学位論文要旨



No 119973
著者(漢字) 野本,知理
著者(英字)
著者(カナ) ノモト,トモノリ
標題(和) ジフェニルアセチレンで構成された分子の電子励起状態の構造とダイナミクスに関する研究
標題(洋) Studies on electronically excited-state structures and dynamics of molecules containing diphenylacetylene moieties
報告番号 119973
報告番号 甲19973
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4702号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 濱口,宏夫
 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 教授 山内,薫
 東京大学 助教授 村田,滋
内容要旨 要旨を表示する

[序]

 近年、ジフェニルアセチレンを構成要素とした分子による分子デバイスやデンドリマーの光エネルギー捕集が報告され注目を集めている。特にペリレン末端のフェニルアセチレンデンドリマー(図1(a))においては外周のジフェニルアセチレン部での吸収エネルギーのほとんどが中央のペリレンからの発光として観測されることが報告され、そのメカニズムについて興味が持たれてきた。しかし、その励起エネルギー移動がどのような機構で起きるのかを実験的に解明する研究は少ない。このような分子の電子励起状態の理解においても構成要素となる分子の電子励起状態についての理解が不可欠である。本研究ではDiphenylacetylene (DPA)および1,3,5-Tris(phenylethynyl)benzene(TPB)について電子励起状態の構造、ダイナミクスに関する研究を行った。DPA,TPB共にフェニルアセチレンデンドリマーの構成要素となる分子である。

DPAの電子励起状態についてはこれまで比較的良く研究されている。溶液中のDPAでは最低一重項電子励起状態におけるCC三重結合の結合次数、対称性の低下による構造変化の可能性が示され、その構造に興味が持たれてきた。そこで本研究では時間分解振動分光法によりDPAの最低一重項電子励起状態の構造を明らかにした。一方、TPBはこれまでほとんど研究されたことのない分子であるが、ベンゼン環メタ位での結合というフェニルアセチレンデンドリマーの特徴を有する最小構造であることから重要である。本研究では、時間分解蛍光分光法によりTPBの電子励起状態の構造・ダイナミクスを明らかにした。

[DPAの電子励起状態の構造とダイナミクス]

 溶液中のDPAは紫外光で電子励起された後、〜9psで光学禁制な最低一重項電子励起状態(S1)に内部転換し、さらに200psで三重項電子励起状態に項間交差する。S1状態においては中心CC結合の結合次数が低下し、分子の対称性が低下していることが報告されていた。本研究ではDPAの3種類の同位体置換種についてピコ秒時間分解CARS、ピコ秒過渡赤外スペクトル測定を行った。得られたバンドの帰属により、DPAのS1状態では赤外・ラマンの交互禁制律が成立しており分子構造に対称中心が存在することが明らかになった。これらの結果はDPAの電子励起状態のS1への内部転換において直線形(D2h)からトランス形(C2h)構造への構造変化が起こる(図2)ことを強く支持するものである。

[TPBの基底状態構造]

 X線結晶解析により、結晶中のTPBは3回軸を持たない非平面構造であると報告されていることから、溶液中でも非平面構造である可能性は高い。TPBの構造の対称性を検討するため、ラマン散乱の偏光解消度の測定を行った。TPBの3個のCC三重結合が各々独立に振動している場合は偏光解消度の値は0.33となり、TPBが3回軸を持ち3個のCC三重結合がカップルして振動している場合には全対称モードの偏光解消度は0.125をとる。測定の結果、偏光解消度は0.32となった。従って、溶液中においてもTPBは3回軸を持たない非平面構造であると考えられる。

[DPA・TPBの定常吸収・蛍光スペクトル]

 TPBとDPAの定常紫外可視吸収スペクトルと定常蛍光スペクトル測定の結果(図3(a))から、TPBとDPAの紫外可視吸収スペクトクル形は非常によく似ていることがわかる。このことから、TPBにおいてもDPAに対応した局所的な電子励起が内部で起きていると予想される。一方、蛍光スペクトルについてはDPAとTPBは全く異なるピーク位置、スペクトル形となった。これはTPBでは電子励起状態のダイナミクスがDPAとは異なっていることを意味する。またTPBの蛍光のストークスシフトが非常に大きいことから励起の非局在化も示唆される。

