられる.TiO2から白金への電子移動は,電子と正孔の再結合を遅らせ,触媒活性を増加させるとされている.本研究によって,この仮説を支持する直接的な証拠が得られた.

 (5) まとめ

 吸光度変化として10-4まで検出可能なフェムト秒時間分解近赤外吸収分光装置を製作し,BAの分子内光電子移動に関して溶質と溶媒との強い相互作用の存在を提唱した.またTiO2の測定結果からは,微粒子中における電子移動のダイナミクス,および電子移動と触媒活性との関連について新たな知見が得られた.以上の結果から,光化学において重要な素過程である光電子移動反応の機構を明らかにするうえで,本手法がきわめて有用であることが示された.

図1 本研究で製作したフェムト秒時間分解近赤外吸収分光装置のブロック図.

図2 9,9'-ビアントリルの構造.μpumpは励起光の吸収を与える遷移双極子.

図3 アセトニトリルに溶解したBAの近赤外過渡吸収スペクトル.

図4 吸収異方性スペクトルの解析によって得たBA(アセトニトリル溶液)の(a)LEバンドと(b)CTバンド.

図5 TiO2の近赤外過渡吸収スペクトル.

図6 TiO2の吸光度変化の時間依存性.

図7 白金の担持による過渡吸収強度の時間依存性の変化.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、フェムト秒時間分解近赤外吸収分光装置の開発と液体中および微粒子中における光電子移動反応機構の研究への応用を主題として、6章から構成されている。

 第1章では導入として、光電子移動反応に関する問題点ならびに近赤外分光法の意義が述べられている。

 第2章には、本研究で製作された実験装置の詳細が記述されている。吸光度変化の検出下限は2×10-4という非常に小さいものであり、これにより従来では極めて困難であったフェムト秒時間分解近赤外吸収スペクトル測定を可能にした。

 第3章では、開発した装置を9,9'-ビアントリルの分子内光電子移動反応に応用した研究について述べられている。時間分解近赤外吸収スペクトルおよび吸収異方性スペクトルを詳細に解析し、極性溶媒中において2種類の電荷移動状態の存在を示唆する結果を得た。

 第4章では、前章の結果を踏まえ、ビアントリル分子に置換基が導入された際、分子内光電子移動反応が受ける影響について議論されている。

 第5章には二酸化チタン微粒子中における電荷担体の動力学に関する研究がまとめられている。時定数0.23ピコ秒で電子が捕捉されること、ならびに白金助触媒を担持させると時定数2.2ピコ秒で白金への電子の移動が起こることを見い出し、白金助触媒による触媒活性増大の機構に関して考察を行った。

 第6章には本論文の結論が簡潔に記述されている。

 本論文において提出者は、従来その重要性が十分に認知されていなかった近赤外領域におけるフェムト秒時間分解吸収スペクトル測定を、高い検出感度を以って実行した。その結果、本手法が分子内あるいは微粒子中における光電子移動の機構を解明するために非常に有力であることを示した。これらの業績は実験の精確さおよび解析手法の適切さとともに、十分な独創性を持ち合わせており、高く評価される。

 本論文第3章の一部はChemical Physics Letters誌に公表済み(濱口宏夫、黒田晴雄、岩田耕一との共著)であり、第5章はThe Journal of Physical Chemistry A誌に公表済み(岩田耕一、濱口宏夫、山方啓、石橋孝章、大西洋、黒田晴雄との共著)であるが、論文提出者が主体となって実験および解析を行っており、その寄与が十分であるので、学位論文の一部とすることに何ら問題はないと判断する。

 以上の理由から、論文提出者高屋智久に博士(理学)の学位を授与することが適当であると認める。

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