[TPBの時間分解蛍光スペクトル測定]

 時間分解蛍光スペクトルの測定はストリークカメラを用いて行った。0.1mmol/LのTPB,n-ヘキサン溶液にて、励起波長270nm、54.7°の偏光配置で背面観測を行った。時間分解能は〜10psである。測定の結果、長・短2種類の寿命の蛍光成分が観測された(図3(b))。長寿命成分のスペクトル形が定常蛍光のスペクトル形とほぼ同じであることから定常蛍光スペクトルは長寿命成分に由来することが分かる。一方、短寿命成分はより短波長側に現れ、励起直後にのみ存在した。短寿命成分とDPAの蛍光は同じ波長域で見られたことから、短寿命種は励起直後にDPAが局所励起された状態からの発光に対応すると考えた。

[TPBの蛍光寿命測定]

 観測されたTPBの2種の蛍光成分の寿命については上記の測定では決定できなかったため、短寿命種については光カーゲート法および蛍光アップコンバージョン法を、長寿命種については光電子増倍管とオシロスコープによるナノ秒の時間分解能での測定を試みた。はじめに光カーゲート法により時間分解能〜2psでの測定を試みたが、短寿命成分の寿命は光カーゲート法の時間分解能よりさらに短く寿命の決定ができなかったため、次に蛍光アップコンバージョン法による測定を試みた。

 蛍光アップコンバージョンでは1mmol/LのTPB,n-ヘプタン溶液を、励起波長280nm、54.7°の偏光配置にて測定した。時間分解能は280fsである。蛍光アップコンバージョン測定の結果(図4(a))、各波長の0ps付近に短寿命種のピークが見られた。励起プロファイル(図4(b))とのコンボリューションフィッティングにより短寿命種の寿命は160fsとなった。ナノ秒蛍光寿命測定(励起波長337nm、時間分解能4ns)の結果(図5)、n-ヘキサン中の長寿命成分の寿命は10nsとなった。

[TPB蛍光異方性の測定]

 蛍光異方性は蛍光アップコンバージョン、ストリークカメラの両方で測定した(図6)。蛍光アップコンバージョン測定の結果、蛍光異方性は短寿命種のr=〜0.3という値から長寿命種の蛍光異方性の初期値であるr=0.1に短寿命種の蛍光寿命程度で収束した。ストリークカメラによる蛍光測定では蛍光異方性はr=〜0.1から40psの時定数(回転相関時間)で回転緩和してr=0になった。

 2重縮重した電子励起状態からの発光の遷移双極子モーメントが吸収のモーメントと同一平面内にある場合、蛍光異方性はr=0.1になる。TPBの長寿命の電子励起状態の蛍光異方性の初期値がr=0.1となったことは、縮重した電子励起状態が長寿命種の発光に寄与していることを意味する。一方、短寿命種では蛍光異方性の初期値がr=0.3となったことから、短寿命種の電子励起状態は縮重しておらず、DPAが局所励起された状態から発光していると考えられる。

[TPBの電子励起状態における構造変化]

 3回軸を持つ分子では縮重状態への光吸収が許容となるが、短寿命種の蛍光異方性の結果からTPBの吸収は非縮重の電子状態への遷移である。これはTPBの基底状態が3回軸を持たない非平面構造であり、縮重した電子励起状態がないからであると考えられる。一方、長寿命種については蛍光異方性の結果から縮重した電子励起状態が存在し、従って3回軸を有していると考えられる。また、長寿命種の蛍光スペクトルの大きなストークスシフトから示唆される短寿命種から長寿命種への緩和における励起非局在化を考慮に入れると長寿命種が平面構造である可能性は高い。従って、長寿命種は平面3回対称構造であると考えられる。

 以上の結果から、TPBにおいては基底状態の非平面構造からDPAの吸収に対応した局所的な電子励起が起きた後、平面3回対称構造の最低一重項電子励起状態(S1)へ緩和して励起が非局在化した後発光する(図7)という結果が得られた。

[結論]

 本研究によりDPAの最低一重項電子励起状態の構造がトランス型屈曲型構造をとることが明らかになった。またTPBについてもDPAに対応した局所励起状態の蛍光スペクトルの観測に成功し、電子励起状態の構造・ダイナミクスを明らかにした。フェニルアセチレンデンドリマーにおいても、光吸収直後の励起の初期過程ではTPBに対応した構造変化に伴う励起非局在化という過程が存在すると考えられる。本研究で明らかになったTPBの非局在化した長寿命の電子励起状態がフェニルアセチレンデンドリマーでのエネルギー移動の効率化についても重要な役割を果たしていると考えられる。

図1:(a)光エネルギー捕集を高効率で行うフェニルアセチレンデンドリマー(nanostar) (b)1,3,5-Tris(phenylethynyl)benzene(TPB) (c)Diphenylacetylene(DPT)

図2:DPAの電子励起状態ダイナミクス

図3:(a)TPB,DPAの定常吸収・蛍光スペクトルと(b)TPBの時間分解蛍光スペクトル

図4:蛍光アップコンバージョン法によるTPBの蛍光時間プロファイル(a)と励起プロファイル(b).各点は測定点.実線はフィッティング結果.

図5:TPB長寿命種の蛍光プロファイル(352nm).点線は測定データ、実線はFitting結果.

図6:蛍光異方性の時間変化

(a)蛍光アップコンバージョン,測定波長:365nm.

(b)ストリークカメラ,測定波長:370nm.

図7:TPBの電子励起状態ダイナミクス

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、ジフェニルアセチレンを構成要素とした分子、特にフェニルアセチレンデンドリマーにおける光エネルギー捕集初期過程のモデル分子として興味が持たれる、Diphenylacetylene(DPA)と1,3,5-Tris(phenylethynyl)benzene(TPB)の電子励起状態の構造とダイナミクスについての知見を得ることを主題としており、4章から構成されている。

 第1章では導入として、ジフェニルアセチレンを構成要素とした分子である分子デバイスや光エネルギー捕集機能を持つフェニルアセチレンデンドリマーの紹介、またこれまでの研究状況と本研究の目的が、本研究で用いられた時間分解CARS、赤外、蛍光分光法の紹介と共に述べられている。

 第2章ではフェニルアセチレンデンドリマーの最小構成単位であるDPAの最低一重項電子励起状態の構造に関してピコ秒時間分解CARSスペクトル、ピコ秒過渡赤外スペクトルの測定およびシミュレーション解析により詳細に検討されている。その結果DPAの最低一重項電子励起状態に赤外・ラマンの交互禁制が成立して対称中心を持ち、従って最低一重項電子励起状態がトランス型構造をとることが示されている。

 第3章はフェニルアセチレンデンドリマーの励起の初期過程を反映するものとして、構成要素であるTPBの構造と電子励起状態ダイナミクスに関する研究が纏められている。TPBが基底状態では非平面構造であることがラマン散乱の偏光解消度測定により先ず示され、紫外光による励起後は励起の非局在化と構造変化が起き、速やかに長寿命の平面3回対称構造となることが時間分解蛍光測定、蛍光異方性測定により示されている。

 第4章では本研究による成果と、フェニルアセチレンデンドリマーのようなより大きな系と本研究の成果の関連について簡潔に記述されている。

 本論文において提出者は、これまで知られていなかったDPAの最低一重項電子励起状態の構造がトランス型構造であることを示し、またフェニルアセチレンデンドリマーの励起の初期過程のモデル分子として、これまでの報告がほとんどなかったTPBについて蛍光・ラマンによる詳細な測定を行い、基底状態や電子励起状態の構造、ダイナミクスを明らかにした。これらの結果はフェニルアセチレンデンドリマーにおいても励起後構造変化や励起非局在化が起き安定化した状態を経由して励起エネルギー移動を起こすことを示唆するものである。これらの業績は、様々な実験手法の適用および解析の適切さなどの面から見て、極めて高く評価される。

 本論文第2章はJournal of Molecular Structure誌に公表済み(石橋孝章、岡本裕巳、濱口宏夫との共著)であるが、論文提出者が主体となって実験および解析を行なっており、その寄与が十分であるので、学位論文の一部とすることに何ら問題はないと判断する。

 以上の理由から、論文提出者野本知理に博士(理学)の学位を授与することが適当であると認める。

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